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剣を投じる


聖書に次のように書いています。

「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのである。私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲たがいさせるためである。そして、家の者が、その人の敵となるであろう。

私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイによる福音書10・34〜37)。

この箇所はマタイによる福音書第六章三十三節にあります「まず神の国と神の義とをもとめなさい」という所と、裏表の関係になるのです。

現世というものは、朽つべき世界です。これは簡単なことです。こんな簡単なことがなぜ分からないのかと言いたいのです。これを誰もはっきり言わないのです。こんなことは科学的に考えても分かるのです。物理的存在の世界は、朽つべき世界です。

いつかこの地上に人間が住まなくなる時が来ることは、誰でも知っているのです。従って、現象世界は般若心経で言えば色即是空ですが、これは現象世界をはっきり否定しているのです。

このことと、十章三十四節の内容とを突き合わせてみますと、般若心経の思想とイエスの思想はよく似た点があるのです。ただ般若心経は五蘊皆空と照見しています。五蘊皆空を悟ったとだけ書いている。五蘊皆空というのは、非常に無責任な言い方でありまして、朽つべき世界を朽つぐき世界であるとだけ見ているのです。こんなものは仕方がないと言っていますが、それならそれに代わる新しい世界がどのように現われるのかということの説明、または、結論を般若心経は出そうとしないのです。ただ色即是空だと言っているのです。

色即是空という感想は間違いないのですが、色という不完全な世界がなくなるとして、何ができるのかということです。これについては仏国浄土と言いますが、仏国浄土の正体が何であるのか。浄土というものと、現在の地球との関係はどうなるのかという説明を一切しようとしない。ただ仏国浄土が現われるというのです。

草木国土が悉皆成仏すると浄土が現われるという。成仏するというが、草や木がどのように成仏するのか、地球が成仏するというのは、どのようになるのかと質問すると、仏教関係者は答えられないのです。一万七千六百巻ともいわれる膨大な仏教経典の中に書いていないからです。悉皆成仏するとは書いていますが、それは物理的にはどのような状態をさすのであるのか。また、それが現存する地球とどのような関係があるのか。それについて、一切述べていないのです。

新約聖書における地球完成の思想を、大乗仏教が真似しているのです。そのようにしか考えられないのです。聖書は神の国のことを書いています。それを真似して浄土を書いているのです。仏国ということと、神の国とは同じことです。

新約聖書の世界観がインドに流れ込んだ結果、インドの仏教に新約聖書の影響を与えた。そして、仏国浄土という言葉だけはできたが、聖霊がないものですから、仏国浄土に対する明白な説明ができないのです。

とにかく、般若心経でさえも、般若波羅密多と真っ向から言っているのです。この世にとどまっていてはだめだ。こちらの岸にいたのではだめだ。向こう岸へ渡るのだということを、般若波羅密多という言葉ではっきり言っているのです。現世に生きている人間は、死んでいくために生きているのです。死んでいく人間ばかりが現世で生きているのです。般若心経は向こう岸へ渡ることを、初めから前提条件にしているのです。般若心経でさえもそうです。現世はだめだと言っているのです。現世にいたら、ただ死んでしまうだけです。だから、向こう岸へ渡れと言っているのです。

現世にいるということは、五蘊の中にうろうろしているだけのことです。無知蒙昧の中にうごめいているだけのことです。だから、川の向こう側へ渡ってしまえ、向こう岸へ行ってしまうのだと、また、その知恵が五蘊皆空を表現することだという言い方をしているのですが、抽象的にはこの見解は正しいのです。般若心経でさえも、この世を問題にしていないのです。

イエスは剣を投じるためにこの世に来たと言っています。剣とは諸刃の剣です。聖霊のことです。聖霊をこの地上に投じるためにイエスは来たのです。イエスが十字架にかかって復活し、昇天しなければ、聖霊は下らないのです。十字架と復活、昇天という三つの手続きがいるのです。そうして初めて、聖霊という剣が下るのです。

イエスは剣を投じるために来たというのは、自分自身が剣ではない。しかし、本物の剣、真理の御霊という剣が、イエスが天へ行った後に下ってくる。この真理の御霊が地上に下る時に、御霊を崇める者はその人自身の魂が剣になるのです。御霊自身が剣ですから、聖霊を受けて聖霊に満たされる状態になりますと、その人自身が剣になるのです。ずばりずばりと切るのです。

