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  • 管理人chaya

二重人格


パウロは次のように言っています。

「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように」(ローマ人への手紙11・36)。

この万物は、万事万物を意味するのであって、ただ物質だけではないのです。すべてのものは神から出て、神によって成っているのです。そして、神に帰るのです。神から出てというのは、神自身の本質がそのまま万物になっているという意味です。この言葉をよくよく考えますと、これだけでも御霊が受けられるのです。

人間の悪い所は、どうしても自分と神とを対立関係において見ようとする癖があることです。これが自我意識です。これが罪の本性です。自分という存在を厳然たるものとして意識する。その発想で見るのです。そこで、何を考えても、何を経験しても、自分からの発想になってしまうのです。

自分が自然の中に広がっていくのではなくて、自然が自分を吸い取ってしまうのです。自然の展開が愛です。愛を感じるということは、自分自身が自然の中に吸い込まれてしまったこと、自分が自然の中に消えてしまったことを意味しているのです。

魂とは何かと言いますと、リビング(生かされていること)です。また、リビングが魂です。このことをよく考えてみますと、リビングがソールであるということは、リビングだけがソール(魂)ではないのです。

リビングだけがソールであるとすると、広がりっぱなしになってしまうのです。自然に吸収されっぱなしになってしまうのです。そこには当体がなくなるのです。リビングがソールであるというのは、ソールの一面です。もう一部は経験の当体です。

例えば、神が万物の主であると同時に、万物は神の展開です。神ご自身が展開しているのです。展開するという形で見れば、神が展開しているのです。

ところが、それを集約すると、神という一点に帰納するのです。神から出た万物は神に帰すべきものだから、神によって展開しているのです。神に帰するという一点において、集約されるのです。神はまず展開します。展開して成立させる。それを保って、集約して、一点に帰せられる。こういう働きをしているのです。その働き全体が神です。個々のものが存在しているのではない。そのような働きの全体が存在しているのです。

神という言葉は名詞です。万物の主体であるという意味の名詞です。神という主体がなければ、神から出るはずがないのです。神という主体があり、そこから万物が出たのです。

神という主体が、成っているという状態を展開しているのです。神というのは、拠点であると同時に展開です。展開であると同時に拠点です。拠点と展開が一つになっているのです。全体が一です。一が全体です。一つがオールになっている。オールが一つになっているのです。全体と一つが交互に展開しているのです。

神という言葉はまず名詞ですが、展開すると、動詞になるのです。これと同じことが魂に言えるのです。魂は神の元から出て、この世に送り出されました。魂は人間の経験の拠点です。これが生きている、生かされているという形になって展開するのです。この時にはもう動詞になっているのです。また、形容詞にもなるのです。魂という名詞は、形容詞にも変化するのです。

リビングである魂は動詞的な魂です。救われるか救われないかになりますと、名詞的な魂になるのです。魂が牧者に帰するという場合には、名詞的に扱っているのです。名詞としての魂と動詞としての魂と両方あるのです。

こういうことを心得ていなくて、固定した観念に落ち込んでしまうと、宗教になるのです。魂を一の立場からと全の立場からと両方使い分けしないと、魂がかたわのようになってしまいます。これを注意しなければならないのです。

人間の魂は本来、神から出て神に帰るべきものです。神以外のものに帰れるはずがないのです。すべてのものは神から出るのであって、神から出なければ一体どこから出るのかと言いたいのです。万物でも魂でも、もし神から出ないとすれば、どこから出てきたのかと言いたいのです。

仏教は無始無終といって誤魔化していますけれど、仮に無始無終であっても、そこには何かの形の第一原因がなければならないのです。無始無終の原点がなければ、万物として発展する訳がないのです。

万物が展開しているという事実があるのですが、このような事実がどこから展開してきたのか、何を原点にしているのかということです。原点なしにとにかく展開しているというのは、非論理、非現実も甚だしいのです。

人間は神によって、この世に送り出されたのです。また、神によって生かされているのですから、自力によって生きている所はどこにもないのです。空気の水も、人間生存に必要なものは、全部神によって造られているのです。神が供給しなければ、人間の命は到底有りえないのです。ところが、人間は神に任せようとは思わないのです。こういう論理的な錯覚、錯誤を後生大事に握り込んでいるのです。

その癖人間は、理屈に合わないことは嫌いです。自分自身の思いは理屈に合わないことばかりをしているのです。理屈に合わないことでも、自分に損害がないことなら構わないですが、自分自身が死ななければならないことになるのです。永遠の裁きに入らなければならない危険を冒してまでも、なぜ理由にならない理由を持とうとするのかということです。本当に人間というのは、どこまでバカかと言いたいのです。すぐに合理的、合理性と言いながら、一文を惜しんで、百両を損しているのです。目先のことだけを考えて、自分自身の存在の根本を考えようとしないのです。

