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  • 管理人chaya

この世を友としてはいけない


聖書に次のように書いています。

「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを知らないのか。おおよそ世の友となろう者は、自らを神とするのである。それとも、『神は、私たちの内に住まわせた霊を、妬むほどに愛しておられる』と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。

しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを賜う』とある」(ヤコブの手紙4・4〜6)。

この中には、世を友とするな、神が妬むほどに愛しておられる、神が恵みを賜うやり方が書かれていますが、非常に重要なポイントではありますが、分かったようで分からない箇所でもあるのです。

特に分かりにくいのは、神は人の内に住まわせた霊を、妬むほどに愛しておられるということです。これがキリスト教では分からないのです。私たちも、この箇所が具体的に確認できていないために、大きな損をしているのです。

今の現象世界は不完全な世界です。不完全な世界だからこそ、現象世界がある間は、神の掟が現存しなければならないのです。掟がなければならないということは、現象世界が不完全なものであることの例証になるのです。

現象世界というものと、ヤコブの手紙の第四章で言われている世を友とするという世と、どういう関係になるのかということです。現象世界とこの世がどういう関係になるかです。

現象世界というのは、目に見える物質的現象世界です。ところが、大阪や神戸はこの世です。この世を友とする者は、神に敵対すると言っているのです。現象世界とこの世とは違うのです。森羅万象が現われている現象世界は神が造った世界です。神によって造られた世界です。これは神の御心が天使を通して現われているのです。これはヘブル人への手紙第二章二節にある、御使いを通して語られた御言です。神は御使いを通して、神が語っておられる。これが神に造られた世界です。

ところが、この世というのは神に造られた世界ではないのです。神の被造世界の上に人間の思いが乗っているのです。そうしてこの世ができているのです。神の被造物としての万物を利用して、その上で人間の思いを営んでいる世の中がこの世です。「人の思い計る所は、常に悪のみである」(6・5)と創世記にありますが、これがこの世を造っているのです。政治・経済の世界、人間関係の世界がこの世です。

現象世界とこの世とは、全然意味が違います。肉体的に生きているのは、現象世界に属することです。ところが、人間の顕在意識による生き方はこの世です。この世は人間の思いの世界です。人間の主観的な思いの世界です。この世と現象世界を、はっきり区別して認識して頂きたいのです。

私たちは現世に生きています。しかし、この世の人間であってはならないのです。イエスが「あなたがたはこの世の者ではない」と弟子たちに言ったように、神に召された人は、神に属する者です。神の国に属する者であって、この世の国に属する者ではないのです。

かつてイエスは、「私の国はこの世ではない」と言いました。私たちはこの世に生きていますが、この世を私たち自身の国として生きているのではない。現象世界に生きていても、実は神の国に生きているのです。現象世界というのは、神の御心を現わしているのです。神の愛、または神の命が現われているのです。

大自然にはリズムがあります。これは愛のリズムです。大自然の存在の形は、大自然の流れです。新陳代謝という目に見えない流れがあるのです。この流れがとこしえの命です。流れを言葉を変えて言いますと、存在になるのです。固形的な言い方をすると、存在になります。動体的な言い方をすると流れになるのです。

川が流れているのは、流れるという状態で現われているのです。川の中にある岩は流れとは見えないのです。流れに逆らっているように見えますけれど、波に打たれている部分は、少しずつ削られているのです。ごくわずかですが、風化しているのです。水に溶けているのです。

水が流れているように、岩も流れているのです。水だけが流動形態であるのではない、岩も流動しているのです。しかし、人間の目には岩がはっきり存在すると見えるのです。昨日も今日も、いつまでも変わらないように見えるのです。一方において、空気のように、また、川の水のように絶えず流れているものもあります。松の木とか、山とか、岩は流れているとは思えないが、流れているのです。流れ方が早いものと遅いものとがあるのです。しかし、どちらも流れているのです。

