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人間の尊厳性


信仰の完成という問題は、神の人間創造に対する目的の完成と、同じ意味になるのです。人間創造の目的が人間完成であって、私たちはそれを目当てにするのでなかったら、救いが成立しないのです。神を信じるということは、神の御心に適うことです。神が人間を義とするのは、神自身の義に人間の心が適合したから、義とされるのです。

アブラハムに対して神は、「私は全能の神である。私の前に全き者であれ」と言ったのです。アブラハムはその神の言葉のとおりに自分自身を全うしたのです。「我は全能の神なり」という神の呼びかけに、神自身の自己顕現を見たのです。神自身の状態をそのまま神はアブラハムに求めているのです。

「わが前に歩みて全かれ」という言い方は、「私は全能の神である。全能と同じ完全さを、おまえは持つべきだ」という注文になるのです。これが人間完成です。同時にこれは神にかたどりて、神のかたちのように人を造って、それに万物を治めよという命令をしたことの成就になるのです。すべてのものを治めさせようと神が考えたこと、それから、わが前に歩みて全かれと言ったこととは同じことです。

これが人間完成のレベルでありまして、これは固有名詞の人間が完成されることとは、何の関係もないのです。私たちが救われることとは何の関係もないのです。固有名詞の私たちが救われるということではないのです。神が造った人間が完成されるのです。

神が造った人間というのは、ニーチェがいう超人です。今までの人間存在を肯定すれば、超人を否定したことになるのです。今までの人間と、ニーチェがいう超人とは、質が全然違うのです。それをニーチェは超人論の主題に取り上げているのです。

これは親鸞の考え方と同じであって、親鸞は自分自身の中に地獄一定を認めていながら、なお、弥陀の本願が自分に適合されるべきだと考えたのです。地獄一定の自分を認めるとすれば、阿弥陀の本願が自分に適合されると考えるのは、おかしいのです。これは全くの絶対矛盾です。

ところが親鸞は、「いかなる行も及びがたき身なれば、とても地獄一定すみかぞかし」と言っているのです。とてもという言葉の下に、かくてもと付け加えなければ分からないのです。とてもかくても地獄一定すみかぞかしとなるのです。とてもかくてもというのは、こうしてもああしてもということです。どう考えても、わしは地獄しか行く所がないと言っているのです。

ところがなお阿弥陀如来の本願が、自分に成就されるべきだと考えているのです。これは一体何を言っているのか。

地獄一定なら阿弥陀仏の本願が彼に適合されるはずがないのです。どう考えても適用されるはずがないのです。ところが、それが適用されなければならないと考えた。これが、十字架なしに自分が神の子でなければならないと考えた理屈になるのです。十字架なしの救いの信仰が、親鸞の信仰です。ニーチェもそうです。ニーチェも十字架なしに超人に飛躍しているのです。

私たちには有難いことに、十字架という足継ぎ台を明確に示されています。従って、固有名詞の私たちが、神的な処置において明白に否定されてしまうのです。神の処置によって、私たち自身がはっきり否定されてしまう。そこで、私たちは地獄一定そのものになってしまうのです。まずこれをよくご承知頂きたいのです。十字架を信じることをしないままの状態で、神の御用を勤めたいと思うことが、非常に間違っているのです。仏教ならこれでいいのです。仏教は地獄一定を知っていながら、なお、弥陀の本願が適用されるべきだと考えてもいいのです。

なぜかと言いますと、不生不滅の則と生滅の則とを同時に理解することを、阿頼耶識というのです。だから地獄一定と極楽一定の両方を同時に肯定しても、阿頼耶識という考え方によって、呑み込んでしまえるのです。

地獄一定と極楽一定の中間には、空という思想がありますが、親鸞は空という言い方を用いないままで、両方を一度に捉えようとしたのです。これが歎異鈔の思想です。これはまさに阿頼耶識です。

不生不滅の法則と生滅の法則の二つを同時に捉えることになるのです。これがいわゆる阿頼耶識です。これは非常に不合理な、非科学的なと言えるような論法になるのですが、私たちはそういう無理をしなくてもいいのです。十字架があるからです。

神の処置によって、皆様の現世における存在は、あとかたもなく消えてしまっているのです。従って、現世における自分の存在を全く意識しない気持ちになって頂きたいのです。これが悔い改めるということです。般若波羅密多という言葉が、そのまま悔い改めの標準になるのです。

