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バトモスのヨハネ

バトモスのヨハネ

ヨハネは次のように述べています。

「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている私ヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、バトモスという島にいた。

ところが、私は主の日に御霊に感じた。そして、私の後ろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。その声はこう言った。『あなたが見ていることを書き物にして、それを、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒア、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい』。そこで私は、私に呼びかけたその声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。

そのかしらと髪の毛は、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは鋭いもろ刃の剣が突き出ており、顔は強く輝く太陽のようであった。

私は彼を見た時、その足元に倒れて死人のようになった。すると、彼は右手を私の上において言った。『恐れるな、私は初めであり、終わりであり、また、生きている者である。私は死んだことはあるが、見よ、世々限り無く生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ころうとすることを書きとめなさい』」(ヨハネの黙示録1・9〜19)。

バトモスの島でヨハネがキリストの顕現に接した。そこで、肉体を持った人間であるヨハネがキリストの顕現に接して、倒れてしまった。足もとに倒れて、死人のようになってしまった。ただ倒れただけではなくて、死人のようになってしまったというのです。

人間が普通の肉体感覚で生きている状態では、本当の神が分からないのです。本当の神に接触することができないのです。

死人のようになったということは、ヨハネ自身が肉なる状態から離脱したのです。仏教的に言えば解脱したのです。肉から離脱した、解脱した状態で、神の元に平伏したのであって、この姿勢はあたかもアブラハムが神に言葉をもらって、神の前に平伏したのと酷似しているのです。

アブラハムは父なる神の前にこういう姿勢をとった。これはまだイエスがキリストとして宣言しておられる前のことですが、ヨハネはバトモスの島で、かつて地上にいて、ヨハネが面接していたそのイエスです。そのイエスがキリストとして神の右に座しめられたその姿に接したのです。

神の右に座せしめられたキリストというのは、途方もない権威であって、彼は父なる神の御名の栄光、キリストの栄光と並び、権威をも兼ね備えて現われたと考えられるのです。

父なる神ご自身が、例えば炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、髪の毛は雪のように白いと形容されているように、こういう形で現われたもうことはないのです。これはキリストの現われです。人間的な形態を持っている場合は、キリストご自身の現われであるに決まっています。このキリストは神の右に座す資格を与えられた後のキリストです。これは父なる神の、いわゆる全能者としての権限または責任、栄光とキリストとしての栄光、権限、責任をあわせ持った形で、ヨハネの前に現われたと考えられるのです。

これからお話しすることは、父なる神としての魂との関係と、キリストとしての魂との関係と、二つの事がらがだぶってきます。ここからここまでが父なる神である。ここから後はキリストであるというような仕分けはなかなかできませんし、そういうことに神経を使っていますと、内容が不十分になりますので、父の栄光とキリストの栄光を分解するようなことは致しません。十七節、十八節にかかれている意味を、現代的に言うとどうなるのかを述べてみたいと思います。

まず最初に「恐れるな、私は初めであり終わりである」と言われています。恐れるなとありますが、肉体を持つ人間は自分の本性、本質というものを見ないで、肉体的に生きているという感覚をまず先に強く感じるのです。だから死人のようになってしまうのです。

ヨハネのような練達堪能な達人であっても、こうなるのです。バトモスに来た時のヨハネは、身においても霊においても、キリストを十分に理解している、いわゆる一流の達人と言える人物でした。このヨハネが恐れいって死人のようになったのです。だから、本当に私たちが思想的に第三の天におけるキリストの栄光を理解したとしても、これはまだまだ実感にはなっていないのです。

ヨハネはこの時のキリストの立場を、もちろん知っていたのです。しかし、実際に顕現したキリストを見た時に、彼は倒れてしまった。これが肉体を持っている者の弱さです。その肉体を持っている弱さということを、キリストであるイエスは決して叱ったりはしないのです。恐れるなといって、彼の上に手をのべているのです。

ヨハネのように自分がキリストの弟子であることを自覚する。その自覚の状態が完全であるとしても、なお第三の天におけるキリストから見れば、ヨハネは不完全であったに違いないのです。人間として地上に生きていたからです。

