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  • 管理人miwa

神の国(2)

異邦人は本当に神を求めるということをしていないのです。「求めよ、そうすれば与えられるであろう」とイエスが言っていますが、イエスが求めよと言った意味が分かっていないのです。

イエスはなぜ求めよと言ったのか。異邦人は神の国と神の義を求めようとしないのです。神の方からただで与えている状態になっているのです。有難すぎて人間がばかになっているのです。

神に求めようとしないのです。有難すぎて分からなくなっているので、カトリックのような宗教ができるのです。キリスト教は皆そうなっているのです。求めるということをしていないからです。

 神の国と神の義を求めよとイエスが言っていますが、何のことか分かっていないのです。神の国と神の義が、福音の中心の柱になっているのです。この二つを求めなければならないのです。

 本当は異邦人には神の国と神の義はいらないのです。家庭と仕事とお金があれば十分なのです。ばかなものです。実際レベルが低いのです。

 キリスト教は生ける神に頼る、生ける神を信じることを忘れて、聖化、聖化と言うのですから、自分を聖化しなければならないと思うのです。こんなことができるのなら、イエスの十字架はいらないのです。神ご自身がいるということも必要ないのです。

 人間の力で聖化できるのなら、何もいらないのです。かつて、ジョン・ウェスレーの後継者たちが築いたメソジスト教会がありました。この教会では十字架をはっきり説かなかったのです。だから、十字架によって、肉が全くなくなっているということを知らなかったのです。

 現在世界中に多くのキリスト教派がありますが、十字架をはっきり説いていないのです。十字架によって肉がなくなっているということをはっきり説かないのです。

 自分自身が良くなろうという気持ちが肉なのです。これが肉の思いです。罪というのは、人を憎むとか、人を騙すとか、嘘を言うことだと思っていたのです。肉と霊が分かっていないのです。

 腹を立てるのが肉の思いだというくらいのことは分かりますが、霊になると全然分からないのです。

 霊に従いて歩むとはどういうことか、霊で食事をするとはどういうことかです。例えば、ミカンを食べるとしますと、このことが霊なのです。人間が肉体を持っていることが霊です。肉体的に生きていることが霊です。

 現世的、世俗的に見れば肉ですが、前世のことが今現われているという場に立てば、すべてが霊です。

 皆様は自分で生まれたいと思ったことはないでしょう。生まれたいと思わないのに生まれてきたのです。これは皆様の人生が自分のものではないことを示しているのです。これが霊です。この世に私たちが生まれてきたことが霊です。

 自分が生まれたいと思ったのなら肉ですけれど、自分で生まれたいと思わないのに生まれてきたのです。これが霊です。

 肉はすべて自我が中心になっているのです。人間が生きていることは自我に関係がないのです。鼻から息を出し入れしようと、自分が思っているのではない。目で見ている時も、自分が見ようとしているのではない。自然に見えるのです。

 人間が生きていることはすべて霊です。自我意識は肉です。肉は益なしです。

 人間が現世にいるから信仰になるのです。また、神がその人を助けるという神の処置があるのです。本人がいなければ救いは成立しないのです。生きていることの感謝も感激もない、単なる虚無思想になるのです。

 御名というのはあるということです。何かがある。空気がある。家がある。道路がある。あるということが神です。神のことを御名というのです。神を実体的にいうとネーム(name)になるのです。

 神のネームは何かというと、あることです。空気があること、川があること、山があること、自分の口があること、目があること、すべて何かがあることが神です。どんな小さなことでも、どんな大きなことでも、あることが神です。何かがあることが神です。

 私たちはあることの真ん中にいるのです。目があること、鼻があること、耳があることの証を生活でしているのです。あることを証することを生活というのです。

 あるということがなかったら、私たちの生活は一秒間でも成立しないのです。生理機能があること、人間があることが神ですから、私たちは神の真ん中で生活しているのです。あるということを証しなければ生きていられないのです。

 あるということの上を歩いていかなければ、あるということと一緒にいなければ、生きていられないのです。

 肉の思いがあるということは悪魔があるということです。悪魔があるということも神です。悪魔は神ではないが、悪魔があるということが神です。何でもあるということが皆神です。

 神が悪魔をあらしめているのです。悪魔の存在を許しているのです。神がなかったら悪魔もなかったのです。

 あるということがすべてのすべてです。これをよく弁えなければいけないのです。

 人間の霊魂というのは、霊のことをよく知っているのです。ところが、人間の知恵、知識は肉ですから、霊のことを知らないのです。

 人間の霊魂は、太陽が輝いていることを霊として受け止めているから、ご来光を見るとはっと思うのです。はっと思うというのは、驚いているということです。人間の霊魂は霊ですから、外側の霊を直感して驚いているのです。

