聖書の勉強というのは、普通の生活感覚、生活態度のままでしなければいけないのです。普通の家庭生活が、そのまま聖書の勉強になっているという勉強の仕方でなかったら、神の勉強になっていないのです。
イエスがサマリアの女に水をもらった時に伝道していますが、そういう伝道でいいのです(ヨハネによる福音書4・1~26)。宗教活動のような格好をできるだけ取らないことです。
人々との対話という形式をできるだけ取ることです。生活が聖書化するのであって、聖書そのものを生活にしてしまうのです。
ユダヤ人は人間の生活をやめて宗教観念にしてしまったのです。聖書を勉強していることも、仕事をしていることも、伝道していることも同じです。こういう気持ちでしなければいけないのです。
人間が普通に生活していることが神でなければいけないのです。社会生活、家庭生活をしていることが、神でなければいけないのです。これが聖書の信仰です。特別改まった生活をしなければならないということは絶対にないのです。特別改まるのは偽善です。
現代人は現実と真実との見分けがつかないのです。離婚するかしないかは真実の問題です。現実の都合が悪いと真実の方に持っていこうとするのです。これが間違っているのです。
現実が本当に現実としての値打ちを持とうと思えば、現実を真実として見るのでなかったら、現実の価値はないのです。
信仰は現実を真実として見るから神が分かるのです。だから、宗教ではないと言えるのです。現実を真実として見ない。現実を現実として見ているから宗教という観念が起きるのです。これは間違っているのです。現実を真実として見れば宗教は発生しないのです。こういう根本的な間違いがあるのです。
現実問題を現実問題として考えてしまうと、真実として取り扱わないことになるのです。
私たちは現実の神が真実の神だと言い切っているのです。これが宗教ではないという思想です。現実の神が真実の神です。
現代の社会教育は、現実と真実を二つに分けてしまっているのです。こうなると神はなくなってしまうのです。人間の良心がなくなるのです。人間の良心が死んでしまうのです。
イエスは言っています。
「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思い煩うな。これらのものは皆、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイによる福音書6・31~34)。
ここでイエスが普通の人間が生きている状態を指して、特別に聖書の勉強をしなさいとか、善事善行を実行しなさいとか、掟を行えとかいう条件を出していないのです。
何を食べようか、何を飲もうかと思い煩うな。これに対して、神の国と神の義を求めよと言っているのです。私たちが食べること、飲むことと、神の国とどういう関係があるのかということです。
イエスは山上の垂訓で掟を説いた箇所は一箇所もないのです。イエスは「心が貧しいものは幸いだ」と言って、「神の国と神の義を求めよ」と言っているのです。
何を飲もうと何を食べようと思い煩うなということと、神の国とがどういう関係になるかです。実は人間が飲んだり食べたりしていることが神の国なのです。イエスはこれを逆に言っているのです。
神の国と神の義を求めていない者に、神は神の国と神の義を与えているのです。飲んだり食べたりを求めていない者にも、食べ物と飲み物を与えているのです。食べ物と飲み物を与えていることが神の国です。食べ物と飲み物を与えていることが神の義です。
なぜこうなるのかが、ユダヤ人にはどうしても分からないのです。飲み物と食べ物と、神の国と神の義という大変大きい問題を、イエスは同じように説いているのです。なぜ同じになるかです。これには非常に重大な意味があるのです。
神が人間を養っていることが神の国と神の義です。だから、ご飯を食べていながら神の国と神の義を知らない者は、神を辱しめていることになるのです。ご飯を食べていること、水を飲んでいることが、神の国と神の義を経験していることです。
このことに気付かずに勝手に食べているのは、神を辱しめているのです。
エホバの御名は皆様にご飯を食べさせる御名です。なぜそうなるのかです。エホバの神は不思議なものです。人間がこの世に生きていることが不思議千万のものです。人間は何のためにこの世にいるのか。
現世に生きている人間をなぜ神が養っているのか。これを説いたら感謝感激するでしょう。日本の神はこれができないのです。日本には、神が人間を食べさせているという神観はないのです。
皆様が生きているということの中に、神の言(ことば)の光があることが分かっていないのです。聖書を勉強していながら分からない。これは神を軽んじているばかです。御霊を軽んじているばかです。これは困ったばかです。
なぜイエスは神の国と神の義を求めよと言っているのか。ご飯を食べることと、神の国とがどういう関係にあるのか。
肉体の食べ物があることが神の国です。肉体があることと、肉体の食べ物があることが神の国です。物質が存在しているのは何か。神の言が存在していることを神の国とイエスが言っているのです。
