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神の国に毎日入る

皆様は真面目に聖書を勉強しようという気持ちはありますけれど、まだ精神年齢が思春期になっていないのです。

まず思春期にならないといけないのです。皆様は肉的には思春期を経験しているのですから、それを霊的に活用したらいいのです。

神は人間に、先に肉的に思春期を経験させているのです。それは、霊的に活用するために経験させているのです。

 聖書を勉強してキリストの信仰によって自分を見るというのは、精神年齢の問題です。恋愛をすると、相手方のご都合を聞いて相手の立場に立って、自分を見ることができるのです。特に女の人はそれができるのです。

 男の人を愛している場合には、男の人の都合を聞いて女の立場に立っているのです。これが女の特徴です。女の恋愛はこれが特徴です。

 男の恋愛は自主的で幼稚なものです。女の恋愛の方がずっと上です。男はダダをこねているようなものです。

 テレビのドラマを見ていても分かりますが、男の恋愛は実に単純です。男は自分の気持ちだけしか考えていませんが、女の人は男の気持ちを十分考えているのです。

 日本とアメリカの民主主義は違いますし、日本人の精神年齢が低いと言われるのも理由があるのです。

 皆様は精神的にもっと大人になって頂きたいのです。精神的に大人になっていないのです。

 神を信じるというのは、自分が女として神に接するのであって、女として神に接する場合は、恋愛感情しかないのです。

 相手は絶対者ですから、絶対者に接する場合には、女として接するしかないのです。女として接しようと思うと、男の精神年齢ではだめです。女の精神年齢でないといけないのです。大人になって見るのです。

 人間の霊魂というのは、神なくしてあり得ないという原則があるのです。これをはっきり理解すると霊魂が大人になるのです。そうすると、自分の都合を言わなくなるのです。神に従うこと、聖書を信じて生きることが当たり前になるのです。

 人間の霊魂は神に恋するしかないのです。神に恋することができない霊魂、神を信じるのは嫌だとか、神を知らないという人は、精神年齢が幼稚なのです。その人は、肉の思いから抜け出すことができないのですから、地獄へ行くしかないのです。

 地獄行くのが嫌なら、肉の思いから抜け出すしかないのです。肉の思いから抜け出すことができない。抜け出す方法が分からないという人は、精神年齢が幼稚だからです。

 日本人には社会的に訓練ができていない人が多いので、精神年齢が幼いのです。だから、神が分からないのです。

 聖書を信じるというのは、人間の精神が発酵して精神が開化するような形になって、神に向かって花を開くような形にならないと、肉の思いから霊の思いへ移動することができないのです。

 皆様は肉の思いが強すぎるのです。精神年齢が幼稚だということは、肉の思いが強いということです。自分の思いにこだわっているのです。自分の肉の思いにこだわっていると、物の考え方が幼稚で小さく固まってしまうのです。アメリカ式に大きく広げることができないのです。

 肉の思いは死であると知っていながら、自分の世界観からなかなか出ることができないのです。皆様は肉の世界観が強すぎるのです。常識で考える癖がついているからです。

 アダムが自分の妻をエバと名付けたのですが、これが大変悪かったのです。エバと名付けたからエバになってしまったのです。

 エバと名付けるというのは、女をセックスの対象にしたということです。セックスの対象とするというのは、見方が低いのです。レベルが低いのです。

 女を性の対象としてはいけないのです。女は霊の対象であるべきです。肉の対象としたからエバと名付けたのです。エバと名付けたから抱く相手になったのです。

 性というのは肉体的な問題とは違うのです。霊の問題です。女はアダムのあばら骨の一本で造られたのです。

 アダムはあばら骨の一本を抜かれて、そこを肉で埋められたのです(創世記2・1)。よほどの人間でないとこの意味が分からないのです。

 女を性の対象だと考えている人間は結局だめです。女をセックスの対象と考えている人はだめです。女を抱いてもいいのです。しかし、性の対象とは違うのです。霊の対象です。

 霊の対象ということは、性の対象を含んでいるけれど、性だけとは違うのです。霊の対象です。

 女を性の対象として見ていないという人がいますが、それなら女をどう見ているのかと言いたいのです。性はありますけれど、今の人間は性にこだわりすぎているのです。

 男から見て女の性というのは非常に強い誘惑です。強いというよりも、ほとんど絶対というほどの誘惑です。なぜ女はこんなに強く引きつける力を持っているのかと言いますと、性ではないからです。

 女というものは一体何なのか。女を正当に解釈する、女を霊的に解釈することができるのだろうか。できなければならないのです。できなければならないのですが、これができる人がめったにいないのです。