このヨハネがキリストを見て死人のようになった。これが肉体を持つ者の弱さですが、それに対して主なるイエス・キリストは、右の手をのべている。神の御座の右に座したもうお方が、右の手を彼の上にのべているというこの姿勢を、よく見て頂きたいのです。

これはこの時のヨハネに対してだけなされたことではありません。もし皆様がイエスの弟子となる三条件を実行しても、毎日その則に従って皆様が生きているとすれば、皆様の上に大能者の右に座するお方の右の腕、力のかいなが伸べられているのです。これは途方もない栄光です。

十七節におけるキリストとヨハネの姿は、そのまま現代の皆様とキリストとの姿であると考えてもいいでしょう。右の手とは、大能者の手です。キリストの大能の手は絶対全能の手です。「エホバその右のかいなを伸べたまわば、誰か押し返すことをえんや」という言葉があります。イスラエルの不信仰と言えども、天使長ルシファーの理屈と言えども、エホバの右の手を押し返すことはできないのです。

その右の手がイスラエルの上におろされるように、私たちは祈るべきです。まずそのためには皆様の上に、キリストの右の手が伸べられていることを信じるべきです。「わが名において祈れ。さらば我、必ずそのことを実行する」とイエスはかつてこの地上で固く約束されたのです。この約束に従って私たちは、イスラエルのために預言させられたいと願っているのです。こういう宇宙の絶対力と、宇宙全体の全体力と、皆様方自身の存在とを結びつけるという大度量で、聖書を見て頂きたいのです。

「恐れるな」とキリストが言われた。恐れるなというのは自分自身の中にある肉性にこだわるなという意味です。人間は肉体を持っている間は、どれほど聖霊に満たされて、どれほど神と近い関係にあることを自覚していたとしても、なお肉体的に生かされているという、ほとんど絶対と言えるほどのハンディキャップがあるのです。これは肉体を持ってこの地上に生きているという事がらに対する認識の角度が、なかなか神の御心に適うような角度で受け止めることができないのです。

人間が肉体的にこの世にあるということは、実はこれは普通の人間が考えている肉体存在とは、全然違うのです。大体、人間の肉体というものは、万物を治めるためのボディーであって、万物を治めるためにはボディーがいるのです。これがいわゆる肉の体、ナチュラルボディーです。ナチュラルボディーをパウロは、「肉に体あり」と訳しています。

しかし、このナチュラルボディーは、肉の体ではなくて、ナチュラルなボディーです。自然の体です。自然の体という言い方は、肉体とは違うのです。言が肉となった状態をさすのであって、これは森羅万象全体の束ねを示す意味での肉をさすのです。森羅万象はことごとく肉です。エホバの万軍です。エホバの万軍をたばねるための、一つの座、長老という位です。いわゆるエホバの万軍の長老です。ヨハネの黙示録の第四章に現われている二十四人の長老の位はこれです。

位がなければ人の子ではないのです。人間というのは、空の鳥、海の魚、家畜、地に這うすべてのもの、さらに全地、鉱物、植物全体を統治するために、ナチュラルボディーを神から持たされているのです。万物がナチュラルそのものであって、ナチュラルを支配するためにはナチュラルな状態でなければいけないのです。そこで、ナチュラルなボディーを人間は仮の姿として与えられているのです。これは仮の姿であって、本来は人の子として万有にかんたる能力、性能を与えられているのです。

神にかたどりて、神のかたちのように造られたということが、ナチュラルボディーを意味するのです。そういう状態で、人間は肉体を持っています。甘い辛いを認識することができます。丸いとか四角を知ることができるのです。青いとか赤いとかを知ることができるのです。

何のために形態感覚とか色彩意識とか、触覚とか味覚があるかと言えば、天地万物を治めるため、天地万物を支配するためです。神に代わって、神の手代として、天地万物を支配指導するためです。もう少し詳しく言いますと、天使長ルシファーが完全に廃嫡された後、天使長の代行者として、神の御座と神の栄光を万物にしらしめすための代替者として、人間は立てられているのです。「来たらんとする新しい世界を御使いたちには従わせなかった」とあるとおりです(ヘブル人への手紙2・5)。

