top of page
検索
  • 管理人miwa

神の国(7)

人間が生きているということは、太陽系宇宙に現われている神の幄(あげばり)の実体を見て、それを通り抜けることが目的です。これが人生の一番大きいてテーマになるのです。

幄とは、昔イスラエルが祭儀などに、庭に設けた仮小屋を意味するのです。

現象世界は神が造った仮小屋です。神は人間を罪の下に閉じ込めたのです(ローマ人への手紙7・14)。罪の下に閉じ込めたとはどういうことかと言いますと、現象世界に肉の思いを持たせて生かしていることです。

現象世界に肉の思いを持って生きていたら、現象が実体であると思えるに決まっているのです。これが罪の下に閉じ込めたという意味です。

閉じ込められた状態は必ず死ぬことになりますから、ここから脱出しなければいけないのです。脱出できない者は、神の御心を弁えることができなかった者として、火の池に放り込まれることになるのです。

 罪の下に閉じ込められたということは、最悪の条件です。こういう最悪の条件を与えられたということは、カルマであって、罪というのは仮の世界、妄想の世界、執念の世界を本当の世界と考えることです。仮の世界、妄想の世界、執念の世界は本当の世界ではないのです。

 人間は目に見える現象世界が実体であると考えていますが、これが肉の思いです。肉の思いは実体的な思いではないのです。人間は肉の思いを持つことによって、肉体的に存在することが実体であると思い込んでいるのですが、この肉の思いをしのいで、霊の思いを持つことができた者だけが、神の元に帰ることができるのです。

 霊の思いとは物事の本質についての思いですが、これは現世に生まれる前に持っていた思いです。肉の思いは現世に生まれた後に、物心がついた後の人間の思いです。

 肉の思いから出ることができなかった者は、ノアの洪水の後の虹の契約を理解することができなかった者になるのです。虹の契約を理解することができなかった者は、新天新地のニューエルサレムに入ることができなかった者になるのです。

 新天新地は神の永遠の契約を基礎にしてできるものですが、これに真っ向から反対する者が肉の思いです。現実が存在する、現実社会が存在するというのが肉の思いです。この思いを神が与えておいて、この思いを空じることができるかどうかを、神は見ているのです。

 現実の世界は実存するのではないのです。パウロが「その声は全地に響きわたり、その言葉は世界の果てにまで及んだ」と言っていますように(ローマ人への手紙10・18)、現実の世界は響きと言葉があるだけです。実体はないのです。現実の世界を響きと言葉として見ることができた者が、罪の束縛から解放されることになるのです。そうして、虹の契約の原理を弁えて、虹の契約に従って生きることができるのです。

 イエスが洗礼を受けて、水から上がった時のイエスの心境が虹の契約でした。虹の契約が理解できない者はだめです。虹の契約が理解できても、それを自分の生活の則として取り上げることができない者は、神の子としてふさわしくない者であることを、自分で証明したことになるのです。だから、救われないのです。火の池に放り込まれるのです。

 罪の下に閉じ込められたままで死んだ者は、火の池へ自分を押し流してしまうことになるのです。現在の物理的な地球が滅んだ後に、ニューエルサレムと火の池が、新天新地と言われているものになるのです。ニューエルサレムに入れなかった者は、全部火の池に行くことになるのです。

 ニューエルサレムに入れる者は、現象世界において肉の思いを空じた者です。このためには、ほとんど喧嘩腰と言われるような激烈な闘いをしなければならないのです。そのような情熱を要するのです。

 自分を愛する気持ちとか、自分の感情にこだわる気持ちがある者は、肉の思いから脱出することはできないのです。

 このことは禅宗でもやかましく言うのです。しかし、解脱、解脱というだけであって、解脱した後の自分自身の当体がどういうことになるのかという説明ができないのです。

 仏教には解脱という思想はありますけれど、解脱という実体はないのです。

 釈尊は一切空と考えたのですが、釈尊はただ考えただけではないのです。明けの明星を見たことによって、来るべき新しい世界を望むことができたのです。来るべき新しい世界を望む感覚を、仏教では大円鏡智という言い方をしているのですが、実体はありません。

