聖書に次のようにあります。
「主なる神は言われた、『見よ、人は我々の一人のようになり、善悪を知る者となった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない』。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた」(創世記3・22、23)。
これが神が人間を生かしている目的です。人は我々の一人のようになり、善悪を知る者となった。これを生かしておくと、命の木からも取って食べて、悪魔のようになるかもしれない。
そこで、エデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられたとあるのです。皆様はこれをしているのでしょうか。キリスト教の人々はこれをしていないのです。
キリスト教の人たちでも、社会的に働くとか、仕事をするということはしています。聖書を勉強することも、この原理によってしていなかったらいけないのです。
人が造られたその土を耕すのです。人間が罪を犯したので悪魔のようになるかもしれないのだから、こんな人間をエデンの園から追い出すだけでなくて、殺してしまえばいいのです。そうしたら、後からややこしい問題は起こらないのです。
ところが、彼をエデンの園から追い出した。追い出したから、もう一つの国が造られなければならなくなった。それがこの世です。
皆様が現実に生きているエデンの外はこの世です。そこへ神は人間を追い出したのです。追い出して何をさせたのか。人が造られた土を耕せられた。農業をしたらいいのかというと、そうではない。人が造られた土は地球の土ではないのです。
人が造られた土とはちりそのものを意味するのです。これを耕せと言っているのです。これが聖書の目的です。
人間が地球上で生活することが、土を耕すことになるのです。肉体的に生活を営むことが、土を耕すことになるのです。
聖書で学ぶということは、肉体的に生活することの原理を実行することです。働くことは外面的なことであって、原理を実行することがちりです。外面は土、原理がちりです。
人間の霊魂は原理的にはちりです。外面的には土です。この両方があるのです。
人間が造られた原理はちりと土とがありますが、これを耕すように命じたのです。これが人間の目的です。耕すということには鍬で耕すやり方と、霊で耕すやり方と両方あるのです。カインは鍬で耕したのです。
鍬で耕すだけでは神の目的を果たしていないのです。現世の人間は生活はしているけれど、これだけでは神が人間を生かしている目的を果たしていないのです。
神が人間を生かしている目的を果たそうと思えば、土の面とちりの面と両面を耕さなければいけないのです。両面に鍬を入れなければいけないのです。
神が人間を生かしているという事がらに鍬を入れるのです。これが神が人間を生かしている目的そのものです。これが私たちの目的です。救われることが目的ではなくて、私たちが生きていることの原理を追求するのです。
「あなたは顔に汗してパンを食べる」とありますが(同3・9)、顔というのは原文では額になっているようです。額に汗するというのは、肉体的に言えば働くということになるでしょう。精神的に言えば、精神そのものを労することです。
額というのは未来のために働く精神構造の拠点です。人間の現在は将来に向っているのです。神は人間に未来をある程度預けているのです。神にかたどりて人を造っているとすると、未来に対する憧れとか、未来に対する希望とか、未来に対する働きを神は人間に許しているのです。
人が未来に対して働いたことは、その人のものになるのです。信仰の原理とか生活の原理はそうなっているのです。
神は人間に未来を託しているのです。
人間には土の面とちりの面と両面があるのです。肉体の面と精神の面とがあるのです。
主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。人間が実存しているその土を耕させられたのです。
この言い方は、当時は理論物理のような言い方はできませんから、土とちりという言葉を使っていますけれど、人間が実存しているその原理を耕すことを命じたのです。これが神が人間を生かしている目的です。これをよく承知したら聖書が開かれるのです。
皆様は自分が生かされていることに対して、責任を持って頂きたいのです。
人間は何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。これを解明することが人間の目的です。神は自分自身の実存の原理を耕させているのです。しかし、人間は耕そうとしない。ただ生活しようと思っているのです。これがいけないのです。
自分自身を耕すということを心得なければ、聖書は開かれないのです。自分自身が存在することを耕すのです。誰かに助けてもらわなくても自分自身でしたらいいのです。
これをパウロは「霊に従いて歩む」と言っているのです。肉体的に生きている自分を土台にしないのです。もちろん肉体的に生きていることが土台になりますけれど、生きているそのことを見るのです。そうすると、肉体的に生きているという条件は必然的に含まれてしまうのです。
生きているという霊的事実に鍬を入れることになりますと、人間の命の根底に鍬を入れることになるのです。そうすると、聖書が勝手に開かれるのです。
皆様が生きているということの中に、神の言葉の秘密があるのです。聖書が開かれるということは何でもないことです。皆様が生きているということの中に、永遠の命があるのです。これを耕したらいいのです。
聖書の勉強は自分自身の実存を耕すことです。これがそのままイエス・キリストの信仰になるのです。人の助けを借りる必要がないのです。極端な言い方をすると、聖書の助けを借りる必要もないのです。
旧約の預言者は聖書の助けを借りていません。イエスもいちいち聖書を見て説教したのではないのです。自分自身が生きていることに鍬を入れていけば勝手に命が耕せるのです。
皆様が生きていることが、そのままとこしえの命の原点になっているのです。これに鍬を入れるか入れないかだけのことです。
命を耕すには一つだけ条件があります。霊に従いて歩むという条件です。これがなかなかできないのです。これをしなければ、自分自身が生きていることに鍬を入れることはできません。
皆様が生きていることは霊です。肉ではないのです。霊に従いて自分を見るのです。このことをイエスは「神の国を求めよ」と言っています。その他色々な言い方をしていますが、「この世に生きるな」と言っているのです。
人間が生きていること自体、この世のことではないということが分からなければならないと、イエスが言っているのです。
皆様が現在生きているということが、実はこの世のことではないのです。イエスは聖霊が降臨する前に、「汝ら、神の国と神の義を求めよ」と言っているのです。「水と霊とによりて新に生まれて神の国に入れ」と言っているのです。
皆様は水と霊とによりて新に生まれたでしょうか。神の国に入っているのでしょうか。これを真剣にしているのでしょうか。現世にいる自分と神の国に入っている自分とが、しっかり仕分けることができますか。
聖書を本当に勉強したいのなら、この原理、原則が分かっていなければいけないのです。分からなければどんどん御霊に質問したらいいのです。
神が人間を生かしておいでになるのは何のためか。これを耕すこと、その意味を知ることが目的です。聖書が開かれるためには、私たちがその事がらの方向に向っていなければならないのです。
人間が救われるとか救われないという問題とは違うのです。神が地球を造っていることの意味が問題です。神が天と地を造った。この地にいたアダムが罪を犯した。ここから神は人間を追い出したとありますが、一体人間は何処にいるのかです。
神が地球を造ってアダムが置かれていた。そこからアダムは追い出されたから、一体人間は今何処にいるかです。
やがて現実の地球は消えてしまいます。そうしたら、新天新地が現われるのです。実は現実の地球は実存していないのです。プロセスそのものです。プロセスそのものが現実の地球になっているのです。
プロセスは存在とは言えないのです。存在していない所へ人間は放り込まれたのです。ですから、人間も、家庭も、文明も、社会も経済も、皆嘘です。人間がいることが嘘であり、嘘の現世で嘘の人生を送っているのです。
こういう事がらを踏まえて生きることが、自らを耕す必要な条件になるのです。こういうことをよく心得て生きるべきです。
神は人間の実存状態を耕すことを望んでおられるのです。私たち自身が実存している状態を耕すことが、聖書の勉強です。救われることではなくて、耕すことが目的です。これが宗教ではない聖書の勉強です。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)