時間は本来存在していないのです。時間は一分間も、一秒間も静止しているのではないのです。絶えず流れているのです。時間と空間は混合した形で存在しているのです。空間と時間は一つに溶け合った形で存在しているのです。別々に存在しているのではないのです。一体的に存在しているのです。

もし時間がないとすると、空間もないのです。従って、物がないと考えざるを得ないのです。これは理論物理学を持ち出さなくても、物がないという証明はできるのです。ところが、一方、物があるように見えるのです。昨日あった岩が今日もあるように見える。昨日どころか、一万年、百万年も前からある岩が、今日もあるように見えるのです。

そうすると、岩はほとんど永遠にあるように見えるのです。ところが、時間はないのです。時間がないことと物があることとが、どうしても矛盾しているのです。絶対矛盾の自己同一ということになるのです。

時間的な角度から言えば、物があるはずがないのです。ところが、何百万年も前から存在する岩が目の前にある。そうしますと、私たちは瞬間しか存在しない時間を経験しながら、なお、永遠に存在するものも、また、経験しているのです。一体どちらが本当なのでしょうか。時間が流れていることが本当なのか。地球が四十五億年も存在してきたということが本当なのか。どちらが本当なのかと言いたいのです。

どちらも本当です。万物が存在するという形において、時間の流れによって、神は現前を教えています。この現前という事実は、神と人の交わりをさすのです。その意味では瞬間しかないのです。ところが、地球は四十五億年も存在してきたと言われているのです。これは何なのか。これは神ご自身の永遠の命が、そのような形で証されているのです。

昨日も今日も、いつまでも変わらないキリストが、岩として、山として、私たちに感じられるのです。しかしまた、現前の命が感じられるのです。私たちが今現前に生かされているという事実と、キリスト的永遠性に支えられている事実と、両方のことを同時に経験しているのです。

「神のとこしえの力と神性とは、被造物によって明らかに認められる」とパウロが言っています(ローマ人への手紙1・20)。神のとこしえの力というのは、昨日も今日もいつまでも変わらないキリストの力です。神の約束という根元的な力です。永遠を見通した神の大計画です。大キリスト計画という永遠性と、人間が現前に鼻の穴から息を出し入れしながら生かされているという事実と、両方共被造物によって現わされているのです。

宇宙の絶対性と必然性が、こういう形で私たちに感じられるのです。神はそのように命の証をしておられるのです。これが被造物の世界、現象世界です。ところが、この世はそういうことを全然考えていません。今生きているという肉の思いだけで生きているのです。その思いでこの世を造っているのです。

神は現象世界を通して神の御心、または神の国、大キリスト計画を私たちに語りかけているのです。大キリスト計画とは、この地球が造られる以前に、神のプログラムが作成されたこと、そうして現在の地球が存在すること、有形的な地球が過ぎ去った後に、神の新天新地が現われることの全体がキリスト計画です。キリスト計画に基づいて、全天全地が有りうるのです。それを私たちは今見ているのです。このことを自分自身の世界観の根底に据えて頂きたいのです。

これは物理空間を越えた雄大な思想です。物理空間ではなくて、霊理空間です、霊理世界です。これを皆様の世界観の基本にして頂きたいのです。価値観がここから出発するのです。これは神の価値観、世界観に同調する価値観です。

こういう角度から考えますと、この世を友とすることは、神に敵することになるのです。この世は人間の肉の思いによって構成されている世界です。この世の友となることは、その人の意志がどうであろうと、神に敵することになるのです。この世を造っているのは神ではありません。悪魔の思いです。悪魔の思いが人間の中に原罪として住み込んでいる。原罪から発生したのが人の思いですから、人間の肉の思いは悪魔の思いになるのです。その思いによって形成されているのが、この世です。

