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  • 管理人chaya

とこしえに保つ神の言


人間と神との関係は、非常にデリケートなものであって、宗教で考えるようなものとは違います。人間と神との関係は、愛する者と愛せられる者との関係であって、神は自分の形のように人を創造した。即ち男と女とに創造したと書かれているのです(創世記1・27)。

男と女に創造した。これが神の形のように創造されたことを意味するのです。

愛する者と愛せられる者の形が、神の形なのです。これは第一には、父なる神と子なる神との形を現わしています。第二には、神と人の関係を現わしているのです。三位一体の神の姿が、神と人の姿の原形になっているのです。これは非常に恐れ多いと言わなければならないほどのことですが、こういう重大な問題が人間創造には秘められているのです。また、男と女との関係は、このようにすばらしく重大なことが秘められているのです。

人間が生きていること、現在私たちが生きていることのために、宇宙が造られているのです。私たちが現在生かされていることのために、宇宙が造られ、万物が存在しているのです。私たちが生かされていることが、そのまま宇宙存在の目的であり、また、栄光でもあるのです。このことに気づかないで、いたずらに性をむさぼっていることは、その罪万死に価すると言わなければならないのです。

神の言はすべてのものを新に造るものです。万物はすべて神の言によって造られたと聖書にあります(ヨハネによる福音書1・3)。その神の言によって新しい人間が生まれるのです。限りなく保つ神の言が、人間の魂に宿るのです。そうすると、新しい人が造られるのです。新に生まれた愛の関係が、そのまま人生と聖書の言と人間の魂との関係になるのです。

人間の魂は現世で生活するために、この世に生まれてきたのではありません。神の言を宿すためにあるのです。ロマンチシズムそのものです。ダビデが神に対して感じていたすばらしい感性の豊かさ、神に対する敏感さが優れていたのです。

神に対して人間の魂は女性です。魂はどこまでも女性です。受け身的に作用するのです。神という永遠の男性があって、人という女性が造られたのです。

聖書は次のように述べています。

「人は皆草のごとく、その栄華は皆草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」(ペテロの第一の手紙1・24)。

人の栄華は、皆草の花のようなものだ、これは何を言っているのかと言いますと、人間はこの世に生きていても、何にもならないと言っているのです。生ける神の言を宿さなくて、ただ生活していても、何の値打ちもないと言っているのです。女がただ結婚して、何の値打ちがあるのかと言いたいのです。

人間は現世に生きるために生まれてきたのではないのです。神の言葉を宿すため、そして永遠の命を与えられて、永遠に神と一つになるために、神の元から地上に遣わされたのです。

宇宙に悪魔の反逆という大事件が起こったので、人間の魂が神の言を受けるというすばらしいチャンスが起きたのです。悪魔が反逆するという大変うとましい事件が起きたために、逆に、それを契機として魂が神の種を受けるチャンスが与えられたのです。非常にうとましいことが発生したために、非常にすばらしいことが発生したのです。皆様はすばらしいことの対象になるために、地上に出てきたのです。今皆様はそれを学んでいるのです。

まず人間は、現世に生きるために生まれてきたのではないということを、はっきり弁えることです。一体現世に生きていて何になるのかと言いたいのです。人の栄華は草の花のようです。ただこれだけです。花が枯れたらそれでおしまいです。

人間がこの世でどれだけ成功しても、また、幸福になったとしても、何の値打ちがあるのでしょうか。やがて死んでしまうだけです。現世の人間生活には何の拠り所もないのです。死が門を開いて待っているだけです。

人間は現世に生きるために生まれてきたのではないことを、毎日毎日考えるのです。そうして、生きているとは何をしていることかを、毎日考えるのです。

神は人の魂を愛したくて仕方がないのです。人の魂を妬むほどに愛しているのです。御霊を与えられないのは求めていないからです。横を向いているからいけない。神の方に向くのです。まともに、神の御顔を仰いだらいいのです。そうしたらすぐに、愛の手が届くようになるのです。

