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イエスの復活による新しい命

聖書に「心を更えて新にする」とあります。心を開いて新にする。目を開いて新に見るのです。新しい角度で物を見るのです。

新しい角度で新しく見れば、今までの視野ではない、まだ見ていない角度の視野が開かれるのです。そうするためには、自分の世界観を拡大することが必要です。拡信することです。

ただ思想的に聖書の話を理解するのではなくて、思想そのものを広げていくのです。これを考えさえすれば、新しい視野が開かれて新しい見方が広がっていくのです。

学者が勉強するのもこのやり方です。新しい学問の端緒を見つけると、今までの学の範囲で考えることをやめて、新しい分野に進展する角度で考えるのです。そうすると、新しい学の分野が開かれるのです。これをするしかないのです。

 私たちは学問の勉強をしているのではありませんけれど、新しい眼が開かれることです。今までの頭のままの状態で、言葉だけで切り替えようとするとか、 気持ちだけで切り替えようとしてもだめです。理論的な面と実感的な面とが伴っていくことになれば、新しい分野が開かれていくのです。

 実感的な面が開かれずに理論的な面だけでしていると、結局世界が変わらないことになるのです。理屈と実感が相伴うような形で、自分自身の世界を新しくしていくのです。これをして頂きたいのです。

 これをして、それが自分の生活に現われてくるようなやり方を、自分で勉強するのです。聖書がいう新に生まれるとはこういうことを言うのです。

 目で見ていて、見ているものがそのとおりにあると思うのが肉の思いです。人間の常識は肉の思いで通用するのです。

 肉の思いで聖書を勉強すると理屈は分かりますけれど、それは肉の思いで理屈が分かっただけで、世界が新しく開かれたのではないのです。

 霊に従いて聖書を見るということをしますと、肉の思いで見ている世界ではない、霊の世界が見えてくるのです。霊の世界で見て、それと聖書の言葉とを合わせて考えていくと、新しい世界が開かれていくことになるのです。イエスが神の国へ入れと言っているのはこれを言っているのです。この世に生きていながら、まだ経験していない国へ入って行くのです。これをしないで、この世に生きているままで聖書を学んでいたのでは、命の実体は変わりません。ただ思想が変わるだけです。

 命の実体を変えるためには、国を変えなければいけないのです。国を変えることを考えなければいけないのです。

 そのためには、聖書で学んだ自分の思想を、生活で実感的に活用するのです。これをすることが必要です。

 自分が生きていることと、イエスが生きていたことの共通性を見い出して、自分の国からイエスの国へ移るようにすることです。そうすると、新しい世界ができてくるのです。

 聖書の勉強をするだけでなくて、生活そのもの、生きている国そのものが、この世ではなくて神の国に入るのです。イエスが神の国へ入れと言っているのはこれを意味するのです。

 神の国と神の義を求めるのです。これをしないで自分の国にいるままの状態でいくら聖書を学んでも、命が新しくなりません。

 神の国に入るということが必要です。神の国と神の義は肉ではなくて霊です。肉と霊は全然違います。霊に従いて歩むということができるように、自分自身を自分で督励するのです。そういう努力をいつもするのです。

 天国を激しく襲う者たちがそれを奪い取っているのです(マタイによる福音書11・12)。これは男がその世界を切り開いていかなければいけないのです。この問題については、神は男だけを問題にしているのです。女は問題にしていません。

 男の正体を知るためには、女を知らなければならない。そこで、女を知るということが、男にとって基本的な大問題になるのです。女を知らずに男だけの考えで割り切ってしまうと、聖書に対して、合法性を持たないことになるのです。聖書に対して合理性、合法性を持たせようと思えば、どうしても女を理解しなければいけないのです。

 そのために、現在までの男女関係の見方ではだめです。そういう女の見方を捨ててしまって、新しい角度で霊に従いて女を見るということをして頂きたいのです。

 女を知るためには、新しい見方で女と接触しなければいけないのです。これが難しいのです。現世に生きていてこれをするのは本当に難しいのです。

 夫婦になるとだめです。一人の人間のようになっているからです。奥さんが主人の癖を呑み込んでいますから、主人が間違ったことを言っても、いつも黙って呑み込んでいますからだめです。

 夫婦にもよりますから一概には言えませんけれど、一度夫婦になってしまいますと、一つの人柄になっているのです。だから、女を知っているようですけれども、知らないのです。

