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聖書に次のようにあります。

「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛したのである。私の愛の内にいなさい」(ヨハネによる福音書15・9)。

人間は愛の対象として造られたのです。もう一つは神の御業を行うものとして造られたのです。例えば、イエスが父の御業を行ったように、神の代行者として職務をとるために造られたのです。

パウロがローマ人への手紙の第八章十七節で、「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」と言っています。子として生かされているということは、相続人となるためなのです。相続人となるということは、当然神のなさる業を代行することを意味するのです。

かつて、天使の長であったルシファーが、神の業を行うことによって、自ら神のごとき者であるように考えた。そうして、自ら神の思いを持つに到ったのですが、それと同じような思いを、人間が悪魔に持たされたのです。人間が神のようになったのです。

神のようになったということは、悪魔のようになったということです。悪魔が持っていた心理状態がそのまま人間に乗り移ったのです。悪魔自身が神のごとく思い上がったのです。その思い上がりが、そのまま人間に伝承されたのです。

善悪を知る木の実を食べたことによって、つまり悪魔の言葉に従ったことによって、悪魔の言葉が人間の中で実を結んだのです。その結果、悪魔と同じような考え方をするようになった。そうして、自分の立場、自分の考え、自分の経験を第一に考えるようになったのです。これが人間が神のようになったことです。これが堕落の内容です。

神の愛の対象となる人間、それから神の代行者となるべき人間という二つの面が、人間創造の目的です。まず神の愛の対象として造られたことが確認できないようでは、神の代行者としての自分を自覚することは、とてもできないのです。

愛の関係とはどういうことになるのか。ヨハネが、「神は愛である。神の一人子を供え物として捧げられた。これによって愛が分かった」と言っています。

新約の処置そのものが、基本的に愛の処置です。愛の実質が具体化されたものが新しい契約であり、また、新しい時代の本質でもあります。

人間的な愛は本質的に二種類あります。第一類の愛は親子の愛です。第二類の愛は、夫婦の愛です。人間相互の愛情においても、友情とか、人情とかという愛は人間的な愛です。夫婦の愛が希薄なものが、友情とか人情と同じものになるのです。これは親子の愛とは本質的に違うのです。

主従の関係とか、上役下役の関係は親子の関係になるのです。友情とか人情とかいうものは、夫婦関係の延長線上にありますし、愛国心とか、革命思想は親子関係の延長線上にあるのです。どちらにしましても、肉なるものは霊なるものとは全然違いますから、愛国心が信仰的なものであるとは言えないのです。

神と人との関係とはどういうものか。親子の関係と夫婦関係の愛を集約的に言いますと、一つの論理から出発しているのです。愛は本質的に相互の理解がなければならないのです。意志が疎通していかなければならない。意志を疎通させるために、一つになる必要があるのです。聖書はこれをインマヌエルと言っています。神の御名、エホバの御名はイズ(is)です。これがインマヌエルを意味するのです。イズがインマヌエルの根本原理です。

共にいるということが相互理解の根本であり、不可欠の条件です。親子というもの、夫婦というもので、最も酷使しているのは共にいるという条件です。共にいるという事実です。最も親子の場合、子供が大人になって結婚すれば共にいませんが、子供の時代には共にいたのです。共にいたということが、親子の愛情の基本になっているのです。

里子に出された子供は、親子の愛情はほとんどないのです。全然ない人もいるのです。インマヌエルという条件がなかったからです。親子の場合は、共に生活しているということだけで、基本的な愛情関係は成立するのですが、相手は子供だからそうなるのです。

子供と大人との関係においては、一緒にいればそれだけで愛情が成立するのです。大人どうしなら、嘘も言いますし、おべっかも言います。また、インチキもしますが、大人でも子供相手なら嘘を言わないのです。インチキも言わないのです。駆け引きしたり、顔色を見たりしないのです。子供は子供で、大人の言うことをストレートに受け取ることになるのです。素朴で純真な交わりになるのです。これが愛情の基本になのです。