毎日、毎日、太陽の輝きを見ながら、また、雲の流れを見ていながら、神の愛が分からないと言えるはずがないのです。雲の流れを見れば、神の愛がはっきり分かるのです。人間は全くの盲目です。神が妬むように愛していることが、全く分からないのです。今日という日において、神との交わりがなされなければ、意味がないのです。

大宇宙を見てください。撩乱かくたる大ロマンチズムの世界です。太陽の輝きや山の姿、川の流れを見て、神のロマンが考えられないのはどういうことでしょうか。

皆様の真のお父さんは、世間並のお父さんではない。天地を造って、皆様の魂を地上に遣わして、その魂に全面的な期待をおいて安息しているのです。これが真のお父さんです。

とこしえの命はあるのです。何によって現われているのかと言いますと、神の言によって現われているのです。生ける限りなく保つ神の言によって現われているのです。神の言は生きています。生きていて、そうしていつでも定着しているのです。皆様は全く無視していますが、神の言は皆様にいつでも定着しているのです。皆様の心臓が動いているということは、限りなく保つ命の言です。これが皆様に定着しているから、毎日、毎日、生きているのです。

皆様の中へ神の言が住み込んでいるのです。「我父におり、父我におり」というイエスの感覚の状態は、いつでも私たちに現われているのです。皆様の目が見えるのも、食べたら味が分かるのも、皆とこしえに保つ神の言が働いているからです。

神の言が住み込んでいるから、人間は生きているのです。ところが、人間はそれを全く無視して、ふんぞりかえって自分が生きていると思っている。神の言について全く考えようとしない。神の愛について反応を示そうとしないのです。これは本当に困ったものです。

神は現在日本に、あるべからざる愛を注いでおいでになります。私たちというあるかないか分からない小さな群れに、彗星のような光を与えて下さるのです。全く新しい星のように、私たちを輝かせておいでになるのです。愛の輝きを与えて下さっているのです。

皆様の魂は、神の愛の対象となる機能です。神の御子を宿すべき機能です。皆様はそれを全く知らずに生きている。今からでも遅くないから、猛省して頂きたいのです。

「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉はとこしえに残る」とあります。とこしえに残る言葉の種を受け取るのです。神の種を受け止めるのです。

生きているという事がら、皆様の魂が、生ける限りなく保つ神の言葉という朽ちない種を宿すのです。聖書の言葉を学んで受け取れば、とこしえに朽ちない種を宿したことになるのです。主の言葉は、いつでも皆様に住み込んでいるのです。いつでも定着しているのです。この神の言葉が皆様のものになれば、皆様はとこしえの命をしっかり持ったことになるのです。

今、神の言葉を受け取らないで、きょろきょろ生きているのは、死ぬべき命です。この死ぬべき命を抜け出して、朽ちることのない、永久に定着して神の命の言を受け止めさえすればいいのです。宇宙の命を受けることができるのです。

その受け取り方について、ペテロは次のように述べています。

「あなたがたが新に生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言によるのである」(同1・23)。聖書の言葉の中の一句を本当の命として受け取って、命になればいいのです。

魂は宇宙の命をそのまま受け止める機能です。ずばり言えば、女性の性器と同じです。こういう機能を与えられていながら、ぽかんとして生きていてはいけないのです。

宇宙には神の命が流れているのです。空を見ても、山をみても、太陽の光を見ても、神の命が流れているのです。限りなく保つ神の言がいっぱいあるのです。大自然にもありますし、聖書には神の言葉として書かれているのです。これを受け取ればいいのです。これは人生が生きるか死ぬかの勉強です。そういうつばぜりあいのような厳しい勉強です。このことをよく考えて頂きたいのです。

生ける限りなく保つ神の言が流れているのです。これは受け止められなければならないのです。まず、悔い改めることです。幼児になるのです。幼児になって、神の御心に一致することです。自分の心を自分で持っていてはいけないのです。人生を神に返すのです。そうすれば、神が愛の手によって、朽ちない種、神の言、とこしえの命そのものを与えて下さるのです。

ペテロは生ける神の言を受け取ったのです。だから、それを書いているのです。皆様は神の愛の対象になるべき人です。このことをよくご承知頂きたいのです。そして、神の言を宿して頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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