私たちは暗きの権威から引き出され、神の愛の国に移されたのです。私たち自身が神の愛の子として見られているのです。愛の御子というのは、キリストをさし、イエスをさすのであって、キリストを神が愛しておられるかもしれませんが、私を愛しているのではないと思っている。どこまでもひがんでいるのです。ひがんでひがんでひがみ倒しているのです。キリスト様は偉い。イエス様は偉い。私たちはそうではないと思うのです。

自分を格別にだめな人間のように見ようとするのです。自分をだめだと見ることによって、安心できるのです。どぶ鼠はどぶの中にいることによって、自ら安心しているのです。

イエスの十字架以後の人間は、自分の生活条件は完全であるのです。魂は全部救われているのです。死が自分の運命から消えてしまっているのです。

自分の夫が不完全である、妻が不完全であると思えても、自分自身から死が消えてしまっているということの中に、全部含まれているのです。

自分から死が消えてしまっている。これが自分の妻が完全であるということです。今人間的な意味で妻が不完全であっても、夫が不完全であっても、それは自分から死が消えているということの中で、夫が完全になっているのです。また、妻が完全になってしまっているのです。不完全はなくなっているのです。

経済的な問題でも、健康的な問題でも、どんなことでもすべての不完全さはなくなっているのです。そういう完全な状態の中に置かれているのです。ただそれを信じればいいのです。信じるか信じないかで、勝負は決まるのです。

皆様が生かされていることが愛です。自分の命が愛です。自分の命は愛の真ん中にいるのです。

新約の時代というのは何か。人間存在を愛する御子の国へ移そうと思えば、宇宙そのものを移さなければならないのです。なぜかと言いますと、人間は宇宙を環境にして生きているのですから、また、宇宙存在が人間が生きている条件ですから、環境ぐるみ救ってしまわなければ、人間を救ったことにはならないのです。そこで神の国にしてしまったのです。もはや、神の国は来ているのです。すべての肉に私の霊を注ぐというのは、それを言っているのです。神の国が来ていること、自分自身が神の子として待遇されていることを信じて頂きたいのです。

人間の精神は二重構造になっているのです。ちょっと聞くと変なように思いますけれど、当たり前のことです。極めて当然のことであって、これを知らずに自分の精神は一重構造だと思っています。そして、聖書が分かったと仮に思っているとします。人間というものは、肉体人間と魂人間と二通りの人間が複合して成り立っているのです。人間存在は複合体です。肉体的存在と霊的存在と複合しているのです。普通の世間並の考え、常識、知識、自分の肉体的な人生経験で構成されている精神構造があるのです。これは自分が肉体的に生きていることを基礎にしてできている精神構造です。これが一つあります。世間の人はこれを生活しているのです。就職したり、結婚したり、子供を産んだりしているのです。

もう一つは、人間の魂に属する精神構造です。肉体に属する精神構造は、知性が中心になっているのです。魂に属する精神構造の方は、理性が中心になっている。普通の人間の常識は、ほとんど知性ばかりです。理性はほとんど働いていないのです。

一般的に、理性的という言葉を使います。理性的に考えるとか、ある人は理性的な話をする人だと言いますけれど、これは言葉の使い方を誤っているのです。世間でいう理性的というのは、知性的のことです。論理的な理屈を並べる人を理性的と言います。マルクス経済学の講義をするとか、民主主義とか資本主義についての理論を展開するとか、あるいは数学の原理を説明するとかという人たちのことを理性的と言います。これは理性的ではなくて、知性的です。

現在の人間の学問は、全部知性学です。肉体的に存在する人間を基礎にして考えているから、全部知性になるのです。魂に基づいて考えますと、理性的になるのです。なぜかと言いますと、魂の中心のセンスというものが、理性です。天地が存在する原理、動物、植物が生きている原理、地球が回っているという原理を直感的に捉える働きのことを理性というのです。

今の学問は、地球が回っていることは知っています。自転、公転についての説明はします。しかし、地球がなぜ回っているのかについての説明はできません。いつまで回っているのかについても説明できません。知性は現象についての説明はしますけれど、現象が存在することの根本原理についての説明ができないのです。これは理性でないと説明できないのです。

皆様は人間が生活していることの説明はできます。この人間というのは、ホモとしての人間です。ホモという動物人間が生きているとか、喧嘩をしているとか、喜んでいるとか、悲しんでいるとかいうように、肉体人間の生活状態は説明ができます。しかし、そういう肉体人間が何のために存在しているのかという説明ができないのです。