 大円鏡智とは大きな丸い鏡が万物の形を映すように、すべてを正確に照らす智慧をいうのです。これは神の経綸を見通して来るべき新しい世界を、自分の心が鏡になってそれを映し取っている智慧をいうのです。これが大円鏡智です。これは形容詞としてそういう言い方がありますけれど、大円鏡智の実体は仏教にはないのです。

 色々な形容詞はあります。観無量寿経には、無量寿経の当体は極楽であると書いています。極楽というニューエルサレムがあることを、形容詞としては書いていますけれど、どういう理由でそれができるのか。できる原理が、今自分が生きていることと、どういう係わりがあるのかということを説明する原点がないのです。

 大円鏡智という言葉はありますが、自分の心が鏡になるような心構えを、自分の中に置くことができないのです。

 釈尊自身は明けの明星を見たのです。明けの明星が実体であることが分かったのです。これが悟りの基礎になったのです。釈尊自身はそれでいいのですけれど、日本の仏教のお坊さんは明けの明星が分からない者ばかりです。

 明けの明星が説明できる専門家は日本にはいません。一人もいません。神は日本に不思議なことに、私たちを起こして、明けの明星の実体を悟らせてくださったのです。これは聖書を勉強しながら、仏典の勉強もしたからです。

 仏典の思想は、釈尊が悟った後の色々な話を記録しているのです。釈尊の言行を記録していますけれど、釈尊の真意が分からないのです。釈尊が一切空であると言い切った理由は何処にあるのか。明けの明星の実体は何であるのか。明けの明星を掴まえた後の生活感覚は何処にあったのか。こういうことが分からないのです。

 空じた、空じたと言いますけれど、これはどういうことなのか。無量寿如来と言いますけれど、その実体は何なのか。無量寿如来という言葉を釈尊が造ったのでありませんけれど、現世を解脱してしまいますと、無量寿如来が自分の中にあると言いますが、これはどういうことなのか。

 人間は肉の思いを解脱しても、生きているという実体が消えるのではありません。そうすると、肉の思いを解脱した後に、自分が生きているという実体は何なのか。肉の自分ははっきり死んでしまったと認識しても、その人の心臓が止まるのでもないのです。

 その時その人が生きている気持ちというのはどういうものなのか。これを仏教では成仏というのです。成仏というけれど、成仏という言葉の内容は何を意味するのかということです。これが仏教でははっきり分からないのです。

 形容詞はたくさんあります。無量寿如来とか、解脱成仏、成道とか色々あります。けれど、現実に生きている自分の命を踏まえた状態で、どう生きたらいいのかが分からないのです。

 こういうことが仏教では分からないのです。無量寿如来と言いますけれど、無量寿如来を掴まえるにはどうしたらいいのか。これが分からないのです。

 帰命無量寿如来というのは、無量寿如来に対して自分の命を帰依するのです。自分の思いを全部無量寿如来の中へ入れてしまえというのです。そうしたいでしょう。そうしたいという気持ちはありますが、無量寿如来の当体が掴めないために、無量寿如来の中へ帰命することができないのです。これが正信偈の根本的な欠点です。

 正信偈の冒頭に次のような文句があります。

 「帰命無量寿如来

  南無不可思議光

  法蔵菩薩因位時

  在世自在王仏所」

 法蔵菩薩というのは釈尊のことですが、法蔵比丘が悟った状態をそのまま自分の心境にしたいと思うけれど、今は法蔵比丘がいないのですから、釈尊が何を悟ったのか、どのように自分の命を見ていたのか分からないのです。

 釈尊は現世に生きている人間の命を解脱したことは確かですが、どういう命を持っていたのかが分からないのです。成仏という言葉はあっても成仏の実体はないのです。

 仏教の中に成仏がないのです。仏教を出てしまって、一万七千六百巻の経文を解脱して、聖書の中へ入ってしまわなければできないのです。一切の経文を解脱して、聖書の中へ入るということができないのです。

