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  • 管理人miwa

肉とは何か

聖書に肉という言葉が沢山出てきますが、肉というものが分からないのです。ユダヤ人も分からないし、異邦人全体も分からないのです。

異邦人が分からないのは無理もないと言えなくはないのですが、仏教を真面目に勉強した人は、色即是空と般若心経で言っていますから、肉は益なしということが当然分かるはずです。

色が空であるということは、昔から般若心経で言われていますから、思想としてはあるのです。仏法の原理は色即是空であって、肉は益なしということが原理になっているのです。

今の仏教は肉を相手にしているのですが、仏法は肉を相手にしていないのです。

 日本に仏教はありますが、仏法はありません。曹洞宗は教理としては仏法を言っていますけれど、内容は全く腐っているのです。曹洞宗のお坊さんは全く俗人です。まだ本願寺の方がいくらかましな方です。とにかく曹洞宗はひどいです。年中騒動を起こしているのです。

 釈尊は明けの明星を見ました。明けの明星を見たということは、神の国を見たということになるのです。明けの明星を見たということは、やがて昇るべき新しい太陽を見たことになるのです。太陽を見たということは、神の国が到来すべきことを見たということです。

 釈尊の本当の思想は、現在の物理的に存在する地球ではなくて、霊的に存在する地球を見たことです。

 物理的な地球は空なるものです。霊的な地球が実なるものです。これが今の人間には全く分からないのです。霊理が分からないのです。

 空というのは霊理のことです。物理とは違うのです。人間は物理の世界をうろうろしているのですが、これが肉です。

 皆様はもっともっと霊理において生活するようにして頂きたいのです。人間が生きていることが空です。肉体的に人間が生きていることが空です。

 私たちが本気になって信仰しようしたら、ユダヤ人が変わってくるのです。神の方に皆様の信仰が分かるから、御霊の働きが違ってくるのです。そうすると、ユダヤ人のあり方が違ってくるのです。

 もっと真面目になって頂きたい。皆様の真面目さは人間的な真面目さです。人間的な真面目さは肉です。肉は益なしです。肉を脱ぎ捨てて、霊に従って生きることをして頂きたいのです。

 霊に従って生きる人だけで団結して頂きたい。そうしたら、神の手を動かす力が出てくるのです。

 霊に従って生きるということは、人間が実存している状態が霊になってしまうことです。肉的に生きているからいけないのです。

 肉というのはあることなしです。ないのです。宇宙に肉は実存していないのです。肉は空存しているのです。肉というのは、現象世界を実体として、現世の人間の見方、考え方に従って生きることです。霊というのは、生まれる前に神と共にいた時のあり方に従って生きることです。

 実存の世界をはっきり見るのです。人間が肉体的に生きていることが無意味です。神が相手にしていないからです。

 生きていることが霊でなければいけないのです。肉体的にいくら聖書を勉強して、いくら献金してもだめです。肉体的に勉強しているのはキリスト教です。

 霊に従いて歩むことが新約の大原則です。この大原則を素朴に、ばか正直に実行するのです。要するに、皆様は聖書を信じることに対して苦労が足りないのです。もっと霊的に真面目になって頂きたのです。

 皆様は世間の人から見たら真面目にしています。世間の人から見たら損をしているでしょう。どうせ損をするなら、もっと真面目にすればいいのです。

 一挙手一投足がすべて霊であるという大原則です。イエスが生きていたのと同じような生き方をしたらいいのです。皆様はこういうことが思想的に分かっているでしょう。分かっていても実行していない。これがいけないのです。

 時代が悪いと言われるかもしれませんが、時代が悪いという申しわけは通らないのです。時代に負けるくらいなら、初めから信仰はやめたらいいのです。そんな人は時代と一緒に生きて、時代と一緒に死んだらいいのです。無理に信仰しなさいと言っている訳ではありませんから。

 自分の信仰よりも時代の方が強い、聖書よりも時代の方が強いと思ったら、時代の方へついて行ったらいいでしょう。神の御霊よりも時代の精神の方が強いと思ったら、時代の方へついて行ったらいいのです。神の御霊について行く必要はないのです。