イエスは皆様を剣にするために来たのだと言っているのです。イエスは諸刃の剣である聖霊をこの地上に送ると言っています。聖霊を受けた人間が、諸刃の剣である聖霊を崇めることになりますと、その人自身が剣になるのです。光に照らされた者は光になるのと同じことです。恵みに満たされた人は恵みになるのと同じことです。

もしある人が剣になると、その家の人は皆仇になるのです。また、その人が聖霊の剣になるためには、家の人を仇と見なければ剣にならないのです。その人自身が剣になっていれば、その人は聖霊の器だと言えるのです。そうでなければ肉の器です。

なぜイエスが聖霊の剣をこの地上に投じなければならないのかと言いますと、現象世界は朽つべき世界です。朽ちる世界です。腐る世界ですが、地球が腐るのではない。朽ちるというのは、やがてだめになるという意味です。

日本では昔から、形あるものは必ず壊れるという諺があります。生ある者は必ず死ぬると言います。日本人はこれを常識としてきたのです。明治以後に、欧米から近代学が流入したために、形あるものが必ず壊れるという思想はなくなったのです。なくなったのではありませんが、非常に薄くなったのです。

平安時代の文学には、諸行無常という思想が非常にはっきりしているのです。平家物語には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と、初めからそういう思想が出ているのです。源氏物語でも、諸行無常の思想をそのまま小説にしている。人間生活、政治や文化、社会の人間関係が、結局諸行無常であることを、そのまま書いているのです。

ところが、近代の日本の文芸には、諸行無常観が非常に希薄になっているのです。ほとんど出ていない文芸作品もあるのです。それは現代文明の洗礼を受けたために、せっかくの諸行無常という優れた世界観がなくなっているのです。文明の度合いが高くなることによって、日本人はバカになったのです。現代の文芸には、平家物語のような切実な意味での諸行無常的な価値は、ほとんど見られません。それだけ日本の文学は堕落したのです。文学的な価値を失っているのです。

現在の有形世界は悪魔の反逆によって、神が暫定的な形として悪魔を試みるため、または、悪魔に属するか、神に属するかについての、人間の霊魂を裁くために有形世界が造られたのです。

悪魔に属する霊魂か、神に属する霊魂かを審判するために、現象世界が造られたのです。そのためだけなのです。現象世界そのものに意味がある訳ではない。どうせこんなものはだめになるに決まっているのです。

だめになるに決まっているものを神があえて造ったのは、だめになるようなものを造って、それを金科玉条のように尊ぶか、あるいはこんなものはだめだと考えるのか、どちらを選ぶかを神が審判するためなのです。色即是空と言える人間が、何人いるのかということです。それを審判するために、神が現世を造ったのです。

般若心経のように色即是空がはっきり正しいと言える人間は、たとえ神の約束が分からなくても、地獄の刑罰は逃れられるのです。色即是空とはっきり言い切っているからです。これが仏教の徳です。

特に日本に新約聖書と聖霊が入ってくるまでの時代において、いわゆる明治維新以前の年代においては、般若心経が重要な役目を果たしていたのです。明治時代以後の人間は、神との間において正しい判決を受ける状態におかれたのです。明治維新までの人間は、仮判決の状態におかれていたのです。

それまでの人間は、色即是空と本当に思えたのです。色即是空を実際生活しているように思える人、例えば白隠禅師のような人は、恐らく裁かれないでしょう、地獄の刑罰に合わないでしょう。裁かれる自分がいないと言っているのですから、心底からそう思っていたのです。

有名な話ですが、寺の前の花屋の娘が白隠禅師に子供を産ませられた。花屋の主が白隠禅師に、どうしてくれるのかとどなり込んできたのです。白隠禅師は「すまん、すまん」と言って、一生懸命に子守をしたという話です。後から、他の坊主に産ませられたことが分かって、花屋の主が平謝りをしたのです。白隠禅師は、「そうか分かったか、分かったならそれでいい」と言ったということです。本当に色即是空を見ていたら、そうなるでしょう。色即是空を悟るなら、こういうことになるでしょう。そういう人なら、山上の垂訓をそのまま実行していると言えるのです。だから裁かれないでしょう。