 ところが、聖書の中というのが何処にもないのです。キリスト教にもないし、ユダヤ教にもないのです。ただ私たちのグループにしかないのです。本当の命はそれほど高いものです。めったに買えないものです。

 現在の皆様の心境ではだめです。皆様は何とかなると思っているかもしれませんが、これが大間違いです。現在の皆様から出てしまわなかったらだめです。

 現在の皆様の心理状態は罪の下に閉じ込められている状態です。閉じ込められている状態で、私の話を聞いてもだめです。

 もっと真剣にならなければいけないのです。どうしたら真剣になれるかと言いますと、釈尊が見たように、明けの明星を見ることです。明けの明星を見れば、これが本当の世界かということが分かるのです。これが本当の世界かということが分かれば、今まで生きていた自分の世界が、全く嘘の世界であったことが分かるのです。そうしたら、今まで生きていた自分、固有名詞の自分をはっきり捨ててしまうことができるのです。

 「その声は全地に響きわたり、その言葉は世界の果てにまで及んだ」とありますが、響きと言葉を掴まえるのです。響きと言葉というのは現実の地球の中にあるのですが、肉の思いを持っている者には全く分からないのです。

 花が咲いているということは、地球ができる前の世界が現われているのです。葉は現実ですが、花は未生以前の世界、霊を現わしているのです。葉は現象であり肉ですが、花は霊です。

 葉を見ないで、花が咲いているという命を見なければいけないのです。咲いているのは命が発露しているのです。

 命が発露している所を見ると、自分自身が現実に生きているのは、花が咲いているのと同じなのだということが分かるのです。

 昨日生きていた命が、今日咲いているのではない。三年前、五年前、この世に生まれてからの何十年間の命が、今日もあると思ったら大間違いです。この考えは葉が葉のままの考えです。

 葉が花になるというのは、瞬間に咲いているのです。花が咲いているという瞬間を捉えるのです。昨日生きていたという自分、一昨日生きていた自分ではない自分が、今いるのです。

 今ここに、全く新しい命があるということが、その人の花が咲いているのです。これを掴まえるのです。今日咲いていた花を明日も咲かす。明後日も咲かすのです。毎日咲かすのです。朝咲いた花を昼も咲かす。夜も咲かすのです。

 これは難しいことかもしれませんが、神のニューエルサレムに入ろうと思ったら、難しいと思っているようではだめです。

 帰命無量寿如来 南無不可思議光を実行するのです。これを朝も昼も夜も実行するのです。自我意識の自分が生きていたらだめです。正信偈を毎日毎日、毎時間、毎時間実行し続けるのです。

 帰命無量寿如来、帰命無量寿如来と念じ続けるのです。帰命無量寿如来を聖書言えば、イエスは主であるとなるのです。そうすると、無量寿如来が自分の主になるのです。

 無量寿如来とはイエス自身です。イエスは主であると思い続けるのです。これができるだけの根気が与えられた人は救われるのです。その根気が与えられない人はだめです。

 根気は自分で造れるのですから、自分で造ったらいいのです。自分で造ろうと思ったらできるのです。根気は自然に与えられるものではありません。自分で造らなければならないのです。

 根気よく仕事したら根気ができてくるのです。根気よく信仰したら、根気が湧いてくるのです。この根気が必要です。

 運、鈍、根と言いますけれど、根が一番必要です。鈍は皆様には自然にありますけれど、根はありませんから自分で造るのです。

 帰命無量寿如来をし続けるのです。帰命無量寿如来、帰命無量寿如来、イエスは主である、イエスは主であると念じ続けるのです。そうすると、根気ができてくるのです。

 神の永遠なるニューエルサレムに入ることができて、神の永遠の栄光を与えられて、神のヘルパーとして、神の相談役に与ることができる人はめったにありません。そうなりたいと願い続けることができる人はなれるのです。そうなりたいと思わない人は、残念ながら火の池へ行くしかないのです。