 御霊を崇めたいのなら、本気になって崇めて頂きたい。何をするにしても霊でするのです。霊でしなければ何をしてもだめです。泥棒とか強盗は悪いに決まっています。初めから悪いに決まっていることを除いては、霊でしたら何をしてもいいのです。何でも清いのです。これをしたらいいのです。

 肉でしたら何をしてもいけないのです。イエスやパウロの真似を肉でしてもだめです。霊で生活するかしないかが問題です。

 聖書は初めから霊に従いて歩むことを教えているのです。聖書の中に入るというのは霊の中に入ることです。こんなことは皆様は百も承知でしょう。百も承知していることを実行したらいいのです。

 家庭生活を霊でするかしないかです。家庭だけではない、職場の生活もそうですけれど、生活を霊でするかどうかです。食事をする場合も、お茶を飲む場合にも、一挙手一投足が霊であるかないかです。

 一挙手一投足を、御霊を崇め、御霊を敬いて、御霊に従って神の国を生活することです。これが信仰です。今いる所が神の国ですから、ここを神の国として生きることです。この世として生きていたら何にもならないのです。

 神から見れば、現在の肉の世界は全くの空なるものです。従って、現在の世界は滅ぼされるためにあるのです。滅ぼされるために実存しているのです。

 神が目に見える地球を造ったことがインチキです。キリスト教は現存する地球が聖なるものと考えているのですが、これが間違っているのです。

 現存する天地、物理的に存在する天地は、神が悪魔を騙すために造ったのです。悪魔を徹底的に滅ぼすために、仮に造っている虚構の世界です。仮定の世界です。これをそのまま承認したら、悪魔と一緒に滅びることになるのです。

 だから、現在の物理的に存在する世界を、霊理的に理解することにおいて、神の国に入れるのです。イエスが神の国の義を求めよというのはそれを言っているのです。

 現存する地球は神の国ではない。現存するのは肉の世界です。肉の世界は神の国があることを証しているが、肉は肉です。これを霊として見ることが信仰です。これが実行できるかどうかが問題です。

 肉というのは、実存しないものを実存しているように見せているものです。肉は存在していないものを実存しているもののように言っているのです。

 肉という語法は聖書にしかありません。世間一般には使っていない言葉です。キリスト教には肉という言葉はありますけれど、肉という言葉の実体を知らないのです。

 一般社会で物理的と言っているものが肉です。物理的に存在していることが肉です。ところが、物理的に存在しているものは実体ではないのです。

 物理的という言葉は動物を意味するのです。物理は動いていることを意味するのです。動いていなければ物理にはならないのです。

 物理が動的に作用する場合には、瞬間、瞬間に働くのです。物質は瞬間、瞬間の働きによって存在しているのです。だから、固定的に存在しているのではないのです。正確にいうと物質はないというのが物理現象です。

 物理現象を正しく信じれば、物体は存在しないことになるのです。学者は物質は存在しないという理論を知っていながら、物が存在すると考えるのです。こういう学的矛盾があるのです。

 人間生活は不正と妥協しなければ生きていけないのです。これが肉です。肉と妥協しなければ生きていけないのです。この欠陥をよく承知して、なぜ肉と妥協しなければ生きていけないのかを考えなければならないのです。

 肉体がなければ命を読み取ることができないのです。だから、肉を見て、肉の間違いを認識することができるために、神が人間を肉の世界に置いているのです。

 今の状態は、人間の魂を肉の世界へ放り込んでいるように見えますけれど、神は人間の魂を肉の世界へ捨てているのです。それは、生まれてくる前に神を裏切って、神と一緒にいることができなくなったので地球に放り込まれたのです。

 だから、現在の人間の霊魂を捨ててしまっているように見えるのです。この肉の世界から、霊の世界へ這い上がることができる者だけが、神の国に入るのです。

 神の国に入るということは、自分が生きている肉の世界に反抗することです。肉の世界に毎日反抗するのです。肉の家庭に反抗するのです。肉の会社に反抗するのです。肉の社会構造に反抗するのです。これを毎日、毎日するのです。これができなければ信仰とは言わないのです。そうして、これを人々に伝えるのです。私たちは自分のためではなくて、人々に福音を伝えるために勉強しているのです。

