top of page
検索
  • 管理人chaya

人間は暗きの権威から引き出された


パウロは次のように言っています。

「神は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった」(コロサイ人への手紙1・13)。

神が人間を闇の力から救い出したと言っていますが、これは闇の力から引き出したという意味になるのです。救い出すというよりも引き出すという意味が強いのです。

人間の魂は、闇の権威の下に押さえ込まれているのです。だから、そこから逃げようとするのですけれど、皆様の心の中のどこかに、闇の力から逃げたくないという意識が働いているのです。

人間存在の性格は、宇宙的に言えば女性になります。女という極端な言い方をすると人間ではなくて、独自の生物と言わなければならないのです。聖書は男を人間と言っているのです。マン(man)という言葉の中に男も女も含める場合もあるようですが、厳密に言えばマンとウーマン(woman)とは違う存在です。女は人間創造の時に造られたのではないのです。後から神に造られたのです。人間創造という概念の中に女は入らないのです。

女と男とはどう違うのかと言いますと、人間と神と程違うのです。神にかたどりて男が造られた。男のあばら骨を取って女が造られたのです。神の栄光として男が造られ、男の栄光として女が造られたのです。女は男の栄光です。そこで、男は自分自身の栄光に恋するのです。自分自身の栄光が好きになるのです。

自分が自分の栄光を好むことよりも、自分自身が神の栄光であることに気づいて、一ランク上の栄光に目をつければいいのです。下の栄光に目をつけないで、上の栄光に目をつければいいのです。人間はどうしてもランクの下のものに目をつけようとする。ランクの上のものに目をつけようとしないのです。神を恋すべきはずの人間が、女を恋することになる。これが間違っているのです。

女の人は、自分は男のために造られたのだとは、なかなか考えられないのです。女は男のために造られたのだという考えが、なかなか定着しないのです。男の場合でも、神のために造られたのです。そういう意識を男は定着させようとしない。自分のために自分が造られたような気持ちでいるのです。女もそういう気持ちでいるのです。だから、自分が幸せにならなければならないと考えるのです。

男の存在の本源は神です。女の存在の本源は男です。この原理をはっきり見極めて、この原理に従って行動しなければいけないのですが、これがなかなか分からないのです。

世の中の男女は困ったもので、本当に男らしい男はいないのです。ほとんどいないのです。男らしい男というのは、まず自ら自分は神の栄光として造られたということを知らなければいけないのです。自分が神の栄光であることに気づいて、神に帰ることです。自分自身の場から離れて、神に帰ろうとする積極的な意識をいつでも持っていることが、男の絶対的な責任です。男性の資格はここから出発するのです。

男性である資格が、現在の男性にはないのです。だから、女が男を軽蔑することになるのです。男は熊みたいなものだと考えるのです。熊みたいに所もありますが、神みたいな所もあるということが、はっきり分からないのです。男自身が自分に対する自覚の欠陥から、女性のひんしゅくをかうのです。軽蔑されることになるのです。

女の場合はしかたがないとして、男の場合は相手が神です、絶対です。だから、安心してより頼むことができるし、安心して帰ることができるのです。女は男を尊敬することができないかもしれませんが、男は神を尊敬できるのです。尊敬しなければいけないのです。神は熊とは違いますし、ゴリラとも違うのです。男はゴリラみたいなものです。だから、尊敬できないのです。

しかし、男性に私は言いたいのですが、男は絶対に神を尊敬しなければならないのです。神を崇めよと言いたいのです。そうすると、男性本来の栄光が現われるのです。きちっと神を崇める姿勢を取りますと、男性本来の権威が、その人から流れ出すようになるのです。そうしたら、女は尊敬せざるを得ないことになるのです。夫を尊敬しなさいと、いちいち言わなくても、勝手に尊敬できるようになるのです。

とにかく、本当に神に腹を明け渡すのです。隠し所を神の前に見せるという決意がなかったら、歩みたもうエホバ神の前には出られません。「暗きの力から引き出した」とありますが、これはすでに神ご自身が人間に対する処置として、実行されたことなのです。

暗きの権威から引き出したということは、色々な面から説明ができるのです。今の天地万物の姿が、実はそれを証明しているのです。また、私たち自身の生活意識も、それを証明しているのです。深い深い所において、人間はすでに自分が暗き力から引き出されていることを、実は知っているのです。

ところが、自分自身の心理状態をじっと見つめるということをしないから、それが分からないのです。人間は自分の心の中を覗きこんで見る必要があるのです。深い井戸の中を覗きこむように、自分の心を覗きこんで見れば、自分は何を求めているのか、何を求めていないのかが分かるのです。自分自身の深層心理、深層意識が分かるのです。

皆様は深い深い井戸を覗きこむように、自分の心の中を覗き込んで頂きたいのです。そうして覗き込んだ意識を、最も正直にそのまま自分の生活行動に現わすのです。覗き込んだだけではいけないのです。それを率直に、そのまま生活行動に現わすのです。そういう律儀深さを持っている人が、なかなかいないのです。