夫婦の場合は両方共大人です。だから、ただ一緒にいればいいとは言えないのです。親子の関係なら、幼年時代、少年時代に一緒にいるだけで愛情は成立しますが、夫婦の場合はお互いにひねくれているのです。焼きもちを妬いたり、誤魔化したり、嘘を言ったりするのです。いつも駆け引きをしているのです。

夫婦の場合は共にいるということだけでは、愛情関係は成立しないのです。相互に率直に自分の意見を相手方に伝える必要があります。そうして絶えず意志の疎通を計る努力をしなければならないのです。これが夫婦の条件になるのです。ただ肉体的に交わっていればいいというのではないのです。

肉体の交わりは第二義、第三義の問題であって、重要なことではありますが、心の交わりの方が大切なのです。肉体の交わりがある場合には、心の交わりをも十分に考えなければいけない。そうしなければ、やがて敵どうしになるのです。性の交わりがあるために、夫婦がかえって敵どうしになるのです。

性の交わりがなければ、憎んだり、妬んだりという深刻なトラブルは起きないのです。夫婦の関係は性の交わりがあったのですが、心の交わりがないと憎みあうことになるのです。これが夫婦の非常に微妙な点なのです。夫婦は本当の味方になれますが、本当の敵にもなるのです。

夫婦の場合、相互の意志の疎通が欠けますと、心理的に夫婦ではなくなってしまうのです。交わるということは、一つになるためです。心理的にも、肉体的にも一つになるためです。二つの人格が一つの人格にとけあうことが、交わることの目的です。これを考えないで交わっていたり、一緒に住んでいたりすることが、偽善行為になるのです。そういう偽善夫婦が世間にはいっぱいいるのです。

現在のこの世の夫婦は動物的な野合です。盛りのついたオス犬とメス犬が街角で出くわした。そうして野合した。これが結婚だと思っているのです。これは全くの野合です。こういうものは本当の夫婦とは言えないのです。こういう夫婦ばかりです。だから、夫婦が敵どうしになっていくのです。

こういう人々は今に痛烈な裁きを受けることになるのです。今の社会はホモという動物の社会です。動物以上の倫理性、宗教性、哲学性を求めようというのが無理なことかもしれないのです。だから私の魂のことは、ほっといてほしいというのです。魂の結合のことを全然考えていないのです。肉体の結合だけを考えているのです。こういうものは聖書から見て本当の夫婦とは言えないのです。肉体的に一体であるなら、精神的にも一体でなければならないのです。

親子関係も現在ではなってないのです。親は虚栄心を子供において満たそうと考えているのです。良い学校へ行って、良い社会に入り、良い結婚をさせようと考えている。ところが、子供が成功してお金持ちになると、親のことはないがしろにするのです。親は何のために子供を育てたのか、子供から捨てられるために、育てたようなものです。

子供に一生懸命になればなるほど、子供は親から離れていくのです。これが世間の通例です。子供に見捨てられたと言って、怒っている老夫婦ばかりになるのです。これは夫婦も親子も全然理解されていない。愛が全く理解されていないから起きるのです。

「多くの人々の愛が、冷ややかになるだろう」とイエスが言っていますが、愛が現代では全く理解されていないのです。理解されていない愛の関係は有りえません。ただ利害関係があるだけなのです。教育ママは利害関係から発足している思考方式です。こんなものは正常な親子関係とは言えないのです。現代の状況では、親子とか夫婦とかいうのがおかしいのです。それほど、非倫理的になっているのです。

自分ができなかったことを子供にさせるということは、自分の欲望を子供において満足させようということであって、こういうことを取り上げたらきりがないのです。

神と人との関係は本質的には何であるのか。本質的にはインマヌエルです。インマヌエルについても、親子的なインマヌエルと夫婦的なインマヌエルと二通りあるのです。

「共にいます」という一体的な形で生きているということが、親子の本質になるのです。大人の状態で言えば夫婦になるのです。子供的な場合を言いますと、生かされているということが親子関係になるのです。生かされている、養われているのです。命と息と万物のすべてのものを与えて、生かされている。これを神自ら人間に与えて、人間を生かしておいでになる。これは基本的な意味でのインマヌエルの事実ですが、これは生かされているという意味において成立しているのです。この状態が親子の関係です。

