人間は生まれる前に自分がいたのです。リンゴを食べる前にリンゴを知っていたのです。生まれる前のイメージが現在の行動になっているのです。
生まれる前が分かる人と分からない人とでは、人生の見方が根本的に違うのです。皆様は初めて見た景色でも、以前に何処かで見たような気がするでしょう。二回目に見たような気がするのです。
私たちは前世で見ていたのです。だから、初めてのような気がしないのです。食物でも前世で食べていたのです。おいしいというのは、前世で食べたものとぴったり同じだからおいしいと思うのです。そうでなければ、おいしいという気持ちが起きないのです。
人間の本性は地のちりであって、地のちりの本性というものは、生まれる前に神の中に住んでいたのです。これを地のちりというのです。
モーセは「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。山がまだ生まれず、あなたがたがまだ地と世界とを造られなかった時、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる」と言っているのです(詩篇91・1、2)。
地球ができる前に神は既に神であったのです。私たちは神の内に住んでいたのです。
地のちりというのは何か。神と一緒に住んでいて、神と一緒に仕事をしていたその無形の力、無形の法則が地のちりでした。大空と言われる法則、太陽系宇宙と言われている法則が、地のちりです。
宇宙と言われているのは地のちりのことです。神と一緒にある大空が地のちりです。これが人間の本性です。従って、人間は自分の本性に従って、色々製造したり加工したりしているのです。
初めての物を造るというのはどういうことか。経験的な知識がなかったら造れないのです。現世では初めてですけれど、前世の記憶に従って現世で再現しているのです。これを発明、発見と言っているのです。
前世がなかったら人間の理性の出所が分からなのです。もし前世がなかったら、理性が何処から出てきたのかを説明することができないのです。前世があるから説明できるのです。これは誰も知りませんが本当です。
「神は世々われらの住み処である」とあります。世々とはいくつもいくつも重なっていることを言っているのです。ゼネレーションという世代が重なっているのです。宇宙という言い方は、人間が前世にいた時の認識をいうのです。
人間の学は前世における人間の再現意識を言うのです。前世における論理的再現を、学と称しているのです。
前世は絶対です。前世がなかったら現世がある道理がないのです。学問があるはずがないのです。
前世の命を現世で発見するのです。イエスはこれをしていたのです。前世の中にいることを父と言っていたのです。「我父にあり」とイエスが言ったのは、前世の中にいることを言ったのです。
前世の命に生きていることがはっきり分かると、死ななくなるのです。前世が分かったことが命になるのです。
これが分かるということは、自分自身の霊魂に国が新しくできることです。イエスが神の国に入れと言っているのは、神が分かる世界に入ることです。神が分かることを神の国と言っているのです。神の実体が分かることが神の国です。
人間の精神というのは、それが分かることです。分かることが精神構造の状態です。精神構造が命の本質です。分かるということは大変なことです。聖書が分かったら死ななくなるのです。分かることが命です。
現世だけしかないという思想は、自分自身を絞め殺しているのです。肉体的に生きていることだけが自分だと思っていると、その人の精神構造は死んでいるのです。だから、心臓が止まると死んでしまうのです。
ところが、自分の理性の状態、人格の状態というものをよくよく考えると、人間の人格は神の人格の反映になっていることが分かるのです。
神の人格をペルソナと言います。人間の人格はパーソナリティです。パーソナリティはペルソナの延長です。なぜ延長になるのかと言いますと、パーソナリティは前世で神を住み処にしていたからです。
生まれる前に神を住み処にしていたので、神のペルソナがパーソナリティに移っているのです。聖書に「神は世々我らの住み処であった」とあります。
地のちりの住み処が神です。神を住み処にしていたために、三位一体の神のペルソナが、人間の住み処になっていたので、これが人間の人格性の根源になっているのです。
私たちが人格を持とうと思ったのではない。この世に生まれた時に人格があったのです。生まれた時に人格があったということは、生まれる前に人格の基礎になるべき経験があったということです。人格の基礎になるべき経験というのは、神と一緒にいたということです。