来たらんとする新しい世界、無なる永遠ではなくて、有なる永遠を支配するために、大天使としての栄光を代行するための素質を持たせることが、神が人の魂をこの世に出した目的です。これが人間存在です。イエス・キリストもいわゆる天にある御座を捨てて、罪の僕の形をとって、地上に下ったのです。

それと同じような意味において、私たちは、罪の僕そのものとして、この地上に下っています。私は罪をつぶさに経験しました。非常に丁寧に、具体的に罪を経験しました。その自分が十字架によって屠られたのです。キリストと共に十字架につけられたのです。今ここに生きているのは私ではない。神が魂をこの世に遣わしたという条件での私なのだという認識を持つに到っているのです。

恐れるなという言葉をキリストがヨハネに言われました。この言葉のニュアンスをよく考えてみますと分かるのですが、ヨハネは肉体的に存在する自分の気持ちで生きてしまっている。これは仕方のないことです。だからこそ、そのような栄光のキリストにお目にかかると、恐れざるを得ない。死人のようになってしまうのです。死人のようになったことが悪いというのではありません。これは肉体を持つ者の、ごく自然な姿勢であると言えるのかもしれません。

ただそれに対して、義の太陽である栄光のキリスト、全宇宙の支配者でありたもうこのキリストが、恐れるなと言っているのです。それはかつてキリスト自身が、肉体を持っていたからです。だから、ヨハネがどういう気持ちであったのかが分かったのです。大能の右の手をヨハネの上にのべて、恐れるなと宣言しているのです。

私たちが現在生かされているという客観的な条件が、客体的存在としての自己、自我意識による自分ではなくて、客体的に存在する自己という意識で、自分を冷静に、公正に、自分の存在をじっと見つめてみれば、イエスがかつて肉となってこの地上におられたのと、今現在生かされている自分とは、肉の思いさえ除外すれば、客体的には全く同じです。

主観的には自分とイエスとは非常な懸隔があるように思いますが、客観的に自分を評価すればそうではないのです。だからイエスが、「恐れるな、私とあなたとは共にある」と言われたように、ヨハネや私たちに呼びかけておいでになるのです。

このようにキリストの兄弟として、自分を認識することはできるのです。栄光のキリストの前に出た時のヨハネは、へたばったのですが、ヨハネ自身が個人として神に祈り、神を黙想する場合、キリストを霊において崇めている場合には、ヨハネはキリストを自分の伴として、先輩として見ていたに違いないのです。従って、冷静な場合であるなら、ヨハネも死人のようになることはなかったのです。そういう実質をヨハネは持っていたはずです。皆様も持っているのです。

横着で傲慢な気持ちはいけませんけれど、卑屈にひがんだような感覚で、自分の肉体存在についてこだわる必要は毛頭ないのです。肉体的な意味での色々な条件、足らなさ、到らなさは、いわゆる不束なものです。自分自身の不束さについて、自分自身がひがむ必要はないのです。

日本ではお嫁に行く時、相手の両親に対して、不束な者でありますがと言うのですが、その不束でもお婿さんにとっては非常に有難い存在であって、不束でも全然構わないのです。私たちもキリストの花嫁として、神に選ばれつつあるのですが、そういう条件で自分を見ますと、不束な面ばかりが目につきますが、恐れるなとヨハネに対して言われた言葉を、皆様は自分に言われたものとして弁えて頂きたいのです。

まずその前に、栄光のキリストの前に死人のようになるという条件があったのです。あったから恐れるなと言われたのです。もしヨハネがぽかんとしてキリストを見ていたら、恐れるなという言葉をかけられなかったでしょう。別の言い方をされたかもしれないのです。やはり、ナチュラルなボディーを持つ者は、正当な意味でのへりくだりはあった方がいいのです。正当な意味での謙遜はあった方がいいのですが、ひがんで恐縮して縮こまる必要はないのです。この点、過不足がないように弁えて頂きたいのです。