 夫婦になった状態で見ている女と、一般の他人の女を見る場合とでは違うのです。こういう点をよく心得て勉強しなければならないのです。

 女を学ぶという意味で女の人を見るのです。人柄が違っているという意味で勉強するのです。社会生活をできるだけ活用していけばできないことはないのです。難しいには違いないのですが、霊的に女を見ようという気持ちを持っていれば、不可能ではありません。

 夫婦の状態で女を見ていて、女が分かったと思うと違うのです。これは一体になって付き合っている女を知っているだけであって、これは本当の女を知っていることにはならないのです。この勉強がなかなか難しいのです。

 男はどこまでも女を勉強するという精神を持つ必要があるのです。そうしないと、なかなか女は分かりません。そうして、女が考える考え方を取り入れて、その考え方で自分自身を再検討するのです。こういうやり方をしないと、神が造った人間は分かりません。

 女が分かると、生まれながらの自分ではない別の自分が分かってくるのです。自我意識が強い人はなかなか分かりませんが、自我意識をなくして、本当の無色透明の自分をできるだけ見ようとしていれば、御霊の助けが加わります。そうすると、聖書についていくということができるのです。新しい人を見つけることができるのです。

 理屈で言えばこういう言い方になりますが、実際生活においては一つひとつ考えていかなければならないでしょう。

 山上の垂訓のような原則を利用していけば、一つひとつの事がらが対処できるようになるのです。山上の垂訓はそれほど難しいことを言っているのではありません。自我意識を否定しているだけです。これだけのことですから誰にでもできるのです。

 自我意識は何かというと、ただの誤解です。自我意識を否定しようという生活をしていれば、自我意識がただの妄念であることが、聖書によって教えられるのですから、自我意識を捨てることがだんだん上手になるのです。そうすると、イエスの真似をすることくらいは、そんなに難しいことではなくなるのです。

 イエスの回りには相当多くの女性がいたでしょう。男性よりも女性の方が霊的に鋭いからです。男の場合は理屈を知ろうとしますが、なかなかイエスに付いて行こうとしないのです。

 感受性という点から考えても、女の方が鋭いですから、イエスに同化しやすいのです。男はイエスに同化しにくいのです。

 継続性という点から考えると、男の方が継続しやすいのです。女は直感的にイエスに感動しますが、継続性は男よりも劣っていると思われるのです。

 人間という生物が、理性と良心に基づいて人格的に生活できるということが不思議です。理性と良心によって生きているということが、イエスと同じ原形を与えられていることです。

 それを、自我意識に基づいて生きているから間違っているのです。自我意識さえ捨てて、生ける神の子であるという自覚を持てば、私たちはイエスと同じです。

 問題は自我意識であって、理性的、または人格的には私たちとイエスは同じです。

 人間は自我意識があるために、肉で頑張っているように見えるのです。理性や人格の実質はイエスも私たちも同じです。それを肉の思いで用いるか、霊の思いで用いるかという点だけが違うのです。理性や人格の実質は一つです。

 心を開いて、自分の人格を霊に従って用いるということさえ理解すれば、イエスを信じることは誰にでもできるのです。

 従って、死なない命を理解するということは、誰にでもできることです。

 ユダヤ人の場合には、聖書を信じることが民族的な宿命になっています。これは般若心経を用いなくても、神を信じて神の約束が人間の命の基本だということが、ユダヤ人には思想的に理解できるのです。

 異邦人にはこれが分からないのです。だから、般若心経から入っていかなければならないのです。私たちが生きていることが、そのまま約束に繋がっているという感覚をユダや人は持っているのです。異邦人は持っていないのです。

 生きていることがそのまま約束だということは、ユダヤ人なら分かりますが、異邦人は分からないのです。異邦人は、普通の人が生きていることはただ生きているのだと思っています。ここが異邦人とユダヤ人の違いです。

 ユダヤ人は、現在の歴史の流れが神の約束だという程度の思想です。現在の人間の命が神の約束だということが分からないのです。

 ユダヤ人の場合、政治の流れが神の約束になっていると思っているのです。ところが現在の人間の命が神の約束です。人間が生きていることが神の約束です。これがユダヤ人に分からないのです。

 国があること、政治の流れが神の約束だとユダヤ人は考えているのです。だから、ユダヤ人は政治のことをやかましくいうのです。国際連合とか、国際組織のことばかりを考えているのです。

 神は個々の人間が生きている状態を見ているのです。

 モーセは、ユダヤ民族が存在して、ユダヤ民族が歴史的に動いている状態が神の導きだと考えたのです。ユダヤ人は今でもこう考えているのです。

 国の動きや政治の動きを神の処置だと考えているのです。これも神の処置ですが、個々の命は、人間の命だと思っているのです。

 神はモーセにはありてあるということ、エホバという名前を知らせたのです。エホバという名前を知らせるということは、神の本名を知らせたのです。だからモーセの方に神が近づいたように見えるのですが、そうではないのです。

