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  • 管理人chaya

矛盾


人間は現在生きている自分を、どうしてもかわいがりたいと思うのです。その自分から抜け出さなければならないのに、自分を愛している。これはまさに、肉の人間が地獄であることを証明しているのです。

人間が救われるということは、あるべからざるほどの重大な栄光にあずかることですから、少々の苦しさを乗り越えなければならないことは、極めて当然のことです。しかし、皆様は自分の気持ちを捨てることが、どうしてもできないのです。

救われるということは、第三の天において神の右に座しておられるお方と、同列に扱われるくらいの光栄です。人間創造の本来の素質から言えば、神にかたどりて、神の形のように造られているのですから、イエスと同列に扱われて、キリストの花嫁として認められるくらいの素質がない訳ではないのです。しかし、それは素質であって、皆様一人ひとりにその値打ちがあるというのではないのです。素質というのは、人間存在の本質を言っているのです。現在の人間存在の形を言っているのではないのです。

人間存在の形をはっきり捨ててしまえば、初めて人間存在の素質が表面に現われるようになるのです。そうなれば、イエスと同列に取り扱われるという破格の扱いに浴することになるのですが、現在生きている自分が救われるとか、自分の今の気持ちを何とか分かってほしいとかということを考えていたのでは、しょうがないのです。

本当に自分を捨てるという気持ちにならないでしょうか。自分の霊的完成というのは、何か片手間でするような気持ちですることは不可能です。本当にやる気を持つことです。本当にやるべきだと思うことです。やる気を起こしたら、その気持ちを持ち続けることです。そうすればできるのです。そんなに難しいことではないのです。

神は皆様に不可能を強いているのではありません。肉と妥協することをやめなさいと言っているだけです。自分の肉性と妥協することをやめなさいと言ってるのです。肉性と妥協することをやめようと決心しても、すぐにできるとは言えませんが、その気持ちがあれば、どこかその人の態度なり、生き方なりに、違った所が出てくるはずです。すぐに完全とはなりませんが、やる気があるということは、他人から見ても分かるのです。顔を見ても分かるのです。

毎日の生活を通して、必死に自分の肉と闘おうという姿勢ができるはずです。自分自身を自分で服従させるような痛烈な、厳しい感覚が起きてくるはずです。起きてくれば、それが人に分かるはずです。結局、福音の根底に対する理解が足りないから、こういうことになるのです。

人間という奇妙な生物が存在するということだけでも、真面目に考えたら、もっと真剣になれるはずです。自我意識というものは、悪魔の見本です。これと喧嘩することなしに、救われるということは有りえないのです。

人に言われるまでもなく、自分で自分の肉の気持ちを憎む気持ちになれば、一番いいのです。しかし、そうなれない場合は、しょうがないから言わなければならないのです。少々残酷な扱いをするかもしれませんが、放っておいて地獄へ行くよりは、神の国へ追い込む方が、その人のためになるのです。

イエスは、「右手が邪魔になるのなら右手を切り捨ててでも、神の国へ入れ」(マタイによる福音書5・30)と言っています。これを実行したらいいのです。

自分というのは悪魔的な存在です。これをはっきり理解しなければ、十字架をまともに受け止めることはできません。十字架を受け止めるためには、どうしても自分を憎まなければならないのです。

聖書は次のように書いています。

「もし誰かが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしてなんの手柄になるのか。しかし、善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。

あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。

キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。罵られても罵り返さず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しい裁きをする方に、一切をゆだねておられた。

さらに、私たちが罪に死に、義に生きるために十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われたその傷によって、あなたがたは、癒されたのである。

あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は魂の牧者であり、監督である方のもとに、立ち帰ったのである」(ペテロの第一の手紙2・19〜25)。

ここでは、人間が生存することについての矛盾性を説明しているのです。イエスがこの世で生きていた生き方は、人間存在の矛盾をそのまま見せた生き方をしていたのです。二十一節から二十四節はそれを意味するのでありまして、まともな人に従うのは当たり前ですが、まともではないような人、冷酷である人、情け容赦のない人にも従いなさいと言っているのです。

なぜそのような矛盾に耐えなければならないのかと言いますと、人間が肉体的に生きているということは、矛盾をのむためです。矛盾をのむために生きているからです。

今の時代は、人間生活にあまりにも矛盾がなさすぎるのです。何でも合理化しようと考えている。生活的に、また、思想的に厳しすぎるような所があると、それを皆で取り除いて、矛盾をなくそうと考えているのです。これがいわゆる人道主義です。人権主義です。

人権主義、人道主義のために、人間が非常に悪くなっているのです。自分を憎むということがなくなっているのです。甘やかされているからです。人間が甘やかされたら、心理状態が腐ってしまうに決まっているのです。ところが、甘やかされることが良いことだと考えている。