 私たちには本当の命を教えられているのですが、一般の人々は嘘の世界に生きているのです。嘘の世界に生きている人を放っておいていいのでしょうか。

 私たちが生きているのは神の御霊によって生きているのです。この原理に生きることが信仰です。御霊を崇めて生きることは難しいことですが、これをしようと努力するのです。

 命は死なないものです。現実の命のあり方がそのまま永遠にあるのとは違います。あり方は変わりますけれど、本質的に死なないのが命です。

 死なない命が、死なない命として働く場合には、共を呼ぶという形で働かなければならないのです。性質がそうなっているのです。一輪咲く花は二輪、三輪と相伴って咲くのが自然のあり方です。本当の福音を学ぶことは、自分一人が命が分かるというだけでなくて、自分に相伴っている人々が、命に目を覚ますようになることが当たり前です。

 伝道は義務的なものと考えなくてもいいのですが、命を本当に受け止めていたら、自然に人々に伝えたくなるに決まっているのです。

 まず皆様が命を本当に受け止めているかどうかが問題です。本当に命を認めれば、その命は皆様の近隣の友人に影響するのが当たり前です。

 伝道に熱心であるかどうかということではありません。皆様の信仰の本質が問題です。自然に人々に伝えたくなるのが当たり前です。

 花は一輪だけ開くということはないはずです。二輪、三輪と相伴って開くのです。皆様が本当に花を開かせたいのなら、そのように開いて頂きたいのです。命の花が開くのなら、そういう形になるのは決まっているのです。

 今の時代が悪いということは言えますが、伝道できないというのは言い訳です。皆様の回りには、皆様の信仰に全く応じないということはないはずです。一人や二人の賛同者は必ずいるでしょう。やりやすい立場の人とやりにくい立場の人との違いはありますけれど、福音を伝えて全く聞かなかったら、恵みは皆様に帰ってきますからそれでいいのです。福音を精一杯人々に伝えたという実績を神は評価してくださるのです。

 伝道については素朴な感覚を持ったらいいのです。本当に命に感謝して、本当の命を持っているとしたら、仕事と信仰は一つになって、伝道の方へ重点が置かれるでしょう。

 その人の熱意が他人を感動させずにはおきません。そうすると、賛同者が現われることになるでしょう。それができないというのは、信仰の素朴さがないからです。

 私たちのグループの基本精神は、集会、献金、伝道です。これを強力に推進していかなければならないのです。

 伝道についての基本的な心構えについては今お話ししましたので、次に集会についてお話しします。

 イエスは次のように言っています。

 「よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でも皆解かれるであろう。

 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちの二人が、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいます私の父は、それを叶えてくださるだろう。

 二人または三人が、私の名によって集まっている所には、私もその中にいるのである」(マタイによる福音書18・18~20)。

 神が導いているのは、何処までもグループとして、群として導いているのであって、個人として導いているのではないのです。

 個人の信仰は知らず知らずに独断に陥りやすいのですが、二人または三人がイエスの名によって集まっていると、イエスもその中にいるのです。これは魂と魂のふれあいが絶対必要であり、また、イエス・キリストという人格に統合することによって、本当の福音の実体が明らかにされるからです。

 日本の憲法に、天皇は国民統合の象徴であるという不思議な言葉があるのです。他の私の著書の中で何回も述べてきましたが、天皇はキリストの影になっているのです。

 日本人の人格が天皇に統合されるように、人類全体がキリストに統合されなければならないのです。なぜかと言いますと、前世において人祖アダムが神を裏切った結果、一人の人格が何百億にも分裂してしまった。そこで、地球に放り込まれたのです。

 今地球にいる人間は、基本的人権がある、一人前の人格があると威張っていますが、実は本来あるべき人格の何百億分の一かに分解された、かけらのような人格になっているのです。だから、善も悪も分からない、命も死も分からないし、神も悪魔も分からない、全く愚かな人間になっているのです。

 そこで、人類はイエス・キリストに統合しなければならないのです。神は統合した群れに恵みを与えるのです。

 統合する人数は何人でもかまわない。多くても少なくてもいいのです。そこで、イエスの名によって二、三人集まる所には、私もその中にいるとイエスが言っているのです。

 集会は毎週必ず開催して頂きたい。土曜日でも良いし、日曜日でも良いでしょう。時間と場所は集まる人の都合の良い所でいいと思います。

 遠方で個人でいる人は、インターネットのスカイプ通話を利用して頂きたい。スカイプは地球上の何処でも、何時間話しても無料ですし、最大で二十四人までが参加して会議電話ができますので、集まることが不可能な人どうしは、スカイプ通話にて勉強して頂きたいと思います。