 性を人間の性と解釈したらだめです。人間の性とは違うのです。だから、強すぎるような感覚を持たされているのです。人間の性とは違うから、強すぎるような感覚を持たされているのです。

 女の魅力はセックスと違うのです。セックスではない別の魅力を持たされているのです。

 アダムが自分の妻をエバと名付けた。これは若い人間がすることです。精神年齢が成熟していない人がすることです。精神年齢が成熟すると、エバとは名付けないのです。こういう幼稚なことはしないのです。

 女に対する魅力は性ではないのです。神が人間に対する魅力を男が感じているのです。その感覚を男は女に対して持っているのです。これが霊の対象という意味です。

 女は性の対象ではなくて霊の対象です。これが分からないのです。男は霊の対象という意味が分からないのです。

 今の皆様は信仰的に幼稚です。神の恋愛の対象になるくらいの人間になってもらいたいのです。普通の男と女の関係ではない、別の関係になってしまうのです。そうすると、霊が一つになってしまうのです。

 イエスは三十二、三歳で、日の老いたる者となったのですから、皆様もそうなれるのです。精神年齢の問題です。人間の足を洗って神の子になればいいのです。生ける神の子になるのです。そうすると、なぜ女が好きになるのかという理由が分かるのです。

 神が人の霊魂を愛している。その愛が人間に移っている。そこで、男は女に強烈な魅力を感じるのです。

 神から人間を見るとどう見えるのか。「我々のかたちに、我々にかたどって人を造り」とあるのです(同1・26)。人間は神そっくりに造られているのです。人間の理性、人格の働きは神そっくりです。神そっくりの人格や理性を持っていながら、神が分からないというばかなことがあるはずがないのです。

 神は純粋の霊です。人間は肉を持っているのです。肉を持っているのに、純粋の神にかたどりて神のかたちのように、神に造られている。神そっくりでありながら、肉体を持っているために神が分からないのです。

 そこで、肉体を持っているという肉の思いから解脱して、精神年齢が大人になればいいのです。肉の思いというのは幼稚な思いです。若い時の恋愛みたいなものです。肉だけしか考えていないのです。

 年をとってくると、恋愛の値打ちが変わってくるのです。恋愛が成熟してくるのです。成熟してくると肉体的なものではない、もっと高いレベルの恋愛になってくるのです。そうすると、肉の思いではない感覚が分かってくるのです。

 性というのは一番大きい問題です。肉の思いで性を見ているのは、精神年齢が幼稚なのです。幼稚な状態から成長して霊に従って霊を見ることになりますと、世界観が変わってしまうのです。物の見方が変わるのです。性に対する見方が変わるのです。女を見る見方が変わってしまうのです。

 女だけではなくて金銭に対する見方でも、物に対する見方でも、見方が違ってしまうのです。肉ではなくて霊になるのです。霊で見るようになるのです。これが精神年齢が大人になった状態です。

 いつまでも精神年齢が幼い状態では、皆様には聖書が本当に分かりません。キリストにおいて自分を見る、イエス・キリストの信仰で神を信じることができません。

 イエス・キリストの信仰で神を見るというのは、自分の信仰で自分を見るのではありません。自分の信仰で神を信じるというのは、自分の世界観で見ているのです。自分の物の見方で生きているのです。これをやめなければいけないのです。

 アダムは妻をエバと名付けたのです。自分の見方で名付けているのです。自分の見方で名付けてエバになったのです。これが良くないのです。

 神の見方で女を名付けなければいけなかった。アダムは善悪を知る木の実から取って食べた。そして、自分の見方ができたのです。この見方で女を名付けたのです。

 人間の立場で神のような判断をするからいけないのです。肉体を持っている人間の立場で、霊である全能者のような判断を下すからいけないのです。だから、悪魔になってしまうのです。

 物の見方を変えなければいけないのです。物の見方が幼稚な間は精神年齢がいつまでも幼稚です。精神年齢が成長すれば物の見方が変わっていくのです。

 精神年齢が成長するということは、肉の見方がなくなって、霊の見方に立ってしまうことです。子供の見方ではなくて、大人の見方になるのです。こういうように変わってしまうのです。これが皆様自身にできなければいけないのです。

 私たちは生きているうちに、精神的に本当に大人になってしまうのです。霊に従って見る人間になってしまうのです。そうすると、世界観が自然に変わってしまうのです。

 一番大きく変わるのは、男の人の女に対する見方が変わってしまうことです。金銭に対する見方も、物質に対する見方も全部変わってしまうのです。

 物の見方が変わってしまうのです。そうでないと、この世を出てしまうことができないのです。この世の人間と、この世を出た人間とでは物の見方が違うのです。

 この世で肉の思いで生きている人と、霊の思いで生きている人と両方いるのです。この世で生きている状態で、霊の思いで生きることになれば、神の思いと同じ思いになれるのです。そうなってしまうことを自分で念願するのです。

