top of page
検索
  • 管理人miwa

神の国(6)

私たちが現実に生きていることが、そのまま福音になっているのです。これを毎日考えていく必要があるのです。御霊を崇めるというのは、これを言っているのです。

イエスが何を食べようか、何を着ようかと思い煩うなと言っていますが、これは現実に生きている人間のことを言っているのです。現実に生きている人間の状態で、神の国と神の義を求めよと言っています。これが欧米人には分からない。うっかりすると私たちも見落としているのです。

肉体的に現実に生きていることが霊です。イエスの信仰というのは、現実にパンを食べている状態で神の言で生きていたのです。

イエスが現実に食べたり飲んだりしていたことが、そのまま霊なる状態であった。宗教では、食べたり飲んだりしていることと信仰とは関係がないのです。

 キリスト教では、聖餐式でパンを食べたりぶどう酒を飲んだりしますが、これは日常生活での飲んだり食べたりとは違うのです。ところが、聖書では日常生活の飲んだり食べたりしていることがそのまま信仰です。

 食事をすることが信仰です。コーヒーを飲むことが信仰です。お茶を飲むことが信仰です。自分の家庭生活が、そのまま信仰であるという認識を持って頂きたいのです。

 生活が信仰です。こういう感覚は欧米のキリスト教にはありません。信仰は教会へ行ってお祈りすることだと考えているのです。これは信仰ではない。ただの宗教観念です。

 家庭で飲んだり食べたりすることが信仰です。新約聖書はこれを言っているのです。イエスは飲んだり食べたりしていることと、神の国を求めることを同じ問題と考えたのです。

 私たちが宗教ではないということは、生活であるということです。命であるということです。これが世界にはないのです。

 コーヒーを飲むことが神の国を味わっていることです。コーヒーに味があることが神の国です。リンゴにリンゴの味がすることが神の国です。あるがままの状態が神の国です。これが霊です。こういう認識は世界中で何処にもありません。日本で初めて開かれたのです。

 目が見えること、耳が聞こえることが信仰です。神は「わが前に歩みて全かれ」とアブラハムに言っています。神の前で歩むことが信仰です。

 神は「我は全能の神なり」と言っていますが、エホバとは言っていないのです。モーセに対しては、「我はエホバにして我の他に神はいない」と言っています。

 全能者というのがそのままエホバになるのです。全能者でなければありてあると言えないことになるのです。ありてあると全能者とは同じ意味になるのです。

 全能者という意味の方が分かりやすいのです。あるという言い方は論理的です。モーセに対しては分かりにくい名を示し、アブラハムの方には分かりやすい名を示しているのです。

 全能者の御名と、ありてあるという御名とがイエスにおいて全うされているのですけれど、今のキリスト教は両方共知らないのです。エホバということも知らないし、全能者ということも知らないのです。

 全能者というと病気が治るのかと思い、エホバというと十戒に関係があるのかと思う。これは神学の考え方です。神学で考えると間違ってくるのです。

 私たちは神学の考えを根本的に否定して、我は全能の神なりというごく素朴な考えと、ありてあるものなりという十戒の基本的な考えとを、顕揚すべきであると思うのです。

 これが旧約の原理になっているのです。これがエホバです。これがありてあるです。ありてあるということがすべてのすべてです。旧約的に神を信じるというのは、エホバの他に何もないということを信じるのです。あらゆる掟はすべてエホバの中に入ってしまうのです。これが旧約です。新約はイエスです。イエスの中に復活も十字架も、聖霊降臨も全部入ってしまうのです。

 この原理が私たちに開かれたのです。日出る所の天使に開かれた原理です。旧約的にはエホバ、新約的にはイエスという二つの御名が十分に徹底しなければいけないのです。

 これが人間存在の神髄です。神髄とは命であるという意味です。命の実体が神です。神は旧約的に言えばエホバ、新約的にはイエスになるのです。

 世界中のキリスト教がこれに反対したら、神の御名に反対することになるのです。

 こういう原理、原則が皆様の信仰の実体、実質になっていなければならないのです。皆様の感覚はいりません。イエスの御名が自分自身の感覚であったらいいのです。

 自分自身の感覚はいりません。イエスの御名が自分の感覚だったらいいのです。自分の信仰が良いか悪いかを考える必要はない。イエスの御名そのものが信仰です。聖書六十六巻を煎じ詰めるとこうなるのです。これが簡潔明瞭に人々に言えるようになったらいいのです。

 人々に言えるだけでなくて、自分自身の生活がそのような論理に基づいていなければならないのです。生活が論理であり、論理が信仰であり、信仰がそのまま命になるのです。論理と信仰と命と生活が一つになっているのです。これがばらばらになったらだめです。

 自分の生活においてこれをチェックしていくのです。絶えず、毎日チェックするのです。今神は皆様の手の上に全世界の運命を乗せようとしているのです。全世界の霊魂の運命を乗せようとしているのですから、聖書の基本原理をしっかり掴まえておく必要があるのです。

 これが神が地の東に与えた光です。神が人間文明の最終段階において与えた福音の光です。この光を生活原理として実行できるような霊調になっておくことが必要です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:6回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

聖書に、「汝らまず神の国と神の義を求めよ」とあります(マタイによる福音書6・33)。その後には、「そうすればこれらのものはすべて与えられるであろう」とあります。これらのものとは、衣食住に関するすべてのものということです。人間は現世に生きています。 毎日、何を飲み、何を食べようかと思い煩っているのです。神の恵みによって、大体、人間は衣食住を保証されています。飢え死にする人はめったにいませんけれど、そ

この世の人間は皆死んでいる

人間は現世があると思っている。自分が生きていると思っている。 これは嘘です。肉の思いの人間がそう思っているだけです。 旧約聖書の創世記にある記事ですが、人祖アダムは神から、園の中央にある善悪を知る木の実を絶対に食べてはいけないと言われたのに、食べてしまった。その結果、三位一体の神の一人のようになって、善悪を知ることになった。 この状態でとこしえの命を掴まえると、人間は完全に悪魔になってしまう。これ

自我意識と現象意識の実体

「我父におり、父我にいます」というイエスの言葉は(ヨハネによる福音書14・10)、聖書を勉強している人は誰でも知っている言葉ですが、これはイエス・キリストの信仰の中核です。土台と言ってもいいでしょう。これがインマヌエルです。インマヌエルの実感がイエスの信仰の基本でした。 パウロは次のように言っています。 「人の義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によることを

bottom of page