この世を友とすることは、当然神を敵に回すことになるのです。そこで山上の垂訓では、「まず神の国と神の義を求めよ」と言っています(マタイによる福音書6・33)。仕事をすることよりも、結婚することよりも、生活を考えることよりも、学校へ行くことよりも、人と人との関係を考えるよりも、まず神の国を考えなさいと言っているのです。なぜかと言いますと、神の国を考えないで自分の生活を考えてみた所で、宙に浮いてしまうからです。この世を友としているからです。まず神の国を第一に考える。それから仕事や結婚を考えたらいいのです。

神の国というのは、人間の魂が宇宙的に正当に居住すべき場なのです。この場に人間の魂が住み込んでしまいますと、死ななくなるのです。死に関係がなくなるのです。人間の魂は本来不滅ですが、死ぬことはあるのです。霊魂不滅という言葉は、魂が死ぬということと、決して矛盾しないのです。

霊魂は不滅であるから死ぬのです。死ぬということは裁かれることを意味するのです。死んだ後に裁かれるのです。裁かれるために死ぬのです。不滅だから裁かれるのです。人間の霊魂は不滅であるだけではいけないのです。不滅だから、とこしえに生きなければならないのです。死んではいけないのです。死んだらひどいめにあうのです。霊魂は不滅ですから、迂闊に死ねないのです。霊魂は不滅ですから、永遠の生命をはっきり確認しなければひどいことになるのです。

人間の霊魂は神の続き柄です。神に属する者です。だから消えてしまわない、不滅です。般若心経が不生不滅と言っているのはこのことです。生まれもせず、滅しもしないのです。これが人間の霊魂の状態です。この意味で般若心経は真理を説いているのです。

本当のことを言いますと、人間は生まれもしないし、滅しもしないのです。現世は空ですからそうなるのです。ただ現世という現象世界に現われてきて、何かを学ぶことによって、ある経歴ができる、ある経験ができるということだけです。

人生の本質は経験です。生まれたのでもないし、滅するのでもない。不生不滅です。そこで、「私は去っていく」とイエスは言っているのです。私は去っていくが、おまえたちは私が行く所へ来ることができないと言っているのです。

皆様は現世に生まれてきました。何のためか。現象世界を知るために生まれてきたのです。そこで皆様の魂は、現象世界を通して証明されている永遠の生命を知るのです。大自然のリズムと、大自然の流れです。これを知るのです。これを経験するために、現象世界に顔を出しているのです。ちょっと顔を出しているのです。そしてやがてひっこむのです。人生は現象世界にちょっと顔を出していると思ったらいいのです。皆様が営んでいるその生活は、本物ではありません。ちょっと顔を出しているだけなのです。

この世を友としてはいけないのです。この世を友とするよりも、もっともっと現象世界を通して語られている神の命に、目をとめなければいけないのです。

五節に、「神は私たちの内に住まわせた霊を、妬むほどに愛しておられる」とありますが、これを虚しい言葉だと思うのかという言い方をしています。虚しいことだと思っている訳ではないかもしれませんが、妬むほどに愛するということが何の意味か分からないのです。だから、神から見ると虚しいと思っているように思えるのです。

神が人間の霊を妬むほどに愛しているということだけではなくて、神が天地を造られたという重大なことが分からないのです。また、イエス・キリストの十字架というすばらしく重大な事がらでも、人間はその意味がよく分からないのです。よく分からないから、虚しいことだと思っているのです。

十字架の言葉は滅びる者には愚かであるとありますが、愚かであるというのは、神がゴルゴタの十字架を通して驚くべき神のロゴスを示しておいでになる。それが分からないのです。だから聖書の言葉が愚かに思えるのです。十字架とは何のことか分からない。クリスマスは知っているけれど、十字架は全然知らないのです。イエスがこの世に生まれたことは知っているが、死んだことは全然知らないのです。こんなバカなことがあっていいのかと言いたいのです。