これによって命が与えられている。これをイエスは神の義と呼んでいるのです。物質がある状態を神の国と呼んでいるのです。命がある状態を神の義と呼んでいるのです。神の国と神の義を求めよと言っているのは、地球があることを指しているのです。
地球があることが神の国です。人間が生きていることを神の義と呼んでいるのです。この二つのことを突き止めなさいと言っているのです。
地球が存在することと、人間が肉体的に存在することとは同質の事がらです。これを神の国と言っているのです。地球が生きていることと、人間が生きていることは同質のことです。
物があることと、命があることとは次元的に違うのです。物があることが神の国、命があることは神の義です。これが、聖書が開かれる原点になっているのです。聖書を読破する根本原理がそうなっているのです。
肉体的に人間が存在するということは、神の国に存在させられているのです。精神的に考えるということは、神の義を与えられていることです。
求めよということについて、今までのキリスト教は全然間違っていたのです。英語でシーク(seek)という言葉を使っています。これは探すという意味です。非常に鋭い積極的な探し方を意味するのです。
シークというのは分かりやすく言いますと、手で草を分けて熱心に探すような態度を意味するのです。とことんまで原理を究明するような熱心さを意味するのです。
探偵のことをシーカーと言います。探すのは、なければならないことを知っているから探すのです。犯人がいることが決まっているから探すのです。犯人がいるかどうか分からないということではないのです。犯人を見つけなければならないし、探せば犯人が見つかるに違いないと思うから探すのです。
人間が探さなければならないように神が仕向けているのです。何を食べ、何を飲もうかということは、人間が求めなければならないように神が仕向けているのです。
何を食べ何を飲むということは、人間が求めなければならないことです。聖書の真理、とこしえの命を求めなければならないことです。
人間が生きているという不思議なこと、奇妙なことを私たちは経験しているのです。人間が生きているという全く奇妙なことを経験しているのです。
生きているということほど不思議なことはないのです。人間が生存しているということは何とも不思議なことです。私は朝から晩まで、生きているという不思議なことに詠嘆して生きているのです。
人間の五官の働きを見ていると、そのまま神の御霊の業であることがはっきりするのです。五官の働きはそのまま神の御霊の働きです。
神の国と神の義を求めるということをしたら、生きていることが不思議になってしまうのです。不思議なことを経験しているということは、このこと自体が神の命、とこしえの命を経験しているからです。
自分が生きているとしたら、生きていることが不思議だとは思わないのです。自分が生きているのではないなら、生きていることは本当に不思議なことになるのです。命の不思議さを実感しているからです。
生きているということは、大宇宙で最も貴重な事実です。最も贅沢な事実です。口で言えないくらいの貴重品です。これを二十四時間与えられているのです。
リビングという貴重な経験を許されているのです。これは一国の帝王になったことよりも貴重なことです。命の現物を無条件で経験させられている。何という素晴らしいことかと言いたいのです。
生きているということは宇宙で最も貴重な経験です。神の実体を経験しているからです。生きているという神の実体を人間が経験しているのです。これは間違いない神です。
生きていることが神の現物です。信じる必要がない神です。これがイエスが経験していた神です。
人間が生きていることがそのまま神の国と神の義です。生きていることの内容を理解すれば、これがそのまま命になるのです。
命を持っているのでしたら、明日のことを思い煩う必要がない。命を持っていないと思うから、明日のことが心配になるのです。今ここに命があることが分かっていたら、明日のことを思い煩う必要はないのです。今ここに命を持っているから、今だけで結構なのです。
明日という日はいらないのです。明日になっても今日という日があるだけです。
人間は救われる必要がないのです。神の国と神の義がここにあるからです。人間はいないからです。
人間とは何か。神が見ているのは人の子であって、一人しかいないのです。七十六億人いるというのは全くの嘘です。十人も二十人もいないのです。二人、三人と考えることも嘘です。
一人だけいるのです。生ける神の子が一人だけいるのです。一人いることはいるけれど、生ける神の子だから、実は人間はいないのです。
神の国と神の義を求めよと、イエスの方から語りかけているのです。神の国と神の義を求めるとどうなるのかというと、人間がいないことが分かるのです。何があるのかと言えば、生きているという事実があるのです。これは人間とは違うのです。
生きているという事がらはあるけれど、自分がいるのではない。生きているという事がらと、固有名詞とは関係がないのです。固有名詞の自分は死ぬに決まっているのです。生きていることは神の事がらです。今生きていることは、そのまま神の国と神の義を経験しているのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)