イエスがマタイによる福音書の六章二十五節では、異邦人は自分の生活があると思っているのです。だから、何を食べようか、何を着ようかと思い煩うのです。これが間違っていると言っているのです。
皆様は現在正しく聖書の勉強をしていますし、聖霊を受けています。皆様は霊のイスラエルです。霊のイスラエルというものは、マタイによる福音書六章のユダヤ人と同じ状態にいるのです。
神が私たちを養っているのです。異邦人とは違うのです。飲み食いすることも、仕事をすることもすべて皆、神の管理に属しているのです。神の管理下に置かれているのです。自分が勝手に生きているということは、全くあってはならないことなのです。
皆様は神の御霊の管理においてのみ生きているのです。だから、自分が生きているとか、自分の不信仰とかいうことは有り得ないのです。
自分が生きているということが、神に生かされていることです。聖書を勉強している者の生活は、神の国と神の義を求めたらいいのです。聖書を正しく勉強している者は神の民です。神に所属する命を持っているのです。
神に所属する命というのは、自分で働かなければならない命とは違うのです。何を食べ、何を飲まんとする異邦人の命とは違うのです。こういう原理をはっきり意識して生きるべきです。
イエスは、「空の鳥を見よ、野のユリを見よ」と言っています。空の鳥、野のユリというのが、私たちのあり方になっているのです。
私たちは自分自身の生活状態から手を引くのです。以然、在天の生活になるのです。私たちが信じても信じなくても、私たちの生活はそのようになされているのです。
聖書の勉強をしているのは自分の霊です。これに従って生きたらいいのです。そうすると、空の鳥と同じような生き方になるのです。私たちは自分自身の生活とか、自分自身の信仰に頭を使う必要がない。
自分自身の信仰でさえも頭を使う必要がないのです。神の中に生きるのです。自分の命に生きないのです。神の命の中には神の国と神の義があるのですから、毎日毎日、自分の家庭でこれを経験していなければいけないのです。
死なない命の生活をさせられているということを、他人に言えなければいけないのです。闇の内に生きないで、光の内に生きるのです。これができて当たり前です。
神に生かされているという事実を毎日点検するのです。そうすると、見方が変わってくるのです。神に生かされているという事実が、自分の生活の実体になっていたら、自分が生きているという事実はなくなります。
森羅万象を生かしているのは神です。時間、空間の展開は神の言葉の働きです。神の言葉が働かなければ、時間、空間は展開しないのです。これが命というものです。これを私たちは命として現在経験しているのです。神の言葉を経験しているのです。
こういうことを正確に理解していきますと、生きていることがすべて霊になってしまうのです。自分が生きていることが肉ではなくて、霊になってしまわなければいけないのです。
肉というのは、現世に生まれた後の人間の常識に基づく考え方です。霊というのは、生まれる前、陥罪を犯す前に、神と共にいた時の経験をいうのです。
個というのは、神の創造の段階において存在しているのです。個我というのは、人間の孤独認識が造り出したものです。個はありますが我はないのです。我は人間の自己認識です。
生理現象が御霊の現象です。どんなことでも霊に従って見えなければいけないのです。「神の国と神の義を求めよ」とイエスが言っているのは、人間生活が神の国と神の義を現わしているからです。
万物が存在することが、神の国と神の義の現われになっているのです。万物は神の国と神の義を現わしているものであるけれど、万物はそれを認識する力を持っていないので、人間がそれを言い現わさなければならないのです。
人間は肉によって、ただきれいとか、すばらしいと言っていますが、これは神に栄光を帰していないから、この言い方ではいけないのです。神に栄光を帰すつもりで、神が咲かしたとか、神が義を与えたという言い方をすれば、神の国と神の義を言い現わしていることになるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)