 火の池へ行った人は、悲しみ、歯がみすることになるのです(マタイによる福音書25・30)。しまったしまったと言って歯がみすることになるのです。

 生きているというこの瞬間が、神の言葉です。自分が生きているのではない。神の言葉が生きているのです。そう信じるのです。

 テレビを見ていても、自分がテレビを見ているのではない。神の言葉である者がテレビを見ているのです。こういう気持ちで見るのです。

 お茶を一杯飲んでも、神の言葉である者がお茶を飲んでいるのです。

 命は言葉です。言葉がお茶を飲んでいるのです。自分がお茶を飲んでいるとは思わないのです。いつでも朝から晩までずっと機嫌良く、にこにこ笑って生きるのです。これはなかなかできないことですが、しようと思って生きるのです。これが嫌な人は火の池に行くしかないのです。

 人間は罪の下に閉じ込められていますから、これくらいの気持ちがなかったら、閉じ込められているという神のやり方から抜け出すことはできないのです。

 肉体を持たされて生きているということが、カルマです。ここから抜け出そうと思えば、お茶を飲んでいることがそのまま天国であること、お茶の味がそのまま永遠の命であることを実感しなければいけないのです。新聞を見ていることが、そのまま永遠の命であることが実感できるように生きるのです。

 これは難しいと思われるかもしれません。私は難しいことをお話ししているのです。本当にニューエルサレムに入るということはめったにできないことです。ですから、難しいと思うことくらいは我慢して頂きたいのです。

 キリスト教の人々は、「私はだめですから、マリア様どうか私のために祈ってください。罪深き私は地獄しか行く所がありませんが、どうか私のために祈ってください」としきりに言っているのです。

 私はだめです。私はだめですとしきりに言うのです。イエスは主であると一言も言わないのです。私はだめに決まっています。だから、イエスが主であると言ったらいいのです。

 宗教信仰は帰命無量寿如来を全然考えないのです。イエスが主であると考えないのです。この状態で私を救ってくださいと言っている。これはだめです。

 イエスが主であると一言も言わない。これが宗教です。自分が救われたい、救われたいとばかり思っているのです。いくら祈ってもだめだったという思いで、地獄へ行ったらどうなるのでしょうか。

 キリスト教の人々は創世記が開かれていないからだめです。虹の契約の意味が分からないのです。虹の契約が分からなければ、この世が空であること、人間が生きていることが嘘であることが分からないのです。

 雲の中に虹が現われているのです。私たちの命を雲の中へ持って行かなければ虹は見えないのです。その中でしか虹が現われないからです。

 神は虹によって永遠の契約を示しているのです。だから、神の御心の中へ入ってしまわなければ虹は見えないのです。

 神の御心の中へ入るにはどうしたらいいのかと言いますと、花が咲いていることが神の言葉の働きです。これが良き訪れを告げる者の足です(ローマ人への手紙10・15)。これがキリストの言葉です。良き訪れを告げる者の足は麗しい。麗しいということがキリストの言葉です。

 花が咲いていることの麗しさ、夕陽の輝きの麗しさがキリストの言葉です。これを自分の命の中心に取り込んでしまうのです。自分の思いを一切無視して、花が咲いていることの中へ入ってしまうのです。

 夕陽の雲がすばらしく輝いているということの中へ、自分が入ってしまうのです。こうするしかないのです。これは、キリストの言葉の中へ入ってしまうことになるのです。そうすると、初めて神の御心が分かるのです。雲の中にある虹が見えるのです。

 雲は神の権威です。虹は神の御心です。神の権威、神の御心によって現象世界が構成されているのであって、現象的物質は一つもないのです。神の権威、神の栄光、神の契約がそのまま千々万々の万物になって現われているのです。

 花が咲いているのではない。神の御心が咲いているのです。目が見えること、鼻から息を出し入れしていることが、神の御心です。これが分かったら、この中に入り込むのです。この方法しかないのです。

 キリストの言葉を聞いて、その言葉が信仰になるのです。信仰は聞くにより、聞くはキリストの言葉によるのです(同10・17)。花が咲いていること、それをきれいだと思えることがキリストの言葉です。これが分かったことが信仰です。