 ところが、肝心の人間の方は肉ですから、いい天気だなあと言うくらいにしか感じないのです。

 はっと誰でも感じるのです。これは魂の方です。人間の方は、はっと感じることの意味が分からないのです。人間の思いは肉ですから、鈍感です。はっと感じているのが何を感じているのか分からないのです。

 皆様の霊は敏感ですけれど、人間である自分自身が霊のように敏感にならなければ、聖書が分からないのです。

 神が相手にしているのは、人間の霊であって肉ではないのです。ところが、霊がぽかんとしているのです。霊が神を褒めることはめったにないのです。肉はこれはおいしいとか美しいとかいうけれど、おいしいとはどういうことかを知らないのです。知ろうとしないのです。

 おいしいとはどういうことなのかを真面目に考えますと、おいしいということが霊なのだということが分かるはずです。

 霊とはどういうことかと言いますと、これが命であり、魂です。そうすると、おいしいと感じていることは、魂が感じているのです。肉とは違うのです。

 味を受け止めているのは魂であって、肉体ではないのです。舌で味わっていると思っているが、実は食べているのは霊魂です。魂で食べているのです。だから、味が分かるのです。味は霊です。

 本当に神を崇めるというのは、食べているのは魂で食べていると思うことです。霊魂で生活していることを自覚できる人を、神の御霊を崇めることができる人というのです。

 人間の生活は皆霊です。霊の生活をしていながら、皆肉に解釈してしまうのです。だから、皆罪になってしまうのです。

 人間のセックスがそうなのです。セックスは全く魂の行為です。魂の行為を肉の行為にしてしまっているのです。一般の人間はセックスが肉だと思い込んでいますけれど、実は霊です。

 霊魂でなかったらセックスの行為をしないのです。魂だから性行為があるのです。性行為はどこまでも霊魂の行為です。それを肉だと思い込んでいるのです。

 肉の状態で死んだら困るのです。何処へ行ったらいいのかさっぱり分からないのです。今生きているうちに、神の国が何処にあるのかをしっかり見つけて、その中に入ってしまわなければいけないのです。

 神の国と神の義を求めよと書いてありますが、本当に神の国を求めている人はめったにないのです。神の国と神の義を求めている人は、生きている時から既に神の国と神の義が分かっているのです。

 求めるというのは、シーク(seek)することです。探すのです。神の国は何処にでもありますから、探すのです。探さなければ分からないのです。

 探せばあるに決まっているのです。あるに決まっていることをイエスは言っているのです。ところが、肉の気持ちでぽかんとしていると、目の前にあっても分からないのです。

 その状態で死んだら困るのです。生きているうちは神の国が分かっている人でも分からない人でも、同じように生きています。分かっている人も分からない人も、同じような生活をしているのです。同じように見えるのです。

 生きている間はそれでもいいのですが、この世を去ったらたちまち困るのです。死んだ途端に、神の国が消えるのです。神の国は命の国ですから、命がある間は神の国はあるのです。命がなくなったら神の国は消えるのです。それから困るのです。どうしたらいいのか分からないから、ただうろうろするだけです。

 死んだら命はありませんから、神の国が欲しいと思うのです。そうなるに決まっているのです。命が欲しいから命を尋ねるのですが、命は何処にもないのです。

 生きているうちに命を掴まえている人は、死ぬということがないのです。霊の国があるのです。そこに入るのです。

 イエスが神の国と神の義を求めよと言っているのは、神の国の中へ入れと言っているのです。新しく生まれて神の国へ入れと言っているのです。神の国へ入っておかないと、死んだら本当に困ることになるのです。

 神に国に入っていたら、いつ心臓が止まっても平気です。神の国へ入ったら心臓が止まっても安心です。

 あるということが神の国ですから、神の国は何処にでもあるのです。

 神の国を求めよとは、シークせよと言うことです。シークせよとは、神の国が目の前にあるから、それが分かるように頭を使えということです。これを探せば分かるのです。

 人間は自分の肉の力で生きることはできないのです。空気があること、水があることが、神の御霊の力です。太陽があること、風が吹いていることはすべて御霊の力です。御霊の力がなかったら、自然環境はあり得ないのです。

 神がおいでになるから、御霊の力があるから、太陽は輝いているし、空気も水も、自然環境もあるのです。私たちは神の御霊の力を目の前にまざまざ見ているのです。神の御霊の力がなかったら、生きているということがあり得ないのです。

 生きているということを経験していることは、神の御霊を経験しているに決まっているのです。ところが、人間は神の御霊を知らないのです。全く人間はばかな者です。

 人間は生きていながら神の御霊を知らない。こんなばかなことはないのです。生きているという有難いことを現実に経験していながら、有難いということの意味が全然分かっていないのです。