 それから献金についてですが、聖書に次のようにあります。

 「アブラムがケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破って帰った時、ソドムの王はシャベの谷、即ち王の谷に出て彼を迎えた。その時、サレムの王メルキセデクはパンとぶどう酒を持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った。

 『願わくは天地の王なるいと高き神が、

  アブラムを祝福されるように、

  願わくはあなたの敵をあなたの手に渡された

  いと高き神が崇められるように』、

  アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った」(創世記14・17~20)。

 「人は神の物を盗むことをするだろうか。しかし、あなたがたは、私の物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうして我々はあなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、捧げ物をもってである。

 あなたがたは、呪いをもって、呪われる。あなたがたすべての国民は、私の物を盗んでいるからである。私の宮に食物があるように、十分の一全部を私の倉に携えてきなさい。これをもって私を試み、私が天の窓を開いて、あふるる恵みをあなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる」(マラキ書3・8~10)。

 収入の十分の一は神のものだから、神の所に持ってきなさいというのが聖書の原理です。

 私たちは自分の意志で生まれたのではない。頭も目も口も耳も、手足も内臓も、自分で造ったのではない。今生きているのは自分ではないのです。

 また、空気も水も、太陽光線も、森羅万象も自分で造ったのではない。すべてが神のものなのです。だから、収入もすべて本来神のものですが、その中から十分の九を生活費として使わせて頂くというのが、当然のあり方です。

 収入の十分の一を神に捧げるということをしていると、不思議と経済的、思想的な行き詰まりもないし、健康的にも家庭的にも恵まれるのです。

 私は会社勤めを始めてからずっと什一献金をしているので、経済的にも、信仰的にも、健康的にもすばらしい恵みを与えられています。これからも与えられると確信しているのです。

 「十分の一を私の所に携えてきなさい。そうしたら、あふるる恵みをあなたに注ぐ」と神が言っているとおりに実現していますので、本当に感謝している毎日です。

 集会、献金、伝道は、私たちの集会の基本精神です。何処までもこれを守っていきたいと願っているのです。

 御名と十字架というポイントが非常に重要です。人間が実存していることは御名しかないのです。人間が実存しているだけでなくて、地球が実存していることが御名です。

 地球であろうが人間であろうが、御名そのものが実存の根底です。また、結果であり、目的でもあるのです。御名が原因でもあり、目的でもあるのです。

 御名が分からなかったら原因も分からないし、目的も分からないのです。本来、命は原因が目的であるに決まっているのです。神から出た信仰は、神が目的になるに決まっているのです。これが御名です。

 十字架というのは、現実に生きている人間をどう始末するかという基本原理になるのです。肉の人間、肉の政治、経済をどうして始末するか。これが十字架です。

 肉を始末する方法が十字架です。人間自身の実体が御名です。御名と十字架という二つのポイントを押さえると、聖書六十六巻の中心思想が押さえられるのです。この二つを押さえると宗教にはならないのです。

 聖書の言い方は色々ありますが、全体は神の御名を説いているのです。旧約的にはエホバの御名を説いているのです。

 旧約的という意味は実存的という意味です。現在目に見える状態で存在している歴史的、または地理的な実存で、これはエホバです。歴史的、または、地理的な実存の実体はエホバです。

 霊的に私たちが生きているということ、神に生かされているということ、神と人との対角関係です。人間の霊魂と神の御霊とは対角関係になっているのです。これもエホバです。

 エホバというのは歴史的、地理的な展開、即ち時間的、空間的な展開と、霊的な神と人との展開と両方あるのです。両方共エホバです。これがエホバの御名です。

 新約の原理になるとイエスの御名になるのです。御名と言っても、旧約の御名と新約の御名とは違います。

 イエスが言っている神の国に入れというのは、現実に肉的に展開しているこの世界は、霊的に見れば神の国です。肉的に展開していることがエホバの御名であって、霊的に展開しているのはイエスの御名です。これが新約です。これが新約の神の国です。