キリスト教はだめです。なぜだめかと言いますと、悔い改めて福音を信じていないからです。悔い改めるということは、自分が犯した過去のことが悪かったと言って、人に頭を下げるようなことではありません。人間が肉的な思いで生きてきたことが間違いだったのです。このことに気がついて、十字架によって肉的に生きている自分は存在しないという気持ちに到着するのでなかったら、正しい悔い改めにはならないのです。

皆様の毎日の生活が、般若波羅密多であって頂きたいのです。これがなければ福音を人に伝えることはできないのです。般若波羅密多、五蘊皆空を皆様の実生活で示して頂きたいのです。これを教えるのではなくて示すのです。教えるのは宗教です。私たちが宗教ではないという以上、これを人々に示さなければならないのです。

イエスは教えた人ではなかった。示した人です。イエスの場合でも、言葉を用いましたけれど、イエスが用いた言葉は、自分が生きているその状態を説明しただけのことです。これは教えたことにはならないのです。自分が生きていた状態を解説した。これが山上の垂訓になっているのです。山上の教えではなくて、山上の示しです。説明です。自分が生きている状態を、山上の垂訓のような言い方で示したのです。イエスは人を照らす誠の光であって、いわゆる教師ではなかったのです。伝道者でもなかった。光というのは自分自身を示すのです。光は何も教えません。ただ示すだけです。これがイエスのやり方です。

もろもろの人を照らす誠の光となって、皆様は世界に現われて頂きたい。十字架をはっきり受け止めて、般若波羅密多ということをよくお考えになればできるのです。

そうすれば、御霊は皆様に対して強力な協力をするでしょう。神の御霊は、驚くほどの協力を皆様にされるに決まっています。

御霊を受けた人は、御霊を崇めることをしなければならない。これを毎日しなければいけないのです。今日分かったらそれでいいというものではありません。聖霊に満たされるという言葉がありますが、これを毎日実現しなければならないのです。

皆様は主の御名を広めるために伝道しなければならないのです。皆様はユダヤ人を照らす誠の光として、ユダヤ人の前に現われて頂きたいのです。これが神の御心です。

そうするためにはどうすればよいかについて、簡単にお話ししておきます。

ヤコブが次のように言っています。

「それとも、『神は私たちの内に住まわせた霊を、妬むほどに愛しておられる』と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか」(ヤコブの手紙4・5)。

普通の人間は、聖書の言葉は全部むなしいものだと思っているのです。例えば、初めに神が天と地を造ったという言葉を、むなしいものだと思っているのです。地は形なくむなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていたという言葉を、むなしいものにしているのです。むなしいものだと思っている証拠に、この言葉の意味が全然分かっていないのです。私たちの内に住まわせた霊とは、どういうことなのか分からないのです。

キリスト教を信じている人々は、神は愛なりという言葉を知ってはいますが、それをむなしいという言葉だと思っています。イエス・キリストが救い主だと聖書に書いてありますが、これを異邦人のキリスト教の人々は、むなしいものだと思っているのです。

聖書六十六巻の言葉を、異邦人はむなしいものだと思っているのです。本気になって信じている人はいないのです。ちょっと自分の都合が悪くなると、聖書の勉強をおろそかにするのです。こういう世界の中で、せめて私たちだけでも、神の言葉の中の一句でもよろしいですから、本当に信じることをして頂きたいのです。それを本当に信じることができれば、神の御霊は十分に助けて下さるのです。せめて一句でも、自分の命になるような信じ方ができれば、人々に福音を伝える者となることができるのです。

聖書の言葉を命の言葉として受け取って頂きたいのです。一句でも命になればいいのです。二句、三句であれば、さらに良いのです。

聖書の言葉が命である所に、命の御霊が働きたもうのであって、命の御霊が働かなければ人々に命を与えることはできないのです。その伝道はむなしいのです。

エホバの御霊が働かなければ、歩哨が徹夜をして城を守っていても、それはむなしいものだということを、旧約聖書に書いています。歩哨がいくら起きて守っていても、神が共にいまさなければ、エルサレムはすぐに陥落するのです。