民主主義という考え方は、まさに現代文明の人間の悪さの典型的なものです。皆様はこういう時代に生きて、福音の約束に対する絶対的な気持ちを全然持っていない異邦人の典型ですが、こういう人々を世界で最高のレベルにまで引っ張りあげようとすることは、大変なことです。これをしなければユダヤ人が救われないから、これをしているのです。これを皆様が考えて頂ければ、もっと積極的に躍進することができるでしょう。

伝道ということは、神を助ける運動です。神を助けるということのためには、ある程度の苦しみはしかたがないのです。もし誰かが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることであるとあります。神によみせられるということを簡単に書いていますが、よみせられるということは、大変なことなのです。キリストと同列に扱ってもらえるということです。

あなたがたは、不当な苦しみを受けるように召されたと言っています。人道的なことを無視して、苦しまなければならないように召されたのだと、ヤコブが言っています。これはイエスが歩ませられた道です。イエスが歩ませられた道を、皆様も歩ませられているのです。

こういう待遇に対して、同意できるかということです。イエスによって救われるのは有難いが、イエスと同じような道を歩ませられるのはお断わりだというのは、間違っているのです。

人間存在の位置というものをよく考えて頂きたいのです。天地が造られた。まず自然現象が造られた。植物が造られ、動物が造られ、あらゆる森羅万象が造られた一番最後に、人間が造られたのです。どうして造られたのかと言いますと、神の言葉の働きが万物を造ったのであって、これは正しく言えば万物が造られたのではないのです。現象が現われただけのことです。万物があるのではなくて、現象が現われたのです。被造物という言い方もできます。造られたという言い方もできるのですが、本当は造られたのではなくて、現われたというべきです。

時間というものはありません。瞬間の現前があるだけです。瞬間の現前以外に何もないのです。瞬間の現前というものでさえも、時間ではないのです。時という言い方もあるでしょう。それでは、時とは何か、この説明ができないのです。時もないのです。現前というこの瞬間を時と名づけられないことはありません。しかし、それは時間とか空間とかというものとは違うのです。

無から有が呼び出されているのです。有ではないものが、有として呼んでいるということがあるだけです(ローマ人への手紙4・17)。だから、物があるのではなくて、現象が現われているだけです。神が呼んでいるだけのことです。

では、神が呼んでいるとは何かと言いますと、言葉の働きです。言葉の働きの本質は何かと言いますと、理性です。天地の理(ことわり)の働きです。天地の理が、動的に論理的に作用するのを言葉というのです。その天地の理が固まって、人間の本性になっているのです。それがこの世に現われているのです。これが人間です。天地創造の原動力、有ではないものを有と呼んでいる原動力が言葉です。それが人間となって現われているのです。

天地万物を貫いているロゴスの実体が人の魂として現われているのが人間です。これが御子です。それほどすばらしい存在が皆様です。この魂が固有名詞の感覚に閉じ込められているのです。天地のロゴスである尊い存在が、固有名詞というばかばかしい妄念によって閉じ込められているのです。

御霊を受けたということは、天地を動かしているエネルギーと一つになったということですが、肉的に生きている人間が、神的に生きようとし始めたということです。本当に肉的に生きているという自分の立場、肉的に生きているという自分の足場を全部放棄してしまうのです。そうすれば初めて、御霊に満たされるという方向に進むことができるのです。

本当にやる気が起きない原因の一つは、創造についての考え方が甘いからです。

悪魔の反逆によって、宇宙に矛盾が発生した。どんな矛盾が発生したのかと言いますと、悪魔という人格が、自我意識を創造したのです。「我有り」と考えたのです。我有りと考えると、現在おかれている状態を正当化しようと考えるに決まっています。

悪魔は現在おかれている立場を正当化しようと考えたのです。闇が淵の表にあるということを、自分自身の実力で闇が淵に有りうるのだと考えた。闇という人格が宇宙の表面に立つのが当たり前だと考えた。こういう形で矛盾が発生したのです。

悪魔は、現状を固定して、それを認識しようと考えたのです。そこで、この矛盾が発生したことに対する神の反応が、現象を造るという形で現われたのです。物を造ることによって、矛盾を矛盾として示そうとしたのです。これが天地創造です。物が造られたということは、矛盾が示されたということです。物が造られたのではなくて、現象が現われたのです。現象はあるように見えて、実はないのです。

悪魔の考え方は、自分の位がないにも係わらず、それをあるように考えたのです。我という人格がないのに、それをあるように考えたのです。悪魔の考え自体が、自我意識でも、また、現在の位でも、すべて実体はなかったのです。悪魔は実体がないものをあるように考えた。そこで神は、悪魔の考え方をそのまま現象として現わしたのです。悪魔の考えを、そのまま形に現わしたのです。これが現象です。