日本の不束という言い方がいいのです。アメリカやイギリスでは不束とは言わないでしょう。反って反対の事を言うかもしれません。

恐れるなという言葉の次に「私は初めであり、終わりである」という言葉です。ヨハネの黙示録では、「私はアルパでありオメガである」と言っています(22・13)。初めであり終わりであるという言葉の中には、無言のうちに世代という意味が含まれているのです。初めという言葉は、ゼネレーション(世代)の初めを意味するのです。終わりというのは、世代の終わりを意味するのです。同時に終わりというのは、完成を意味するのです。初めはスタートであり、終わりは完成を意味するのです。完成というのは、完成された状態が永遠無窮に継続するという意味が含まれているのです。

これは何の初めであるのか。世代の初めであり、世代の終わりを意味するのです。世代の本質は何かと言いますと、別の言葉で言いますと、約束ということになるのです。約束の原点、約束の原態が、実はキリストご自身です。神は初めからキリストを予想して約束を発布したのです。この約束の原点、原態となるのがキリスト計画でありまして、これが宇宙完成の大計画です。宇宙完成の大計画の中心となるのが、キリストという人格です。キリストは人格であり、また、計画です。また、位でもあるのです。

宇宙に逆性が発生した。この逆性を打倒して、完璧無類の神の国を実現するために、約束という大計画が立てられて、キリスト自らが中心の人格として登場することになったのです。この方が、皆様の頭です。皆様の夫です。キリストは性的に言えば夫です。命として言えば頭になります。この方が初めであり、終わりです。終わりというのは、キリストそのものが完成そのものという意味です。

キリストを知らない者は、完成が分からないのです。例えば、回教徒は天地の造り主ということを言いますが、彼らはキリストを知りません。キリストを持っていないのです。だから、天地の完成が分からないのです。天地の完成が分からない者は、自己完成も分からないのです。天地の完成のルールが人間完成のルールの基礎になるのです。

万物の完成なくして、人間の完成はありえないのです。そこで、私は初めであり、終わりであるというのは、非常に重要なポイントになるのです。キリストが初めであり終わりです。キリストなしには、初めもないし、終わりもないのです。仏教で言う無始無終というのは、私はキリストを持っていませんという告白になるのです。

ヨハネはイエス・キリストご自身にこういう言葉をかけられたのです。栄光のキリストを目の前に見たのです。これは現世に生きていた人間ではない霊なる天の幻、または第三の天における勝利のキリスト、栄光のキリストの姿を見たのです。パウロでもペテロでも、こんな経験はしていないのです。ですから、ヨハネはこの世にいた人間なのか、天の人間なのか、分からない所があるのです。

バトモスでキリストから言葉をかけられた光景は、まさに変貌山における光景の生き写しのようでもあるのです。ちょうど、ナザレのイエスが神と人の霊魂の中間にあったように、ヨハネは栄光のキリストと教会の中間にあるのです。栄光のキリストと私たちの中間にあるのです。そうして、ヨハネが自分が肉体を持っているままの状態で、栄光のキリストを経験したことを自分の体験として、私たちに書き残しておいたのです。

ヨハネの黙示録の基本原理というものは何かと言いますと、実は現世というものが、一枚皮をめくると、その底には驚くべき、恐るべき神の緻密な計画が満ちているということです。神の経綸、実施要目が満ち満ちているのです。一皮めくればそうなることを、ヨハネはバトモスで経験し、それをまた、黙示録として私たちに伝えてきたのです。

私がここでお話ししたいのは、バトモスのヨハネのような高遠な重大なことを言うのではありませんが、人間という形をした魂が、この地上にいるということは、全能者であるお方とどういうつながりがあるのか。また、父なる神の右に座したもうという栄光のキリストの位と、私たちの魂とのつながりがどのようになっているのかということです。

私は初めであり終わりであるというお方が、ヨハネに恐れるなと言われたことは、栄光のキリスト自身がかつて言葉が肉となってこの地上におられた方であって、ヨハネと三年間起居を共にして、ある時はヨハネの手を握ったり、また、ある時はイエスの胸にもたれたりしていたのであって、そういう親密な関係にあったのです。

そのヨハネに対してイエスはこういうことを言っておられるということは、自分が初めであり終わりであるように、ひょっとするとヨハネ自身がイエスの栄光と同じ栄光を、本質的には持たしめらられているということを、言外に言いたいのかもしれないのです。だからこそ、全能の右の手をのべて、恐れるなと言っているのです。栄光のキリストが、自分自身の名誉にかけて、自分自身の栄光にかけて、ヨハネに恐れるなと言っているのです。これは、皆様にもキリストが恐れるなと言って、右の手をのべているのと同じです。