神が共にいますかいまさないか。これが私たちの興亡の原理になるでしょう。あるいは栄え、あるいは滅びる。あるいは成功し、あるいは失敗する。皆様の魂の中に、思いの中に、聖書の言葉が一句でも入っているなら、必ず神が共にいるのです。一句でいいのです。聖書の言葉が一句でも、皆様の中に生きて働いているなら、神が共にいるのです。

「神の言葉がむなしいものだと思うのか」とヤコブが言っていますが、肉の人間が聖書の言葉を信じている以上、いつでも聖書の言葉がむなしいものになってしまうのです。自分という人間が聖書の言葉を信じている場合は、聖書の言葉がいつでも嘘になってしまうのです。

自分がいると考えている人間は、全くしょうがないもので、これが全宇宙の中のブラックホールです。自分という意識が宇宙のブラックホールです。その中へ人間の魂が無限に吸い込まれて消えてしまうのです。ブラックホールの人間が、いくら聖書を勉強しても、しかたがないのです。神はそんなものを問題にしていません。

皆様方は、今までの皆様ではない人間になって頂きたいのです。だから般若波羅密多は、絶対最低の標準です。般若波羅密多以上でなければならないのです。十字架を文字通り、皆様の生活で受け止めて頂きたいのです。一切人の悪口を言ってはいけないのです。一切人を裁いてはいけないのです。「人が友のために命を捨てる。これより大きな愛はない」とイエスが言っていますが、これを皆様に実行して頂きたいのです。友のために命を捨てる人間でなかったら、福音を人に伝えることができないのです。しても無駄です。

固有名詞の人間が消えてしまえば、お互いに本当に楽になるのです。

神の前に、悔い改めて福音を信じるという基本的な姿勢を、もう一度明らかにすることです。これから初めるなら、神の祝福は無限に与えられるでしょう。それを正直に実行するのでなかったら、神は私たちを祝福しないでしょう。

人のことを考えずに、自分のことだけを考えてもらいたい。人のことは考えなくてもいいのです。私たちは無意識に、あの人はいい、この人は悪いと考えます。あの人があの状態だから、自分もこれでいいと考える。これがいけないのです。

あなたがたの内に住まわせた霊とは何かです。私たちの内に住まわせた霊が、キリスト教では何のことか分からないのです。

キリスト教では悔い改めて洗礼を受ける。洗礼を受けたことが、御霊を受けたことだと考えている。洗礼を受けて教会の一員になったら、御霊を受けたのだと考える。これが私たちの内に住まわせた霊だと考えるのです。キリスト教の会員になったら、私たちの内に御霊があると考えるのです。これは大変な間違いです。こういうことは絶対に有りえないのです。

私たちに住まわせた霊とは何か。これは私たちが受けた御霊のことかと言いますと、そうでもないのです。これは何かと言いますと、生霊です。仏教読みではしょうりょうと言います。これが人の内に住まわせた霊です。

創世記の第二章の七節で、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息を鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」とあります。生きた者とあります。これは英訳ではリビング・ソール(living soul)になっています。

パウロはコリント人への第一の手紙の第十五章四十五節で、最初の人アダムは生きた者となったと引用しています。第二のアダムは天より下って、人を生かす霊となったとあります。

第一のアダムは生ける霊でした。第二のアダムは人を生かす霊でした。皆様は生きている霊です。これは固有名詞の人間とは違います。山田太郎さんと、山田太郎さんの霊とは何の関係もないのです。

人間が今肉体的に生きていることが、ソール(soul)でありまして、理性と良心によって人間が生きていることが生霊です。

人間が生かされていることを客観的に見れば、住まわせた霊になるのです。人間が生きているという事がらの中に、神の霊が住まわせられているのです。

人間を生かしていることが霊なのです。人間を生かしているその働きが霊です。霊の働きが肉体的に生きている自分の内にあるのです。内にあるというのは、目に見えない状態であるということです。これが天です。

人間存在の天が霊です。肉体人間が地です。人間の中に天と地があるのです。一輪の花にも天と地があるのです。初めに神が天と地を造ったというのはこのことです。

神は花を造ったのではない。人間を造ったのでもない。天と地を造ったのです。天は天です。地は地です。この二つを同時に造ったのです。これが初めに神が天と地を造ったことの正解です。人が即ち生ける者となったとあります。人間が生かされていることは、天です。天としての人間を神の御霊は妬むほどに愛しているのです。ところが、人間は神が妬むほどに愛している人間の霊をばかにしているのです。肉ばかりで生きているからです。これが肉の思いです。固有名詞、利害得失、善悪ばかりを考えているのです。全く見当がくるっているのです。