現象は矛盾そのものです。無いものを有るように呼ぶということが、矛盾なのです。神があえてそれをしたのです。現象は矛盾の端的な表現形式です。矛盾の現われです。この意味で言えば、マルクスがいう弁証法的唯物論という名題は正しいのですが、物はないのです。

弁証法的に物を見れば、物は存在しないとみなければならないのです。ところが、マルクスは弁証法的唯物論というテーマを掲げていながら、物があると考えた。これが唯物史観です。これがおかしいのです。

弁証法的唯物論というテーマを掲げた以上、物はないはずです。ところが、物があると考えた。こんなばかなことはないのです。弁証法的唯物論であるなら、物はないはずです。唯物史観が成立するはずがないのです。

マルクスが掲げたテーマは正しかったのです。弁証法的というのは、物は物としてあるように見えるけれど、流れとしてあるだけであって、物それ自体があるのではないのです。物はないのです。物はあるように見えて、実はないのです。これが矛盾です。

悪魔は、自我というありもしないものをあるように考えた。闇が淵の表にあるという自分自身の位を安定させよう、固定させようと考えた。彼の位は神が与えた位であって、悪魔自身の力による位ではなかったのです。ところが、自分自身の位だと考えた。悪魔にそういう矛盾が発生したので、悪魔の思考方式を現象という形で見せたのです。

おまえが考えているのは、このとおりのことだと言わんばかりに現象を現わしたのです。悪魔は現象が実体だと思っています。神が現象を造ったので、それをそのまま承認してしまったのです。現象は実体だ、見えるままの状態で物が存在すると考えたのです。これが人間の根性に皆しみこんでしまっているのです。これが原罪です。

皆様がもう一つ徹底しない、やる気が出ないというのは、現在生きているものに未練があるからです。今生きている位置、位、あり方を実体としてふまえているからです。それを無意識に守ろうとしているのです。固有名詞の自分のあり方、立場を尊重しようと考えるのです。

神が現象を造ったのは、現象を通して、矛盾そのものを悪魔に見せてやろうとしたのです。悪魔はそれを矛盾そのものとして受け取らないで、現象を合理的なものとして受け取ったのです。それが今の人間の原罪です。今の人間の思想が全部悪魔の思想になっているのです。

ところが、皆様の魂は天地創造の根源になっている原理です。天地創造の中心的な力になっている理性(ロゴス)が皆様の本性です。この理性が現在肉体を持って生きているのです。

皆様の本性から見ると、現実を真実だと思ったらいけないのです。現象を実体だと思ってはいけないのです。ところが、皆様は自分の本性で自分を見ないで、肉性によって見ているのです。目に見える形があると思っているのです。自分自身の思想の根底に、とんでもない間違いがあることを認めなければいけないのです。

神の味方になって、神の処置を素直に受け取ったら、皆様は本来の神の子としての位を与えられて、永遠の命をはっきり自分のものとして与えられるのです。そうして皆様は、神の子としてはっきり認識して、キリストと同じ待遇を与えられるのです。

人間はまだ生まれてきていないのです。まだ生まれていないです。生まれるという言葉は自動詞です。動詞には自動詞と他動詞がありますが、生まれるというのは自動詞になるのです。その人自身のことです。生まれるというのは、自意識が働くことをふまえているのです。自意識が根底に存在しなければ、生まれるとは言えないのです。

ところが、今の人間が生まれたのは、自意識には関係がないのです。そうすると、生まれたという言葉が使えないのです。人間は自意識が関係しなかったら、生まれたとは言えないのです。ところが、人間は生まれたと思っているのです。人間は自動詞と係わりがない生まれ方をしているのです。自分の意識に全然関係ない親が勝手に生んだのです。親が勝手に生んだものを、どうして自分が生まれたと思うのか。人間がまだ生まれていないというのは、こういう理由から言えるのです。

そこで神は、人間を改めて生まれさせようとしているのです。生まれさせるために、この世に送ったのです。自分の意識によって、生まれることに成功したら、初めて命がその人のものになるのです。そうすると死ななくなるのです。

自意識に基づいて生まれたら、本当に生まれたのです。まず私たちは、神の意志によってこの世に生まれさせられたのですが、それは自分が生まれたのではありません。そこで神が生ましたことと、自分の意志によって生まれたこと、他動性と自動性が一つになると、初めて完全動詞になるのです。ここではっきり生まれるという事実が現わされるのです。