そこで、人間が正確な、また、正当な意味において神を意識する状態になると、交わりという事実が発生します。信じるという事実が発生するのです。祈るという事実が発生するのです。ここに親子の関係、一方的に生かされているという関係から、相務的な形に発展するのです。

相務的な形に発展するということは、お互いに意志をもって交わるということです。これが夫婦関係になるのです。生かされているというのは、一方的な処置です。親が子供を生かしているようなものです。子供が親を理解する、さらに、理解がだんだん深まるにつれて、親の苦しみとか、親の悲しみとか、喜び、楽しみをだんだん深く理解するようになるのです。そうして、お互い心の交わりが発生することになるのです。

親子の交わりが夫婦の交わりに発展するのです。イエスと神との関係がそうでした。神は人間存在の本源です。本源であると共に、存在そのものでもあるのです。神が人間の本源であるということは、私たちの魂に肉体を与えてこの世に送り出して、私たちを養っているという事実があります。これが本源です。

それと同時に、私たちはこの世に遣わされただけではなくて、現在、毎日存在させられているのです。イエスが私を遣わしたお方と言っていますが、これが本源なる父です。神がイエスを遣わしたように、私たちも遣わされたのです。この世に生み出されたのです。その本源が父です。

それと同時に私たちは、毎日生かされているのです。毎日存在させられている。存在させられているということは何かと言いますと、一つの交わりです。例えば、お腹が空く、そこで、食物が与えられる、これが交わりです。神が人間と交わっているのです。これがお腹が空いて食物を与えられたということです。また、鼻から息を出し入れしていることも、神と人が具体的に交わっていることです。

呼吸機能とか消化機能とか排泄機能というものは、父なる神と子なる人間の関係が、具体的に行われている状態をさすのです。これが生理機能です。心理機能も同じです。その実質は何かと言いますと、イズ(is)です。端的な例を言いますと、お腹が空いたということは、Be動詞です。そういう状態が現われたのです。ところが、食物が与えられたということも、Be動詞です。一人称的な、あるいは三人称的なBe動詞が、色々な形で現われている。これが存在そのものです。

人間が存在させられているということ、例えば人間が人間であること、犬が犬であることが、イズです。「である」ということがなかったら、存在しないのです。人間が人間であるということがなかったら、人間は全く成立しないのです。ですから、存在の本源はイズです。しかも、イズが毎日毎日、継続的に働いているのです。

目が覚めたら目が覚めたというイズがあります。働いたら働いたというイズがあるのです。仕事をしていても休んでいても、人間のあらゆる事がらはイズです。Be動詞が人間存在をそのまま現わしているのです。これが神の御名(実体)の働きです。

親子という関係と、夫婦という関係とが、人間と神との関係において成立しているのです。

聖書には造り主なる神という言葉があります。創造者である神という発想と、もう一つ主なる神という発想があるのです。造り主と主なる神とどう違うかと言いますと、造り主は親子関係をさしているのです。この造り主が救い主にもなるのです。造り主が同時に主になるのです。主なる神というのは、夫婦関係における夫を意味するのです。主は夫のことです。

神は造り主であると同時に夫です。このことを最も端的に表現したのが、イエスの立場です。父が私を愛したようにとイエスが言っているのは、父が父としてイエスを愛したと同時に、お互いに相互の交わりとして、夫として、父がイエスを愛したのです。この二つの関係を意味するのです。