どうしても般若波羅密多以下ではだめです。般若波羅密多を実行するのでなかったらだめです。自分がいいとか悪いとか、自分に実感があるとかないとか、納得したとかとしないとかを考える必要がないのです。

人間が生かされていることは、固有名詞の人間とは違います。人間はその尊厳性が全然分かっていないのです。人間の尊厳性という言葉はありますが、その内容が全く分かっていないのです。

人から聞いた話ですが、七十代の夫婦がいました。おばあさんがリュウマチで十年以上も寝たきりで動けないのです。だんだん痩せ細ってきます。老夫婦だけの世帯でしたから、ご主人が食事を作り、洗濯をして、おばあさんの下の世話をしたのです。それがおばあさんにとっては、申し訳なくてたまらないのです。意識ははっきりしていますが、全然体が動かないものですから、おばあさんは辛いのです。だんだん体が衰弱して、回復する見込みは全くないのです。それでおばあさんは、死なしてくれといつも頼み続けているのです。ある晩、おばあさんは激痛におそわれて、「こんなに苦しく生きているのが辛いから、首をしめて死なしてくれ」と、しきりにおじいさんに頼んだのです。おじいさんは、それに同意せずに辛抱するようにと説得しましたが、おばあさんがどうしても楽にしてほしいと懇願するので、とうとうおじいさんはおばあさんの首をしめて殺してしまったのです。そこで、裁判になったのです。依託殺人になったのです。結局、懲役二年の判決が下されたのです。

これは一体どういうことでしょうか。寝たきりのリュウマチのおばあさんが生きているという尊厳性と、法律の関係はどうなるのでしょうか。法律は尊厳性という言葉を使いますけれど、法律でいう尊厳性という言葉に、果たして内容があるのでしょうか。おじいさんが殺したのは間違いありません。おばあさんの頼みを聞いたのが悪かったのかどうかです。おばあさんをいつまでも苦しめておくべきだったのかということです。

これは旧約聖書の創世記の人間に対する解釈を正確に正当に受け止めるのでなかったら、人間の尊厳性ということは、絶対に分からないのです。ところが、日本の裁判所は旧約聖書を勉強しないままで、人間の尊厳性という言葉をやたらに振り回して、殺人罪を適用しているのです。私は殺人を絶対に容認するのではありませんが、人間の尊厳性の根本原理を見極めないままで行われている裁判制度は、根本から間違っていると言わざるをえないのです。

人間の尊厳性とは何であろうかということです。人間が生かされているということは、神から出たことです。神に生かされているのです。これが魂です。

魂が肉体的に生きているという言い方は、分かりやすく初心者に説明するということでは間違ってはいません。肉体は魂の入れ物だということは、初心者に対する言い方です。

皆様はそう考えてはいけないのです。魂とは、神が人間に植えたロゴスで、これが肉体となって地上に生きている。これが魂です。神の言が肉体となって地上にいる。この状態が魂です。これが生霊です。内に住まわせた霊です。

人間の人生は、神の御名の尊さと同じ価値を持っている。エホバの御名の尊さと、同じ価値を持っている、同等価値です。これが人間の尊厳性の根本原理です。これを軽視することは、神を軽視することと同じことになるのです。

殺人行為は、殺神行為となる。だから、殺人は許されないのです。このことは、創世記の第九章で書かれています。人を殺す者は、神が彼を殺すと、はっきり言っているのです。人が人を殺す場合は、神がその人を殺す。獣が人を殺す場合は、神が獣を殺すのです。なぜなら、人を殺すことは神の御名(実体)を殺すことになるのです。

人間の霊というのは、人間が生かされていることです。神が天地を造った最終段階に、天地全体を治めるために、神の代理者として地上に送った神の言が、人間の正体です。神の言が肉体をとって生きている状態が魂です。リビング・ソールです。これがブシュケーです。