ところが、明治以後の人はだめです。聖書と聖霊が日本に入ってきた以上は、正式に聖霊を受けて神の御霊を崇めるかどうかによって、携挙されるかされないかが決定されるのです。

今私たちは、ユダヤ人と同じ判決を受けるでしょう。だから、私たちは異邦人だと言って誤魔化していられないのです。聖書に書いてあることを知らなかったと言っても、知らない方が悪いのです。知らなかったではすまないのです。現在はそういう責任があるのです。

現象世界は、その実在を信じる者と、これを空と見る者との二つの流れが出てくるのです。現象世界を実在と信じる者は、神が現象世界を造った目的を誤解しているのです。この人はとこしえの命に適わない者として、悪魔と共に処罰されることになります。

現象世界は嘘である、空であることを知ると同時に、この空なる世界が壊滅した後に、神の国が現われるということをはっきり受け取った者は、肉体そのものが栄光の姿に変えられるのです。新天新地があることが本当に分かった者は、その人自身の肉体が新天新地と同じ物質に変えられるのです。死なない者に変えられるのです。これが完全な救いです。

現世を信じている者は、携挙されません。現世を信じない者は肉体が変えられるのです。現世を信じている者は変えられないのです。墓場へ行って、地獄へ行くのです。死ぬべき肉体を脱いで、天から栄光の体を着せられる人は、永遠の生命を与えられるのです。栄光の肉体を与えられるかどうかは、その人の精神状態のイメージによるのです。その人の精神がどういうイメージを持っているのか、現象を実体としているかしていないかによって決まるのです。

この地球に平和を来らした所で仕方がない。地球はそのような試験をさせるために、現われたのです。この地球は永遠に存在すべきものではありません。ただ人間を試みるためにだけあるのです。

現象世界を信じる者は、肉の思いを持っているのです。現象世界を否定する者は霊の思いを持っているのです。霊の思いか、肉の思いか、どちらの思いで生きているのかを神が審判するだけのことです。だから、朽つべき地球に平和を与えることを神はしないのです。朽つべき地球に平和をきたらせようと一生懸命になっているのは悪魔です。悪魔と悪魔の思想に感激している人間だけです。

やがて地球には、人間文明最後の繁栄が訪れるでしょう。これが「バビロンの繁栄」です。人間の歴史が始まって以来、最高の文明が現われるのです。三年半位、本当にすばらしい文明が現われるのです。その時、その文明を賛美する人々が多く現われるでしょう。この人々は、全部地獄へ放り込まれることになるのです。人間が造り出す平和は、人間を地獄へひっぱっていく平和です。これは偽りの平和です。

考えてみて下さい。この地球に本当の平和が来ると思われますか。人間はお互いに疑っているのです。お互いに焼きもちを妬いているのです。お互いに嘘を言っているのです。お互いに自分が得をしようと考えている。こんな人間ばかりいて、本当の平和が来るはずがないのです。

それをユダヤ人は実現しようと考えているのです。これはある程度実現するでしょう。形だけは実現します。人間は平和が現われたと言って賛美するのです。ユダヤ人が造った平和を賞賛するのです。そこでユダヤ人が全世界の指導者になるのです。それから人間がひどいめにあうのです。これは人間が造った平和です。

イエス・キリストはそんなバカなものを造るために来たのではないのです。この地上に平和をもたらすために来たのではない。むしろ混乱させるために来たのだと言っているのです。平和ではなく、剣を投じるために来たということを、平気で聖書が書いているのです。こんなことを書いている聖書を、十数億のキリスト教徒が信じているのです。

イエスはこの世の中の平和を乱すために来たのです。これを本当に信じるのかと言いたいのです。なぜ新約聖書を発売禁止にしないのかということです。なぜなら、今の政治を真っ向から否定しているからです。これは赤軍の革マル派の人々の考えるようなものとは違います。彼らはせいぜい爆弾を造って人を殺すくらいです。何十人もの人を殺す程度のことです。ところが、聖書は十数億の人々が信じていて、西欧文明の基礎になっているのです。どうしてこんな危険な書物が堂々とまかり通っているのかということです。これは現代のキリスト教の牧師が、まともに聖書を説いていないからです。まともに説いていないから、聖書は何と書いてあっても誰も信じていないのです。

