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  • 管理人miwa

肉に従うか霊に従うか

肉に従うか霊に従うかが問題です。生活の形はどのようなものでも構いません。どんな仕事でも構いません。ただ霊に従って生きればいいのです。

霊か肉かの問題だけです。霊に従いて歩むとはどうすることか。これだけを考えたらいいのです。生活の構造が信仰に関係があると思いがちですが、そういうことには関係がありません。

田舎で農業をしている人と、都会で会社経営をしている人とでは、お金の使い方も時間の使い方も違います。こんなことは信仰には関係ありません。

現在の文明は全く肉のことだけを考えているのです。文明の構造が肉の構造だけになっているのです。ところが、霊に従って歩めば、文明の構造の中で生きることができるのです。

 例えば、霊に従って車を運転したり、バスに乗ったり、飛行機に乗ったらいいのです。霊に従ってパソコンを使ったり、携帯電話を使ったらいいのです。これは何でもないことです。簡単なことです。

 結婚したい人は霊に従ってしたらいいのです。肉に従ってしたら悪いだけのことです。

 人間の霊魂と神との係わりというのは、肉に従っている人は、どんなに掟的に正しいということをしてもだめです。どんなに宗教的、道徳的な生活をしていても、肉に従っていたらだめです。

 霊に従っていたらどんな生活をしていても、神的な生活をしていることになるのです。肉か霊か、これだけが問題です。霊と肉との見分けをつけることが、第一です。

 イエスやパウロが現在生活していたらどうするだろうか。現在生活するとしたら、やはり現在文明のあり方に従って生活するしかないのです。ただ肉で生活しないだけのことです。

 いくら聖書を勉強していても、肉の思いで肉の人間がしていたら宗教になってしまうのです。これでは何にもならないのです。霊の思いで聖書の勉強をしなければならないのです。

 テレビの番組を見る場合でも、映画や演劇を見る場合でも、肉の思いで見ればただの映画や演劇です。霊で見れば演劇が教訓になるのです。ご飯を食べるにしても、霊で食べるか肉で食べるかの違いです。これが信仰生活であるかないかの違いになるのです。

 霊で食べるのと肉で食べるのと、どう違うのかということです。信仰によってご飯を食べるとはどうすることか、信仰によってテレビを見るとはどうすることかです。

 ご飯を食べることも、テレビを見ることも、すべて前世のことをもう一度味わっているのです。すべて前世のこととして経験することが、霊によりて生きることになるのです。

 聖書を勉強することは、霊に従って歩むということの基本原理を学ぶためです。これを生活で実行するのです。これができなければ何にもならないのです。

 私たちの生活は人間の生活ではなくて、魂の生活でなければならないのです。人間が食べるのではないのです。形は人間が食べているのですが、神から見れば、霊魂がご飯を食べているのです。これが本当の生き方です。

 人間は、文明の悪さというものをよくよく話を聞けば分かるのです。そういうことを書いた本を読んでも分かるのです。現代文明は全く肉の思い一辺倒であって、誰が見ても悪いということは分かります。

 この文明の悪さはどうしようもないものだとしても、霊に従って生きるということを心得ていれば、霊に従って生きることはできるのです。

 文明が肉だから、自分も肉によって生きなければならないのではありません。文明は外的なものです。生活は内的なものです。自分の精神が御霊を崇めることによって、自分の精神構造をいつでも神の前に置くような状態にしていれば、神の前で生きることはできるのです。

 これはそれほど難しいことではありません。文明は腐っても神は腐りません。文明だけ勝手に腐らせておけばいいのです。

 現代の文明は肉性に基づいてできていますが、肉性的に大変魅力がありますから、それに引きずられやすいという欠点があるのです。人間にはそういう非常に強い欠点があるのです。

 その欠点に勝つためには、私たち自身が肉性ではなくて霊性に生きる必要があるのです。肉の思いではなくて霊の思いで生きるのです。これを考えていれば、魂まで被害を受けるということはありません。

 今は末の時代でありまして、文明は崩壊するしかしょうがないのです。文明を良くすることはできませんから、悪い文明の中で、私たちの生活態度を、どこまでも霊的に生きるということを心掛けて頂きたいのです。

 文明がいくら悪くなっても自然現象があります。これは神によるものですから、自然現象まで肉にしてしまうことはできません。

 いくら文明が盛んになっても、天地万物まで肉にすることはできません。天地万物は霊です。現在の文明人は霊を用いて肉にしてしまっているのです。天地万物の用い方が悪いのです。

 天地万物を肉で用いないで、天地万物のあるがままの姿をできるだけあるがままに、霊に従って用いるように考えていれば、文明の欠点に引きずられなくてすむのです。

 例えば、花が咲いているとか、景色が美しいというのは、昔も今も同じです。

 私たちが鼻から息を出し入れしているということは、神に生かされていることですから、これは文明と関係がないのです。私たちの心臓が動いているということは、文明と関係がありません。

 私たちの命は私たちの気持ちで保つことができるのですが、文明それ自体は悪いものです。政治、経済、社会構造は非常に悪くなっていますけれど、こういうものを利用しなければ行動することはできません。電話がなければ遠方の人と話ができません。車や新幹線、飛行機を使わなければ、遠方にいけません。

 文明構造を私たちの生活で利用することは当たり前のことです。しかし、私たちの心まで文明の肉性に引きずられなければいいのです。天地自然はやはり元の自然ですから、文明に勝つことはそんなに難しいことではありません。

 聖書はその方法を教えているのです。イエスやパウロの時代とは全然違いますけれど、心構えという点で言えば、パウロも私たちもそんなに変わっているとは言えません。

 私たちがこのような深い聖書の勉強をしているということが、神の国があるということを示しているのです。神の国に魂を入れるような気持ちになれば、神の国へ入ることはできるのです。

 目には見えない状態で神の国があるのです。私たちがイエスの思想で聖書の勉強をしていることが、神の国になっているのです。神の国へ思想的に参加するのです。

 毎日の生活を神の国へ入りたいと思って生活するのです。この気持ちを持っていれば、神の国に入ることはできるのです。そういう態度が神の国を造っていくのです。自分の家庭で神の国を造っていくのです。

 神とは何かと言いますと、現在皆様の目が見えること、心臓が動いていることが神です。神というのはそんなに難しいものではないのです。

 人間と共にいる神とは人間の生理機能です。神が人間と共にいるのです。これが生理構造です。これをインマヌエルと言います。神と人は一緒にいるのです。この神を掴まえたらいいのです。

 本当の信仰とは神と一緒に生活することです。こういう気持ちで神を生きるのです。そうすると、家庭で神の国ができるのです。肉の思いで生活すれば地獄になるのです。霊の思いで生活すれば神の国になるのです。

 聖書の勉強は、ざっくばらんに本心を打ち明けてしたらいいのです。難しい顔でしていてもだめです。難しい顔で勉強していたら却って上っ面だけの勉強になるのです。腹の底までの勉強にならないのです。

 問題は肉に従うか霊に従うかだけです。生活の仕方が良くても悪くても構わないのです。現代人は現代人のように生活したらいいのです。霊に従いて生活するかしないかだけのことです。

 霊か肉かだけの問題です。これはいつの時代でも同じです。霊に従いて歩むとはどうすることかを考えたらいいのです。

 現在の文明は全く肉においてだけ成り立っているのです。肉のことだけしか考えていません。文明の構造が肉の構造だけになっているのです。肉に従っていたら、どんなに掟的に正しい生き方をしてもだめです。霊に従って生きたら、神的な生活をしているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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