思想として理解しても、それが生活行動に現われないのです。そうしなければならないと思いながら、そうしないのです。そこで、思想と行動が分裂するのです。皆、猫をかぶっているのです。本当の本心で生活していないのです。だから、暗きの権威から引き出されている自分が分からないのです。

旧約時代と新約時代とでは、天地の姿が変わっているのです。これが分からないのです。天地開闢の昔と現在とでは、天の姿、地の姿は同じではないかと思えるのです。見た所は同じに見えるのですが、感じる所が違うのです。これが分からないのです。

人間存在も全く違っているのです。現在の人間の存在は、暗きの力から引き出されている存在です。これが良い意味に現われたり、悪い意味に現われたりしていますから、中々分からないのですが、例えば基本的人権という概念は、旧約時代なら成立するはずがないのです。

ところが、新約時代であるために、基本的人権という概念が成立するのです。最も現在の基本的人権という概念は間違っています。しかし、そのような概念が成立するということが、暗きの権威から引き出されているという証明になるのです。

現在の人間の人権思想は間違っています。これは肉の考えによるのですから間違っていますが、それを霊に翻訳して良く見ますと、ここに神の驚きくべき処置がなされていることが分かるはずです。今の人間はこれができない。猫をかぶっているからできないのです。

論理としては、人間存在の永遠性、栄光性を見ていますが、神に基づいて見ているのではなくて、人間の自我意識に基づいて見ているから間違ってくるのです。本質的に間違っているのです。

自分が人権を認めたいという気持ちを、じっと覗き込んで見るのです。深い井戸を覗き込むように、自分自身が人権を主張したい気持ちを、また、主張できるという状態を見るのです。

現在の社会では人権を主張しようと思えばできるのです。なぜそれができるのか。旧約時代にはそれが全くできなかったのですが、今はできるのです。日本でも、新約聖書が入ると同時に、それができるようになったのです。新約聖書が入ると共に、自由、民権という思想が入ってきたのです。聖書と共に、自由、民権も入ってくるのです。これが奇妙です。

こういう事を現在経験しているのです。神は新約の印をすでに人間の心に与えておられるのです。だから、自分自身の心の動き、または人情の動きを良く点検すると、神の福音の真理というもの、例えば救いの真理も、滅びの真理も、両面が現われているのです。だから、じっと気をつけて見ると分かるのですが、人間はそれをしようとしないのです。

かつて、「ローマへ帰れ」ということが言われました。ローマへ帰ることは、ギリシャに帰ることになる。ギリシャに帰ることは、ヘブルに帰る。ヘブルに帰ることは、カルデヤに帰ることになる。カルデヤに帰ることは、エデンに帰ることになる。エデンに帰ることは、天に帰ることになるのです。

徹底的に古きを訪ね新しきを知るのです。人間自身の原存在を心を静かに見つめれば、金銀財宝が輝いていることが分かるのです。

暗きの権威から引き出されたということは、現在の人間が無意識の内に意識していることです。だからこそ、基本的人権ということが言えるのです。男女平等ということが言えるのです。

男女平等という原理は、「人もしキリストにあれば、男もなし女もなし」という聖書の原理から来ているのです。そうでなければ、男女平等という発想方式が成り立たないのです。

そのように、人間は私たちが生きている人間常識の中で、神と人との関係についての奥義を、何となく知っているのです。これが御霊が人間を生かしているという根本的な証拠になるのです。皆様は、人生について、また、人間存在について、もっと鋭利な感覚で見て頂きたいのです。

その次に、「愛する御子の国に移された」とあります。英訳では、愛の子の王国に移されたとなります。移されるというのは、トランスレート(translate)という言葉を使っていますが、この言葉は翻訳という意味にも使います。

現在の人間存在は、神の愛の子の王国へ移転させられたのです。神の愛の子というのは、神の愛がそのまま子になっている状態をいうのです。これが神の国です。ここに私たちの魂がすでに移されているのです。人間の実質が、全く変わってしまったのです。肉から霊に翻訳されたのです。翻訳されてしまっているのです。

だから、古き人、死ぬべき人はなくなっている。死なない人間になっている。このことをよくよくご承知頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:1回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

人間が死ぬというのはなぜか。自分の気持ちで死ぬのです。自分の気持ちで勝手に死ぬのです。命を見つけることができないので、死なねばならないことになるのです。それだけのことです。 イエス・キリストの復活によって、人間の命が新しくなった。これが紀元元年です。仮に、イエス・キリストの復活がなくても、人間は死なない命を持っているはずです。そうすると、イエス・キリストの復活は、余計なことのように思えるかもしれま

矛盾

人間は現在生きている自分を、どうしてもかわいがりたいと思うのです。その自分から抜け出さなければならないのに、自分を愛している。これはまさに、肉の人間が地獄であることを証明しているのです。 人間が救われるということは、あるべからざるほどの重大な栄光にあずかることですから、少々の苦しさを乗り越えなければならないことは、極めて当然のことです。しかし、皆様は自分の気持ちを捨てることが、どうしてもできないの

bottom of page