 毎日念願して、霊の思いで生きることを実演するのです。実際にそう生きるのです。そういう心掛けを持っていないと、聖書の勉強をいくらしてもだめです。世界観が変わっていなければいけないのです。

 そうしないと、聖書の勉強というのが空になってしまうのです。聖書の勉強をしていながら、それが命になっていないからです。

 聖書を自分の命にするためには、世界観を実演しないとだめです。いくら聖書の勉強を熱心にしていても、物の見方が変えられない人は、結果信仰から落ちてしまうことになるのです。

 聖書の勉強をとても熱心にしている人がいました。家族も親戚も皆キリスト教信者でした。しかし、結局キリスト教の見方から出ることができませんでした。私がいうことが思想であって、信仰だとは思えなかったのです。その人の考えはどこまでも宗教観念であって、キリスト教信仰から出なさいと何回言っても分からなかったのです。

 アダムのエバの名付け方が間違っていたのです。アダムは自分の思いでエバと名付けたのです。神の場に立って名付けなければいけなかったのです。

 神はどう名付けるのか。神がどう見ているのか。これが問題です。神が見ている見方を、そのまま自分の見方にしなければいけないのです。

 人間は自分の見方がしっかりあるのです。いくら真面目な人で信用ができる人であっても、神の子になっていないからいけないのです。どこまでも人間の見方を変えないのです。こういう人はいつまでたっても精神的な大人になれないのです。精神的に大人になるためには、物の見方が変わらなければいけないのです。

 分かった分かったと頭でそう思う。思想的に分かっただけではいけないのです。頭で分かったというのは宗教観念の段階です。

 ヨハネはイエスをこう解釈した。パウロはイエスをこう解釈したと考える。これがキリスト教の高等批判です。ヨハネの解釈とパウロの解釈とは違うと考える。これはキリスト教の批判です。ヨハネはキリストを解釈していたのではない。キリストを信じていたのです。

 ヨハネとパウロは個性が違いますから、信じ方が違っていたのですが、イエスが主であることをそのまま実行していたのです。宗教ではなかったのです。

 ところが、神学ではヨハネはイエスをヨハネの立場で解釈していたと考えるのです。ヨハネとパウロとでは解釈が違うと説明するのです。これが高等批判の間違いです。これが批判神学の欠点です。

 皆様は頭は切れないし、素直ではない。片意地です。私のいう言葉の中に入ってしまえば、私と同じ信仰になれるのです。私の思想の中に入り込んでしまわなければいけないのです。

 聖書に対する見方だけを変えようとしてもだめです。自分の思想の根本が変わらなければいけないのです。物の見方を変えずに、聖書の見方だけを変えても宗教観念になるだけです。やはり元のままの自分がいて、その自分が聖書を見ているのです。

 自分は神のものだと言いながら、自分がしっかりいるからだめです。

 自分が生きているということが神の御名に調和していなかったらだめです。神の中に解けてしまっていなかったらだめです。

 自分自身の物の見方、考え方があったのでは、神の中に解け込んでしまうことはできないのです。自分の見方がある。自分の命があったのではいけないのです。自分の命がなくならなければいけないのです。

 私たちはただ神を経験しているだけです。神に生かされているだけです。神を経験させられているだけであって、自分がいるのではない。自分がいてもしょうがないのです。

 神を経験するための自分がいるのです。自分という格好で神の子がいるのです。これが分かるためには世界観が変わらなければいけない。自分の物の見方がなくならなければならないのです。

 自分が生きているということがなくなってしまわなければいけないのです。自分は経験するものです。経験者は自分の命があることを意味しないのです。神の命を経験しているだけです。自分の命があるのではないのです。

 毎日自分が生きているという場において、自分がどのように神の中に解け込んでいるのかということを、証できるかどうかです。

 神の中に解け込んでいる自分を見ていなかったらいけないのです。神の中に解け込んでいる自分が分からなければいけない。これが世界観の変更です。

 生かされているということが解け込んでいることです。地球があることが霊ですから、地球の上で生きているのは皆霊です。これは一般論として言えることであって、これが自分で分かっていなければいけないのです。自分でそのように認識できなければいけないのです。

 自分という人間がいると思っている人は、実は死んでいるのです。自分が地球の上にいて、自分が地球を利用していると思っている人は、死んでいるのです。自分の立場で考えているからです。