 花が咲いていることが、キリストの言葉の中へ入ってしまうことです。キリストの言葉を自分が受け取ろうと思ったら、花が咲いていることの中へ入って行くのです。

 言葉としては、花が咲いていることの中へ入って行くと言いますけれど、神の方から言いますと、神が花を咲かしているということは、その中へ人間を入れたいのです。花を咲かしていることの中へ、人間の霊魂を誘い込みたいからそうしているのです。

 花の中へ入らなければならないと思わなくてもいいのです。花の中へ入りたいという人の気持ちと、誘い込みたいという神の気持ちを一致させたらいいのです。そのために花が咲いているのです。

 花が咲いていることが良き訪れです。良き訪れであるから花が咲いているのです。花が咲いているのを見たら、ここにも良き訪れがあると考えたらいいのです。これが福音です。

 福音の中へ入って行こうと思ったらどうするのか。花が咲いているこの中へ入ろうと思ったら難しいのです。今皆様が今現在生かされているということが、花が咲いていることです。

 人が生かされているということが、花が咲いていることです。これがはっきり分かったら、花が咲いていることの中へ入ったのです。

 新約時代に生きているということ、二〇一九年に生きているということは、すべて花です。だから、私たちが生かされていることの有難さをよくよく考えたらいいのです。

 夕陽が美しいとか、食べ物がおいしいとか、生かされていることの有難さをよくよく考えたらいいのです。こうして集まって、永遠の命について勉強できるという有難さをよくよく考えたらいいのです。

 生きているということは、そのまま有難い世界に生きているのです。私たちが生きていることが、そのまま花が咲いている状態に置かれているのです。

 生かされているということが、花が咲いているのと同じだということに気がついて、自分を忘れて無量寿如来に帰命したらいいのです。イエスが主であると思ったらいいのです。

 自分が生きていると思うから、難しいと思うのです。

 神の国にいるということをはっきり認識して、男の人は女の人を愛したらいいのです。これは食べることも飲むことも同じです。

 現実に世界に存在しているものはことごとく神の言葉であり、神の言葉の響きです。神の声です。こういうのを私たちは見ているのです。聞いているのです。

 だから、現実に生きているということが、キリストの言葉の中に置かれているのです。キリストの言葉を聞いたら信仰が現われるのです。

 信仰は聞くにより、聞くはキリストの言葉によるのです。現実に生きていることが、キリストの言葉であることが分かれば、誰でもそれを経験できるのです。

 ところが、生きていることがキリストの言葉であると思うことを、悪魔が絶対に禁止しているのです。私たちが客観的に生きていることが、そのまま信仰であるということを、ユダヤ文明が分からないように仕向けているのです。

 現代文明は人間が生きている、肉の思いによる人間が生きていると言い切っているのです。これが偽キリストの文明です。

 現在はノアの洪水の直前と同じ状態になっているのです。ノアの洪水以後の世界はどうなっているのか。イエスがどういう人であったのか。イエスが洗礼を受けて水から上がった時に、彼の肉体が見えなかったということが分からないのです。

 私たちもイエスが水から上がった時のように、肉体は見えないものとして生きてみてください。自分の肉体が見えないものとして考えることができる者は、キリストの中に入っている人です。

 こういうことをまず理解して、人に向かって言うのです。自分が子供になってしまうのです。気楽になったらいいのです。

 男が悪いのは大人であるからです。今までの経験を全部忘れてしまって子供になるのです。そうして、聖書の言葉をそのまま信じたらいいのです。

 イエスが主であると思ったらいいのです。現象世界は神の言葉と神の響きで満ちているのですから、それを自分の命にしてしまうのです。そうすると、信仰が与えられるのです。信仰が与えられるから、信仰に基づいて生きたらいいのです。

 そうすると、罪の下に閉じ込められた自分とは何の関係もなくなってしまうのです。

 新約時代に生まれた人は罪と関係がないのです。キリストが復活した後に生まれた人間ですから、この世の人間ではないのです。初めから神の国に生まれているのです。

 ところが、日本人は現世に生まれて、現世に生きていると思い込んでいるのです。ばかな生き方をしているのです。文明社会は愚かな人間ばかりの社会です。肉体的に生きているのが人間だと思い込んでいるのです。こう考えている者は、必ず死んで火の池に行くのです。