 生きているのが有難いとはどういうことか。神の御霊と一緒にいるから有難いのです。この有難いことを現実に経験していながら、御霊を知らないのです。何というばかな者かと言いたいのです。

 有難いということの本当のことは何なのかを弁えようとしないのです。人間は生きていることが有難いことは分かっています。有難いのなら、有難いということの本当の意味を弁えて、有難うとお礼を言うべきです。ところが、知らん顔をして生きているのは当たり前だと言っているのです。

 生きているという有難さがなくなると困るのです。現世を去ると神の御霊と一緒に生きているという事実がなくなるのです。そうすると、真っ暗になるのです。何処へ行っていいのか分からないのです。こういうことになるのです。

 生きているということがあるから有難いのです。生きている間に命がはっきり分かったら、心臓が止まっても生きているということがあるのです。これをとこしえの命というのです。これを真剣に、人生をかけて勉強したいとなぜ思わないのかと言いたいのです。

 生きている時には神の国が分からなくても、神の御霊と一緒にいるから平気で生きているのです。これが当たり前に思えるのです。だから、一緒にいることの有難さを掴まえたいと思わないのです。

 ミカンを食べたらミカンの味がするということの有難さが分からないのです。この有難さを本当に掴まえて、これを死んでからでも覚えていなければいけないのです。

 ミカンを食べている時だけ分かって、すぐに忘れてしまうというのではいけないのです。マグロの刺身を食べておいしかったという味わいを、死んでからでも持てるような食べ方をするのです。

 生きているうちにインマヌエルで神と一緒に食べていれば、これができるのです。この世を去ってからでも、神と一緒に食べた記憶は残っているのです。

 神と一緒に食べているという覚認をするのです。自覚して認めるのです。この覚認が必要です。確認ではなくて覚認するのです。

 舌で食べると、これが脳細胞に伝わるのです。脳細胞が経験しているということは、とこしえの命に組み入れられているのです。

 味わっているのは脳細胞で味わっているのです。魂の基本は脳細胞にあるのです。舌で味わったものが脳細胞にきて、これが霊魂になるのです。食べた味わいを霊魂が覚認しているのです。霊魂が覚えているのです。

 生きているうちに生きている神を掴まえるのです。ああこれが神だということが分かっただけでなくて、できたら生きている神を掴まえて、その神と一緒に生きるのです。この神と手を繋いで生きていると、心臓が止まって目が見えなくなっても、霊魂は少しも変わらないのです。

 肉体の命がなくなっても、霊の世界へ入って行けるのです。死がなくなってしまうからです。

 生きているうちに神の御霊と手を繋ぐことはできるのです。死んでしまってから神の御霊と手を繋ごうとしてもできないのです。生きているうちならできるのです。

 神の御霊は命ですから、心臓が止まっても神の御霊はなくならないのです。心臓が動いているのは神の御霊によるのですから、心臓が止まっても御霊は止まりませんから、御霊の方へ引っ越したらいいだけのことです。

 命は神の御霊です。命が人間に宿っているから、人間存在は神の宮になるのです。命と手を組んでおけば、死んでからでも命が続いていくのです。これをとこしえの命というのです。

 これがイエスにおいて実現しているのです。イエスに実現したことは、私たちにも実現するに決まっているのです。

 理屈で考えなくてもいいのです。ただ黙って信じたらいいのです。素直に信じたらいいのです。女の人はやりやすいのです。男は自我がありますから、自我を切り替えてイエスが主であることを確認しなければならないのです。

 女の人は、イエスが主であると言わなくてもいいから楽でいいのです。イエスが主であると信じた男の中へ入ったらいいのです。

 男は人格を持っていますから、格を変えなければいけない。女は格がないから気楽なものです。

 人間が生きていることが不思議です。生きているというのは全く不思議なことを経験しているのです。こんな不思議なことはありません。生きていることは自分のことではないに決まっています。神からのものに決まっているのです。

 生きていることが神からのものだと分かって、神の御霊と一緒にいるから生きていられることを知るのです。神の生かす霊と、人間が一緒にいるから生きているのです。

 生かしている神の御霊と、人間の霊が一緒にいることを確認したら、心臓が止まってもずっと一緒にいるのです。これを神の御名が保証しているのです。

 神の御名さえ分かっていれば、神の御霊と自分は一緒にいられるのです。神の御名が分かるということは有難いことです。本当に有難いことです。

 生かすということ、生きるということが御霊の働きです。御霊がなければ生きるということがないのです。霊的にも肉的にも御霊の働きです。

 肉的に生きることも神の御霊の働きです。動物が生きていることも御霊の働きです。生きているということが神の御霊の印です。

 地球が生きていることが神の御霊の証です。地球と太陽の関係が神の御霊を証しているのです。天体からバイキンまで、命というのは全部神の御霊の働きです。

 人間は神のあり方を自分の理性で経験しているのです。人間の生活は神のあり方を経験しているのです。神が宇宙を経営している。この上を人間が歩いているのです。この上を歩いていないと生きていけないのです。