プシュケー(魂)の尊さは、宇宙全体の尊さと同等価値のものです。これが人間の尊厳性の原理です。少なくとも、一つの星に匹敵する尊さを持っているのです。そこで、人間一人の命は、地球全体よりも重いという言い方ができるのです。これが人間に分からないのです。

人のことはさておいて、まず皆様ご自身が自分の尊さを自覚して頂きたいのです。人間が生きているということは、神から無限の可能性を与えられていることなのです。皆様は世々限りなき王者となって、神に代わって、世々限りなく天地を支配するために、肉体をとらされているのです。

現在の世界において私たちは、神の御名を知り、御名を崇めることによって、神の御名に代わって万物を支配するのです。

皆様自身の働きが、神の御名の働きと同じものになるのです。これが王です。新天新地においてはそうなるのです。

皆様方自身が神の御名になるのです。御名を崇めることを習熟することが、現世に生きている目的なのです。御名に同化することです。「我は全能の神なり。汝わが前に歩みて全かれ」と言っています。アブラハムに対する神の命令が、そのまま神の御名に同化しなさいという命令です。これが本当の信仰の基礎でありまして、私たちはこのために生きているのです。

人間の魂は神の尊さと同じ価値を持っている。だからこそ、神はそれを妬むほどに愛しているのです。皆様は自分の尊さを知って頂きたいのです。なぜ自我意識の自分を捨てなければならないのか。なぜ自我意識と現象意識を捨てなければならないのか。自我意識は悪魔の発想であってエホバの御名に反抗しているからです。皆様が神の御名に同化しようという気持ちに、皆様の肉性はいつでも反抗しているのです。

皆様の考えで、良い考えであると思うほど、それを捨てなければならないのです。それは人間の考えから出ているからです。悪いことは意識的に捨てようと思わなくても、勝手に捨てられるでしょう。皆様方が自分の長所と思っていることを、全部捨てなければならないのです。それは人間的な長所だからです。

人間は長所を捨てれば、円満な人になれるのです。長所を捨てれば、勝手に短所がなくなるからです。人間は長所があるから短所があるのです。長所を捨てる決心さえあれば、短所がなくなってしまうのです。

人間は誰でも長所があると思っています。正直な人間であるとか、真面目であるとか、責任感があると思っています。積極的な長所がなくても、消極的な長所があると思っています。これを捨てるのです。そうして、ただ聖書の言葉が命であることを受け取るのです。

新約聖書のマタイによる福音書の第五章から第七章のいわゆる山上の垂訓をお読みになると、イエスが自分の精神生活を、どのように見ていたのかが分かるのです。

イエスは山上の垂訓で、自分の良い所を全然出していません。ただ悪いことをするなと言っているだけです。良いことをせよとは言っていない。悪いことをするなと言っているのです。肉において歩むなということを文章で現わすと、山上の垂訓になってしまうのです。

神の国と神の義を求めよと言っていますが、これは良いことをするということとは違うのです。ただ天にいるだけのことです。その方が楽です。かえって肉的に善事善行をする方が難しいのです。神の国と神の義を求めた方が、ずっと楽です。イエスの生活の基本原理は平安であって、行き詰まりは何もなかったのです。

神は人間の何を愛しているのかと言いますと、人間が生きているその状態を愛しているのです。主観的ではなくて、客観的に生きている状態を神が妬む程に愛しています。これだけです。

これは今まで主観的に生き続けてきた人間から見ますと、客観的に生かされているということだけを取り上げることが、なかなか難しい気がしますけれど、自分の思いを捨てることをいつでも考えている人は、自ずから実行できるのです。

人間の思いとは何かということです。例えば、霊の思い、肉の思いと言いますけれど、思いとは一体何かです。思いというのは、実はその人自身の命です。霊の思いでも、肉の思いでも、思いがその人を動かしているのです。

思いがその人の命です。命とは何かと言いますと、営みのことです。営みはどこから流れてくるのかと言いますと、その人の思いが発動する場合に、その人の営みになっていくのです。これが命です。その人が生きていることです。

そこで人が友のために命を捨てる。これより大いなる愛はないとイエスが言っていますが、命を捨てるとは何であるかと言いますと、その人自身の思いを捨てることなのです。

例えば、加藤さんが伊藤さんに自分の思いを捨ててしまったら、加藤さんは伊藤さんを心から愛しているのです。思いが営みになり、営みが命になっているのです。これが人間の実体です。肉の思いを捨てることが、霊の思いになるのです。