生まれる前に神と一緒にいたことを、イエスは父なる神と言っているのです。この父なる神が今現在私たちを生かしているのです。父なる神と一緒に生きるという気持ちさえあれば、現世の心臓が止まっても、父なる神と我々との係わりには関係がないのです。
心臓が止まるか止まらないかは現世のことです。ペルソナとパーソナリティの関係は前世のことです。自分は生ける神の子であることが認識さえできれば、心臓が止まっても人格には関係がないのです。これをとこしえの命というのです。
こういうことが分かれば、現世の利害得失について熱心にならなくてもいいのです。得をしてもいいし、損をしてもいい。どちらでもいいのです。
儲かるか儲からないかは現世のことです。小さな問題です。前世から引き継いでいることが重要です。これが命です。これは死んでからも続くのです。これをホールボディと言っているのです(マタイによる福音書6・22)。これをとこしえの命と言っているのです。
とこしえの命は死なない命です。極端な言い方をしますと、生まれてもいない命です。私たちはこの世に生まれたのではないのです。神の御心によって神を勉強するため、命の実体を知るために、この世に出されたのであって、生まれたのではないのです。だから、この世のことに心配しなくてもいいのです。これがイエスの信仰です。
人間は仕事をしていながら、何をしているのかを正しく認識していないのです。人間がしている仕事は皆前世の続きをしているのです。皆そうしているのです。
生まれる前に神を住み処にしていたのです。これは大変なことです。人間の霊魂は神に帰るとほっとするのです。ただ帰っただけではなくて、聖書を信じて洗礼を受けて、聖霊を崇める要領が分かってくるとほっとするのです。自分の霊魂が帰るべき所へ帰れるからです。
水と霊とによって新に生まれると、人間の霊魂はほっとするのです。死ななくてもよいことが分かるからです。
イエスは、「あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう」と言っています(同6・22)。全身というのは英訳でホールボディ(whole body)となっています。
ホールボディというのは過去、現在、未来の人間の全体を指しているのです。過去世と現世と来世、生まれる前と生まれてからと死んでからと、この三つを合わせてホールボディというのです。このボディは肉体と訳すのではなくて、状態と訳したらいいのです。ホールはあらゆると訳したらいいのです。人間のあらゆる状態、人間のあらゆる在り方がホールボディです。
生まれる前の状態、生まれてからの状態、死んでからの状態の三つをホールボディというのです。考え方が正しいと、命の三つの状態が分かるのです。前世と現世と来世が分かるのです。
分かっているというのはそういう世界に住んでいるということです。分かっているというのは、命がそういう世界にいるということです。人間の命というのは分かるか分からないかだけのことです。
精神構造が人間の生命構造を意味するのです。精神構造と生命構造造とは同じものです。精神構造を変えていけば、生命構造が変わっていくのです。
現実は前世が現世になって現われているのであって、前世と無関係に現実だけがあるのではないのです。現実に桜の花が咲くということは何か。なぜ桜の花が桜の花であるのか。それは現実だけをいくら考えても分からないのです。割り切れないのです。例え割り切れたとしても、自分の魂の満足はありません。その割り切り方が正当であるという説明ができないからです。
人間は物事の正しいか正しくないかを判断します。どこで判断するかと言いますと、過去の経験によって判断するのです。
すべて人間は、過去の経験に基づいて判断しなければ、判断のしようがないのです。過去が人間の判断の基礎になっているのです。基礎がない場合には、何が正しいかという判断ができないのです。
過去によって判断するしか判断の基準がないのです。過去が判断の基礎になっているのです。その基礎がない場合には、何が正しいかということの判断ができないのです。
現実があっても、現実における判断の基点がないとすると、現実が存在することが無意味です。何が良くて何が悪いかとどうして判断するのか。それができなければ、現実があってもしょうがないのです。
ところが人間は現実に判断できるのです。判断ができるということは、過去の経験に基づいてしているのです。
人間の経験というと霊魂の経験しかない。霊魂の経験というと生まれる前の経験です。
生まれる前の経験のことを情操というのです。情操的直感というのです。ところが、現代教育は情操的直感を踏みにじって、科学的合理性を押しつけているのです。