 一番確かなことは、エホバという神の名前に対して、イエスという生ける神の子の名前があるということです。父なる神の名前がエホバです。子なる人の名前がイエスです。エホバとイエスの名前がきちっと一つになっているのです。これが信仰の基準になっているのです。

 エホバとはありてあるという名前です。イエスはありてあることが救いである、エホバという名前が救いになっていると意味です。

 エホバという名前がそのまま救いになっているのです。エホバが救いになっていることがイエスの名前です。エホバとイエスの二つの名前がきちっと理解できていて、自分がそのようになっていたらいいのです。

 これがキリスト教にはないのです。まずエホバが分からなければイエスは分かりません。エホバが自分の救いになっているのですから、エホバが分からないようではイエスは分かりません。

 エホバを生きること、エホバという名前を生きることです。エホバの名前の中に、自分の命が入ってしまっていることが実感できるという感覚でなかったらだめです。

 また、男の場合は女をどう見るかです。アダムがエバと名付けたのは、エホバを知らない人間の名付け方をしたのです。エホバを信じていないアダムが、自分の妻をエバと名付けたのです。自分の妻をエバと名付けた時に、セックスが始まったのです。

 セックスという感覚で女を見たら、間違っているに決まっているのです。それなら、セックスという感覚で女を見ないとしたら、どう見たらいいのか。どのように見たらいいのか。

 セックスはアダムがエバを見た感覚です。エバは肉体の女を指しているのです。すべての生き物の母というのは、肉体の女を指しているのです。

 肉体の女は本当の女ではありません。肉の思いで見た女です。肉の思いで見ない女はどう見たらいいかです。

 エホバの御名の中に自分自身が解け込んでしまおうと思ったら、物の見方が変わらなければいけないのです。物の見方が変わらないままの状態で、分かった分かったと言っても全く分かっていないのです。

 分かっていないことが悪いのではなくて、分かっていないことに気付いていないことが悪いのです。

 女があることをどのように見たらいいのか。物があるということをどのように見たらいいのか。自分の信仰の欠点に気が付いて、これを御霊に質問するのです。そうしたら、成長があるのです。聖書の勉強会に出席するたびごとに、魂の成長があるような出方をして頂きたいのです。ただ出席したらいいというのではないのです。

 自分の信仰の欠点は自分で考えなければいけないのです。人に考えてもらおうという無責任な考えがいけないのです。

 自分が生きているという生き方が、霊的にはっきり変わらなければいけないのです。エホバの御名を信じ、エホバの御名を崇めるということが、そのまま生きているという実体にならなければいけないのです。そうでなければ、信仰とは言えないのです。

 自分が生きていたらいけないのです。エホバの御名を経験するのです。これが自分が生きていることです。

 神が万物を造ったのは目的があるのです。霊魂にならなければ、神が万物を造っただけでは霊なる言葉にはならないのです。

 神は万物を造った。人間は神が造った万物を人間自身の五官によって、見たり、聞いたり、食べたりしている。これによって人間は神と触れ合っているのです。神が造った万物と、人間の霊魂が触れ合っているということが、霊なる言葉になっているのです。

 霊なる言葉が神の国を造っているのです。これをイエスは神の国と呼んでいるのです。神と人間の霊魂との係わり、父と人間の霊魂が触れ合っているから、神の国を生んでいるのです。

 これは新に生まれなければ分からないのです。ただぽかんと生きていたのでは、現在神の国を造っていながら自分自身で分からないのです。そこで、「新に生まれなければ神の国を見ることができない」と、イエスが言っているのです(ヨハネによる福音書3・3)。

 「水と霊とによって新に生まれて神の国に入りなさい」と、言っているのです(同3・5)。

 新に生まれて神の国を見るというのは、三章三節で言っているのです。三章五節では神の国に入りなさいと言っているのです。

 神の国を見たり入ったりすることが、聖書を勉強する目的です。聖書を信仰していると言いながら神の国を見ていなければ、また、神の国に入っていなければ、聖書を信仰しているとは言えないのです。

 私たちは人生を経験しているのですが、経験ということが神の国を生み出していることになるのです。キリスト教はこれが全く分かりません。生ける神を知らないからです。だから、自分の魂が生きていないのです。

 神の国に入ることが非常に重要なポイントです。私たちは実際に生きている場合において、聖書の言葉をこなしていなければならないのです。

 私たちの生活の中に神の国があるのです。

 人間の霊魂は、神にかたどりて神のかたちのように造られているのですから、私たちの霊魂は、神の実物を目の当たりに見ることができるはずです。

 神にかたどりて神のかたちのように造られているのが人間の霊魂ですから、神の国、神の実物が分からなければならないはずです。

 ペテロは次のように述べています。

 「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの父なる神。神はその豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中から甦らせ、それにより、私たちを新に生まれさせて生ける望みを抱かせ、あなたがたのために天に蓄えてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである」(ペテロの第一の手紙1・3、4)。

