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骨の骨、肉の肉

パウロは、「心を新にすることによって、造りかえられる」と言っています(ローマ人への手紙12・2)。世界観が変えられなければいけないのです。世界観を変えないままの状態で見ている。これがいけないのです。

イエスは、「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従って来なさい」と言っています(マタイによる福音書16・24)。自分の十字架を負うとは、世界観を変えることをいうのです。

皆様は十字架を負うつもりでも、実は負っていない。その証拠に、世界観が変わっていないのです。世界観とは何かというと、物の見方をいうのです。

 物とは何か。社会とは何か。文明とは何かが分かっていないのです。一番大きな問題は、女とは何かが分かっていないということです。これが一番重大な問題です。

 聖書を勉強している女の人は、「骨の骨、肉の肉」という言葉を知っていますけれど、それが自分の物の見方になっていないのです。聖書どおりの見方になっていないのです。

 皆様の勉強の仕方はキリスト教の勉強であって、聖書の中に入っていないのです。骨の骨という言葉の内容が分かっていて、それが理解できていることが、新しい世界観に立っているのです。女の人の見方が世間の人と全然違っていて、別の女の人が見えているのならいいのです。これならイエスと同じ見方になるのです。

 世間の女の人の見方ではない、別の女の人が見えているのならいいのです。女の場合は、別の男が見えているのならいいのです。これができていなければ、これから学んでいかなければいけないのです。

 イエス・キリストが十字架につけられて復活した。復活したというのは、新しい命ができたということです。新しい命を信じる以上は、新しい世界観を持っていなければならないはずです。

 新しい命を信じますと言いながら、新しい世界観を持っていないということがいけないのです。新しい考えを持たなければ、新しい命に生きていけないはずです。新しい考えを持たなければ、イエス・キリストの十字架を信じ、復活を信じることはできないはずです。

 命というのは精神構造です。命が変わってしまうためには、精神構造そのものが変わっていなければならないのです。新しい命を与えようと思ったら、新しい世界観を与えなければいけないのです。

 新しい世界観、新しい物の見方が与えられないのなら、宗教と同じです。

 心の霊が精神を指しているのです。精神構造というものが、人間の命の骨組みになるのです。心の霊が人間の命の骨組みになるのです。命の骨格です。命の骨格が心の霊になるのです。心の霊を新にしなければだめです。

 心の霊を新にしたら、物質に対する考えとか、女に対する考え、道徳、宗教、国、政治、経済に対する考えが、一つひとつ違ってこなければいけないのです。世間並の人間の考えと、はっきり違った考えが出てこなければいけないのです。

 心の霊を新にしていないから、やはり世間並の見方によって女を見たり、政治、経済のあり方を見ているのです。こんな状態では聖書の勉強をしているとは言えないのです。

 女の見方が変わらなければ、聖書をいくら熱心に勉強してもだめです。女の見方が一番重要です。

 アダムは次のように言っています。

 「これこそ、ついに私の骨の骨、

  私の肉の肉、

  男から取ったものだから、

  これを女と名づけよう」(創世記2・23)。

 聖書の本当の内容が分からないことが悪いのではない。分からないことを分かったような気持ちでいることが悪いのです。もし分からなかったら御霊に聞いたらいいのです。そうしたら、御霊が教えてくれるのです。聞かないから教えてくれないのです。

 骨の骨というのは何か。表面に現われていないけれど、骨がなければ人間の体格は成り立たないのです。表面に現われないけれど、物を成り立たせているもの、体格を成り立たせているものが骨です。これが第一の骨です。

 第二の骨というのは、隠れているものに、神が霊なるものをまた隠しているのです。そこで、骨の骨になるのです。

 第一の骨は、目に見えない状態で人間存在の本質があることです。第二の骨は、目に見えない状態が霊なるものであって、これが霊なる神との繋がりの非常に大切な事がらであることを意味しているのです。だから、骨の骨としか言いようがないのです。二重に隠れているのです。