 エホバという名前を知らせるというのは、他人だから知らせたのです。アブラハムは神の目の前に平伏しているのです。神の目の前に平伏しているということは、アブラハムという人間は神の前から消えていたのです。消えてしまったから、我はありてあるものなりという必要がなかったのです。

 そこで、アブラハムと神との関係は、全く親子の関係になっていたのです。モーセと神とは他人の関係です。他人の関係ですから、約束という感覚で繋いでいかなければならなかったのです。ここが違うのです。

 モーセに掟を与えたということは、他人行儀だったということです。お互いが本当に分かっていれば掟を与える必要はないのです。他人行儀という印に掟を与えたのです。

 モーセという人物はその程度の人物だったのです。アブラハムのように神の中に溶け込むことができなかったのです。皆様も神の中に溶け込むことができるかどうかが問題です。神の中に溶け込むことができないと、他人行儀になってしまうのです。

 モーセの時代にはモーセ以上の人間はいなかったのです。モーセの時代にアブラハムのような人がいなかったのですから、モーセを使わざるを得なかったのです。

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とありますが、アブラハムの神が本当の神です。ところが、ユダヤ人はモーセの神を信じているのです。ユダヤ人はアブラハムの神を知らないのです。ユダヤ人はアブラハムの神が分からないのです。

 アブラハムの神がイエスの神になるのです。モーセは他人行儀であったために、神に近づいていなかったのです。モーセの時代に、アブラハムのような人物がいなかったので仕方がなかったのです。

 人間が生きていて、自分の体を動かしているということが不思議なのです。人間が行動しているのは神の法則に適っているのです。神の御心に適ったような動かし方でなければ動かさないのです。動かせないのです。

 人間の体は神の御心に適ったように、飲んだり食べたりをしているのであって、自分がいくら飲食をしたいと思っても、神の御心に適わないような飲食はできないのです。この不思議さが分かるということは、アブラハムの信仰が分かるということです。

 人間の生態はそのまま神を生きているのです。モーセにはこういう感覚がなかったのです。モーセは一人の人間が神の何かの役割を演じていると思っていたのです。神の仕事をしていると思っていたのです。

 アブラハムは、自分は神の御心どおりに生きていると考えていたのです。神を信じる霊魂の雛形がアブラハムです。モーセは掟を行う人間の雛形です。

 もしアブラハムがいなかったらイエスの基本がありませんから、イエスもなかったかもしれないのです。

 人間の生態がそのまま神の御名であるということは大変なことです。イエスだからこれが分かったのです。イエスがいなかったら新約の良さは分かりません。神の見方も分かりません。

 私たちの生活は信仰になっているのです。神を信じない普通の異邦人でも、生活はそのまま信仰になっているのです。だから、人間は神の子であるということができるのですけれど、人間は自分が生きていると思っていますから、それが全然分からないのです。

 しかも、人間は肉体を持っていますから、必ず死ぬことになるのです。もし人間が神の子であるなら死ぬはずがないのです。必ず死ななければならないという条件があるところを見れば、人間が神の子であると思えないのです。質的には神の子であるかもしれないけれど、肉体があるというところを見れば、人間は神の子ではない。人間はやはり人間だと思えるのです。この考えは常識的には合理性があるのです。この点を注意しなければいけないのです。

 肉体を持っているという点から考えると、人間は人間であって、生ける神の子ではないと思えるのです。従って、神の命がそのまま私たちの命にはならないという理屈ができるのです。

 肉体は消耗品ですから滅びるに決まっているのです。しかし、本質的な命は滅びないのです。肉体は滅びますが、生理機能、心理機能、五官は滅びない。これが人間の実質、実体です。

 大体、人間が生きているということが不思議です。理性的に生きているということが不思議です。例えば、食事をする時には、食事をするようにふさわしい食べ方をしています。仕事をする時にはそのような動作をするのです。

 仕事の内容や食事の仕方は、動物がすることではないのです。神のやり方をしているのです。神の行いを人間の行いとしているのです。そこで、肉体を持っていることが不思議です。

 人間が食事をしているのは、神が食事をしている様を人間は肉体を持ってしているのです。神が成すべき事がらを、肉体を持っている人間がしているのです。

 人間は肉の世界と霊の世界を継ぎ合わせているのです。食事の段取り、食事の仕方は霊の世界のことです。行儀作法とか味付けというのは、霊の在り方です。霊の在り方の世界を、肉体の在り方に合理化しているのです。これが不思議です。