 現代文明の思想に追従している者は、必ず死ぬのです。死ぬしかないのです。

 信仰とはキリストの言葉を聞いて、それを自分の心の中にそれを引き入れて、自分のハートを用いればいいのです。

 今生きているのは自分ではない、イエスです。これがイエスは主であるという意味です。イエスが主であるとは、本当の私だということです。私という言葉を使うと自我の自分のように思いますから、イエスが本当だ、イエスだけが本当だと言ったらいいのです。

 イエスが本当の私です。イエスが本当だ、イエスが命の本当だと言ったらいいのです。イエスが命の本物です。命の本物はイエスです。これがイエスが主であるという意味です。これが帰命無量寿如来ということです。

 イエスは無量寿如来ですから、無量寿如が復活したことを信じたらいいのです。

 自分が生きていると思うことが一番悪いのです。子供のようになったらいいのです。

 神は幄を日のために設けたのです。天に幄を設けたのです。これが天の幕屋です。

 パウロは次のように書いています。

 「しかし、キリストがすでに現われた祝福の大司祭として来られた時、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋を通り、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所に入られ、それによって永遠の贖いを全うされたのである」(へブル人への手紙9・11、12)。

 人間が現世に生きているという事実はないのです。私たちが生きていることが天です。天に幕屋を設けたのです。日のために幕屋を設けたとありますが、日のためとは、太陽を中心にして幕屋を設けた。これが太陽系宇宙です。太陽系宇宙が幄です。幄が神の国です。今皆様が生きている状態が神の国です。ここへ入ってしまうのです。

 太陽系宇宙がそのまま神の幄です。日のために幄を設けたのです。神は太陽を中心にして地球を造ったのです。

 太陽が地球を愛し続けているのです。地球は太陽に愛され続けている。だから、地球は孕み続けているのです。お米や麦、野菜がどんどんできる。魚がどんどん獲れるということは、地球が孕み続けているからです。

 野菜や果物、魚がどんどん獲れる。地球は太陽の愛によって無限に産んでいるのです。だから、七十六億の人間は食物を毎日与えられているのです。

 太陽の愛を地球に伝達している機能があります。これが地のちりです。地のちりが太陽エネルギーを中和しているのです。地球を最適な温度に中和しているのが、地のちりの働きです。そこで、地球は無限に産んでいるのです。

 だから、地球は命の集団です。生命の集団です。ここに人間が住んでいながら、それが全然分かっていない。これはどういうことかと言いたいのです。

 神は幄を設けた。幄が神の国です。私たちは神の国に入るために生まれてきたのです。このことをよく承知して頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:9回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

聖書に、「汝らまず神の国と神の義を求めよ」とあります(マタイによる福音書6・33)。その後には、「そうすればこれらのものはすべて与えられるであろう」とあります。これらのものとは、衣食住に関するすべてのものということです。人間は現世に生きています。 毎日、何を飲み、何を食べようかと思い煩っているのです。神の恵みによって、大体、人間は衣食住を保証されています。飢え死にする人はめったにいませんけれど、そ

この世の人間は皆死んでいる

人間は現世があると思っている。自分が生きていると思っている。 これは嘘です。肉の思いの人間がそう思っているだけです。 旧約聖書の創世記にある記事ですが、人祖アダムは神から、園の中央にある善悪を知る木の実を絶対に食べてはいけないと言われたのに、食べてしまった。その結果、三位一体の神の一人のようになって、善悪を知ることになった。 この状態でとこしえの命を掴まえると、人間は完全に悪魔になってしまう。これ

自我意識と現象意識の実体

「我父におり、父我にいます」というイエスの言葉は(ヨハネによる福音書14・10)、聖書を勉強している人は誰でも知っている言葉ですが、これはイエス・キリストの信仰の中核です。土台と言ってもいいでしょう。これがインマヌエルです。インマヌエルの実感がイエスの信仰の基本でした。 パウロは次のように言っています。 「人の義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によることを

bottom of page