 肉の肉とは何か。人間の肉体は実はないのです。これをあるように見ている。これが第一の肉です。第一の肉は、肉体があるように思う肉の思いを指すのです。

 第二の肉は、その肉の思いが実は死です。セックスの見方というものは、肉の見方です。肉体があるというだけではなくて、それを欲望の対象として見るのです。これが姦淫です。

 肉体があるという見方が既に肉です。さらに、女性をセックスの対象として見る。これが肉の肉です。

 骨の骨というのは何かと言いますと、女性はアダムの最も良い所、即ちあばら骨を取って造られたのです。この女性のあり方が、神との繋がりを示している。これが骨の骨です。

 性の交わりとは何か。男は女性との交わりによって何を感じるのか。神との交わりを感じているのです。これを欲望の交わりにしてしまったのが、悪魔のやり方です。

 アダムは女を見て骨の骨と喝破している。なぜこういうことが言えたのかと言いますと、この時のアダムは陥罪以前でしたから、原罪がありません。霊の目が開いているのです。

 創世記二章の状態は陥罪以前です。善悪を知る木の実を食べていませんから、罪がありません。アダムはアダムなりに預言して「骨の骨、肉の肉」と言っているのです。

 二章二十五節で、「人とその妻とは、二人共裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」とありますが、この時にはセックスの感覚が全くなかったのです。

 三章二十節で、「人はその妻の名をエバと名づけた」とありますが、この時アダムはエバにセックスの烙印を押したのです。二章では骨の骨という在り方であったが、三章で肉の肉に転落してしまったのです。

 二章二十一節で、「そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時にそのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた」とあります。

 男はあばら骨の一つを取られて肉でふさがれたのです。そして、深く眠らされているのです。深く眠らされているというのは、ほとんど死んでいる状態になるのです。男の霊は女に関する限り、ほとんど死んでいるのです。女が骨の骨であるということの実体を見極めるのが、非常に難しいのです。

 骨の骨が開かれないから、聖書が土台から開かれないのです。現在の男が女を見るのは、姦淫の念ばかりです。霊の目で女を見ることができていないのです。これだけで男は地獄へ行くのです。

 イエス・キリストの復活の命を正しく受け取ろうと思ったら、女の見方を根本から新しくしなければいけないのです。これは自分から求めなければだめです。

 イエスは、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」と言っています(マタイによる福音書7・7)。従って、求めなければ与えられないのです。根本から新しくなるような指導を受けなければいけないのです。その指導を受けようと思うなら、自分から求めなければだめです。

 洗礼を受けている者は、深刻に考えなければいけないのです。

 今の男は、エバを女と名付けたということしか分からないのです。こういう女の見方しかできないのです。陥罪後の女の見方しかできないのです。この見方は姦淫の見方です。陥罪後の女の見方しかできないのですから、骨の骨という見方ができないのです。

 姦淫の念を離れて女を見ることが、今の男には不可能なことになるのです。毎日十字架を負うということができればいいのです。自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさいという言葉を実行すればいいのです。

 世間並の男の女に対する見方は、すべて姦淫の念になっているのです。異邦人の男の女に対する見方は、百%姦淫の念です。だから、異邦人が聖書を信じて救われるということが、大体、不可能なことです。聖書はこれくらいレベルが高いものです。聖書にはこれくらいの値打ちがあるのです。

 世間並の夫婦生活を送っていて、聖書の勉強ができると思ったら大間違いです。夫婦生活が悪いのではない。聖書の方がレベルが高すぎるのです。夫婦生活は世間並のことです。これを重要だと考えていたら、自分を捨て、自分の十字架を負うということが実行できていなければいけないのです。

 大体、日本人は地獄へ行くのです。天皇から乞食に到るまで全部地獄へ行くのです。聖書が信じられるような上等な民族とは違うのです。それが、聖書を信じるどころか、イスラエルに祈るというとても有難いことをさせられているのです。

 ユダヤ人のために祈ることができるのは、超特別な人間です。私たちは超特別な取り扱いを受けているのです。ユダヤ人以上の取り扱いを受けているのです。何と言って有難がっていいのか分からないのです。