知性は現象の説明はします。しかし、現象の根底の説明ができないのです。理性はそれができるのです。理性は現象の根底の説明ができるのです。ここが違うのです。人間は何のために生きているのかということの説明は、理性でなければできないのです。

理性とは、天地が動いている原理、人間が存在する原理を説明するのです。理が魂の中心になって人間の中に植えこまれているのです。これを理性というのです。天地の原理が人間の魂の中に植えこまれているから、原理の理をとって理性というのです。理性に目が覚めると、天地が動いている原理が分かるのです。これを神というのです。神が分かると命の原理が分かるのです。

天地が動いている原理が命です。命については、命理という言葉もあります。命理の理が理性になって、人間の中に植えられているのです。これを魂というのです。魂が本当の人間です。

肉体人間は現世において、魂が活動するポイントです。面積がなくてただ位置があるものがポイントです。

人間とは何であるのか。神とは何か。命とは何か。万物が何のためにあるのかという重大な問題の根本を説明するのが理性です。理性が目を開くと、この重大問題の説明ができるのです。これができなければ、開かれた理性とは言えないのです。

理性が開かれていなければだめです。フランスのベルグソンという哲学者は、開かれた魂と言っていますが、ベルグソンが言っている開かれた魂というのは、次のような意味だと言っているのです。

例えば、キリスト教の観念に閉じこもっているのは、閉ざされた魂である。キリスト教を信じているが、同時に他の宗教のことも勉強したり、哲学のことも研究してみる状態のことを開かれた魂というのです。開かれた魂というのは、そんな小さなものではないのです。

私が言うのは、キリスト教を信じながら、マルクスの研究をするとか、仏教の研究をするとか、その他の政治思想の研究をするとかというのではありません。そんな研究はいくらしても同じことです。キリスト教という宗教観念も、マルキシズムという共産主義思想も、どちらも肉の思いです。

キリスト教でも、仏教でも、あるいは軍国主義思想でも、共産主義でも、皆人間が考えた思想です。キリスト教の神学は、人間が考えた教えです。そういうものをいくら信じても、神は分からないのです。その証拠に理性の眼は開かれないのです。キリスト教を何十年信じても、神とは何かが心に映ってこないのです。パラダイスが目に見えないのです。それではやはり地獄へ行くことになるのです。現世に生きているうちに、パラダイスが見える信仰でなければいけないのです。

乞食ラザロが死んでから早速アブラハムの懐に行ったと書いています。彼は生きているうちに、アブラハムの懐を知っていたから、死んだらそこへ簡単に行けたのです。生きているうちにアブラハムの懐が分からなかったら、そこへ行けないのです。アブラハムの懐とはパラダイスのことです。生きているうちにパラダイスが分からなかったら、死んだ時にパラダイスへ行きなさいと言われても、行けないのです。どこへ行ったらいいのか分からないからです。土地不案内になるからです。

キリスト教の神学者は、自分でパラダイスを経験していないのです。自分が神の実物を経験していないのです。キリスト教の牧師で神を知っている牧師は、世界中に一人もいないのです。ただ神学校で習ったことを、説教しているのです。

これはキリスト教だけではありません。仏教でもそのとおりです。神主の学校でも同様です。神主の学校はもっとひどいでしょう。ただ儀式の仕方だけを教えるのです。神学はほとんど教えないのです。それで神主が勤まるのです。

人間の宗教は全部人間が造った理屈です。それを信じても絶対に救われないのです。救われる訳がないのです。人間が造った理屈を人間が信じているのですから、誠の神には全く関係がないのです。

人間の心理構造は、常識で判断している人間と、常識では全然分からない人間の精神の働きと、二通りになっているのです。これが人間の精神が二重になっていることを示しているのです。

皆様は信じますと言いますが、それはどちらの人間が信じますと言っているのかということです。魂で言っているのか、あるいは肉体人間の常識で言っているのか、どちらかと言いたいのです。人間が分かったとか、信じたとか、信じますとか、信じているつもりというのは、常識人間の方ばかりです。

キリスト教でも御霊を受けたと言いますが、全部常識人間でそう言っているのです。御霊を常識のレベルへ引き下げているのです。宗教を信じても救われません。宗教の教義は人間が造った理屈ですから、それを信じて救われるはずがないのです。

大自然はそのまま神の命を現わしているのです。これが本当に分かったら、パラダイスが見えてくるのです。パラダイスを本当に見たいと思うなら、むなしくなることです。

人間の精神が肉の思いと霊の思いの二重になっているのです。「肉の思いは死なり、霊の思いは命なり」とあります。死の思いと、命の思いの二重構造になっているのです。

言葉を変えて言いますと、皆様は二重人格です。精神も二重になっていますし、人格も二重になっているのです。せめて人格を一重にしますと、聖霊を受けることができるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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