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  • 管理人chaya

パラダイス


新約時代というのは特殊な時代でありまして、イエス・キリストの十字架がすでに成就していますし、聖霊が降臨しておられます。従って、現在この世の中は神の国が到来しているのですが、これが全く分からないのです。

今生きている人間は、神の方からご覧になりますと、神の前にイエスが一人立っておられるだけです。一人のイエスの後ろに千々万々の救われるべき人間が、一列側面状態になっているのです。

父なる神から見えるのは、一番前に立っているイエス・キリストだけです。彼が救われるべきすべての人間を代表して、神の前に立っておられる。神からご覧になると、イエスだけが見えるのです。

イエスの後ろに並んでいる者は、全部イエスと同じ資格が与えられているのです。神からイエスと同じように見られているのです。これが分からないのですから、イエスの後ろに並ばせられるのが気に入らないと思うのです。自分の立場、自分の姿勢で勝手に立とうと考えるのです。一列側面状態の一歩右に出ようと考えたり、二歩左に出ようと考えたりしているのです。

人間は自分が生きていると思っているのです。自分自身の命があると思っているのです。バカなことです。もし人間に命があるというのなら、その命について説明をして頂きたいのです。

西暦紀元というのは、イエス・キリストによって始められた紀元であって、この紀元の中で生きている者は、全部イエス・キリストに連なる者として生きなければならないのが、地球的な意味での原則なのですが、これをキリスト教の人々でさえも知らないのです。

聖書を勉強しているキリスト教の人々でさえも、西暦紀元の意味を正確に知らないのです。これはおかしなことですが、そうなっているのです。つまり彼らはまともに、イエス・キリストを信じていないのです。

聖書は宗教の書物ではないのです。宗教ではないということは、事実であるということです。真実であるということです。従って、聖書を信じるとか、信じないという権利のようなものがあると思っていたら大間違いです。

地球が回転しているということが聖書です。神の約束です。これが分からないのです。聖書を離れて、人間の命が永遠に通用するという原理がどこかにあるのでしょうか。聖書を離れてそういうものがありうるのでしょうか。もしそういうものがあればぜひお聞きしたいのです。もしそれがあるという人がいましたら、その人は人間存在を知らない、世界の人間歴史の流れがどのように構成されているのかということを、正しく認識していないことになるのです。

現在、世界の人間関係がどういう原理に基づいて動いているのかについての正しい認識を持っていない。そういう人なら、理屈をいうことができるでしょう。本当に虚心坦懐に謙遜な気持ちで世界の歴史の流れを知っている人、今年が二〇一〇年であることを謙虚な気持ちで受け入れる人、日曜日に休んでいることの意味を謙虚な気持ちで勉強しようという気持ちを持っている人なら、聖書を信じない自由が人間にあるとは考えないでしょう。

現在人間の心臓が動いているということが、神という事実です。目が見えるという事実を、神というのです。たとえ目が見えず、耳が聞こえなくても、心臓は動いています。このような事実を神というのでありまして、日本で考えている八百万の神とは、全然違うのです。

日本の宗教は、古事記や日本書紀をふまえて、天理教でも大本教でも、日本の宗派神道はすべて日本のシャーマニズム的な原理に基づいて発生しているのです。これが日本の宗教です。

これは日本では通用しますが、全世界には通用しません。無理に通用させても、それはただの宗教を広めるだけであって、本当の意味で霊魂の救いを証明することはとてもできません。

存在とは何か。日本の宗派神道では、これが分からないのです。仏教でも分からないのです。回教でも儒教でも分からないのです。どんな思想を動員しても、存在を正確に説明することができないのです。存在が宇宙の絶対的な基本原理になるのです。存在が分からないために、地球存在も人間存在も、正確に認識できないのです。

イエスは、「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見出すであろう。門を叩け、そうすれば開けてもらえるだろう」と言っています(マタイによる福音書7・7)。

求める、捜す、叩くというのは、英訳で見た方がよく分かるのです。これは英語では、アスク(ask)、シーク(seek)、ノック(knock)になっています。これが神と人との関係を明示しているのです。

人間と神との関係を基本的に言いますと、まず神はアダムを創造した時に、エデンの園においたのですが、アダムにはエデンの園の荘厳さは当然分かったはずです。アダムが理解したエデンの荘厳さ、そうして色々な獣を目の前に見せられた時、驚いたのです。そして、女を与えられた時に驚嘆したのです。

その前にエデンにおかれて、エデンの日の出を見せられたり、すばらしい天然現象を見せられたりして驚いたのです。その次に、神に善悪の木の実を食べてはいけないという掟を与えられたのです。こういう事がらが、エデンにおかれたばかりのアダムの新鮮すぎるほど新鮮な人間存在の第一印象でした。

原体験というのは生まれる前の体験ですが、アダムが生まれた後の体験ですから、これは原体験というよりも、潜在体験とも言うべきものでした。これがエデンにおけるアダムの状態です。

エデンにおける神の厳格な掟、大自然のすばらしさ、動植物に現われている神の雄大さ、女に現われたすばらしさを見て、アダムはびっくり仰天したのです。これは、アダムの純真な新鮮な感覚で見た初体験です。あまりにもすばらしすぎる初体験でした。このアダムの初体験が不思議千万であるものを、単なるすばらしさとして受け取ったのです。