人間の思いという場合は、肉の思いが多いのでありまして、人間が自分という立場で何かを思っていますと、その思いがその人の営みになって現われています。そこでその人が自分の思いを誰かのために捨てるとしますと、その人は命を捨てて相手を愛していることになるのです。

神の御名のために、自分の思いを捨てることになりますと、その人は心を尽くして神を愛していることになるのです。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛するとは、自分の思いを捨ててしまって、ただ神だけを愛することです。エホバを愛するのです。エホバを愛するとはどうするのか。自分の思いを捨てるのです。これをしますと、生活がのどかなものになるのです。

神の御名を愛するというのは、光を愛するのです。光とは何か。現前です。現前を愛するとはどうすることか。

皆様はやろうとすれば、やれる立場に立っているのです。十分にできるのです。友を愛すること、神を愛すること、イエスを愛すること、何でもできるのです。

愛する者のために、自分の思いを捨てたらいいのです。神の言を命として受け入れた状態で、自分の思いを捨てるのです。聖書を信じた状態で、自分の思いを捨てるのです。聖書を信じない状態で、自分の思いを捨ててもだめです。

友のために命を捨てる。これより大きな愛はないとイエスが言いました。私は命を捨てる権がある。また、これを得る権があるとイエスが言いました。命を捨てる権とはどういうことか。

イエスは自分の思いを自分で捨てると言っている。これが命を捨てる権です。イエスは自分の個人的な意見を捨てたのです。イエスの意見を捨てることができるのは、イエスだけです。イエスの意見を世間の人が捨てることができるのでしょうか。イエスの意見を捨てることができるのは、イエスだけです。自分はその力があると言っているのです。イエスしかできないことを、イエスがするのです。

皆様方も、皆様自身の思いを捨てることができるのは、皆様方ご自身だけです。

加藤さんにとって加藤さんの思いは、絶対正しいのです。これが一番力になることです。加藤さんの命は加藤さんにとって金科玉条です。これを加藤さんが捨てるのです。一番尊いものを人のために捨てるのです。

自分の一番尊いものを自分が捨てるのです。これができたら、その人は一遍に平和になるのです。神に「平安汝にあれ」と言われます。神の言葉がすぐにくるのです。自分の思いを捨てた途端に、平安の神、汝らを守りたもうというパウロの言葉が、すぐにくるのです。

自分の思いを捨てても、決して死にません。思いを捨てるというのは、有難いことです。思いを捨てると気が楽になるのです。人の顔色を見なくなるのです。自分の感情とか、利害得失とかを離れて、非常に平和な状態で言いたいことがどんどとん言えるでしょう。ちょっと言いにくいということもなくなるのです。自分自身の自尊心がなくなりますから、相手の自尊心もなくなるのです。相手に自尊心があるのは、自分の自尊心が相手の自尊心として見えるだけです。自分の自尊心が消えれば、相手の自尊心も消えるのです。

思いというのは、思想とか思考方式とかいうことも含んでいます。こういう目に見えないものだけではありません。目に見える形になって現われる場合もあるのです。

例えばお金の使い方とか、挙措動作とか、ものの言い方などはすべて、思いの発露になるのです。思いを捨てることを毎日訓練しますと、皆様が人に与える感じが、自然に変わってくるのです。自尊心もなくなるし、また、他人の自尊心も自然に気にしないようになります。

神はあらかじめ知りたる者を召し、召したる者を義とするのです。神が皆様を義とするのです。皆様方は、神を義とするのがへたです。神が皆様を愛しているのですから、皆様が神を義としたらいいのです。

思いを捨てるとか、自分の命を憎むとか、自尊心を捨てるとかということは、神を義とすることです。神を義とする者は、神に義とされるのです。義とされる率がだんだん高くなるのです。

神を義とすることを習熟することが、花嫁の備えです。花嫁とは何であるか。神は私たちに無限の可能性と、無限の期待を持っているのです。神ほどのお方が、私たちに無限の期待を持っているのです。

一体、ニューエルサレムとは何なのかということです。ニューエルサレムの城壁の土台には、様々な宝石が飾られていたとあります。これは何を意味するかです(ヨハネの黙示録21・19〜21)。城壁の土台は町を守るものです。ニューエルサレムの石垣は完璧そのものです。これは皆様の信仰状態が石垣になって現われるのです。