 大体、日本人は安物の民族で、聖書を信じる資格はないのです。永遠の生命を神から与えられるという霊の資格はないのです。日本人はそれほど上等の民族ではないのです。天皇自身が天皇の位が分かっていないのです。

 般若心経でいう般若波羅蜜多はいいのです。般若波羅蜜多は彼岸へ渡る知恵ですが、彼岸へ渡るとは、空観に徹することをいうのです。

 ところが、空観に徹してどうなるのか。五蘊皆空とは人間の常識とか知識、道徳、法律は皆空だと言っているのです。

 人間が生活している考えは皆五蘊です。人間の政治、経済、道徳、法律は五蘊です。これが皆空だというのです。皆空とは皆嘘だということです。そうすると、人間は何のために生きているのか。色即是空、現象は皆実体ではないというと、人間が生きていることが何になるのか。

 生きていることが空だと観念することはできますが、空だというのは自分は空っぽだということになるのか。

 そうではないのです。自分が生きていることが空っぽだから、別のことを思えと言っているのです。別のこととはどういうことかです。これが仏教では分からないのです。

 日本の仏教は空を言いますけれど、本当の釈尊の悟りは日本にはないのです。日本には仏教はありますけれど、仏法はないのです。

 仏法というのは釈尊自身の悟りです。これが日本にはないのです。釈尊自身は五蘊皆空を実行したのです。実行してどうしたのかと言いますと、明けの明星を見たのです。明けの明星を見ていたから、自分が現実に生きている状態が空であることが当たり前だったのです。

 自分が生きている状態は一切空だった。何が本当かというと、明けの明星を見ていたことです。

 明けの明星というのは、やがて新しい太陽が昇ることです。それを釈尊は見ていたのです。日本には新しい太陽が昇るという思想がないのです。だから、日本には仏法はありません。仏教だけです。

 仏教は何を教えているのか。仏教を信じればこの世の生活が楽になると言っているのです。自分の商売が繁盛するというのです。

 空という思想は良い思想です。五蘊皆空という思想も良い思想です。五蘊皆空なら何を掴まえるのかというと、掴まえるものがないのです。

 これをいうと禅宗のお坊さんが困るのです。禅はナムアミダブツと言いません。ただ空だ空だと言っているのです。空になりきってしまうと、何を信じるのかと聞くと返事ができないのです。お坊さんが困るので、阿弥陀さんを信じなさいと言っているのです。これなら本願寺と同じではないかというと、本願寺はナムアミダブツと年中言っているが、禅宗は阿弥陀さんを年中言わないというのです。時々言うというのです。

 曹洞宗は帰依する本体が何か分からないのです。曹洞宗は寺の数では日本で一番多いのです。多いのに何を信じているのか、信仰の対象が分からないのです。釈尊は信じていますが、釈尊は仏法の根源であって、教祖だと言っているのです。

 教祖を崇めるのはいいのですが、お釈迦さんを念じるというのでもないのです。そこで、日本の仏教は目的を持っていないことになるのです。仏教はこういう宗教です。ひどいものです。

 般若心経についても、空というものは一体何か。空にどういうご利益があるのか。何処が有難いのか分からないのです。

 人間が生きていることが空です。他に実があるのです。実がイエスです。固有名詞の人間が生きていることが空であって、私たちが生きていることの実体は、イエス・キリストそのものです。これを認めることをイエスが主であるというのです。主であるということは、イエスが私の本家であるということです。固有名詞の私は影になるのです。そうすると、自分が空であることが分かるのです。

 私は影であって、イエスが本体である。だから、イエスが主であるとなるのです。イエスが主であると考えなければ、聖書は成立しないのです。般若心経も成立しないのです。

 人間の五官は前世の生活を現世で復習しているのです。目で見ているのは神の国です。食事をすると味がする。味というのが神の国です。神の国を経験していることが生きているということです。

 生きているということは神の国を経験しているのです。人間の実体はイエスです。イエスが生きていたことが、私たちの本当の命だったのです。私たちが今生きているのは、イエスの影です。

