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神の国(4)

神の国と神の義を求めるとはどうすることか。人間は神の国に生きないで現世に生きているのです。

神の国に生きているのは本当の信仰です。自分が現在神の国に生きていることが分かっている人はなかなかいないのです。

現世に生きていながら信仰を貫こうとするのは無理です。神の国に生きていれば、無理ではないのです。

神の国と神の義を求めて生きていれば、霊的と健康的とが一致するのです。現在人間が生きているその場が神の国です。ところが、この世に生きていながら神の国に生きようとすると、無理が生じるのです。

実はこの世はないのです。今生きているのは神の国です。生きているその場が神の国です。

 神の国と神の義を求めるということは、イエスがごく初心者に言っているのです。イエスは山上の垂訓で、ユダヤ人の初心者に向かって、全くの素人のユダヤ人に向かって、初めから神の国と神の義を求めよと言っているのです。

 イエスは一般の大衆に向かって、汝らまず神の国と神の義を求めよと言っています。汝らとユダヤ人に向かって言っているのです。異邦人に向かって言っているのではないのです。

 これは聖書を勉強している人間に向かって言っていると言ってもいいでしょう。だから、私たち聖書を勉強している人に言っていると考えてもいいのです。

 「汝らまず神の国と神の義を求めよ」。これが初心者に対するイエスの発言です。人間は普通の世の中に生きていますが、これが実は神の国です。

 普通の世の中が神の国ですから、そこで、神の義を求めるのです。人間は普通の世の中が神の国であることが分からない。これを理解しないままの状態で、神の義を求めようとするのです。だから、宗教観念になるのです。

 神の国で神の義を求めれば宗教観念にはならないのです。神の国が分からない状態で神の義を求めようとする。そこで宗教観念になってしまうのです。精神的に無理なことをしているからです。

 自分が生きている場が神の国であることが分からない。自分が生きている場が一般社会だと思っているからです。一般社会だと思っている状態で神の義を求めようとする。だから、無理があるのです。信仰することが無理です。神を信じることが無理です。

 無理ではない信仰をしようと思ったら、私たちが生きている世界が神の国であることを知らなければいけないのです。

 どうしたら神の国であることが分かるのか。これはキリスト教では絶対に分からないことです。天も地も、森羅万象がすべて神の国です。これが分からなければいけないのです。

 これが理屈で分かっていても信仰になっていなければだめです。神が天地を造ったことを理屈で知っていても、信仰によって信じていない。一般社会の中でキリスト教の人々は、信仰によって生きていると思っている。これが宗教観念です。聖書を勉強していてここに無理があるのです。

 私たちは神の国に生きていて、神の義を行っているのです。だから、無理ではないのです。これでなければいけないのです。

 一般社会があることが嘘です。一般社会の人間が生きていることが間違っているのです。神の国を踏みにじっているのです。

 天地万物が神の国です。このことが人間に分からないのです。天地万物という神の国の中で、神の義を求めるのです。そうすると、飲んでいること、食べることが皆信仰になるのです。

 これが信仰の初めです。イエスはマタイによる福音書の山上の垂訓でこれを言っているのです。全くの素人のユダヤ人に向かって、これを言っているのです。

 神の国に入れと玄人に言っているように思いますが、素人のユダヤ人に向かって、おまえたちが生きているのは神の国だと言っているのです。だから、神の国と神の義を求めて生活しなさいと言っているのです。

 イエスが生きていた場所が神の国です。イエスは自分の生活のことを言っているのです。イエスは神の国の中に生きていましたから、病気にならなかったのです。

 現世に実存しているものはすべてなくなります。木も花も山も、地球でさえもなくなるのです。神によって造られた被造物はすべてなくなります。なくなるものは影として存在しているのです。

 神によって造られたもの、被造物は全部なくなります。神の言が物になって現われているだけです。被造物の形は影ですが、その実体が神の国です。

 人間は形という影を見て実体だと思っています。これが人間の一般社会です。やがて、人間社会も滅びていくのです。

 ところが、万物の本質、本体、実質、実体は滅びません。これが神の言(ことば)によって造られているのです。これが神の国で、イエスはここに入れと言っているのです。

 神の国が分からずに、信仰によって歩まなければいけないと考えていると、無理をして宗教観念になるのです。一般社会の肉の世界にいて、信仰によって歩まなければならないと思っているから、心理状態に無理が生じるのです。できないことをしなければならないと考えるのです。信仰とは無理なことをするものだと思うのです。

 キリスト教が言っている信仰は、無理な信仰ばかりになっているのです。この世の実体が神の国であることを知らなければならないのです。神の国であるから、神の義によって生活できるのです。

 神の国を知らないで、ただ神の義を教えようというのは無茶なことです。これがキリスト教の大間違いです。

 人間が信じなくても万物の実体が神の国です。こういう原理原則を哲学的に知る必要があるのです。皆様に哲学的な認識がないことが、頼りないのです。

 この世が神の国であるということは、世間の人が考えている国とは違うのです。

 人間が政治、経済と言っているのは、人間が肉で見るから政治、経済に見えますが、霊で見れば神の営みになるのです。

 人間が見て行っている政治、経済は矛盾ばかりに突き当たって、無理ばかりを言っていることになり、混乱するのです。

 万物は人間から見れば矛盾に満ちていて、不完全そのものです。なぜかと言いますと、神は悪魔を滅ぼすために現象世界を造ったからです。人間を養うためとは違うのです。

 神は故意に現象世界を矛盾している状態で造ったのです。だから、現世に矛盾があるのは当たり前です。信仰的に矛盾しないように生きようと思うのが未熟なのです。

 神の国と神の義を求めよとイエスが言っています。だから、神の国と神の義を求めて生きたらいいのです。神の国と神の国を実行しなさいとイエスは言っていません。どうせできないからです。神の国と神の義を求めながら生きていたら、矛盾しながらでも神の御心に添うことができるのです。