神が人間の霊を愛しておられるということだけではなくて、神の言葉の全体を虚しいものだと思っているのです。これは異邦人だけではない、ユダヤ人もそう考えているのです。私たちはどうしてもユダヤ人の目を覚まして、彼らによって、肉的にアブラハムの子孫である彼らを通して、神の約束が新しく世界に掲揚される時代を、どうしても現わさなければならないのです。これが千年王国です。千年間の絶対平和の時代です。

千年王国をこの世界に来らせるためには、どうしてもユダヤ人の根本的な大覚醒が必要になります。これこそ世界平和を確立する一番すばらしい働きです。これは革命ぐらいのことではありません。ユダヤ人が本当に神の経綸に目が覚めますと、世界平和が確立するのです。絶対平和、永久平和が確立するのです。ユダヤ人とアラブ、パレスチナ人とがいつも争いをしていますが、こういうことは一遍に解決してしまうのです。民族間の争いは完全に消えてしまうのです。

この世の一切の矛盾は、イエス・キリストの十字架によって完全に解決してしまっているのです。そのような重大なポイントがすでに現われているのです。ところが、それを知らない。神の言葉の全体を虚しいもののように考えているからです。

神が人間の内に住まわせた霊とは一体何であるのか。霊とは事がらです。この場合の霊は小文字のスピリット(spirit)が用いられています。小文字のスピリットは神の霊を意味しないのです。人の霊を意味するのです。これは人の霊だけではなく、例えば信仰の霊とか、病の霊とかという場合にも使っているのです。もろもろの霊という言葉もあります。

ヤコブの手紙の第四章五節に使われている霊は、人間の霊のことをさしています。人間の内に住まわせた霊と言っています。住まわせた霊とはどういうことかと言いますと、人間の魂が肉体を取って、この世に遣わされます。魂が肉体の中に入れられて、この世に派遣されることになるのです。この状態を霊というのです。住まわせたというのは、人間存在の中に霊が住んでいる。人間存在のあり方そのものが、霊であるという意味です。

これをわかりやすく言いますと、人生になるのです。人生という言葉と人間という言葉は違います。人生は霊です。人間が生きている状態を人生と言います。または生きてきた状態、生きている状態が人生です。人生は現在完了の状態です。生きてきたというのは、現に生きていることを意味するのです。これが霊です。時間的な意味での縄を、ずるずると引っ張って歩いているのです。これが霊です。五十歳になる人は、五十年間の縄を引っ張っているのです。ずるずると引っ張っている縄が、その人の霊です。人生です。

これは一体何かと言いますと、人間がこの世に生きていることがらは、人間自身のものではないのです。神のものです。人間が生きている事がらを端的に言えば、魂です。魂は瞬間瞬間に生きている自覚、感覚、意識です。これが魂です。霊はそれをずるずると五十年間引っ張っているのです。霊は生きてきた縄です。魂は現前に今生きていることです。

そこで、「霊と魂は二つのようであるが一つである。一つのようであるが二つである」と言えるのです。霊と魂は別々のものですが、同じようなものでもあるのです。三位一体のような形になるのです。

魂は神ご自身が生ける神の子を生みたもうための性的対象、生産的対象です。性の対象です。生産の対象です。新に神の御子が生まれるための生産的な対象になるのが、人間の魂です。これに神のシード、朽ちない種が宿るのです。そこで神の子が生まれるのです。

霊の方は、五十年、六十年と、長い縄を引っ張って歩いていた。霊というのは、魂が歩いてきた道程です。魂が過去においてあるいてきた道程です。その時、魂がどんな状態で歩いてきたのか。神のものだということを知らないで、魂が歩いてきた。魂は神の愛の対象となるべきものです。神の具体的な対象、交わりの対象となるべきものです。

「父なる神と、その子イエス・キリストとの交わりにあずかる」とヨハネが言っていますように、父とイエス・キリストとの交わりに、私たちもあずかりつつあるのです。人間の魂というものは、イエス・キリストの魂がそうであったように、父との交わりの対象です。愛の対象というのは、交わりの対象です。スキンシップの対象なのです。