イエス・キリストが地上に剣を投じるために来たとは、毛頭考えてもいないのです。だから、クリスマスにはみんながお祝いをするのです。もしイエスがこの地上に剣を投じるために来たということが分かったら、クリスマスのお祝いをしないでしょう。地球を混乱させる大親分が生まれたのなら、その人を何で祝うのかとなるからです。だから、宗教がどれほど間違っているかが分かるでしょう。

現在の地球を承認することは、はっきり神に敵する行為になるのです。悪魔に味方する行為になるのです。そのような人間の思いの中に、剣を投げ込むためにイエスは来たのです。

神の御霊は、現在、剣となって投げ込まれているのです。だから本当に真剣に、真面目に、聖書を勉強する者は、この剣を受け取ることになるのです。剣を受け取る結果、現世をずばりずばりと切る人間になるのです。聖霊を受けた人たちは、現世を切る行為をしているのです。

この世を認めているかどうかを、何によって判断したらいいのかと言いますと、家族をどう見ているかによって見極めることができるのです。家族で試験するとすぐに分かるのです。家族とは何か、生まれながらの人間が持っている家族というのは何か。人間の魂をこの世に出すとしますと、一応動物的な形態を取るしか仕方がないのです。そうしなければ、魂がこの世に出られないのです。動物的な形態を取るとすれば、親子ができるのです。親子という形を取らないで、人間の魂を地上に出すことはできないのです。生殖作用を用いて、犬が子を産むように、子供を産む。こういう方法を取るしか人間をこの世に送る方法はありません。従って、魂を現世に送るとすれば、全知全能の神と言えども、家族を造らせない訳にはいかないのです。家族なしに人間は生まれないのです。そこで、必然的に家族ができたのです。

しかし、人間は動物としてこの世に来たのではないのです。地球を治めるために来たのです。悪魔に代わって、将来の栄光の地球を治めるための王者として、人間は現われたのです。

朽つべき世界が朽ちた後に、栄光の世界が現われます。神の国が実現します。神の国を支配する器として、人間が造られたのです。神の国の支配者としてふさわしい人間が、何人出るかということを神がじっと見ているのです。そういう人を訓練するために、現象世界が造られたのです。

家族という形をとって、魂をこの世に送ったけれど、家族は動物的な形の延長であって、本当の人間の状態ではないのです。家族という生態は、本当は人間の生態ではありません。これは動物の生態です。動物の生態としてこの世に魂を送って、修行するために現世に来たのです。修行の成果を携えて神の国に入るのです。

学校の場合は、自分の成績がそのまま成績表に現われますが、神からもらう成績表は御霊が良い点をつけて下さるのです。御霊が加点して下さるのです。だから、皆様の実際の点数よりもずっと良い点数がつけられるのです。携挙された人は及第ですから、堂々と神の前へ行けばいいのです。そのために私たちは聖霊を受けるのです。聖霊を受けて御霊に満たされることが必要です。私たちは何のためにこの世に遣わされたのかということを、良く知る必要があるのです。

人間は生まれてからどうなったのか。親かどうか分からない人間が、親だと言ってきたのです。実はこの世の親は真の親ではないのです。親の代理者です。この世の両親はこの世の代理です。本当の親ではないのです。本当の親は神です。皆様は元々神の中にいたのでが、神から送られてこの世に来たのです。だから親は神に決まっているのです。

ところが、この世の親が自分が親だと勝手に思い込んで、「私はママよ」と言うのです。そういう親に教育されたので、間違えてしまうのです。生まれたての赤ちゃんは両親を知りません。知らないどころか、問題にもしていないのです。本当の親を知っているからです。目に見える両親を親だとは思っていないのです。ところが、無理に親だと思わせるのです。強引に親だと押しつけるのです。親を押し売りするのです。しょうがないから、親の代理を本当の親だと思い込んでしまうのです。洗脳されてしまうのです。そして、本当の親を忘れてしまうのです。パパとかママと言わせるのです。ところが、中学生や高校生になると、どうもおかしい、これが本当の親なのかと疑い始めるのです。頼みもしないのになぜ産んだのかと言い出すのです。思春期の少し前になりますと、疑い出すのです。思春期は非常に良いチャンスであって、イエスは七、八歳の頃に本当の親を思い出したのです。そして、エルサレムの神殿に帰ったのです。そこで両親は、イエスが迷子になったと思ってあわてたのです。イエスは三、四歳の頃に、一度エルサレムを通ってナザレに行ったのです。このときにはまだイエスは本当の親を見出せなかったのです。その後に、イエスは本当の親を思い出したのです。