十八節に、「また、生きている者である。私は死んだことはあるが、見よ、世々限り無く生きている者である」とあります。私は生きている者だというのは、生きているのは私だという言い方もできるのです。本当の命を最も完全な形で具体的に現わしているのは、主なるイエス・キリストです。

本当のリビングという実体を、正当に、完全に、具体的に顕現している者が、主なるイエス・キリストです。だから、主イエス・キリストを信じることなしに、生きているという言葉が使えないのです。リビングということ自体が、主なるイエスを意味するのです。これがまずキリストが言いたいことなのです。

生きているということは一つであって、私(イエス・キリスト)なのだということです。ですから、主イエス・キリストを信じることなしに、生きているということはありえないのです。

これは非常に厳粛な事実であって、私たちが聖書を勉強していても、私たちの主体性がイエス・キリストであると信じないとすると、実はリビング(生きている)ではないのです。形だけはリビングであっても、内実的にはリビングと言えないのです。ザ・リビング、生きている者は私(イエス・キリスト)である。私だけが生きている。私一人が生きている。私の他に生きている者はいない。これは父なる神の栄光がそのままイエス・キリストに与えられていることを示しているのです。

かつて旧約時代には、リビングはゴッドであったのです。新約時代には、リビングはキリストです。新約時代においては、リビングと言えばキリストを意味するということを、承知して頂きたいのです。旧約時代においては、リビングは神でした。だから、神を信じなさいとイエスが言っていたのです。ところが、イエスは神を信じ、また、私を信じなさいと言っているのです。今は、キリストを信じなさい、これだけでいいのです。旧約時代におけるリビングという大事実は、今は、キリストの大事実として置き換えられているのです。

神はその栄光をことごとく主イエス・キリストに委譲してしまったのです。これが御座の右ということでありまして、御座に座したもうたイエス・キリストは最高の権威、唯一の命です。だから、サタン(悪魔)が座るべき余地はなくなってしまった。完全になくなったのです。このことを彼は自覚しているために、なおあせって教会を自分の元に引きずり込んで、せめて教会の人々を道連れにしようと思っているのです。

私たちはこの悪魔の仕業を見破って、「キリストが命である。主イエス・キリストだけが命である。この他に命はない」ということを言わなければならないのです。従って、現在皆様が生きているということを自覚するとすれば、それがそのまま主イエス・キリストを自覚していることなのだと考えて頂きたいのです。

新約時代においては、皆様の生命意識というものは、そのままキリスト意識に置き換えられなければならないのです。生きているということはキリストです。the living oneです。私が生きているのです。私一人が生きている。私の他に生きているという事実はないのです。これが御座の右のキリストの再現です。

パウロはこのことについては、「あなたがたの命はキリストと共に、神の内に隠れている」と言っているのです。神の内に隠れているというのは、私たちの命がキリストであるということが、神の内に隠れているということです。

生きているというのは、私たちが生きているのではない。キリストが生きているのです。これは隠れた事実です。このことが神の内に隠れているという言い方をしているのです。ですから、皆様に自分という固有名詞の人間が生きているとは、決して思ってはいけないのです。この新約時代において、リビングという事実は、キリストの他にはありえないのです。このことを毎日考えて頂きたいのです。従って、皆様が今生きているということに対しては、悪魔はもはやふれることはできないのです。なぜなら、皆様はキリストの命をそのまま体現しているからです。

キリストは、「私は死ぬべき者ではない。見よ、世々限り無く生きている者である」と言っているのです。世々限り無く生きるというキリストの大信仰、大宣言です。これは単なる宣言ではなくて、実体的な宣言です。

皆様は自分の命がキリストと共に神の内に隠れていることを信じるなら、死ぬべき自分を頭に想定する必要はないのです。従って、自分が不幸になるかもしれないとか、何かの災いが自分に及ぶかもしれないということを考える必要はないのです。災いというのは、形の上でどうなるかは分かりませんが、本質的な災いではないのです。