愛の対象である魂が、そのことを自覚せずに生きている。開けっぴろげにして生きているのです。神の愛の対象であることを知らないで、この世を友として生きている。この世を友として生きていることは、焼きもちの対象にならざるを得ないのです。神の愛の対象となるべきものが、この世の愛の対象になっているのです。悪魔の対象になっているのです。この世に生きて、この世を友としているからです。これは焼きもちを妬かずにはいられないのです。

皆様の今までの生活はどうでしたか、考えてみて下さい。この世で成功しようとか、楽な生活をしようとか、色々な形でこの世を対象にしていなかったのか。もしこの世を対象に生きていたとすれば、その人は神に大変な焼きもちを妬かれていたことになるのです。

皆様の魂は皆様のものではないのです。ところが、魂は自分のものであるように考えて、肉の思いで生きている。だから、神が焼きもちを妬くのです。神は皆様の魂を愛の対象として造った。ところが、この魂が神の愛を感じないで、悪魔の方ばかりを見て目尻を下げている。何をしているのかと神は言いたいのです。

現に鼻の穴から息を出し入れしているのは、誰のおかげなのか。目が見えるのは、誰のおかげなのか。耳が聞こえるのは、誰のおかげなのか。手が動き、足が動いて仕事ができるのは、誰のおかげなのか。全能者が皆様と共にいますから、皆様の知能が働いているのです。知能が働いて仕事ができて、生活しているのです。

ところが、父なる神を忘れてしまって、この世の仕組みばかりに目を取られている。この世の栄枯盛衰ばかりに気をとられて、目尻を下げている。これは一体何事かと言わなければならないのです。

そこで、神は焼きもちを妬かざるを得ないのです。この世を友とするのは、神に敵することです。これは当たり前のことです。この世の友になることは、肉の思いと友になることです。悪魔の友だちになろうとすることです。

例えば、自分の愛する人が、素裸で街を歩いていたら、人々は何と思うのでしょうか。世間の人にじろじろと見られるだけです。男の人はそれを見て、はらはらするに決まっているのです。こういうことを経験するために結婚したのではないのです。神に焼きもちを妬かすために、結婚生活をしているのではないのです。人生は神のものです。ところが、自分のものとして生きている。この世の霊に従って生きているのです。この世の霊に従って、人生を見ている人は、悪魔の友だちとして生きていたのです。悪魔のものとして、人生を送っていたのです。人生を悪魔に提供していたのです。これは姦通行為です。

人生は神ご自身の愛の対象です。現に心臓が動くのも、鼻の穴から息を出し入れするのも、目が見えるのも、全部父なる神の力が、私たちと共にいるからできるのです。父がインマヌエルだから、私たちが生きているのです。この父なる神の愛を忘れて、生かされているという本源の命を忘れて、この世の常識に従って生きるというのは、けしからんことです。世間並の常識で生きているということが、姦通行為です。信仰によらず常識によって生きていることは、はっきり神を敵にした生き方です。だから、神が焼きもちを妬かざるをえないのです。

そこで、霊を神に渡すのです。神は人の内に住まわせた霊を妬むほどに愛するのは、神の霊だからです。霊は神のものだから、神に渡すのです。そうすると、楽になるのです。神が味方になるからです。

神がもし味方なら、誰が敵になるのかと聖書に書いてあります。もし神が味方になったら、あらゆる人生の矛盾は、全部打開されるのです。もし霊を神に渡せば、神の恵みが与えられるのです。人生を神にゆだねさえすれば、神は恵みを与えるに決まっているのです。一度に多くの恵みを与えても分かりませんから、徐々に恵みを与えるのです。

人間がしなければならないことは、人生を神に返すことです。これさえすれば、あとは神が責任を持ってくれるのです。主のため、神のために生きているということが自覚できる人は、人生を渡した人です。そうすれば、人生のあらゆる矛盾は解消するのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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