これは人間にある芸術性、哲学性の原理になる経験です。アダムの初体験が伝承されている意識が、芸術になっているのではないかと思われるのです。

その時アダムは、そういうすばらしい初体験をしていたのですが、その意味が全く分からなかった。驚きはしたが、意味が分からなかった。だから、すばらしいと考えたのです。不思議と思うよりすばらしいと考えたのです。そういう感覚が今の人間の中にあるのです。人間の芸術心はここから来ているのではないかと思われるのです。そうでなければ、人間が芸術を理解する心がどこから来たのか分からないのです。

芸術を理解するのは現世の概念です。従って、これは神を見ているのではありません。そうかと言って、風俗の輩の考えでもない。凡庸な俗念でもないのです。しかし、霊的な思いでもない、中間的なものです。これは何かというと、アダムの初体験です。

その原体験が人間の中にあるのです。エデンでの驚きが、人間の中にすばらしい思いとしてあるのです。しかし、これは救いにはならないのです。

アダムはその時、罪はなかったのですが、救われてはいなかった。これが純粋経験の直下です。純粋経験の直下という気持ちがアダムにありましたが、アダムは信仰が分からなかった。だからやむを得ず、罪を味わしめなければならなかった。死を味わしめなければならなかったのです。

死を味わしめるというと語弊がありますが、アダムが死に落ちていくことを、神は黙って見ていなければならなかったのです。アダムが死を味わうことを、神は止めることができなかったのです。死に落ちていくことが分かっていても、神はそれを止めることができなかったのです。

神が絶対に食べてはいけないという善悪の木の実をアダムが食べる光景を見ておられたのに、神は「ちょっと待て」とは言えなかったのです。神はアダムが罪を犯すことを、見過ごしにしなければならなかったのです。それと同じように、現在の人間が肉において考えていることを、また、見過ごしにしなければならないのです。

アダムがエデンにおかれていながら、エデンの本当の実質が分からなかった。今の人間も人の世におかれていますが、これはエデンの園に酷似している世です。世界中のあちらこちらに、美しい自然があるのです。今人間が生かされている生態がエデンなのですが、人間は罪を犯した感覚でエデンに住んでいますから、これがエデンであることが分からないのです。パラダイスが黄泉に変化してしまっているのです。人間の感覚で見ているから、エデンというパラダイスが、黄泉になっているのです。人間が肉の感覚で生きているからです。

エデンにおいて、アダムが罪を犯すのを神は見過ごしにしましたが、今もなお人間はエデンに住んでいながら、それを黄泉にしているのです。黄泉として生きているのです。神はそれをまた、見過ごしにしなければならないのです。今の人間に神が言いたいことは、「アスク、シーク、ノックしなさい」です。

現世にいながら、生きていることの意味が分からない。「着るにつけ食うにつけて思わるる。今日の営みいかにはからん」という歌があります。今日こうして営んでいるということは、宇宙の営みをそのまま営ませられているのです。これがエデンです。パラダイスです。

ところが、人間は衣食住で何をしているのかが分からないのです。ただ人間の肉体生活のために衣食住があると考えているのです。これは実に下等な愚かな考えであって、そのために人間は地獄へ行かなければならない運命を辿らされているのです。

現に人間は、宇宙の営みを営まさせられているのです。神の生活と同じ本質的なもの、神でなければできない生活を現在営まされられていながら、それが分からないのです。神が分からないからです。生活の形態だけを見ているからです。

自分自身のために衣食住があると考えている。自分自身のために生活があるのではない。自分の魂のためにあるのです。自分という人間のために衣食住があるのではない。衣食住は魂を養うための神の手段なのです。これが分からない。魂が養われていると思っていない。肉体が養われていると思っているのです。これが肉の思いです。そのために本当の神の不思議が分からないのです。人間の生活が不思議千万にならないのです。

「着るにつけ食うにつけて思わるる。今日の営みいかにはからん」。この歌をよく考えて頂きたい。今こうして生きている営みを、どのように受領すべきか、はかるべきかをお考え頂きたいのです。

どのように生きたらいいのか。これをアスク、シーク、ノックするのです。神は人間にすでに教えているのです。教えていることをアスクせよと言っている。神が人間を生かしていることは、教えているということです。これから教えるのではないのです。人間はこれから教えられなければならないと考えている。だから、聖書を勉強しなければならない。人に教えてもらわなければならないと考えているのです。

現在人間が生かされているということが、すばらしい教えです。これを経験していながら、なぜ人に聞かなければならないのかと言いたいのです。

聖書六十六巻の秘密は、私たちが毎日営んでいる営みの中に、すべて含まれているのです。天地創造から新天新地まで、皆含まれているのです。すばらしい宝庫です。

人間は聖書をもっと学びたいとか、人にもっと教えてもらいたいと思っていますが、着るにつけ食うにつけ、神の物語を聞かせてもらっているのです。生かされているということが、具体的な神の物語です。神の物語が現実に我々の中で躍動しているのです。躍動している神の営みを現在営んでいながら、この営みの意味が分からないのです。

そこで神は人間に命令する。「アスク、シーク、ノックしなさい」と。現に人間が生かされているという事がらが、すばらしいパラダイスにいるのです。これが分からないのは、アスクしていない、シークしていない、ノックしていないからです。これさえすれば、生かされていることの中から、千々万々のすばらしい宝物が出てくるに決まっているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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