皆様にはもはや利害得失は去ってしまったのです。毀誉褒貶も去ってしまったのです。成功もないし失敗もないのです。ただ、現世においてキリストの命を生きて、キリストの栄光を証するということだけしかないのです。これだけでいいのです。

皆様には悪しき者がふれることはありません。そういう大胆な信仰を持って頂きたいのです。キリストが右の手を皆様の上に伸ばしているのです。ヨハネに対してなされたこと、ヨハネに対して言われたことが、皆様になされたことであると考えて頂きたいのです。

次に死とは何かについて考えてみたいと思いますが、キリストは「私は死んだことがある」と言っているのです。これは何を意味するのかと言いますと、肉なる者にて罪の元に売られた姿として、イエスはこの地上に遣わされたことを意味するのです。この地上に、肉なる者として罪の元に売られた形をとったことは、死んだことです。今皆様が肉なる形でこの地上に生きていることは、死んでいることです。死んだことです。そのような条件の自分を自分だと考えることは、死人を自分だと思っていることになるのです。

皆様の中にあるひがみ根性とか、人を恨むとか、憎むとか、妬むという根性、肉の思い煩い、欲の惑わしによる根性は一切死んだ思いです。死人の根性です。生きている者の感覚とは違います。

皆様は肉体に関する感情、感覚にとらわれてはいけないのです。肉体はありますが、肉体があるという条件によって、自動的に発生する根性はあってもいいのですが、とらわれてはいけないのです。あるのはしょうがないのですが、とらわれてはいけないのです。

イエスもかつては私たちと同じ状態で、死そのものを経験した。だから、私は死んだと言っているのです。しかし、彼は死んだ状態でありながら、死んだ感覚によって生きてはいなかった。信仰によって生きていたのです。未生以前に神に植えられた言葉に従って生きていたのです。現世における肉体感覚によって生きてはいなかったのです。現世における肉体感覚は、死人の感覚です。それによって彼は生きてはいなかった。

いわゆるリビングを完全な形で生きていた、生きているのは私だけだと宣言することができるような、神の栄光の代理者であるという形をとらしめられた原因は、彼は肉体的に生きてはいたが、肉体感覚に拘泥していなかったからです。普通の人間が持っているいわゆる死人の感覚みたいなものに、拘泥していなかったのです。現世に生きている利害得失、毀誉褒貶、善悪邪正の考えに、全然とらわれていなかったのです。

もし皆様が命の主を自分自身の生命そのものに受け止めたいと思うなら、また、キリストを自分の命にしたいと思うなら、肉体的に生きている自分の感覚、感情を一切無視する訓練をして頂きたいのです。毎日、毎日、自分自身の生活感覚を無視するのです。肉の思いで生きているという生活感覚を無視するように、自ら自分にムチを当てて、無視する訓練をして頂きたいのです。

私たちはややもすると肉体的に生きている自分を信じて、認めて、何となくそういう気持ちに妥協して、お互いが社会人として、大人として生きている。いわゆるアダルターラスな感覚、でたらめな人間感覚を持ち寄って話をしていますが、これが自ら私たちをキリストの命から遠ざけてしまっているのです。こういう点を注意して、死人である自分を自分だと思わないで頂きたいのです。キリストと共に生きている自分を自分だと考えて頂きたいのです。

私はかつて死んだ者であるという言い方と、見よ、私は世々限り無く生きている者であるという言い方は、内容が違うのです。私は死んだ。しかし、それが生き返ったという者とは違うのです。死んだというのは、その時本当に死んでしまったのです。十字架によって、ナザレのイエスという人間は、永久に死んでしまったのです。肉体を持っていた彼は、永久に亡くなったのです。肉の形をとらされた彼は、亡くなったのです。

そして、新しい創造として、世々限り無く生きる彼が現われたのです。これは新しい創造です。一度死んで生き返ったのではないのです。一度死んでしまったのです。肉を持ってこの地上に来た。言葉が肉とされた彼自身が死んだ者であった。死そのものであった。この死がなくなったのです。死が焼き直されたのではない。死は永遠に去ってしまったのです。そうして、「見よ、新しい命が誕生した。死ぬことがない、世々限り無く生きる命が今私としてここにある」と言っているのです。ここに第一創造と第二創造の完全な相違があることを示しているのです。

