現在のイスラエルの不信仰が、世界にどういう影響を与えているのかということです。
男の人はこれを知ろうとしていますし、知っている人もいるのですが、女の人は知ろうとしていないのです。女の人は素直でいいのですが、無知であるという点が悪いのです。女の人は素直であっても知恵がなければいけないのです。
神を信じるということについて、正しい知識がなければいけないのです。知恵がないことが悪いことではなくて、それを知ろうとしないことが悪いのです。
ユダヤ人の悪い所は、生活のことは考えるが、生命のことは考えないということです。世界全体の政治はこの感覚で造られているのです。
世界中に人間が住んでいますから、何処かの民族が何かの形で中心になるのは仕方がないことです。動物がこの世に生きていれば、そういう形になるのは当たり前です。
ボスがいる。動物全体がボスに従っているのです。肉体を持っている人間にもボスがいるに決まっているのです。これは当たり前の現象です。
ユダヤ人が世界全体のボスです。これは良いとか悪いとかいう問題ではない。当たり前のことです。ボスがいなければ世界の動きは成り立たないのです。良いにしても悪いにしても、ボスがいなければならないのです。
ボスがいることが悪いのではない。ボスの考え方が悪いことがいけないのです。ボスの考え方が悪いと世界中が悪くなるのです。
今の人間はこの世に生きていることが中心で、この世に生きるために一生懸命になっているのです。これはボスの考えが間違っているために、世界中の人間が間違えたのです。
カール・マルクスというユダヤ人がつくった共産主義が没落してしまいました。現在は資本主義が中心の世の中になっていますが、資本主義もユダヤ人がつくったものです。
ところが、資本主義も破綻する運命にあるのです。その後に残るのが民主主義ですが、これもユダヤ人がつくったものです。民主主義は人間は尊いと考える主義です。資本主義は民主主義の上に乗っているのです。資本主義の影がだんだん薄くなり、民主主義が台頭しているのです。
民主主義は個人が生活する権利を持っているのです。一人ひとりの人間が生活する権利を持っていることが、民主主義の基本原理になっている。これもユダヤ人がつくった考え方です。人間の基本原理は皆ユダヤ人がつくっているのです。
民主主義が間違っているのです。ところが、民主主義の間違いを日本人は全然知らないのです。民主主義の間違いは、非常に深く隠れているので分かりにくいのです。
資本主義は民主主義のような顔をしているのです。だから、分かりにくいのです。資本の力を中心にした組織構造が資本主義です。金の力、経済の力を第一に考えるのが資本主義です。個々の人間が生活しているという力を土台にして、世界をつくっているのです。
民主主義が革命思想の土台になっているのです。ところが、これが間違っているのです。
個々の人間が生きていても目的を持っていないのです。民主主義を信じている人間は、この世で目的を持っていないのです。
学校教育が根本的に間違っているのです。人間が人間を教育するのですが、人間を教育して何になるかです。
民主主義は目的を持っていない主義です。ただこの世に生きていることだけを考えるのです。これは犬や猫と同じ考えです。理想や目的を持っていないのです。
民主主義における人間存在は、目的を持っていない動物です。人間は民主主義によって、目的を持たない動物にされてしまったのです。
日本の社会は民主主義によって成立していますが、日本の社会が目的を持っていないのです。民主主義というユダヤ思想によって、そうなってしまったのです。
これがユダヤ思想の非常に悪い点です。民主主義といかにももっともらしいことを言いますけれど、民主主義は目的を持っていない主義です。だから、民主主義によってつくられた国家社会は、目的を持つことができないのです。これが学校教育の悪さです。
民主主義は個々の人間が生きていることが目的になっているのです。個々の人間が目的を持っていますから、全体の目的がなくなってしまうのです。
個々の人間が何のために生きているのか説明ができないのです。これが学校教育です。
文明というものは訳が分からないものです。人間の文化文明は、民主主義という訳の分からないものを人間に押し付けて、それが最も良いもののように言いふらしているのです。民主主義によって国家社会をつくり、一時の安定をつくり上げているのです。
今の国家社会は、目の前の安定だけを見せているのです。根本的な安定はないのです。国家社会が目的を持っていないからです。
こういうばかな思想がユダヤ思想です。ユダヤ人は人間は神より偉いと考えているのです。ユダヤ人の特長は、良くても悪くても神の存在を考えざるを得ないのですが、神の存在を人間の下に置いてしまったのです。これが民主主義の考え方です。
ユダ人は神を人間の下に置いたのです。人間は神よりも偉いと言って威張っているのがユダヤ人です。そこで、逆に神によって叩かれるのです。これが文明の没落です。
