人間に理性と良心があること、そして、人間が理性的に生活していることが不思議です。人間が理性的に社会を造って、政治経済を造って、学問を造り上げて生活している状態を霊というのです。国を造り、相互関係を造っている。これを霊というのです。
相互関係とか国を聖書的に言うと霊になるのです。人間は国とか社会とか学校を造って生きていますが、これが神的な場から言えば霊です。これを人間は勝手にしているのではないのです。神に係わりなくしているのではない。聖書はこれを霊と言っているのです。
神からの能力、神からの組織力、神からの判断力が働かなければ霊的な意味での生活能力が湧いてこないのです。
人間は好むと好まざるとに係わらず、意識するしないに係わらず、人間の社会生活は神的なものになっているのです。異邦人はそれを知らないだけのことです。
徳川時代の人間でも神的な組織能力を持っていたのです。神的な組織能力を持っていなければ政治、経済はできないのです。政治、経済というのが神的な組織能力です。これが霊です。神的な霊です。
霊の根源がロゴスです。ロゴスが働いて人間の霊になっているのです。宇宙の大自然の原理に適っている能力性が、人間に働いているのです。宇宙構造の中心と人間の理性的構造は一つのものです。だから、大自然のあり方が人間の生活に反映しているのです。
政治、経済の原理がすべて大自然と同じ原理に立っているのです。そうでなければ、政治、経済が成立しないのです。
太陽のあり方に従って、個々の人間の生活のあり方ができているのです。神の言(ことば)のあり方を勉強することによって、大自然のあり方が理解できるのです。
聖書を信じない人は大自然の動きに逆らっているのです。逆らう気持ちがなくても、自然に逆らっているのです。大自然の動きに無知なのです。だから、大自然の命に順応することができないのです。そこで、死んでしまうのです。
聖書を勉強するということは、自然現象のあり方を聖書という形で受け止めて、自然現象と一つになっていくのです。自然現象と人間の命の力と連結することが聖書の勉強です。
神の国と神の義を求めよという言葉は、それを最もよく現わしているのです。
私たちが生きていることが神の国になっている。そう意識しなくてもそうなっているのです。意識すると、神の国の法則と一つになるのです。そうすると、気持ちが楽になるのです。
意識しなくても、私たちの生活は神の国の原理に従わなければ成り立たないのです。意識しないと、無理に神の国と神の義を求めさせられるように思いますが、意識すると、神の国と神の義を喜んで求めるようになるのです。これだけ違うのです。
人間は自分で仕事をしているような気持ちで生きていますが、自我意識がそういう気持ちを持たせるのです。神の御心に従って生きている、神の御心に従って仕事をしていると思いますと、気持ちがとても楽になるのです。また、仕事の能力も上がるし、死ななくなってしまうのです。神の命に乗っているのですから、死ななくなるのです。
神の命に逆らっていないのですから、死ぬ必要がなくなるのです。ただ聖書を学ぶまでに、自分の意志によって生きています。また、聖書を学んでいながら自分の意志によって生きています。
しかし、生活原理は神に従っていますが、自分の意志で生きている場合には、勝手に疲れるのです。だから、病気になったり死んだりするのです。
聖書の中に入り込むようにして、聖書と私たちの生活が一つであるという原理を弁えて、のんびり生活すれば死ななくなるはずです。
神の命をそのまま生きているのです。自分の命ではないのです。私たちの生活態度そのものが皆、神の命の中に入っているのですから死ぬはずがないのです。
私たちの命のあり方は大自然に生きていますし、精神状態まで神の御心と一つになれば死ななくなるのです。イエスがとこしえの命があると言ったのは当たり前です。イエスのような生き方をしたら当然死ぬことがないのです。
皆様自身が生きていることが、聖書自身であるという事実を掴まえるのです。聖書に従わなければならないのではない。私たちが生きていることが聖書だという事実を見つけなければならないのです。
聖書に什一献金のことが書いてあります。収入の十分の一は神のものだから神に捧げなさいとあります。これをすると不思議に生活が神によって守られるのです。健康的にも生活的にも経済的にも神によって守られるのです。
現在、何処の教会でも聖書の言葉をそのまま実行していません。真面目な人が真面目な生活をしようとすると、聖書の言葉を実行しているのと同じようなことになってしまうのです。ところが、神を信じない人には自分の生活の根っ子がありません。根底を持っていないのです。生活が宙に浮いているのです。だから、精神的な安定がないのです。
自分の霊魂の安定ということになりますと、何を頼りにしたらいいのか、何を信じたらいいのか、思想的な根底を何処に置いたらいいのか、全然分からないのです。
人間の命は理屈では割り切れませんから、結局は自分で悩まなければならないのです。悩まなければならない上に、心配しなければならないし、いつも取り越し苦労をしたり、腹を立てたりしなければならないのです。他人を警戒したり、人間関係でもうまくいかないに決まっているのです。
