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  • 管理人chaya

はじめに


人間が死ぬというのはなぜか。自分の気持ちで死ぬのです。自分の気持ちで勝手に死ぬのです。命を見つけることができないので、死なねばならないことになるのです。それだけのことです。

イエス・キリストの復活によって、人間の命が新しくなった。これが紀元元年です。仮に、イエス・キリストの復活がなくても、人間は死なない命を持っているはずです。そうすると、イエス・キリストの復活は、余計なことのように思えるかもしれませんが、そうではないのです。これが難しいのです。

人間は、十重、二十重に誤解しています。人間の常識、知識は、錯覚、誤解の塊です。しかし、自分が錯覚していますから、錯覚だとは思いません。自分が考えていることが錯覚だと分かれば、自分が考えていることを捨てるはずです。それができないのは、自分は間違っていないと思っているからです。

自分はまじめに生活していると思っている。これが間違っているのです。これは道徳的な間違いとか、法律的な間違いではありません。生命の本質についての間違った考えを、握り込んでいるのです。先祖代々、親代々、世間一般が全部そうだったから困ったものなのです。十重二十重の錯覚というのはそういう意味なのです。

アブラハムは聖書ができる前に神を信じていました。もちろんアブラハムは、イエスがキリストであることを知りません。従って、イエス・キリストが復活したこととは、歴史の流れから言いますと、何の関係もないことのように思えるのです。ところが、アブラハムが神を信じていたその信じ方が、イエスと同じだったのです。

イエスが復活して、復活の命を人々に与えた。例えば、タルソのパウロがもらったのです。パウロはイエスの復活を知っている人間です。しかし、パウロはイエスの復活にどうしてもあずかりたい。復活の命の本物をどうしても知りたいと切願しているのです。既に得たというのではない、得たいと思ってそれを追い求めていると言っているのです。本当にそれを得るために、一生懸命勉強すると言っているのです。

実は、パウロはイエスの復活が分かっていたのです。分かっていたからこういう言い方をしていたのです。イエスの復活が分かった、信じたというのは、今という瞬間です。明日になれば、それはもう昨日のことです。人間は瞬間瞬間、違った命に生きているのです。

皆様の命の本質は生命的に言えば、鼻から息を出し入れしているだけのことです。神から見れば、ただの息にすぎないのです。鼻から息をしているのが人間です。瞬間瞬間に生きているのです。それを昨日も生きていた、明日もまた生きるのだという気持ちを持っていることが、間違っているのです。持ってもいいですけれど、明日生きる自分は、今生きている命とは違います。今生きている命を、そのまま明日生きるのではないのです。今日は今日の命、明日は明日の命、これが人間の命の実質、実体です。

そういう訳ですから、皆様は昨日生きていた命の考え方を、今日も持ち続けなければならないと考える必要はないのです。間違っていたらしいと思ったら、やめたらいいのです。

人間は知らず知らずの間に、勝手に泥棒根性を持っています。皆様は人に騙されたことが、何十回も何百回もあるでしょう。そこで皆様は人が信じられなくなっているのです。そのために、皆様自身が他人から言われる本当のことを信じられなくなっていますし、また、人の話を信用しなくなってしまったのです。お互いに信じられない国どうしが、条約を結んで嘘を言い合っている。だから、今の文明は潰れるに決まっているのです。

ただ神だけが本当ですから、神を信じたらいいのですが、今の人間は神を信じることができないのです。神を信じるための一番良い方法は何かと言いますと、神に惚れることです。惚れた相手には嘘がつけないのです。惚れ合うという形で、自然に心情を打ち解け合うことになるのです。神に惚れた者だけが分かるのです。これが宗教ではどうしてもできないのです。神に惚れますと、神はその人を絶対に裏切りません。清い心を持って神に接する者は、神の方でも必ず清くなります。ひがんだ根性を持っている者には、神もまたひがむのです。神は皆様の命の根源です。これに惚れずに誰に惚れたらいいのでしょうか。

仏教の仏は、人間が造った概念です。宗教でいう神仏は、人間が造ったものです。こんなものは信じられません。

地球の命が、そのまま神の言になっています。なぜかと言いますと、地球が造られたことが神の約束です。約束とは、神の計画という意味です。計画は今はこのような状態ですが、将来はこのようになるという目的をはっきり造っている。これが計画です。計画も約束も同じ意味です。将来を当てにして、それに対して望みを持つことが約束、計画です。聖書はそれを書いているのです。地球が造られたことが、キリスト計画です。キリストという言葉は、神の地球計画そのものを意味するのです。

皆様が聖書を信じても信じなくても、これは地球そのものの絶対的な事実です。皆様の命に関する絶対的な事実です。皆様の命は聖書に書かれているとおりになります。例えば、神を信じれば救われると書いています。神を信じない者は滅ぼされると書いています。神を信じなければ、その人は聖書に書かれているとおりに滅ぼされます。これが聖書です。

聖書はキリスト教ではありません。キリスト教は信じても信じなくてもいいのです。聖書は皆様の命の本源であり、同時に皆様の命の行く末をはっきり書いています。聖書どおりにしか人間の命は動きません。また、世界の政治状態、社会状態も、聖書に示されているとおりになるのです。唯一無二の真実は、聖書にしかないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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