十二使途が十二の門になっていて、そこに使途の名前が記されている。皆様の名前も記されるでしょう。

とにかく神は皆様に、すばらしい期待を抱いているのです。莫大な期待を神は抱いているのですから、皆様は現世にいる自分を自分だと思わないで頂きたい。現世において能力があるとかないとか、理解力があるとかないとかを、一切問題にする必要がないのです。ただ生きているだけでいいのです。これだけでいいのですから、神は公平です。

生かされているということだけなら、すべて公平です。ニューエルサレムというのは、今第三の天において形造られつつあるのです。

皆様は大体現世に生きるべき人とは違うのです。そこでまず、第三の天において生きるべき皆様が、現世において、第二の天の生活がおくられなければならないのです。

イエスは天から下って天に生きていた。これを皆様も実行して頂きたいのです。これをすることは、思いを捨てることと同じことです。自分の思いを捨てれば、勝手に天の生活ができるのです。山上の垂訓の生活は、そのまま天の生活です。天で生きていた生き方をそのまま示したのが、山上の垂訓です。山上の垂訓には、興味津々たるものがあるのです。

私たちは現世の人間の常識に従って生きているために、この世に生まれてきたのではないのです。この世に生まれてきたのは、天に生きるためです。現世で私たちは天で生きるのです。現世で天に生きるということは、どうしたらいいのか。

一輪の花にも、天の面と地の面とがあるのです。私たちは花を通して、天の面を見るのです。家庭にも、職場にも、天の面と地の面とがあるのです。肉的に感じるのは地の面です。霊的に感じられる面は天の面です。天の面だけを見て生きるのです。そうすると、地球上にいながら、天において生活することは、十分に可能です。これをイエスがしていたのです。これが山上の垂訓に出ているのです。

イエスは現世で、第二の天で生きていた。第二の天は霊で感じられる天です。第三の天は信仰によってでなければ分からない天です。第一の天は現世です。私たちはこの三つの天を使いこなすことができるのです。

第一の天でさえも、犬や猫は見えないのです。人間はまず、第一の天が見えます。魂が外形に接解します。色々と感じます。これが天を感じるのです。私たちは生活している状態において、天をいつも見ているのです。

味が天です。色とか形という目に見えるものは地ですから、色や形から受け取る感じが天です。私たちの魂、五官は天を生きているのですが、私たちの思いは地に生きているのです。そこで思いを人のために捨てるのです。神のために捨てるのです。そうすると天の生活が勝手にできるのです。

創世記に次のように書いています。

「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(1・2)。淵というのは地のことです。闇は地のおもてにあったのです。闇は地のおもてだけを見ていたのです。これが宇宙紀元の発生を示唆する言葉です。この言葉の中に幽遠の神の憾みがこもっているのです。恨みではない、上品な憾みです。闇が淵のおもてにありという短い言葉の中に、神の無限の憾みがこもっている。遺憾そのものです。

そこで、神の霊が水のおもてをおおったのです。水は流動状態であって、水の本性はそのまま天を示しているのです。神の霊はそこにあったのです。悪魔の霊は淵にあったのです。

そこで神は「光あれ」と言われた。この言葉には無限の重大性があるのです。「光ありと言いたまいければ、光があった」とあります。この光はどこから出てきたのか。淵のおもてにある光のことをいうのです。

闇が淵のおもてにあった。この中から光がぬかれたのです。闇から光がぬかれたのです。これが天地創造の絶対原則です。これが皆様に分かれば、キリストの花嫁であることが分かるのです。

実はすべての人間は闇です。人間存在そのものが闇です。人間存在そのものが、大いなる闇です。この闇の中から、ナザレのイエスという光をぬいたのです。この人が第三の天へ行ってしまったのです。

元々この光は、人間の中にあるべきお方なのです。実は皆様の中から、イエスが引き抜かれたのです。皆様方自身の命であるイエスを、神がぬいてしまったのです。彼をナザレの大工として現わして、第三の天へ上げてしまったのです。命がほしかったら、自我意識という自分の思いを捨てて、イエスを受け入れたらいいのです。