目的を持たない文明は没落するに決まっているのです。これについてユダヤ人はどうしたらいいのか分からないから、ごまかしの理論を並べたてているのです。
創世記に天地創造のことが書かれています。これを読むと、神が天地を造ったと考えるのですが、実はそうではない。人間を造ったのです。神の口から出る言葉によって、天地万物が保たれているのですが、実は神の口から出る言葉が、太陽と地球のバランスの中心になっているのです。
太陽系宇宙の中心構造は、神の口から出る言葉の中心になっているのです。それが実は人間を造っていることです。
太陽系宇宙の中心構造は、すべて神の口から出る言葉です。これが人間です。神の口から出るすべての言葉が人間だというのは、太陽系の構造を造っている神の言葉が人間だというのです。マタイによる福音書の四章四節の意味はそうなるのです。
宇宙が造られているのではない。人間が造られているのです。太陽が造られているのではない。人間が生かされているのです。人間が存在するということは、宇宙が存在することの象徴です。
天皇が日本の象徴であるように、人間は太陽という物理的存在の象徴です。太陽の天皇が人間です。これがマタイによる福音書の四章四節に出ているのです。だから、大文字のマン(Man)という字を使ってあるのです。
天地万物を神が造ったのではない。万物という格好で人間を造ったのです。人間人格の中に万物があるのです。だから、今日の学校教育で考えている民主主義による人間とは全然違うのです。
宇宙構造と人格そのものが人間です。天地万物を小さくしたのが人間です。これをイエスが証明したのです。
七十六億いる人間が人間ではないのです。神の前にただ一人いる人間が本当の人間です。イエスがキリストになったということは、神の前にイエスだけが人間であることを証明したのです。
イエスは天地万物の象徴です。天地万物の代表者がイエスです。皆様がイエスを信じるというのは、皆様自身がイエスの立場に立っていることを知るのです。
皆様は生きている命の中に、イエスを見つけなければならないのです。イエスを発見しなければならないのです。ただ固有名詞の人間として生きているのなら、早く死んだ方がいいのです。固有名詞の人間は地獄に行くに決まっているからです。
自分が生きていることの中に、イエスを見つけるのです。自分が生きていることを通して、イエスを見つけるのです。見つけたイエスの命に生きるのです。これがイエス・キリストを信じることになるのです。
イエスは言っています。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添え与えられるであろう」(マタイによる福音書6・33)。
これらのものはすべて添え与えられるというのは、二十四節から読んでいきますと分かるのです。異邦人は何を食べ、何を着ようとしきりに考えると言っています。異邦人はそういうことを考えているのです。
異邦人は飲み食いするために働かなければならないと考えているのです。飲み食いするためには働かなければならないのが、人間の責任だと考えるのです。 これが異邦人の考えだと言っているのです。
なるほど日本人はそう考えています。現在では世界中の人間は働かなければ食べられないと考えているのです。働かない者は食べてはいけないと、聖書にさえも書いているのです。これは再臨に関係がある場合にそう書いているのです。
働くというのは飲み食いするためではなくて、自分自身の魂を養うためです。額に汗して働くというのは、飲み食いするためではないのです。額は人間の精神構造が未来に向かって働く場所です。そういう精神構造がある所が額です。
額とは頭に鉢巻をして汗をかく所ではない。現世に生きているのが目的ではなくて、命の本質に基づいて生きることです。
生活することが目的ではなくて、信仰することが目的です。信仰するということは、神に生かされていることを確認することです。
人間の命というのは自分の命ではない。神に生かされている状態が命になっているのです。神に生かされているという事実を認識して、神に生きるのです。神を生きるのです。自分自身という人間を生きるのではなくて、神を生きるのです。神に生きるのです。こういう生き方をすることを額に汗するというのです。
人間の精神構造そのものに苦労するのです。これが本当の働きです。額に汗するためには、肉体的に生きているという面から考えるのではなくて、命の面から考えるのです。命の面から肉体を考えるのです。これができなければ、額に汗するという意味が分からないのです。肉体存在の人間として生きるのではなくて、魂的に生きている自分として生活するのです。
肉体的に生きている人間は、飲み食いするために働いているのです。ところが、飲み食いするのが人間ではなくて、魂のために苦労するのが人間です。魂のために苦労するような働き方をするのです。
そのためには、まず私たちが生きているという事がらの中に、神の国と神の義を求めなければならないのです。肉体人間として生きるのではなくて、神に生かされている自分として生きるのです。