 天に蓄えてある、朽ちず、汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者となるためには、神の国に入らなければならないのです。

 私たちは何かを食べている時には、現実に神の国に入っているのです。食事をしていることが、神の国に入っているのだということを経験している者は、その経験を積んでいくのです。

 五年、十年とその経験を積んだら、この世を去って神の国に入っていくのです。そうなるために、聖書の勉強をしているのです。

 普通の家庭生活はありません。人間の生活は神の国に決まっているのです。信じても信じなくてもそうなっているのです。

 常識で生きているということがいけないのです。認識で生きるのです。生きているという気持ちが常識的であってはいけないのです。神の国にいるという感覚をいつも持っていることです。

 生きていることは、神の御霊と人間の霊魂が触れ合っていることです。神の御霊と人間の霊魂が触れ合っていなければ、生きているとは言わないのです。

 人間の霊魂が生きていることが、神の御霊に触れ合っていることです。これが神の国です。生活していることは、現実に神の国を経験しているのです。経験していながらそれを認めない。神の御霊を崇めずに、知らん顔をしているのですから、心臓が止まったら真っ暗な所へ放り込まれてしまうのです。

 心の内に光がなければ、その闇はどんなであろうとなるのです。この世から出てしまうことになると、神との交わりがなくなるから、その闇がどんなであろうとなるのです。何処へ行くのかさっぱり分からないのです。

 人生を終えてしまうと神の国がなくなるのですから、何のために何十年も生きていたのか分からなくなってしまう。そこで、うろうろ、うろうろすることになるのです。

 やがて、地球の歴史が終わってしまう。そして、地獄が始まるのです。生きていると、千年王国が来ますから、千年もあるのですけれど、死んだ後は短いです。うろうろしている間に、あっという間に過ぎてしまうからです。

 現実に生きているということが神の国です。この結構な神の国を現実に見ていながら分からない。お茶を飲んだり、お菓子を食べたりしていることが神の国です。

 これを現実に経験していながら分からない。自分が生きていると思うから分からないのです。常識で生活しているから神の国が分からないのです。常識をやめて霊の思いで生きているなら、生きていることがそのまま神の国であることが分かるのです。

 生きている時には、おいしいとか、美しいとか、すばらしいとかを経験しているに決まっているのです。五官を通して何かを経験しているのです。つまり、神の国を経験しているのです。

 生きていたら、そこに神の国があるに決まっているのです。それを経験していながら、神の国が分からないのです。

 本を読んでいることが神の国を経験していることです。人と話をしていることが神の国を経験していることです。食べていることが神の国です。

 神のかたちのように造られた人間が生きていることが、そのまま神の国を経験しているのです。

 神の国を経験しているということは、新に生まれるということを経験したら分かるのです。分かったら神の国に入ってしまったらいいのです。

 神の国に入り続けるのです。毎日入り続けていたら、現世を去っても神の国にいるのです。

 生きていることが神の国の経験です。楽しいとか、気持ちがいいとか、嬉しいとかいう経験をしていることが神の国ですから、入ったらいいのです。

 現実を目の前において神を喜ぶという経験を積んでいなければ、この世を去ってもなお神を喜び続けることはできないのです。

 だからこの世に生きているうちに、何をしていても神の国の経験なのだということを認識するのです。

 お風呂に入って、ああいい湯だなあとリラックスする気持ち、まんじゅうを食べて、ああおいしいなあという気持ち、新米の炊き立てを食べて、ああおいしいという気持ちは神の国ですから、神の国は朝から晩まであるのです。

 それを神の国として捉えていけば、瞬間、瞬間が神の国です。こういう捉え方をしていれば、霊魂が神の光の内を歩んでいるのです。

 イエスは言っています。

 「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さはどんなであろう」(マタイによる福音書6・22、23)。

 現実に生きている場において、瞬間、瞬間、神の国を歩んでいれば、霊魂が神の光の内を歩んでいるから、この世を去っても光の内に歩むことができるのです。

 こういう生き方をしていると、般若心経でいう色蘊が神の国になってしまうのです。肉で見ていると色蘊になるのですが、霊で見ると、見ているものが神の国になるのです。常識で見るのと、霊識で見るのとでは世界が全く違ってしまうのです。