「暗きはこれを悟らなかった」と書いています(ヨハネによる福音書1・5)。闇から光が抜かれて、闇は抜け殻になった。人間も抜け殻になっているのです。ところが人間は、抜け殻になっているのに、それ気がつかないのです。闇はそれを悟らなかったとあるとおりです。

そこで、もろもろの人を照らす誠の光として、イエスがやってきたのです。人間の中から光を引き抜いて、光を別のものとして、別の光がとこしえの光であるとはっきり人間に知らせておいて、第三の天へ行ってしまったのです。

第一創造のままの人間、古き人には、人間の中にある光が分からないのです。そこで、人間の中からわざわざ光を引き抜いて、これが本物だということを三年半の間、人々に見せて第三の天へ上げてしまったのです。

そこでパウロは「地上にあるものは見てはいけない。天にいるイエスが私たちの本体である。汝らの命はキリストと共に、神の内に隠れている」と言ったのです。

今私たちが現世にいるのは何のためか。実は皆様の本当の尊さを受け止めてもらうためには、肉のスケールの矮小さ、次元の低劣さを捨てればいいのです。

本来皆様は、現世にいるべきお方ではないのです。自分自身の中から自分自身の本質が抜かれてしまった。それを悟らなかったのがいけないのです。

ナザレのイエスとは誰か。自分自身の栄光です。自分自身の命です。このことに気づいた人は、初めてイエスの妻になるのです。キリストの花嫁になる資格が与えられるのです。そして、イエス・キリストが自分の夫だということが分かるのです。

生まれる前は、光と一緒だったのです。この世に生まれた時に、光を抜かれたのです。この世に生まれるまでは光と一緒だったのです。生まれる前に、私たちは無意識に神と一緒にいたのですが、この世に生まれた時に、それを引き抜かれたのです。

神は光と闇とを分けられた。光を昼と名づけ、闇を夜と名づけた。夕あり、朝あり、第一日である。千金の重みがある言葉が並んでいるのです。

第一日であるとあります。これはどういう意味なのか、初めて時が生まれたのです。それまでは、時が生まれる必要がなかったのです。ところが、時が誕生したのです。夕あり、朝ありとなっている。これが時の出現を現わしているのです。

それでは、時とは何であるのか。時の本質は何であるのか。光が引き抜かれなければ、時は生まれなかった。光と闇が分けられた時に、初めの日が発生した。時間が発生したのです。

神がイエスを助けられたように、私たちを現在助けておられるのです。さらに助けたいという気持ちを神は持っておられるのです。

イエスが神の御名の栄光を現わしたまえと祈った時に、「私はすでに栄光を現わした。さらに現わすであろう」と神が答えたのです。

これと同じことを神は私たちに述べているのです。皆様は神の栄光を知らされておいでになるし、これからもますます知らされるでしょう。

神が皆様と一緒においでになるということは、絶対的な事実です。自分が生きていることよりも、神が共にいますことの方が、もっと確かなことです。自分が生きていることよりも、神が共にいます方が時間的に多いのです。

すべての時は光です。ナウ(now)な生き方をすることです。これが光の内に歩むことです。「今というまに今はなし」。今の実体とは何か。光です。これが創造の第一に現われたのです。

光は瞬間だけです。ぴかっと光ったらそれだけです。これが本当の現前です。私たちが生かされているのはこれです。ぴかっと光る、この瞬間だけです。これ以外に何もないのです。昨日はないのです。昨日のことをいろいろ悔やむ必要はないのです。また、争う必要もないのです。今あるだけです。

私たちは光と一緒に歩いていけばいいのです。苦しみも悲しみも一瞬間だけです。光のうちを歩むなら、神の子であるイエスの血によって、罪を許されるとあります。光のうちを歩むという条件を果たさなかったら、イエスの血によって、私たちの罪が贖われないことになるのです。イエスの贖いが有効であるためにも、皆様は光の内を歩まなければいけないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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矛盾

人間は現在生きている自分を、どうしてもかわいがりたいと思うのです。その自分から抜け出さなければならないのに、自分を愛している。これはまさに、肉の人間が地獄であることを証明しているのです。 人間が救われるということは、あるべからざるほどの重大な栄光にあずかることですから、少々の苦しさを乗り越えなければならないことは、極めて当然のことです。しかし、皆様は自分の気持ちを捨てることが、どうしてもできないの

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