子供としての少年時代に接した神と、大人になってから接した神とでは、質的に愛が深まっているのです。親子関係が霊的に至純な形で伸びていきますと、深い交わりという形になって発展します。「父が私を愛したように、私もあなたがたを愛した」とイエスが言っていますが、これは父がイエスを愛した愛を言っています。私もあなたがたを愛したというのは、導き手としてのイエスが弟子たちを愛したことを意味するのです。この愛は魂における交わり、霊なる交わりをイエスは弟子たちに対してもしようと考えたのです。

イエス在世時代においては、完全には成立しなかったのですが、彼が復活昇天した後には、真理の御霊が助け主としておいでになった。キリストの御霊が降臨したもうたことによって、心の交わりとしての愛が成立したのです。イエスは初めからこれを目標にしておられたのです。「私が父の元へ行ったなら、別に助け主を送るであろう」とイエスが言っておられるのです。

私たちは父なる神と主なる神と二通りの神を弁えなければならないのです。「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛する」と言っています。このあなたがたを愛するというのは、頭なる教会が体である教会を愛する状態です。

「教会とキリストとの関係は、頭と体との関係だ」とパウロが言っていますが、これは夫婦の関係を意味します。キリストが教会を愛するのは、夫が妻を愛する愛になるのです。私もあなたがたを愛したという言い方は、夫が妻を愛する表現形式です。イエスはそういう愛し方で弟子を愛したのです。

一方、父が私を愛したという言い方は、親子関係の愛し方になるのです。インマヌエルという状態において、二つの愛が同時に示されているのです。

父が子を愛する場合、子というのは一人しかいないのです。一人というより、一種類しかないと言った方がいいでしょう。一つの種類しかないのです。

人間はたくさんいます。現時点で世界中に六十八億人もいますが、種類は一つです。父が子を愛する愛というのは、主なる神が魂を愛する愛をいうのです。これは一つのやり方しかないのです。

父なる神がイエスを愛したもうた愛が、一つあるだけです。これ以外の愛し方はありません。だから、イエスが父に愛されたように、私たちも父に愛されるしか方法がないのです。イエスの愛にいる以外に、父の愛を自分のものにすることはできないのです。イエスの愛にいるということは、夫婦関係を意味しますが、同時に父が子に対する愛を経験することになるのです。

父なる神が子を愛する場合、子とは何かと言いますと、魂のことです。子としての魂を愛しているのです。それ以外に神は愛さないのです。父の子としての魂の他に、人間はいないのです。だから、イエスを愛した愛の他に、人の子に対する愛は有りえないのです。イエスが神に愛された愛の他に、愛される愛はないのです。愛された経験を理解したのは、イエスだけです。また、夫としての父の愛を正しく理解したのも、イエスだけです。だから、イエスだけが人を愛することができるのです。

なぜなら、イエスは父の愛を正しく経験したからです。愛を正しく経験した人だけが、人を愛することができるのです。愛を正しく経験しない人は、人を愛することはできないのです。だから、夫は、父なる神の愛を経験しなければならないのです。夫はキリストとして妻を愛するのです。これは父なる神の愛を経験することです。そうして、そのような愛で妻を愛することです。

このように実行することはなかなかできませんが、このような原理を弁えて実行しようと思っていれば、少しずつ実現できるのです。原理を理解して、そのようにあるべきだと思っていれば、だんだん実行できるのです。

イエスは父に愛されました。そして、父の愛をよく理解しました。だから、人を愛することができるようになったのです。父が私を愛した、そのように私もお前たちを愛すると言っている。イエスは父なる神の愛を経験したからできたのです。愛を経験した人だけが、他人を愛することができるのです。

「汝ら互いに相愛せよ」とイエスが言っています。これを実行するためには、皆様はまず神の愛を経験しなければならない。愛は経験そのものです。夫が妻を愛すれば、妻が夫を愛することができるのです。愛されていない妻が、どうして夫を愛することができるのでしょうか。愛されていない妻は愛を知らないのです。愛を知らない妻は夫を愛することはできないのです。

夫は妻を愛し続けるべきです。愛はこういう形で経験すべきものです。私たちが夫婦であるということは、神と人との愛を生活において、具体的に経験すべきであるということです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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