 肉の思いは死です。霊の思いは命です。同じ生きていても、肉の思いで生きていたら死んでいるのです。霊の思いで生きていたら命になっているのです。

 霊の思いで生きていたらいいのです。もし分からなかったら、とことん分かるまで御霊に質問したらいいのです。

 生きているというのは不思議なことを経験しているのです。人間の側から言えば、生かされているということです。生かされていることは神を経験していることです。

 味とか、形とか、色とか、香り、栄養というのは、すべて神の言葉によってできているのです。「もろもろの世界は神の言葉によってできている」とありますが(へブル人への手紙11・3)、聖書の勉強をしなくても、見たり聞いたりしていることが、神の言葉の世界だけを経験しているのです。

 色の世界とか味の世界とかいうものは、神の言葉の世界です。味とは何かというと、神の言葉が働いて味を造っているのです。色もまた、神の言葉が働いて色になっているのです。

 味とか色とか香りという不思議な霊なることを経験しているのですから、信仰が当然持てるはずです。砂糖をなめて甘いということを実感することが信仰です。

 砂糖は人間が造ったものとは違います。天然のものです。天然の味を人間の舌がなめて甘いと思うのはどういうことなのか。宇宙の法則を人間の舌が味わい分けているのです。これが霊なることです。これが信仰です。

 砂糖をなめて甘いと感じることが信仰です。霊の世界のことを経験しなければ生活はできません。霊のことは、私たちが生まれる前に経験してきているのです。生まれる前に経験しているから、甘いとか辛いという先天的な認識があるのです。

 赤ん坊は生まれた時から味を知っているのです。皆様は生まれる前の世界を経験しているのです。それを、現世でもう一度肉体的に経験しているのです。

 生まれる前に霊で経験したことを、現世では肉で経験しているのです。そこで、肉を脱ぎ捨てて本当の霊に帰るのです。霊に帰りさえすれば救われるのです。

 信仰は霊なることというのは当たり前のことです。砂糖は甘いということは、前世での経験を現世で実演しているのです。

 現世でそのことが分かるということは、前世で経験しているから分かるのです。そこで、現世で肉の思いを脱ぎ捨てて、霊の思いに帰るのです。そうすると、死なない世界に入れるのです。これを神の国に入ると言っているのです。

 現世で霊の思いで生きることができれば、死なない国に入れるのです。人間が生活しているのは、神の国を経験しているのです。飲んだり食べたりしていることは、神の国を経験しているのです。

 人間の五官の働きはすべて神の国の経験です。本当に選ばれた人は、前世の経験がはっきりしているのです。前世の経験のことを言われると、すぐに分かるのです。

 選ばれていない人は、前世のことを言われても全く分かりません。選ばれているか選ばれていないかは、ここで見分けができるのです。

 選ばれている人は前世のことを聞くとすぐに分かるのです。選ばれていない人は前世のことを聞いていても全く分からないのです。

 前世がはっきり分からない人は来世がはっきり見えないのです。人間の命は前世と現世と来世の三つを総合して生涯というのです。現世に生きているだけが人生ではないのです。

 前世がなかったら、おいしいとかおいしくないとかいう判断ができないのです。男と女のことを勉強しなくても誰でも知っているのです。前世で習ったから知っているのです。

 前世で一度経験したことを現世で復習しているのです。前世で間違えたことを今世で直すのです。間違わないようにして来世に移るのです。今世で間違ったことを間違ったままにしている人間は、地獄へ行くのです。

 本来、地獄はありませんけれど、自分で勝手に地獄を造るのです。神の国に入らないで、真っ暗な世界を自分で勝手に造っているのです。ばかなことをしているのです。

 人間は生きているということを通して、霊魂と神とが交わっているのですから、そこに、神の国があるに決まっているのです。

 人間は一人の人格の形で前世を経験したのです。それを多くの人という形で現世を送っているのです。これが分からないのです。

 一人の形で前世を送った。これがアダムです。その時に、五官のあり方を習得していたのです。前世のあり方は一人であって、これがとこしえの命であったので、長い間、神を経験していたのです。しかも、神のそばで神を経験していたのです。

 人間の五官の働きは万人共通の感覚です。万人共通ということは、一人の人格として経験していたという証明になるのです。この意味で、アダムとエバの記録は正しいのです。

 これを信じない人は信じなくてもいいのです。人間は神のそばで神と一緒に生きていたのに、善悪を知る木の実を取って食べたのです。

 神と一緒に生きていた者は、自分で考えてはいけないのです。神と一緒にいるという条件で考えなければいけないのです。

 ところが、アダムは神と一緒にいると考えないで、自分で勝手に考えようとしたのです。これが善悪を知る木の実を食べたということです。これはしてはいけないことです。

 生きているということが神ですから、神のそばで神と一緒にいたので、人間の五官を真っ向から知っているのです。これが五官の感覚です。非常に正確な感覚です。

 それを、神を裏切って自分で考えたのです。神と一緒にいた時の感覚が、人間の脳細胞として植えられている神の言葉です。百四十億と言われる脳細胞の中に植えられているのです。