 人間は影として生きていますから、救われる必要がないのです。人間はこの世に生まれた時からイエスの影です。

 釈尊が見た一見明星は、イエス・キリストによって成就したのです。一見明星もイエス・キリストも同じことです。釈尊から見れば一見明星は五百年程後に成就したのですが、私たちは現われてしまった明星を見ているのです。

 マタイによる福音書の二章は、明けの明星がこの世に現われて、これがキリストになったということを書いているのです。それは、東洋のインドから来た人によって語られているのです。

 ですから、東洋から出て来た人がキリストを証しなければ、イスラエルはキリストが分からないのです。私たちがキリストを証しなければ、再臨のキリストも分からないのです。

 般若心経の実質、実体が再臨のキリストになるということは、私たちが説明しなければならないのです。

 こういうことを勉強するためには、男はどうしても女を勉強しなければならないのです。これはどうしても通らなければならない道です。骨の骨、肉の肉とはそういうものです。

 女の見方は世界観の中心になるのです。神が女を造ったということは、人間に新しい世界観を与えるための中心構造です。

 イエスを学ぶと本当の女が分かるのです。今までのキリスト教でこんなことを言った人は一人もいないのです。イエスも女の本質については語っていないのです。

 聖書を学ぶということは、二重、三重の難しさがあるのです。

 イエスが聖書を見ていた見方しか、本当の聖書を見る方法はありません。人間の命の本物を本当に見たいと思ったら、イエスの見方しかないのです。

 人間は自分がいるということについて説明ができないのです。自分のことになると説明ができないのです。

 日本に天皇制がありますが、天皇陛下ご自身が天皇制をご存じないのです。色々な学者が天皇制について、歴史的、法律的に説明はしますが、これは現在実存している天皇の説明をしているのです。

 現在の天皇がなぜ実存しているのか。どうして天皇制が日本にあるのか。これが天皇ご自身に分からないのです。天皇制がなぜ日本にあるのかについての説明が何処にもないのです。

 天皇制がなぜ天皇制であるのかの説明ができない。これは人間がなぜ人間であるかの説明ができないのと同じです。なぜ人間が良い家庭に住んで、おいしい食事を食べたり、車に乗ったり、インターネットをすることができるのか。この説明ができないのです。

 人間だから家に住み、きれいな服を着て、車を運転する。人間だからできて当たり前となぜ言えるのか。

 猿と人間となぜこんなに違うのか。人間がなぜ人間であるのかという説明は一切できないのです。なぜ神が人間を人間として取り扱っているのかということが、一切説明できないのです。

 これは聖書を勉強するしか分かりません。人間とは何かについて正しい説明をしているのは聖書しかないのです。仏教にも日本神道にもありません。

 地球がなぜできたのかについては聖書を見るしかないのです。

 自分の魂は長らえなければならないものです。人間の霊魂は長らえずには死ねません。肉体は滅びます。肉体は消耗品ですから、古くなれば使えなくなりますが、魂は消えません。これは永遠に繋がっていくのです。

 死ぬことができないものが人間の霊魂です。だから、どうしても自分が死んでから後の永遠の姿を、見通していなければならないのです。

 死んでから後の永遠の姿を見通そうと思えば、自分自身の霊魂の問題、 精神構造の問題をはっきり認識する以外に方法はありません。

 水と霊とによって新に生まれて、神の国に入ることを実行するしかないのです。水から生まれること、霊から生まれること、そして、神の国に入るのです。きちっと神の国に入っておかないと、現世を去ってからひどい目に会うのです。

 人間の霊魂は神の国に入ったら安定するのです。神の国に入ってしまわなければ安定しないのです。安定しないままで心臓が止まると困ることになるのです。

 新しい命に生きようと思えば、新しい世界観を持たなければいけないのです。この世の常識を持ったままの状態で聖書を信じていてもだめです。

 命は人間の精神構造ですから、自分の物の見方が変わらなければいけないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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