神を信じているとそういうことがないのです。ないから気楽なものです。神という土台の上に世活をたてていると、宗教を頼りにする必要がないのです。ただ神を頼りにしていたらいいのです。こういう点が非常に違うのです。
神をもっともっと活用して頂きたいのです。神は活用すればするほど明白になるし、確実になるのです。神は活用すればするほど確かなものです。神を頭だけで判断していると頼りないものに思えるのです。
神を生活の土台に据えてしまうと、とても楽になるのです。
生ける誠の神を目の前に置いて、絶対に忘れないで頂きたいのです。人間は生きていますから、神は生きているに決まっているのです。命は神から来ているに決まっているのです。
神に生きるとしたら、神は決して捨てません。神の確かさが分かってきます。手応えが出てくるのです。
実は人間が生きているということが神です。生きているということが神ですから、それを確認するだけのことです。神を信じるということは、自分自身の生活の基礎を自分で確実にすることです。
これは最も確実な一番頼りになる方法です。聖書を信じることができる人は、神に選ばれているという確信を持てばいいのです。
人間は聖書以外に行く所がないのです。行ってもだめです。結局、聖書の中へ逃げ込んでしまう以外にないのです。それを人間は神に命じられているのです。
自分で聖書を信じようと思うと、信じるのが良いか悪いかを考えるのです。神に導かれているのだと思うと信じやすくなるのです。
やがて日本の天皇家はダビデの分家だということが分かるでしょう。イスラエルと日本の関係は本家と分家の関係です。
現在でも天皇家はダビデの分家だということは、少しくらいは分かっているでしょう。しかし、公には発表されていないのです。政治的にそれが発表される時が問題です。イスラエルの方にそれを受け入れる準備ができるかどうかが問題です。
ユダヤ人が日本を分家として受け入れるかどうかです。ダビデ王朝が、日本の天皇家を分家として受け入れる声明を出すかどうかが問題です。声明すれば大きな問題になりますから、そう簡単に声明できません。
いつ頃に、どういう方法で発表するかが問題です。日本の天皇家がダビデ王朝の分家だとなると、日本の経済力がユダヤの経済力になってしまうのです。これが大きいのです。よほど先を見通して、時期を見てしないと、日本もイスラエルも両方共困ることになるでしょう。
文献的に歴史的にはいくらでも証明する方法があっても、それを歴史の表面に取り上げるとなると、問題が起きるのです。これがなかなか取り上げにくいです。
しかし、これを取り上げなければならない時期がやってくるのです。日本の天皇家に何かの理由ができてくる。
日本の経済力が、イスラエルと直結しなければならない必要性が起きてきた時に、イスラエルが日本を担ぎ出すことになるでしょう。イスラエルも日本にも都合が良い時に発表されるでしょう。
日本の経済力がイスラエルの国体と結びつくようになるのです。日本の国体がイスラエルの国体と結びつくから、経済力がイスラエルに行くのです。日本の経済力とイスラエルの経済力が合体することになるでしょう。
日本の経済力をユダヤが用いたら大きい仕事ができるでしょう。その時には、アメリカもバックアップすることになるでしょう。
その時には、私たちのメッセージも動き出すことになるでしょう。そういう経済的な動き、政治的な動きと同時に動き出すことになるのです。
「誰が東から人を起こしたのか」とありますから(イザヤ書41・2)、日本が世界の表面に出ることになるに決まっているのです。
釈尊が明けの明星を見て、釈尊の弟子がキリストの誕生をお祝いに行った。東方の三人の博士たちというのは、釈尊の教えを聞いた人々の弟子です。イスラエルにキリストを尋ね訪ずれた。これが機縁になって、キリストが生まれたことがイスラエルの人々に分かったのです。
三人の博士たちが尋ねてこなければ、ユダヤにキリストが生まれたことが分からなかったでしょう。従って、マタイによる福音書はできていないことになりますし、新約聖書もできていないことになるのです。
マタイによる福音書の第二章ができたから、マタイによる福音書の全体ができたのです。
これは現在の私たちだけが言っていることですが、やがて仏典と聖書の関係が明らかになるでしょう。明らかにされ出したら早いでしょう。
東の果ての日本から、意外な光、聖書の秘密の光が出るということを、学者は全く考えていないでしょう。
東から三人の博士が来なければ、クリスマスということはなかったのです。それと同じように、私たちがキリストがメシアであるということを言い出さなければ、ユダヤ人の中からイエスがキリストである、キリストが再臨すると言われないのです。
私たちがこういうことを言い出して、これがやがて世界中に述べ伝えられることになるでしょう。
般若心経の思想とマタイによる福音書二章がきちっとかみ合わなければ、イエスの本当の実体は分かりませんし、再臨のきっかけにはならないのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)