 人間は個我がないのに、それを勝手に造ったのです。個我を造ったために、人間の人格が分裂したのです。これが二○一九年現在で七十六億人にもなっているのですが、本来は一人です。だから、五官の感覚は全部同じです。

 これを聖書は、「一人の人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせた」と書いているのです(使徒行伝17・26)。

 一つの血しかないのです。一人の人からすべての人を造ったのです。

 今の人間は神の尊さ、神の有難さが全く分かっていないのです。命を求めるのです。今の人間は命を求めることをしない。全くしないから、神が与えないのです。神の国に入ることができないのです。

 人間は一人の人格において神のそばにいたのです。そのために、驚くべき理性を与えられたのです。驚くべき神の言葉を、そのまま人間に植えられたのです。

 だから、人間は色々な味が分かるし、色々な色が分かるのです。味とか色というのは、神の言葉の世界です。これが分かるのです。

 人間としての色々な感情を持っているのですが、その不思議さが全く分かっていないのです。

 人間は神の国の実体を掴まえなければいけないのです。

 現在、人間が生きていることが不思議なことだと思わないのでしょうか。生きていたい、死にたくないということは誰でも思っています。その思い方が問題です。

 人間の霊魂と神の御霊が現実に触れ合っているのです。これが生きていることです。こんな有難いことを経験していながら、なぜ気が付かないのかと言いたいのです。

 天地の造り主なる神の御霊というお方が、人間と触れ合っているのです。天地を造ったのは父なる神ですが、造られた状態が保たれつつあるのは神の御霊です。保たれつつある状態と私たちとは触れ合っているのです。これを生きているというのです。

 生きているということは、おごそかなこと、すばらしいこと、有難いことを経験していることです。今私たちが生きているという事がらが広がっているのですが、これが神の国です。

 人間に人格があることが、前世で神のそばにいた証拠になっているのです。百四十億の脳細胞がどうして生まれたのか。百四十億というのは七十億が二つあるのです。七十億というのは完全数です。

 霊の完全の七十億と、肉の完全の七十億の両方があるのです。合計で百四十億になっているのです。神の懐にいたのですから、霊の完全と肉の完全の両方を経験しているのです。だから、甘い、辛いが分かるのです。

 甘い、辛いが分かるだけでも、人間の命のすばらしさが分かるのです。神はあらゆる現前において、自分を現わしておいでになるのです。

 あらゆる現前が現実です。あらゆる現実において、神が自分を現わしているのです。現実において神を掴まえなければ、神を掴まえようがないのです。

 現実で神を掴まえるのです。人間は一人の魂の状態で、神のかたわらで生きていた。その時に、色々と仕組まれ、訓練されて、神にかたどりて神のかたちのように造られた。それが、神から離れて、自分自身で善悪を考え始めたのです。

 自分自身で自分自身の善悪を考えるということによって、考えが分裂するのです。そこで、一人の人格が千々万々に分裂したのです。これが現在の七十六億の人間になっているのです。

 今の人間の考えは、粉々に分裂してしまっているのです。そこで、一人の人に統合できなくなっているのです。一人の人から多くの人を造ったと書いてありますが、造ったよりも分裂してしまったのです。分裂した人が世界中に散らばったのです。

 分裂した結果、一人ひとりがばらばらの人生観を持つようになったので、地獄を造ったのです。ばらばらの人生観がそのまま地獄の実体になるのです。自分で勝手に自分の世界を造っていることが、地獄になるのです。

 皆様は聖書を勉強したいという気持ちはありますが、常日頃から御霊を崇めていないために、聖書の言葉の大きさ、深さが分からないのです。また、驚きを感じないのです。聖書の言葉の値打ちが分からないのです。

 自分自身の小さな世界を持っているのです。これが気の毒なことです。自分の世界を持っていることが、地獄を持っているということです。

 自分自身の世界を持っていたらだめです。一人の人格が多くの人格に分裂した。これは一つの世界が多くの世界に分裂したことを意味するのです。

 一億の人間がいれば一億の世界があるのです。七十六億の人間がいれば七十六億の世界があるのです。各々の自我意識、自己主張によって造られた世界があるのです。これが地獄になるのです。