科学的合理性の根本原理も、結局は情操的直感性からきているのです。ところが、科学的合理性と情操的直感性が、どこから来ているのかということを突き止めようとしないで、科学的合理性だから正しいとするのです。これが現代主義です。理知主義です。
理知主義で考えますと、情操主義的感覚がだんだん衰退する。情操主義が衰退すると霊魂が衰弱するのです。直感性が衰弱するのです。
従って、合理性ばかりが進歩するのです。常識的合理性ばかりが進歩する。だから、私が言っていることがいばっているように見えるのです。
人間は大自然を相手に生きています。大自然を愛して、また大自然を味わって、大自然を喜んで、大自然に夢を見て生きていながら、大自然に親しんで生きている人間の魂の在り方の基本的な原理が、どこからきているのか知らないのです。
例えば、山が好きである。海が好きである。花が好きであるという素朴な直感性の原理は、どこからきているのか分からないのです。ばかみたいな直感性の原理が分からないのです。
大自然が好きだという直感性の原理がなければ、人間生活が成り立たないのです。
すばらしい景色だと誰でも言います。すばらしいと言いながら景色とは何であるのか、この説明ができないのです。
景色というのは、人間が生まれる前に見ていた自然界の在り方の端的な表現形式です。人間は生まれる前に何を見ていたのかというと、命の実物を見ていたのです。または経験していたのです。命の実体を経験していたのです。
例えば、赤ちゃんは母親の母胎の中で命の音を聞いていたのです。命の歌を聞いていたのです。命の歌、命の音を聞いていた。命を直感していたのです。
その時には形において捉えることができなかったのです。そこで、生まれた後に理性が発達してから、自分の生まれる前に経験していた命が、形において現われている状態を見ているのです。これが景色です。
神が人間に景色を見せて、景色が実は自分の命だということを示しているのです。自分自身が生きている命の実体を、景色という格好で見せているのです。
そこで、人間は景色を見て喜ぶのです。これが観光旅行です。これが分かると、神の中で生きている人間の感覚が分かるのです。
人間が富士山を見て喜んでいるのは、母親の胎内で子供が喜んでいるのと同じです。
スケールを大きくして考えますと、現在の地球存在は人間が生まれる前の母胎存在と同じものであることが分かるのです。赤ちゃんが見ている母胎の存在と、大人が見ている地球の存在とは同じ意味です。
いわゆる大自然は母親の母胎と同じものです。大自然はそのまま女性的なものです。大自然を母胎と見て、人間の赤ちゃんを見て考えると、自然と人間との関係が分かるのです。その時に命を捉えると死なない命が分かるのです。聖書が何を言っているのかが分かるのです。
大自然とは子宮です。子宮と地球は同じものです。イエスは、「あなたの目が澄んでいれば、全身も明るいだろう」と言っていますが、これが生まれることです。
この世に生まれた人間を自分だと思っていると、ひどい目にあいます。この世に生まれた人間というのは全くの赤ん坊です。この世に生まれたということは、これから新しく生まれるための予備行動です。この世に生まれたということは、自分の霊魂が新に生まれなければならないための予備行動です。
この世に生まれたということが、肉体的な人間として生まれたのですが、肉体的な人間として生まれたということが、永遠の命に生まれるための予備行動です。とこしえの命に生まれるための予備行動であって、とこしえの命を見つけた時に、初めて死なない自分を認識することができるのです。
前世が分かると来世が分かるのです。野菜を食べて野菜の味が分かる。肉を食べて肉の味が分かる。味の本質はすべて前世のものです。前世の味を現世で味わっているのです。
前世の味を現世で味わっているということが本当であって、この事実を認識すると来世が分かってくるのです。
桃の味は何か。現世に生まれる前に地のちりとして神と一緒に働いていた。その時造った桃の原形を味わっているのです。だから、私たちは桃の味が分かっているのです。どういう味が良いのか、どういう味が悪いのかをよく知っているのです。
桃だけでない。天地万物がすべて分かっているのです。魚の味も牛肉の味も、あらゆる食物の味が分かっているのです。前世で神と一緒に万物を造っていたからです。
前世の知恵が現世を造っている。現世は何のためにあるのかと言いますと、前世の知恵を現世で復習しているのです。復習した結果、来世を造っているのです。だから、神の相談相手になれるのです。この意識が持てる人と持てない人によって、来世の運命が決まってくるのです。