そうすると、肉体的に生きている自分の中に、自然に、神の国と神の義が見えてくるのです。
神の国は何処にあるのか。人間が生きていることの中に、神の国と神の義が見えてこなければいけないのです。飲み食いするために働くなと言っているのです。ただ神の国と神の義を求めよと言っているのです。
私たちが肉体的に生きていることの中に、神の国と神の義があるはずです。何処にあるのでしょうか。
神の国と神の義を求めるために働けと、イエスが言っているのです。そうしたら、勝手に飲み食いができるのです。必要なものは勝手に与えられると言っているのです。
神の国と神の義をどうして見つけたらいいのか。固有名詞の人間はすべて地獄へ行く人間です。だから、固有名詞の人間を出てしまうのです。固有名詞の人間を離れてしまって、ただの人間になるのです。ただ生きている人間になるのです。そうすると、神の国と神の義が分かってくるのです。
人間はいないのです。額に汗するのは、固有名詞の人間として生きることとは違うのです。魂が汗をかくことが額に汗することです。肉体が汗することとは違うのです。
魂が汗をかこうと思えば、まず自分自身が生きていることの中に、神の国を見つけなければいけないのです。
個々の人間はいないのです。個々の人間がいるという思想、民主主義とか人権思想は、ユダヤ人が考えた思想です。ユダヤ思想は何処までも個人を認めようとするのです。
個人がいるという思想は宗教観念です。個人という意識で生きている人間は、全部地獄へ行くのです。だから、個人という意識をやめて頂きたいのです。
神の国と神の義は個人ではないのです。イエスは自分が生きているという事実の中に、神の国と神の義を見つけたのであって、これがすべての人間に適用されるのです。
イエスは、「わが父、即ち汝らの父」と言っています。私の神はおまえたちの神であると言っているのです。なぜなら、人間は一人しかいないからです。
個々の人間、固有名詞の人格は、悪魔の人格です。今の文明は、皆知らず知らずのうちに、悪魔の人格を持っているのです。これを広めたのは学校教育です。
学校教育が悪魔の人格を造っているのです。これがユダヤ人の考案です。なぜユダヤ人の人権思想が広がったのかと言いますと、今の人間は、人権があると思う人間ばかりだから、人権思想が広がったのです。
本当の人間は人権を考える必要がないのです。なぜなら、世界の人間全体が一人なのです。これがキリストです。
人間存在全体が一人であって、これがキリストです。神はこの人を見ているのです。だから、個々の人間として生きることをやめて頂きたいのです。
自分の固有名詞を忘れてしまうのです。固有名詞で自分を見ることをやめてしまうのです。信仰が不徹底の原因は、自分を捨てないことです。
イエスを主とするというのは、自分の名前を信じないということです。ところが、自己存在の中に、神の国と神の義が見えてこなければ、イエスを本当に主とすることができないのです。
自分自身が生きていることの中に、神の国と神の義は何処にあるのか。固有名詞の人間の中にはありません。ただ人間が生きているだけですから、地獄へ行くのです。
固有名詞の自分を信じないことです。世界中の人間が一人であることを信じるのです。この一人の人間は、神と向かい合っている人間です。これを見つけたらいいのです。
イエスは一般の人に向かって、まず神の国と神の義を求めよと言ったのです。これはイエスには分かっていた。これは分かりやすいことだったのです。
人間は働かなければ食べられないと言っていますが、これは非常に幼稚な人生観です。神が人間を造っておいて、食べさせないと思うのかと言っているのです。空の鳥を見よ、野のユリを見よ、神はちゃんと養っているのです。人間は、鳥や野のユリよりもはるかに優れたものだから、食べさせないはずがないのです。こういうことは分かり切ったことです。
池の魚は勝手に大きくなるし、虫も動物も大きくなっていくのです。神はすべての動物や植物を養っているのですが、ただ人間だけが、勝手に働かなければいけないと考えているのです。動物や植物は、神の国に生きているから神が養っている。人間は神の国に生きていないから、神が養っていないのです。
人間は自分が生きていると思っているのです。自分が生きているという思想は、悪魔が造った思想です。固有名詞の人間の思想は、罪を犯した人間の思想です。
罪を犯さない人間は一人しかいません。地球にはただ一つの命があるだけです。命という点から言えば、一万人いても百万人いても一人しかいないのです。
イエスは、「汝らまず神の国と神の義を求めよ」と言っているのです。おまえたち一人ひとりが、まず神の国を求めよと言っているのです。そうすると、一人ひとりの中に、神の国があるに決まっているのです。これを見つけたらいいのです。
聖書の勉強をしていても、本当に聖書の中へ入れる人はめったにいないでしょう。自分が聖書の勉強をする人はいますが、聖書の中へ自分が入っていこうという人はほとんどいないのです。
聖書の中へ入って行く人間でなければ、神の国へは入って行けないのです。神の国と神の義が何処にあるのか。これが分かる人は入って行けるのです。