新約の時代というのは、旧約と何の関係もないのです。約束としてはつながっているが、肉的には何の関係もないのです。もはや肉体的に生きている人間はいないのです。人間は万物の長であって、万物の長の形をとった人間が否定されたのです。イエスが十字架につけられて、はっきり否定されたということは、地の万物が全部否定されたことを意味するのです。万物の頭としてのナチュラルなボディーを持たされている人間が、その肉のあり方を否定されたことは、肉なるものが全部否定されたことを意味するのです。

イエスの復活の体は、神の新しい創造の栄光がそのまま現われているのです。新天新地の栄光がそのまま現われているのです。これは新しい創造です。ヨハネの黙示録に「見よ、私はすべてのものを新にする」(21・5)とあります。これは時が来たなら、イエスの復活の栄光体がそのまま万物の栄光体として現われることになるという意味です。

かつて、第一創造においては、万物が造られた後に、人間のナチュラルなボディーが造られたのです。これがまず第一に否定されたのです。ところが、今度は第二創造として人間の霊の体、いわゆるスピリチュアルなボディーが完成したのです。それに伴って万物が完成されるのです。

このような天の事実を真夏の太陽においてタルソのパウロが見たのです。キリストの復活の栄光体を物理的において、ダマスコ途上において見たのです。光の中から言葉が出てきたのです。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか、とげのあるムチをけることはできない」(使徒行伝9・1〜9)。光がものを言ったのです。光が言葉であったのです。これが、またボディーでもあったのです。

新天新地の物質は、現世においては光としてしか見ることができないのです。物理次元が違うからです。今の第一創造の物理次元というのは、神的に見れば本当の神の次元ではないのであって、神の本当の創造の栄光とは、ダマスコ途上で現われた太陽よりも、さらにすばらしい光です。これが第二創造の栄光です。

イエスは復活して、第二創造の体を与えられたのです。エルサレムにおいて、戸締まりがしてある部屋、鍵がかかっている部屋にイエスが入ってきたのです。これが復活の栄光体です。今や物質は第二創造になっているのです。皆様の肉体も、イエスの復活体と同じものであると思うのが新約の信仰です。

従って、現在見ているようなものがそのままあると考えることは、旧約的な概念です。色即是空ということは、新約時代においては当たり前のことです。人空、法空は当たり前のことなのです。

こういうことを前提として、世々限り無く生きている方、これは永遠の男性です。この方の花嫁として皆様は召されているということを自覚して頂きたいのです。

その次に死と黄泉との鍵を持っているとあります。死と黄泉は、キリストに握られているという、非常に深い言葉です。

これはどういうことかと言いますと、死を解く鍵はキリストにあるのですから、キリストにお願いする以外にどのような方法を持ってしても、死から解放されることはできないのです。死を破ることはできないのです。黄泉を破ることもできないのです。

現在の人間が生きている状態の中には、死と黄泉が二重に入っているのです。重なって入っているのです。人間の思考方式がそのまま黄泉になっているのです。主観的に生きている状態が死です。それに基づいている人間の意識が、皆黄泉になっているのです。死と黄泉がだぶった状態で、今の人間にあるのです。

パウロが言うように、神について知りうべき事がらが、人間の中に現わされているという事実がありながら、なお、人間が罪を犯し続けているということは、どういうことなのか。

神の御心に従って生きる人間の運命と、神を信じないで生きている人間の運命とは、神的にどういう関係になるかということです。

人間は二重人格になっているのです。絶対に死んでしまう肉なる人間と、絶対に死なないイエス・キリストとしての人格があるのです。絶対に死んでしまう古き人は、十字架によって否定された。完全に否定されたのです。

今生きているのは、イエス・キリストとしての新しい人格です。死を破って復活した命が、私たちの命です。これを黙って受け取ればいいのです。そうしたら、死と黄泉に関係がない人間になっているのです。

私たちは肉体的に生きているという死と、人間の思考方式という黄泉から完全に解放されていることを、はっきり知ることができるのです。これが新約時代の人間のあり方です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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矛盾

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