現代文明は、現世だけが自分の命だと主張する文明です。現世だけが自分の命であるということを強調するのが文明です。現世だけに眼を釘付けにしてしまう文明です。来世の命を全く隠してしまっている文明です。
永遠の命を奪ってしまうのが文明です。これがユダヤ文明です。ユダヤ教育です。これが間違っているのです。現世に生きることが間違っているのではなくて、現世だけが絶対だという考え方が間違っているのです。だから、現在の学校教育の思想が間違っているのです。
最も悪いのは唯物史観です。唯物史観は現世だけが人間だと考えるのです。現在生きている人間は現在だけを考えたらいけないのです。現在生きているということは、一つのプロセスだと考えたらいいのです。
現在の人生はプロセスであって、これがすべてではないのです。プロセスを絶対と考えてはいけないのです。自分は自分の考えがあるとか、自分の世界観があるとか、自分の立場があると考えてはいけないのです。このように考えることが死んでしまう原因になるのです。
生きているということは歩いていることであって、ここで留ってはいけないのです。「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み」と歌った一休のように、人生はこちらの岸から向こうの岸へ渡るための橋の上を歩いているようなものです。
現世は橋の真ん中であって、ここに家を建ててはいけないのです。ところが、現代文明はこれをしているのです。
仏典の良い所は橋の上に家を建てるなと言っている所です。ところが、寺のお坊さんは橋の上に寺を建てて宗教商売をしているのです。仏教はこのように間違っているのです。
人間の霊魂の本質は何か。神の中に住んでいることが初めからの在り方です。地のちりですからそうあるべきです。
地のちりの地とは地球を意味しますが、また、太陽系宇宙に所属するものでもあるのです。神という大人格の中心点が、地球存在の中心にあるのですが、神という有機構造の中心点の中に地のちりがいるのです。神と一緒にいるのです。これが太陽系宇宙の構造です。これを認識する必要があるのです。
私たちが実存している基礎は、地のちりです。人間とは違うのです。地のちりに形を与えたのが人間です。
人間があるのではありません。地のちりに形を与えられたものがあるだけのことです。地のちりがあるのであって、人間がいるのではありません。人間の利害得失を考えることが間違っているのです。地にちりが何であるかを考えるべきです。
地のちりが人間になった結果、悪魔の手先に変化してしまったのです。地のちりが人間になった結果、神の手先であるべきものが、悪魔の手先になってしまったのです。神の手先であったから、悪魔の手先になったのです。神の中に住んでいたから、悪魔の中に住むようになったのです。これが現実の人間です。
神が地球を造ったということは、地のちりとしての本来の自覚を持つ者と、本来の自覚を忘れて悪魔と一緒に住んでいるという者とを振り分けるためです。肉体を持つという意識だけを持つ者と、本来神と一緒に住んでいたという意識を持つ者とを振り分けるのです。
地のちりとしての本来の自覚を持つ者だけが前世に帰るのです。人間として死んでいく者は、全部悪魔と同じ世界観を持っているのですから、悪魔と同じように火の池に放り込まれます。
人間として死んだらだめです。地のちりとしての自覚を持つ者だけが神の元に帰れます。神と一緒に住めるのです。
「主よ、あなたは世々われらの住み処でいらせられる」と言えなかったらいけないのです。
前世の記憶に基づいて現世における味の判断ができるのです。味だけではなくて、形も色も香りもそうです。人間の五官による判断というのは、前世の判断に基づいているのです。
人間の人格は前世から来ているのです。前世の人格で現実に生きているということが分かった人は、現実に生きないで前世に生きているということを、自分で実感できるでしょう。この人は死なないのです。死なない人だけが神の元に帰るのです。
前世では五官の感覚はなかったのです。現世では肉体が与えられたから感覚が発生したのです。前世ではなかった感覚が現世ではあるのです。これを霊的に実を結ぶことができた人は、来世において五官に基づく霊の体を持つことができるのです。これが復活のボディです。だから、復活したイエスは復活体によってぶどう酒を飲み、焼き魚を食べたのです。
復活のボディを持つことができた者は、食べる資格があるのです。正当に食べる資格があるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)