神の国と神の義を求めよとイエスが言っていますから、自分の気持ちで求めてもいいのですが、求め方が宗教観念ではだめです。人間の肉の思いで求めてもだめです。
肉の思いを捨てて、霊の思いに返って求めるのです。「肉の思いは死であるが、霊の思いは命であり、平安である」とパウロが言っています(ローマ人への手紙8・6)。肉体的に常識で生きているという思いでは、必ず地獄へ行くのです。
肉体的に生きている気持ちを認めてしまえば、必ず地獄へ行くのです。だから、肉体的に生きている気持ちを否定しなければいけないのです。否定すれば、生きているということが実は肉ではなくて、神の国と神の義であることが分かるのです。
皆様は人間として生きているからだめです。人間は死んでしまうのです。神の言(lことば)が生きるのです。肉体的に生きているという事実はないのです。肉体で生きていると思っている人間に向かって、イエスはおまえが生きている状態の中に、神の国と神の義があると言っているのです。
天地万物が存在していますが、そこにすべて神の国と神の義があるのです。例えば、目の前に菊の花があるとします。菊の花が咲いているというのは植物の構造です。これは物理的なものです。これが神の国です。国というのは構造的なものです。
人間で言えば人間の肉体構造が神の国です。国というのは構造です。地球が存在するという構造が神の国です。花が咲いていることが神の国です。地球が存在する構造、太陽が存在する構造が神の国です。
神の義というのは、その味わいです。花で言えば、美しさが神の義です。人間で言えば、生きている状態、生態が義です。肉体構造と生態と両方あります。神の国と神の義は両方共神のものです。
神の国は物理的に現われた神の御霊の働きです。神の義は道義的に現われた神の御霊の働きです。両方共に神の御霊の働きです。
目に見える形で現われているのが神の国で、目に見えない状態、働きという形で現われた場合には、神の義になります。
味とか、香りは神の義になるのです。私たちが生きているのは、物理的な条件と精神的な働きの両方があるのです。両方共神です。私たちは肉体構造的に生きている面と、精神的に感覚している面と両方あるのです。
精神的に感覚している面は神の義になるのです。肉体構造は神の国です。人間にはこの両面しかないのです。神の国と神の義を求めることになりますと、私たちの生活そのものが、神の国と神の義になってしまうのです。
私たちが飲んだり食べたりしていることが、神の国と神の義の中にいるのです。私たちは自分自身のために生きているのではない。神の国と神の義を求めるために生きているのです。
私たちは日常生活で受け取っている感覚は、すべて神からの感覚を受け取っているのです。これは肉の思いとは違うのです。
イエスは霊の思いで生きよと言っています。皆様が肉体的に生きている命のことを考えて、この世に生まれたままの状態で、この世に生まれた肉体的な感覚を持ったままの気持ちで生きていたら、必ず地獄へ行くのです。
生きているということは霊です。これが神の国と神の義です。生きているということは、神の国と神の義が働いているということです。
ところが、自分が生きていると考えている。これは神の国と神の義を、自分で踏みつけているのです。神に栄光を帰しないで、自分が生きていると思っている人は、必ず地獄へ行くのです。
この世で神を踏みつけていた人は、現世を去ったら今度は神に踏みつけられるのです。そうなるに決まっているのです。
生きているうちに神を踏みつけることをやめてください。神の国と神の義を求めて、神を崇めることをするのです。肉の思いを捨てるのです。生まれながらの気持ちを持って、そのまま生きている人は、必ず地獄へ行きます。
本当は地獄はありません。ありませんけれど、本人が地獄を勝手に造っているのです。自分の気持ちで地獄を造っているのです。
霊に従って生きないで、肉に従って生きているから、自分の地獄を自分で造っているのです。神を毎日毎日踏みつけているからです。生きているということは霊なることです。神に生かされているのです。神に生かされているという事実を認識しないで、自分が生きているのですから、神を踏みつけていることになるのです。
神を踏みつけている人は、自分の地獄を造っていることになるのです。わざわざ自分で自分の地獄を造っているのです。こういうばかなことを今の教育がしているのです。
学校教育は自分の生活のことだけを教えています。自分の生活のことだけを考えるというのは、自分の地獄を造っていることになるのです。
自分が生きている。自分の権利があると考える。その結果、神の権益を無視しているのです。神が人間を生かしている基本的な条件を全く無視して、自分が生きていると考えている。こういう人は神に永遠に踏みつけられることになる。これが地獄の恐ろしさです。これをよく考えて頂きたいのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)