 時間、空間の動きというのは、神の宇宙経営の動きです。その上を人間は歩いているのです。人間はこの事実を知りませんが、神の宇宙経営の上を歩かなければ、神と一緒に歩かなければ、人間は生きていけないのです。

 このことを悟った者は死ななくなるのです。神と一緒に歩こうと考えて、神が動いているのと同じ動き方を自分もしたいと考えるのです。そうすると、神が死なないように、私たちも死ななくなるのです。

 肉体はやがて滅びていきますが、霊魂は死なないのです。死なない所へ移されるのです。イエスが復活したのは、死なない命というものを現物で証明したのです。

 イエスの復活がそのまま私たちの信仰になるのです。これをよく心得て、女が恋をする時の気持ちで、この話を受け取って頂きたいのです。恋愛をする時のような気持ちで、真剣に受け取るのです。そうすると、命が自分のものになるのです。

 聖書の理屈を勉強するのではない。命を受け取るのです。イエス・キリストが復活したことが、私たちの命です。現世の生活はあるけれど、これはこの世の義理です。これはどうでもいいのです。

 この世に生活があるから聖書は分かったのですから、この世の生活をいいかげんに送る訳にはいきませんけれど、一番大切なことは、イエスがこの世に現われて、本当の命を見せてくれたということです。

 地球が生きているという事実、太陽と地球が生きているという事実を、イエス・キリストが証明したのです。私たちがイエスを信じると、太陽と地球が生きている命を掴まえることができるのです。

 聖書には初めから太陽と地球とのことが書いてあるのです。初めに神が天地を造ったと書いているのです。聖書は太陽と地球のことを書いていますが、これが命です。

 こういうことを考えるのです。現世のことはどうでもよいのですから、大きいことを掴んでしまうのです。命を掴まえると死ななくなるのです。

 太陽が地球を生かし、地球が太陽によって生かされている。これを神の御霊というのです。神の御霊が私たちを生かしているのです。

 神と地球は恋愛関係です。恋愛関係で見ると一番よく分かるのです。

 イエスの父(神)に対する気持ちは恋です。イエスが父を慕っていた感覚が恋愛です。これが信仰です。信仰とは恋愛のことです。信仰は信心とは違います。恋愛感覚でなかったら信仰になっていないのです。

 女の人は恋愛が上手です。また、女の人は恋愛が一番好きです。女の人は一番好きなことをしたらいいのです。

 イエスが神に対して、「アバ父」と言っていました。これが恋愛感覚です。この感覚が必要です。

 命のあり方が原則であって、人間の恋愛は肉で解釈しているのです。だから、間違っているのですが、霊で見ればいいのです。

 恋愛というのは霊魂の問題です。魂の問題であって、肉体の問題とは違うのです。

 神が人間に与えたものは恋愛です。人間が考えた男女関係は肉欲です。肉欲と恋愛とは違います。恋愛というのは霊魂の問題です。肉欲は肉体の問題です。問題が違うのです。

 肉欲の問題と、霊魂の問題をごちゃごちゃにしているのがいけないのです。

 アダムが女をエバと名付けたから、女が動物の母となったのです。エバと名付けたから、女は男に抱かれるものとなってしまったのです。アダムの名付け方が悪かったのです。

 もしアダムがエバと名付けなかったら、女は今のような状態になっていなかったのです。

 女は抱かれるものではないのです。今では抱かれるものに決まっていますが、アダムが間違えたのです。アダムは陥罪によってそう考えたのですから、善悪を知る木の実を食べる以前に帰ったらいいのです。善悪を知る木の実を食べる以前の状態に帰れば、女を抱くものとは見ないのです。そうして、恋愛という言葉が持っている内容が変わってくるのです。

 恋愛という言葉は使ってもその内容が霊的なものになるのです。肉的なものではなくなってしまうのです。男女が全く一つになるのです。大体、女は男のあばら骨であって女はいないのです。あばら骨があるだけです。こういう状態になってしまうのが望ましいのです。

 男と女は合体して一つでなければならないのです。二人いるというのはおかしいのです。人間は結婚したら欲望生活になるのです。だから、結婚生活というのは悪いものです。人間どうしの結婚を神は認めていないのです。人間は勝手に結婚したと言っているだけであって、神が容認しているのではありません。容認できないからです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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