 霊の世界の事実を、肉の世界の事実にしているのです。ここに神の国があるのです。私たちが食事をしていることが神の国です。神の国を求めよとイエスが言っているのは、私たちが食事をしていることの中に神の国があるから、それを見つけなさいと言っているのです。

 これは食事だけではありません。家庭生活をしていること、社会生活をしていること、人間の生活全般が、そのまま神の国です。

 神がすることを人間がしているのです。だから、神の国と神の義を求めることは当たり前です。

 人間社会は神の国の模型です。だから、神の国に住んでいるのは当たり前です。ところが、人間は神の国の模型の生活をしていながら、神の義を行わないで、人間の義を行っているのです。悪魔が人間の中に入り込んで、神の義を横取りしているからそうなっているのです。神の義を悪魔の義にしているのです。霊の義を肉の義にしているのです。

 霊の事がらを肉の事がらにしてしまっている。これが間違っているのです。

 イエスは神の国と神の義を捜し求めと言っていますが、私たちの生活が既に神の国と神の義になっているのです。

 だから、私たちがそれに気付いて、私たちの生活が神の国であり、神の義になっていることを弁えて、そのように生活したら死なないのです。

 肉体的に生きていると思っているから間違っているのです。皆様は聖書を信じていますが、肉体的に生きていると思っているでしょう。これが間違っているのです。

 聖書を信じているのはいいことですが、皆様は肉体的に生きていると思っているでしょう。そこで、霊と肉を混同しているのです。混同している状態で生活していることがいけないのです。

 これを整理しないと神の敵になるのです。肉体的に生きているという思想は悪魔の思想です。ところが、食事の仕方は霊の作法です。これは神の国の在り方です。

 イエスは神の国の在り方を、神の子として生きていたのです。だから、良かったのです。ところが、人間は神の国の在り方を肉の思いで生きている。これがいけないのです。肉の思いで生きることをやめなければいけないのです。

 自分が生活していると思っている。これがいけないのです。「神の国と神の義を求めよ」とイエスが言っているとおりに実行しなければいけないのです。

 肉体があっても生きるということがなければ、肉体は動かないのです。生きるという神の力が働かなければ動かないのです。動かなければ食事ができないのです。

 肉体が食事をしているのではなくて、生かす力が働いているから食事をしているのです。生かす力、即ち霊の力が食事をしているのです。

 人間は肉体で生きているのではなくて、霊の力で生かされているのです。霊の力で仕事をしているのです。このことがはっきりしていないと、肉の思いに捉われてしまうのです。

 イエスが述べている言葉は、生ける神の子の言葉になっているのです。イエスと同じように私たちもそうなっているのです。

 私たちがいる世界は、小さい事から大きい事まで、この世の中いっぱいに神の御霊が働いているのです。命が働いているのです。この命が私たちの中で働いているから、私たちの生活が成り立っているのです。

 肉体が生きているのではありません。神の御霊が働いているのです。その中に肉体があるから、肉体が生きているように見えるのです。

 神の御霊の命が地球いっぱいに働いているのです。その中に私たちの肉体が置かれているのです。これがよく分かりますと、肉体に故障があっても命に故障がありませんから、全然心配はいらないのです。

 いつか心臓が止まりますから肉体は滅びますが、命は滅びないのです。肉体がなくなっても構わないのです。肉体人間は死ぬべきものに決まっているのです。しかし、命は死なないものです。

 イエスの復活という事実があるのです。復活の命は現世の命ではありません。永遠の命です。神は永遠の命の実体をイエスの復活という形で、私たちの目の前に突き出したのです。

 イエス・キリストの甦りの命を信じる者は、絶対に死なないのです。イエスの復活がこれを保障しているのです。イエスが第三の天にいるという実体によって、私たちの命が保障されているのです。

 復活の命は霊の命であって、神の国に働いている命です。神の国はイエスが来たことによって新しく造られた国です。それまでは神の国はなかったのです。イエスが現われた時に、神の国と神の義が現われたのです。イエス・キリストの甦りによって、神の国が確立したのです。

 現世の命は地球が無くなったら無くなります。地球が無くなっても、神の国は無くなりません。神の国に入ってしまえば、地球が無くなっても大丈夫です。

 イエス・キリストの復活の命が、第三の天において現存しているのです。イエス・キリストの信仰と教会の信仰とによって確立しているのです。

 現世の命の他に、極めて上等の命があるのです。これが永遠の命です。地球が無くなっても神の命があるのです。これは無くなりません。ここに入れとイエスは言っているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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