イエス以外の人間にもこの現象があるのです。思春期の前にふっと本当の親を思い出すのです。そうして、目に見える親を疑い出すのです。これが親から見ると反抗期に見えるのです。

子供の中には、永遠の親のことが何となく頭にあるのです。何となく現世が矛盾していると思えるのです。現世に対してどうもおかしいと疑いを持つのです。

私は何となくそれを感じていました。皆様も魂の底にどういう気持ちがあるのか考えてみて下さい。子供の魂の中には、神の全知、神の円満無欠が何となく分かるのです。そこで人間社会がどうもおかしいと思うのです。こういう気持ちが反抗期になって現われるのです。これがはっきり形を取るのが思春期です。

この時に現世に無いもの、今までの生活になかったものを求め始めるのです。これを思春というのです。春を思っているのではない、思春期ではなくて、思真期です。真理を思う時なのです。あるいは思神期と言ってもいいのです。真理、または真心を考える時が思春期です。真心は本当のことです。真理も本当のことです。本当の真心と本当の真理を思い出すのです。これが初恋になって現われるのです。

人間は天から地上に遣わされて、こういう経験をしているのです。初恋の時にどういう経験をしたかです。思春期の前に家庭教育を受けますが、これが間違っているのです。親ではないものを親だと思わされるのです。仲間ではないものを仲間だと思わせられるのです。世間とか、世間の人間が実際に存在するもののように思わせられるのです。人間の教育はすべて偽善の教育です。両親の教育、学校の教育、人間社会の教育によって寄ってたかって嘘ばかりを子供に教えるのです。肉の思いばかりを詰め込まされるのです。

「人の思い計ることは、常に悪のみである」と神は言っています(創世記6・5)。悪のみの教育を受けるのです。そうして大きくなって思春期を迎えるのです。そうすると悪のみの教育を受けていますから、親や社会に反抗するのです。

常にただ悪のみであると神が言っていますが、悪のみであるとはどういうことかと言いますと、常にただ悪魔のみとしたらいいのです。人間は常にただ悪魔の思いだけで生きているのです。そういう状態につき落とされるのです。これはヨハネによる福音書の第八章四十四節で、「あなたがたは自分の父、すなわち悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも本音を吐いているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」と言っているとおりです。これは人間が家庭教育、学校教育、社会教育を受けた結果、こうなってしまうのです。

現世の人間は、親も兄弟も親戚も友人も知人も、寄ってたかって人間の魂を悪魔に売り渡すことに、一生懸命になっているのです。それが親の愛だ、先生の愛だと言っているのです。そういう肉の思いで考えた家庭、または、学校がことごとく悪魔の思いになっています。悪魔の思いで文明ができていますから、現代の教育は全部悪いことばかりです。

神はノアの洪水の直前に、人間の状態をご覧になって、「人間の思い計る所は悪魔の思いそっくりだ。こんなものを造って大変なことをした」と考えたのです。神は人を造ったことを悔いたもうたとあるのはそれです。神は人間を造ったはずですが、造られたものは悪魔の子ばかりです。神が造った人間が、皆悪魔の子になっている。そこで神は人を造ったことを悔いて、全部人を滅ぼしてしまった、これがノアの洪水です。

ノアの洪水とはどういうものか。これは恐ろしいことです。その後、神は人に約束して虹を造った。雲の中に虹が現われる。虹を神が見た時に、契約を思い出すと書いてあるのです。これはどういうことなのか。これは今まで説かれなかった秘密です。これが分かると、現世の秘密が分かってくるのです。ノアの洪水が起きたのは、人間が全部悪魔の子になったからです。神が産んだ覚えがないものができてきたからです。

人が思い計ることはことごとく悪である。こういうものが子を産んで育ててきたのです。今から五千年も前のノアの洪水の時でさえも、人間が考えるのは悪であるとすると、一体現在の世の中は何と言ったらいいかです。

最近の世の中の悪はただの悪魔ではありません。今の人間の有様は言語道断です。言葉がないのです。言葉に絶することです。五千年前のノアの洪水の時代に、人々は皆悪のみを考えたのです。キリストが誕生してキリストから見てユダヤ人が皆悪魔の子であったとすると、その時代のユダヤ人は丸いものでした(今から二千年も前のことですから)。