神から生まれさせられただけでは、生まれたという言葉が使えないのであって、私たちは自分の意志によってはっきり生まれるのです。聖霊と聖書によって、新に生まれることに成功すれば、初めて一人前の人間として神に認定されるのです。永遠の生命が保証されるのです。

皆様がこの手続きをふまずに生きていたら、必ず地獄へ行くことになるのです。生まれていないのに、生まれたような顔をして生きていたから、裁きの方へ行かなければならないのです。

私たちは生まれていないにも係わらず、生まれたような顔をして、人権とか、権利とか、資格とか偉そうなことを言っています。行使してはならない権利を行使しているのです。命や人生を不法占拠しているのです。人間がこの世で生きていることは、不法占拠です。自分のものではないのに、自分のものとして、勝手に生きているのです。

人間がこの世に生まれた原理をよく弁えて、この世に生きてはいたが、まだ生まれていなかったことをよく考えて、権利、権利と言わないようにして頂きたいのです。これが自分に対する第一の見方です。第二の見方は、私たちは現世にいる間に、生まれるということをどうしても経験しなければいけないのです。これを経験せずに死んでしまいますと、今まで生きてきたことが、全部盗んだことになるのです。

神は人間に生まれるという経験をさせるために、この地上へ送ったのです。ところが、この経験をしないで死んでしまいますと、今までおいしい料理を食べてきたことが、全部泥棒行為になるのです。それに対する代償を徹底的に取り立てられるのです。これが地獄です。

ですから、どうしても自分自身の意志によって、新しく生まれなければいけないのです。そうすれば、人生ははっきり自分のものになるのです。イエスはこれを実行したのです。罵られても、罵り返さなかったのです。憎まれても憎まなかったのです。人生の矛盾をのんでいったのです。

私たちが肉体を持ってこの地上にいることが、矛盾のシンボルです。人間が生きていることが矛盾のしるしです。だから、人生を合理化しようとしてはいけないのです。

新しく生まれるためには、神の御霊の助けと、聖書の教えによらなければならないのです。聖書と聖霊による導き以外では、どんな方法でもだめです。

新しく生まれることに成功すると、神の子としての本来の位置を回復することができるのです。これを復活というのです。本来の位置とは、神の子であるという位置です。

人間は理性を与えられてこの世に生まれてきました。これは神にかたどりて神の形のように生まれてきたのです。内容的にも、実体的にも、私たち自身が神の形であり、神の御子であることが、そのまま認識できることになるのです。

肉的に生きてきた自分ではない。霊的に生きてきた自分に目が開かれるのです。肉体的に生きているのは自分ではない。霊的に生きている自分、理性の塊として生きている自分が、本当の自分です。

自我意識と現象意識が間違っているのです。イエスがこの地上で歩いたのと同じように、霊に従いて歩むことができるようになるのです。そうすると、私たちは王者の位を獲得することになるのです。大体、人間の理性が王者の理性なのです。王者の心です。世々限りなく王となるべきその心、そのエネルギーが、そのまま理性と良心になって人間に植えられているのです。

私たちが罪に死に、義に生きるために、イエスが来たのです。義に生きるというのが、新に生まれることです。現象感覚に死んで、霊なる感覚に生きることが、義に生きることです。そうなるために、十字架によって今まで生きてきた古い人間が、全部死んでしまっていることを、イエスが知らせてくれたのです。十字架をまともに受け取ることによって、今までの私たちの罪がきれいに消えてしまうのです。そうして、神の子としての新しい自分がはっきり自覚できるようになる。これがイエス紀元の時代です。

二十五節には、「あなたがたは羊のように迷っていたが、今は魂の牧者であり、監督である方のもとに立ち帰った」とあります。旧約時代の人間は、羊のように迷っていたのです。迷える羊のように、うろうろしていたのです。新約時代にイエス・キリストが現われたことによって、また、彼の十字架と復活とによって、人間に新しい魂のあり方が、はっきり示された。

今や皆様は、イエス紀元、西暦紀元に生きています。聖霊が降臨しておられるこの地球に住んでいます。これはそのまま神の国です。

今や皆様の魂は、魂の牧者の所に帰っているのです。皆様の魂は神の手に帰っているのです。今から神を信じなくてもいいのです。

羊のように迷っていた自分は、もういないのです。あると思う必要はないのです。これが信じられないのが異邦人の情けなさです。これを克服して、神の処置を受け取って頂きたいのです。古い自分の気持ちはもうないのです。ないものを問題にしようと思うのが間違っているのです。

実は、克服しなければならない自分は、もういないのです。新約時代の人間の魂は、全部神のものです。イエスと同じものです。すべての人間は皆救われているのです。信じても信じなくても、皆救われてしまっているのです。

ところが、これを信じようとしない。信じない人はひどいめにあわされるのです。このことをよくよく弁えて頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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