 新約の神の国がイエスの御名になっているのです。旧約は時間的、空間的な広がりです。新約は霊的あるいは生命的な広がりです。

 空間的な展開はエホバであり、霊的な展開はイエスの御名です。

 エホバの御名がイエスの御名です。エホバの御名は時間、空間的に捉えることができるのですが、イエスの御名は時間、空間的には捉えられないのです。実質的に捉えることができるのです。

 エホバの御名は時間、空間の概念としてはっきり捉えることができるのですが、実質がないのです。これがイエスになるのです。

 悪魔は地面の上を這いずり回っているだけであって、地面から少し上がったらもうついてこれないのです。空中の権を悪魔が持っているというのは、人間が持っている権を悪魔が横取りしているのです。人間が同調するから悪魔が空中の権を取っているのです。

 人間が悪いのです。人間が勝手に空中の権を取られているのです。悪魔が空中の権を持っているのではないのです。悪魔に取られているのです。そこで、再臨のキリストは空中に下るのです。

 聖書六十六巻を煎じ詰めると、私たちが生きているという意味で見ると、神の御名しかないのです。これだけしかないのです。これがキリスト教では分からないのです。地球があることも人間がいることも、時間があることも、空間があることも、その本質は神の御名です。

 神の御名が分からない人には、時間空間の本体の説明は全くできません。科学や哲学では時間空間が分からないのです。御名が分からないからです。

 御名が分からないと、私たちが生きている時間空間の実体を把握することはできません。歴史的に地理的にできないのです。現実的に私たちの命を把握することができないのです。

 御名を把握することによって、時間空間の実体を把握することができるのです。これがあらゆる学問を貫いて、あらゆる宗教やあらゆる言い伝えを全部貫いて、冠絶している原理です。

 これは私たちの主張ではありません。神の御名とイエス・キリストの御名が、御霊よって私たちは理解させられたのです。

I am that I am.というのは、旧約的に言えばエホバになるのです。新約的に言えばイエスになるのです。イエスというのは人間だけとは違うのです。万物の本質、時間、空間の本質がイエスです。

 私たち自身がイエスであることを認識する時に、万物の中に私たちが溶けてしまうのです。

 キリストというのは何か。ナザレの大工の倅がイエスであることを決定したのがキリストです。万物を貫いて人間がいるのです。

 旧約は神の経綸として現われているのです。神の経綸の実体が、人間存在として新約に出てきているのです。

 皆様が自分自身を完成すれば、神の経綸を完成したことになるのです。自分の救いを全うすると、自分の救いだけではなくて万物が救われるのです。これが教会では全く分からないのです。

 聖書全体は神の御名を説いているのです。旧約的にはエホバの御名を説いているのです。旧約的という意味は、現在実存的という意味です。現在目に見える状態で存在している歴史的、地理的な実存はエホバです。

 霊的に私たちが生きているということ、神に生かされているということ、神と人間の霊魂との対角関係はエホバの御名です。御名は二つあるのです。

 旧約の御名はエホバであり、新約の御名はイエスです。

 イエスは神の国へ入れと言っているのです。肉的に展開しているこの世界は、霊的に見ると神の国です。肉的に展開しているのがエホバの御名であって、霊的に展開しているのがイエスの御名です。

 新約の神の国はイエスの御名になっているのです。人間が生きているのではない。エホバとイエスを経験しているのです。これを命というのです。エホバを言い現わすのがイエスです。

 霊というのは生きているということです。個性は認めない方がいいのです。霊が経験させられているのです。自分という人間は何処にもいない。経験の当体としての私がいるのです。これは経験の当体としての私であって、固有名詞ではないのです。

 私としてはただの機能です。機能ですから利害得失はないのです。ただの機能です。経験することが生きているということで、これがリビングです。

 リビングというのは自分とは違うのです。固有名詞の自分ではないのです。固有名詞と関係がない自分です。即ち私です。これがとこしえの命を与えられた人間の感覚です。

 イエスはこういう状態で生きていたのです。利害得失はなかったのです。善悪利害もないのです。掟もないのです。

 仏教でいう空はこれによく似た心境ですが、空の内容が違うのです。エホバとイエスがない所が違うのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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