今の人間を一体どう考えたらいいのでしょうか。怨霊の子とでも言うしかない存在です。とにかく悪魔の子よりはるかに悪くなっているのです。人間がどうにもしょうがないものになってしまったのです。人間は根本的に間違ってしまった。人間の考えはピンからキリまで全部嘘になっているのです。

人間は皆本音を吐いているのです。彼が偽りを言う時、いつも本音を吐いているとイエスが言っていますが、皆様は本当のことを言っているつもりでしょうが、肉の思いが嘘になるのです。人間の考えは皆肉の思いです。肉の思いで本当のことを言っているつもりでも、肉の思いが嘘なのです。だから、偽りを言う時に、いつも本音を吐いているとなるのです。肉の本音を吐いているのです。例えば、御霊を受けたいと思う気持ちも、宗教観念という肉の本音です。人間が言うことは一切信用できないのです。

そこで、御霊を受けたいと思う人、また、受けた人は自分の思いを絶対に信じてはいけないのです。ただ神の導きだけを信じて頂きたいのです。自分の思いを信じたら、必ず間違います。ただ神の導きを信じるのです。

ところが、皆様は神の導きよりも、まず自分の思いを信じようとしています。神の言葉について聞いても、自分の思いで受け取ろうとする。そこで間違ってくるのです。そして、御霊を受けるのに、何十年もかかることになるのです。

神を信じるというのは、神において信じるということです。これができればすぐに分かるのです。聖書にはbelieve in Godという言葉があります。直訳しますと、神に信じる、神において信じるとなります。

これを日本語の聖書は神を信ぜよと訳しています。ところが、神を信じるとはどうすることか、これが分からないのです。これが分かればすぐに御霊が受けられるのです。

このことを噛んで含めて、十分に説明すれば、すぐにでも御霊を受けることができるのです。しかしこれはできるだけしない方がいいでしょう。これをすると帝王切開することになるからです。あんまり丁寧に説明しすぎると、帝王切開になって、生まれた子供の育ちが悪いのです。だから、よほどの場合、例えば死ぬ病に冒されているような時以外は、しない方がいいのです。

神を信じるというのは、believe by Godになるのです。believe in Godとbelieve by Godとでは全然意味が違うのです。

faith in Christとfaith by Christ とは全く意味が違います。faith in Christと書いていますが、これをキリスト教の人々はfaith by Christと考えているのです。キリストを信じる信仰と訳しています。そこで間違ってくるのです。

日本のキリスト教の教徒で、十年位アメリカで勉強していた人がいました。日本キリスト教団に属していた人ですが、この人にfaith in Christという言葉をご存じですかとお聞きしましたら、そんな言葉はありますかと言われるのです。ガラテヤ人への手紙の第二章十六節に、「それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである」とあります。英訳では、that we might be justified by faith in Christ, and not by the works of the lawとなっています。

この人はアメリカに十年もいて勉強していましたから、英語には詳しい人ですが、faith in Christという言葉が聖書にあることを知らなかったのです。キリストを信じるとばかり考えていたというのです。キリストを信じる信仰と考えていたのです。ところが、英訳ではキリストの信仰になっているのです。

キリストの信仰でなかったら救われないと、はっきり書いているのです。キリストの信仰でなければ救われないとなると、今のキリスト教は全部間違っています。キリストを信じる信仰と考えているからです。日本語の聖書はキリストを信じる信仰と訳してしますが、英訳ではキリストの信仰を信じる信仰となるからです。

これは大問題です。日本のキリスト教の人々、いや世界中のキリスト教の人々は、キリストを信じる信仰と考えているからです。キリストの信仰と、キリストを信じる信仰とは、全く違います。キリストの信仰というのはキリストが持っていた信仰ということです。キリストが持っていた信仰でなければ救われないのです。

ところが、キリスト教の人々は、キリストを信じたら救われると思っている。こういう間違いを犯しているのです。これは皆人間の罪のためなのです。

キリスト教の信仰は皆、肉の人間が本音を吐いている信仰です。だから、本音を信じることになるのです。彼らは偽りを語る時、皆自分の本音を吐いている。このとおりになっているのです。キリスト教の教義は全部人間の本音です。

宗教観念は人間の本音を吐いているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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