 人間は矛盾しているこの世に生きているから、神の国と神の義を求めたらいいのです。求めても求めてもなかなか分からないでしょう。しかし、求め続けていれば、何とか御霊について行くことができるでしょう。ついて行けたらそれでいいのです。

 御霊が求めるように生活できません。できるはずがないのです。だから、実行したいという気持ちだけで実行したことにしているのです。これが偽善者です。偽善者になってはいけないのです。

 できなければできないでいいのです。神の国を求めるというのは、精神的な問題です。こうしなければならないということを考えていたらいいのです。

 求めるというのは、こうしなければならないのだろうかと思っていたらいいのです。実行できなければいけないとは言っていないのです。

 御子ととこしえの命との関係を言いますと、とこしえの命が御子です。なぜかと言いますと、とこしえがなければ御子はないのです。

 ありてあるという言葉がありますが、ありてとは物があることです。物がなかったらないのです。ここに物があるからあるのです。

 私があるということがあるのです。これが神です。何かがあって神があるのではない。神は初めからあるのです。初めからあることが神です。

 何かがある。例えば、空気があること、悪魔があるとしたら、悪魔があることが神です。悪魔があることは神を証しているのです。

 あるということがなければ、物事は一切成り立たないのです。悪魔があるのです。悪魔でさえもあるということがなければ、悪魔が実存しないのです。悪魔があるということが神です。

 悪魔でさえも、神がなければ悪魔はないのです。神が第一の存在です。第一にあることが神です。第二の存在が悪魔になるのです。

 何でもあることが神です。あるという力が働いてあらしめるということができるのです。人間はあらしめられてあるのです。

 あるということが神ですから、神を否定することは絶対にできないのです。悪魔はあるに勝とうとするけれど、勝てないのです。

 神はあるのですが、御子はある目的を持ってあらしめられているのです。あるということが働いてあらしめているのです。これが御子です。

 聖書の勉強は、始めたらとことんしなければいけないのです。中途半端でやめたらだめです。聖書の奥の院まで勉強しなければいけないのです。

 神の国と神の義が本当に分かるまで求めなければいけないのです。神の国と神の義を求めるということは、探すという意味です。英語ではシーク(seek)になっていますから探すという意味です。神の国と神の義を毎日探さなければならないのです。

 分かったらそれでいいというのではない。神の国と神の義を毎日探していくのです。一つひとつの行いの度ごとに、神の国と神の義を探すのです。

 神の国と神の義というものは、人間のすべての行い、すべての考え、すべての行動に、一つひとつあるのです。こういうことをイエスが奨励しているのです。

 人間はぼやっと生きていたらいけないのです。肉体的に生かされていることが、神の国と神の義に生きていることですから、それを求めながら、それを考えながら生きるのです。

 食事をしている時には、神の国と神の義を求めながら食べるのです。こういう習慣をつけていますと、食べることが自然に神の国を求めていることになるのです。仕事をしていても、新聞を読んでいても、テレビを見ている時でも、これが神の国と神の義を求めることになるのです。こういう生活をしなさいとイエスが言っているのです。そうすると、すべての生活が霊になるのです。肉の生活がなくなってしまうからです。

 シークとは必ずあるに違いないもの探すのです。警察官が犯人を捜す場合もシークと言います。犯人は必ずいますからそれを探すのです。

 あるに決まっているのを探すのがシークです。神はあるに決まっています。あるに決まっているから掴まえに行くのです。

 福音は難しい面もあります。難しくても一度始めたら、今私たちに開かれている奥の院までは、どうしても入らなければならないのです。分からない者は仕方がないと放っておいたら、むしろ勉強しなければよかったことになるのです。

 勉強を始めたら、とことんしなければいけないのです。もし分からなかったら、御霊にどんどん質問したらいいのです。

 神の国とはどういうものか。神の国をどのように探して、どのように受け取ったらいいのか。具体的な生活問題まで、生活でこなせるような所まで質問しなければいけないのです。

携挙(けいきょ)されるとしたらどのように受け取ればいいのか。信じると肉体との関係はどうなるのかということまで、とことん尋ねなければいけないのです。中途半端でほっといたらいけないのです。

 何でも分からないことは質問しなければいけないのです。「求めよ、そうすれば与えられる」とありますように、求めなければいけないのです。

 神の国と神の義があるのですから、あるのを掴まえなければいけないのです。あるに決まっているのですから、掴まえるのです。人間の理性と良心はそのためにあるのです。せいぜいやりましょうではいけないのです。

 この世を去る時には、これが霊魂の値打ちになって皆現われるのです。聖書の神の言葉をどれだけ求めてきたのか。神の言葉をどれだけ知ってきたのか。どれだけ勉強してきたのかということが、その人の霊魂の値打ちになるのです。分かりやすく言えば、その人の勲章になるのです。

 人間の霊魂は、神の言葉の勲章を持たなければ、神の国に絶対に入れないのです。聖書の勉強を全然しない人なら仕方がないのですが、聖書の勉強を始めた人はとことんしなければいけないのです。

 本当に神の国に入りたいと思ったら、もっともっと御霊に質問しなければいけないのです。綿密に、厳密に質問しなければいけないのです。

 聖書の勉強を始めた以上、一歩でも二歩でも前進がなければいけないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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