現世に生きている人間、自我意識で生きている人間は救われないのです。神に生かされていることを認識している状態、神に生かされていることは救われるのです。救われているのです。
自分が生きていると思っている人は救われないのです。神に生かされていることが自分で分かっている人、また、神に生かされていることを知っていて、その命を自分で生きている人はいいのです。
自分自身の命を自分が生きているのではない。神に生かされている命を生きているのです。この人は救われているのです。
既に救われているか、救われていないか、どちらかになるのです。救われる人というのは既に救われている人です。これから救われるのではないのです。死ぬべき命から離れてしまって、自分の命を持っていないから救われているのです。
この世に生まれて自分の命を持っている人は救われません。現在生きているというのは、神に生かされているのであって、自分が生きているのではないということが分かっていなければいけないのです。
自分というものはいないのです。自分がいると考えている人間は救われないのです。だから、滅ぼされるのです。
自分という人間は、イエスが十字架に付けられる前の人間です。イエスが十字架に付けられたことをそのまま生きている人間は、イエスが十字架につけられた状態を生きているのです。これは自分の命とは違うのです。十字架に付けられたままのイエス・キリストを生きているのです。
御霊を受けても崇め続けなければ、御霊を落としてしまうのです。
御霊と共に生きる。インマヌエルという状態を生きるということは難しいと思われます。これは難しいと考えられるかも知れませんが、難しくないのです。
私たちは御霊によって生かされているのです。私たちが生きているのではありません。生きているという実質をよく考えると、私たちが信じても信じなくても、御霊によって生きているのです。だから、生きているということの実体をよく認識したらいいのです。
生きていることの実体を認識することを、普通の人はなかなかしないのです。自分が生きているということだけを考えていると、そういうことを考えていません。自分が生きてしまうからです。御霊を全く無視しているのです。
私たちは、御霊によって生かされているという事実を経験しているのです。自分が生きているのでもないし、自分が死ぬのでもないのです。神の御霊の世界があるだけです。こういうことが神の国にいるということです。こういうことを生活で真面目に実行したらいいのです。
何をしていてもいいのです。私たちはいろんなことができるのです。なぜなら生きていることが神の御霊によるからです。神の御霊によらなければ生きていられないのですから、どんなことでも神の御霊によってしているのです。
極端なことを言いますと、喧嘩をするのも神の御霊によるのです。神の御霊によらなければ喧嘩もできないのです。神の御霊によらなければ目も見えないし、手も動かない。御霊によらなければ心臓が動かないのですから、喧嘩もできないのです。
どんな時でも神の御霊によって生きているということを考えるようにしていたら、自然に喧嘩をしなくなるのです。
生きているという事実を認識さえしたらいいのです。人間の生態という事実を認識したら、神に基づくものであることが分かるのです。
清くも清くないもない。生態は御霊によって発生しているのです。これが人間が生きているということです。御霊は崇めなければ御霊が働いていることが分かりません。
御霊を崇めると御霊が働いている世界に入れるのです。御霊が働いている世界が神の国です。
神の国に入るのは何でもありません。御霊が働いていることを信じて、そこへ入ったらいいのです。
地球上に人間が生きているということが、神の国にいることです。人間は人間が生きていると勝手に思っているだけです。人間が生きている状態を霊的に見れば、神の国になるのです。
神の国に入っているという実感をできるだけ持ち続けていれば、それが信仰になるのです。信じます、信じますと言わなくても、神の国でなければ呼吸ができないし、目が見えないのです。だから、目が見えたり呼吸ができたりするということが、神の国に入っている証拠になるのです。こういう間違いがない証拠がありますから、自分は神の国に入っていると信じたらいいのです。
信じないから神の国に入れないのです。信じるか信じないかだけのことです。
神の国に入れとイエスが言っているのですから、神の国に入ったらいいのです。入ろうと思ったら、神の国にはすぐに入れるのです。
神はありてあるものです。人間はあらしめられてあるものです。人間はあらしめられているからあるのです。人間は自分で生まれてきたものでもないし、生きたいと思って生きているのでもないのです。
人間はどうして生まれてきたのか。あらしめられているからあるだけのことです。仏教では、阿弥陀如来があらしめられている当体であるという説明はできないのです。ありてあるという説明ができないからです。阿弥陀仏がありてあるということであるという説明ができないのです。聖書はその説明ができるのです。聖書では哲学的に、科学的に、宗教的に説明ができるのです。
阿弥陀如来は宗教だけしか説明ができないのです。だから、本当のありてあるとは言えないのです。阿弥陀ということが永遠性を意味するのです。これだけが哲学的に正しいのです。これ以外には何もありません。
仏教では存在ということの証明ができないのです。時間的な説明だけしかできないのです。阿弥陀というのは、時間的な説明だけです。これは存在の説明にはなっていないのです。
時間的な説明があっても、空間的な説明がありませんから、阿弥陀如来は空間的に存在していないのです。阿弥陀如来という思想は聖書の真似をしているから、そうなるのです。
阿弥陀というのは無限ということです。永遠という意味です。仏教は永遠ということだけを言っているのであって、存在ということを全然言っていないのです。だから、ありてあるということにはならないのです。
ありてあるということの説明は、時間と空間との両方がなければならないのです。
ありてあるということが聖書にはっきり書いていますが、キリスト教では説明ができないのです。蝉が鳴いていること、鳥が飛んでいること、木の葉が青いということが、皆ありてあることです。これが皆説明ができなければいけないのです。
これが神です。これを気楽に説明することができなかったらいけないのです。ありてあるということが、何によってでも説明できるのです。誰でも信じなければならないのです。
人間はありてあるものによってあらしめられているのです。これが父と子と聖霊との関係です。現実に私たちが生きて働いている。商売をしていることが聖霊の働きです。目が見えること、心臓が動いていることが聖霊の働きです。
人間存在の本質は神に繋がっているのです。この点をよく知って頂きたいのです。人が生きていることが神に繋がっているのです。自分が生きているのではない、神に繋がっているのです。命は自分の命ではない。自分が生きているのではない。神が生きているという事実が、自分を通して証されているのです。
神の命が自分を通して証されている。証している当人は自分ではないのです。神です。神がその人を通して証しているのです。
加藤さんを通して神が証している。加藤さんは神の証をせずに、自分が生きていると思うとしますと、加藤さんは神の命を踏みつけていることになるのです。これを皆様もしているかどうかをよく考えて頂きたいのです。
自分が生きていると思っている人は、神が生きているという事実を無視しているのです。
イエスは荒野の試みに導かれて、四十日四十夜断食をして空腹になられた。その時に、イエスは自分が空腹になったと思わなかったのです。「人はパンだけで生きているのではない、神の口から出る一つひとつの言(ことば)で生きている」と言ったのです(マタイによる福音書4・1~4)。
これが人間だと考えたのです。自分が空腹になったということは、神が空腹になったと考えたのです。
神が人格を持っている。神が人格を持って人間として現われている。だから、神が空腹になったと考えていたのです。これを生ける神の子というのです。
イエスは生ける神の子でした。自分が生きていることはどうでもよかった。神が自分という形で生きておられる。そういう事実をイエスは見ているのです。神と共に生きている。神に密着して生きている。神と一緒に生きている。インマヌエルというのはこの事実です。イエスの生活の実体はこういうことでした。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)