 今の教育は政治、経済に基づいて教えているのです。政治、経済に役に立つ人間を造っているのです。霊の世界のことは一切教えません。肉の世界ばかりを教えているのです。

 政治、経済は肉の世界であって、目的を持っていません。ばらばらの世界であって、統一されないのです。目的を持っていない世界だからです。

 生きていながら命に驚きがないのです。現世に生まれたからしょうがないから生きているだけです。命の目的という聖なる感覚がないのです。神と人間の霊魂の触れ合いということを全く知らないのです。ただぽかんとして生きているのです。

 人間文明はやがて根底から潰れてしまうでしょう。アラブとイスラエルの果てしない争いが、結局、世界全体を滅ぼすことになるでしょう。核兵器がどんどん拡散して、結局、核戦争が起きることになっていくのです。従って、文明は根本的に滅びることになるのです。

 今の文明がだらだらと続いてもしょうがない。私たちはこの文明が滅びるように祈るべきです。ユダヤ人が肉の世界から離れるように祈るべきです。ユダヤ人が肉の世界から離れるということは、肉の文明が滅びるということになるのです。白人が肉の世界を見切ってしまうことです。白人の政治、経済が、がたがたになることを祈るのです。これがキリストの再臨を早くするからです。

 現代文明は白人文明です。白人文明が神に逆らっているのです。ユダヤ人の神に対する反抗が、白人文明に現われているのです。白人文明の欠点は、ユダヤ人の欠点がそのまま現われたものです。

 白人文明の欠点が、キリスト教の欠点になっているのです。キリスト教の欠点が、現代文明を滅ぼす原因になっているのです。

 キリスト教が現代文明を滅ぼすと言っても間違いがないのです。それくらいキリスト教は間違っているのです。

 白人文明が根底から潰れてしまわなければ、ユダヤ人は悔い改めないでしょう。白人文明がある間は、まだユダヤ人は文明によって活躍できると考えています。神の厄介にならなくても、文明によって自分たちの力が発揮できると考えています。

 神が人間の運命を潰すように働き始めると、白人もキリスト教も震え上がるでしょう。キリスト教が震え上がらなければだめですから。

 人間文明が根底から崩壊してしまわなければ、神の国は来ないからです。

 私たちがユダヤ人のために祈るというのは、文明の崩壊を祈っているのです。文明が潰れるように祈っているのです。私たちは恐ろしい祈りをしているのです。

 文明を造っているのはユダヤ人です。そして、白人です。白人が威張っている間は、キリスト教の間違いは分かりません。イエス・キリストは再臨しないのです。

 イエス・キリストに再臨してもらおうと思ったら、キリスト教の間違いがはっきり分からなければだめです。キリストの御名が分からないから、キリスト教は間違っているのです。

 人間の魂は感受性が大変敏感です。感受性が鈍い人間は頭が良くてもだめです。神の御霊を崇めて、神の御霊によって生きることをしようと思えば、また、神の国へ入ろうと思えば、感受性が敏感でなければいけないのです。

 これは自分で訓練すればできるのです。しようと思えばできるのです。だから、私は信仰は恋愛だと言っているのです。

 恋愛は感受性がなかったらできません。ぽかんとしていて恋愛ができるのでしょうか。感受性がなかったらいけないのです。

 生きていることに無限の情熱を感じなかったら、信仰ではないのです。神を喜ぶという言葉が聖書にありますが、これを言っているのです。神の御名を喜ぶのですから、敏感な感覚でなかったらいけないのです。

 信仰は恋愛です。こういう感覚を持たなければいけないのです。

 個人の意識を離れて、神の国の中へどんどん入って行くのです。遠慮する必要は全くありません。生きているということが神と交わっていることですから、この中へ入って行ったらいいのです。そうしたら、神の恵みから落ちることはないのです。

 生きているということがある以上、これが神と交わっていることですから、これを掴まえてこの中へ入って行ったらいいのです。

 霊魂が燃えないと神の国に入って行けないのです。燃えるということが一つの秘訣です。必要要件になるのです。ぽかんとしているとだめです。

 霊魂は生まれてくる前に神の懐にいたのですから、七十億の霊の脳細胞があるのです。また、七十億の肉の脳細胞があるのです。合計で百四十億の脳細胞があるのです。これを用いなければいけないのです。用いなければ情熱的に神に接することができないのです。

 神の御霊を崇めるというのは、神が人間に感情を与えているように、情熱的に神に顔を向けないと、御霊を注視することができにくいのです。神の御霊に注目しなければ、御霊を崇めることはできません。そのためには、情熱が必要です。

 聖書の字句を分解したり、認識する場合には冷静さが必要です。信じることになると、情熱がいるのです。勇気があれば情熱が湧いてくるのです。勇気がないと情熱になりません。

 分かったら信じようと思っていますと、ぽかんとしてしまうのです。信じるためにはどうしても情熱がいるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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