聖書の目的は神の約束の完成です。神の約束の成就です。神の約束の成就ということは、人間完成を基礎にする万有の完成です。聖書の言葉で言いますと、神の国と神の義が被造物全体に実現することです。
そのためにどうしても必要なことは、人間創造についての神の御心を知ることであり、神の約束を成就するために、人間に与えられている責任の必達ということです。
アブラハムとその子孫が世界の相続人として定められた。これはローマ人への手紙の四章十三節に記されていることですが、アブラハムとその子孫が世界の相続人として指定された。この事実を現在のイスラエルは全く自覚していないのです。
世界の相続人として指定されたということは、全世界の長男として指示されたということですが、長男という光栄なる資格を与えられたユダヤ人が、このことを全く自覚していない。これが世界が行き詰っている原因になっているのです。
相続人として指定されたユダヤ人が、現在では神の怒りをかっていますけれど、相続人であることが否定された訳ではありません。相続人である状態で、神の譴責(けんせき)をうけているのです。
彼らが自分たちに与えられている神の期待と約束の重大さに目覚めて、約束の民である本来の面目に帰ってもらわなければいけないのですが、そのために、彼らがどうしても知らなければならないことは、ヨハネの黙示録に記されている神と人との基本的な係わりについて、正しく理解して頂くということです。
神は現在私たちが考えているような人間を造ったのではないのです。肉体人間を造ったのではないのです。肉体という形で現われている土のちりを造ったのです。こういうことがイスラエルには全然分かっていないのです。
土から出た者は土に帰るのです。しかし、ちりから出た者はちりに帰るべきです。ちりから出たというのは、霊なる人間を指すのですが、霊なる人間存在が理解されていないのです。
霊なる人間存在というのは、肉体で生きているけれど、肉体人間ではないという自覚を持つことを許された人間でありまして、これがヨハネの黙示録の第四章に記されている長老です。万物の長として、神の期待と責任を負わされている者、神の光栄ある期待を与えられている人間です。
これは万物の長老そのものであって、万物と共に生き、万物の長として自分自身の責任を自覚している者を指すのです。これがちりで造られた人間のことです。神はこれを造ったのであって、肉体人間を造ったのではありません。
肉体人間は生物であって、リビングクリエイチャー(living creature)になるのです。これは動物人間です。被造物ですが、リビングの意味を会得していないのですから、リビングソール(living soul)ではなくてただのクリエイチャーになるのです。生物学の対象になる哺乳動物であるというだけのことです。
人間存在の能力性、実体を冷静に検討するのです。人間は何をしているのか。何をさせられているのかをよく検討しますと、すばらしいことをさせられているのです。このことの意味を正しく心得ていないために、人間存在のすばらしさが分からないのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)