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  • 管理人miwa

神の国(5)

イエスの言い方は単純で直感的な言い方をしているのです。これはイエスの時代がそうであったためか、或いはユダヤの論理的な考え方が良くないと思ったためか、イエスは論理的な言い方をしていません。また、論理的な言い方が肉になってしまうような恐れがあったのです。

そこで、イエスの言い方は非常に直感的でしたが、直感的であったために、却って具体性に富んでいたのです。

イエスは言っています。

 「今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように養ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと思い煩うな。

 これらのものは皆、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものがことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書6・30~33)。

 イエスは、今日生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草という、単純で平凡な実例をあげているのです。もし私たちの人生を、野の草のような素朴な単純な状態で見るとことができるとしたら、信仰は簡単で単純なものになるはずです。

 私たちが自分自身を野の草のように思えと言われても、思えるものではありませんが、もし自分自身を野の草だと思ったら、非常に単純な生活になるでしょう。有難すぎる生活になってしまうでしょう。

 人間はそういう生活になろうとしてもなれません。人間生活にはお互いどうしというものがありますから、野の花のような生活をしようと思ってもできません。お互いに肉の思いを持っているからです。肉の思いを持ってお互いに接触しているのですが、肉の思いが死です。

 人間が生きているというそのことが何なのか。その実体は何かです。野の草でさえも神が装っていてくださると、イエスが言っています。装うとは着物を着ることです。

 ところが、人間は野の草のようにはいかない。なぜいかないのか。イエスはまず神の国と神の義を求めよと言っています。イエスの説教はこの時、普通の一般大衆に向かって言っているのです。思い煩いながら生きている人間に向かって言っているのです。

 こういう一般大衆に対して、まず神の国と神の義を求めよと言っています。聖書を深く勉強して、御霊を受けている人間でもない人々に対して、イエスは「まず神の国と神の義を求めよ」と言っているのです。

 これは何を意味するかです。世間一般の人間、聖書を全然勉強していない人間に向かって、神の国と神の義を求めよと言っているのです。

 神の国と神の義を求めるというのは、相当深く聖書の勉強をして、思想的にも信仰的にも非常に高い人間に向かって言うのなら分かるのです。ところが、何を食べ、何を飲んだらいいのか思い煩っている世間並の人間に対して、まず神の国と神の義を求めよと言っているのです。

 イエスはなぜこう言ったのかです。ただの世間並の人間に向かってこう言っているのです。真正面から神の国を求めよ、また、神の義を求めよと言っているのです。

 イエスの山上の垂訓の説教はただの素人に向かって言っています。宗教的にひねくれているユダヤ人に向かって言っているのではないのです。

 人間が生きていることは、神の国と神の義を現実に味わっているのです。これが生きていることです。私たちが生活で神の国を経験しているのです。

 ユダヤ人は宗教観念によって、今現在生きていることに関係がない神の国という社会事情が実現することを考えているのです。ユダヤ人に都合がよい社会が実現することを望んでいるのです。

 ところが、イエスがいう神の国というのは、人が生かされている実体を指しているのです。これを掴まえなさいと言っているのです。

 皆さんもこれを実行して頂きたいのです。何を食べ、何を飲み、何を着ようかと思い煩っている状態が、そのまま神の国を求めている状態でなければならないのです。

 これは皆様が現実に霊によって生きているか、肉によって生きているかによって決定されるのです。肉に生きている状態であれば、神の国と神の義を求めよと言われても、それができないのです。

 肉の思いで生きている状態ですと、神の国と神の義を求めよと言われても、どうしたらいいのか分からないのです。神の国というものが分からないのです。キリスト教では、神の国を求めるというのは、主イエスよ来たりたまえと言うことだと思っているのです。キリストが再臨すると、神の国が実現すると思っているからです。

 これは千年王国の実現であって、これとイエスが言っている神の国を求めよということとは違うのです。イエスが神の国を求めよと言っているのは、個々の人間の中に、神の国が実現することをいうのです。

 信仰によって生きるということが、神の国の霊的な実現になるのです。これをしなさいと言っているのです。地上に神の国が実現する前に、一人ひとりの心に神の国が実現しないようでは、仮にこの世に王国が実現しても、その人は王国には入れません。霊的な意味での神の国を求めることが必要です。

 霊的な神の国というのはどういうものか。自分の信仰によって、自分自身が神の国に生きているということが分かるのです。

 皆様の信仰生活が、神の国で生きている生活であってほしいのです。個々の人の生活が、神の国の生活であってほしいのです。

 神の国と神の義を求めるというのは探すという意味です。神の国はあるに決まっているのですけれど、普通の人間の常識では見えないのです。自分の実生活の中の何処にあるのかということを見つけるのです。

 神の国と神の義はあるに決まっているのです。もしなければ人間が生きているという事実が成り立たないのです。生命現象、生活現象が成り立たないのです。

 私たちの生命現象、生活現象というのは、生理的にも経済的にも成り立っていますが、これは神があるからです。

 神はいるに決まっていますから、何処にどのようにいるかを見つけなさいと言っているのです。

 神の国は今日見つけたらいいのではない。毎日見つけるのです。毎日というよりも、毎時間、常に見つけ続けることです。神と人との関係は、常に絶えず、いつでも接触していなければならないのです。

 常に、絶えず、いつでも神の国を見つけているべきだと、イエスが言っているのです。このためにはどのような精神状態であるべきか。

 自分自身で聖書が開かれて、自分自身で歩いていくのが本当です。これはできる人とできない人とがありますが、できるだけ聖書が開かれて、自分で前進するような霊調であってほしいのです。

 私たちが生きていることが神の国と神の義でなければならないのです。これが分からないのです。皆様は生きていることの根底が何かはっきり分かっていない。これが問題です。

 イエスがまず神の国と神の義を求めよと言った意味が、皆様に分かっていないのです。人間が生きているということを、正確に、正当に考えると、人間が生きていることは神に生かされていることであって、神に生かされているという事がらの中に、神の国と神の義があることが分かるのです。

 皆様はこのことが概念的には分かっています。キリスト教の人々は概念的にさえも分かっていないのです。概念的に分かっていることを、実感的に分かるようにして頂きたいのです。

 私たちにはイスラエルに対して、本当の福音を伝えるという責任を与えられています。これは世界中のキリスト教の何処の教会にも与えられていないことです。

 この責任のために、神は私たちにユニークな聖書の光を与えてくださるに決まっているのです。聖書の光は素朴な光であって、いわゆる理屈や概念ではありません。極めて直感的で素朴なものですから、誰でも開かれる可能性はあるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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