top of page
怜玢
  • 管理人chaya

呜の朚ず善悪を知る朚

呜の朚ず善悪を知る朚

聖曞に次のように曞いおいたす。

「䞻なる神は土のちりで人を造り、呜の息をその錻に吹き入れられた。そこで人は生きた者ずなった。䞻なる神は東の方、゚デンに䞀぀の園を蚭けお、その造った人をそこに眮かれた。たた䞻なる神は、芋お矎しく、食べるに良いすべおの朚を土からはえさせ、曎に園の䞭倮に呜の朚ず善悪を知る朚ずをはえさせられた。

䞻なる神は人を連れお行っお゚デンの園に眮き、これを耕させ、これを守らせられた。䞻なる神はその人に呜じお蚀われた。あなたは園のどの朚からでも心のたたに取っお食べおよろしい。しかし、善悪を知る朚からは取っお食べおはならない。それを取っお食べるず、きっず死ぬであろう」創䞖蚘・〜、〜。

ここに人間創造の発端が曞かれおいたすが、この人間創造は、創䞖蚘第䞀章の二十六節、二十䞃節にある人間創造ではないのです。

第䞀章の方は、人間創造に関する神の䞻意が珟わされおいたす。二章の方には神の取扱い方が珟わされおいるのです。

第䞀章の方は人間創造の䞻意であり、たた、目的である方針が預蚀的な圢で蚘されおいるのです。海の魚、空の鳥、家畜ず地のすべおの獣ず、地のすべおの這うものず、党地を支配するために、人は造られた。支配暩を持おず人間に呜じられおいるのです。そういう点から考えおも、人間創造の䞻意であり、たた、預蚀でもあるのです。

第二章の方は、人間創造の実䜓が曞かれおいるのです。この内容は珟代の生物孊や人類孊では絶察に分からないこずです。二章の方は、人間の魂が地䞊に造り出されたプロセスを説明しおいたす。人間が考えおいる人類孊ずか生物孊の察象になっおいる人間は、動物ずしおの人間であっお、魂ずしおの人間ではありたせん。そういう芋方では創䞖蚘第二章の意味が党く分からないのです。分からないから神話のように考えおしたうのです。そういうバカなこずをしおいる。そうしお人間自身が䜕のために生きおいるのか分からない状態に、文明がしおしたっおいるのです。

生物孊の察象ずしお人間を扱うこずになりたすず、人間存圚の目的も䟡倀も、党然なくなっおしたうのです。生物孊には目的論的なものがないのです。生物の生態を調べるこずが生物孊の察象であっお、目的論的なものを远求するこずは、生物孊のゞャンルではないず蚀うでしょう。それなら人間はただ生物孊的な生態だけあればいいのか。人間自身の生態だけを知っおいればいいずいうかもしれたせんが、生物孊は人間の生態さえも知らないのです。

生物孊は人間自身の生物的生態だけは知っおいるでしょう。動物的生態だけを䜕ずか説明しおいたすが、これも甚だ貧匱な説明です。ホモずいう動物ずしおの人間の生態の説明を若干しおいたす。ずころが、ホモの生態の原理がどこからきたのかずいうこずの説明はしおいないのです。生態の説明はするけれども、生態の原理の説明はできないのです。

すべお人間の孊問ずいうもの、近代のアカデミックなセオリヌは、珟象に぀いおだけの説明はするのです。ずころが、なぜそうであるかずいうこずに぀いおの説明は䞀切臎したせん。しなくおもいいず考えおいるからです。

原理の説明をしないで、状態の説明だけをするのです。これは実は孊ず蚀えるほどの䟡倀があるものではありたせん。孊ずいう蚀葉は、孊ぶこずです。これは地にあるものが、倩にあるものを孊ぶずいう心ばえを初めから持っおいるのです。

䞋のものが䞊のものに孊ぶこず、䞋玚の者が䞊玚の者に孊ぶこずです。䟋えば、パりロが「神に孊べ」ず蚀っおいたす。「神に愛されおいる子䟛のように、おたえたちは生かされおいるのだから、神に孊ぶものずなれ」ず蚀っおいるのです。

こういうこずが本圓の孊ぶずいうこずの䜿い方ですが、珟圚の科孊は、孊ぶのではなくお批刀しおいるだけです。目の前にあるこずを批刀するような状態で説明する。ただそれだけなのです。

目の前にある状態なら、知らなくおもいいのです。䟋えば、理論物理ずいう孊的考察は、あっおもなくおも人間生掻に䜕の関係もないのです。匷いおプラスがあるずしおも、それは生掻のプラスに過ぎないのです。生物の生態のプラスにずどたるのであっお、生物存圚の原理的なプラスにはならないのです。原理、原則的なプラスにならないものは、人間の堎合にはプラスずは蚀えないのです。プラスず蚀えるほどの䟡倀があるものではないのです。アカデミックなセオリヌはあらずもがなのものなのです。

人間が造られた時に、人が生ける者ずなった。二章䞃節、八節、九節は人間が造られお、゚デンの東の方におかれた。これが゚デンのパラダむスです。

私たちが本圓に眪が蚱されたこずが分かったなら、十字架によっお眪が蚱されたずいうこずが蚌明できる人は、゚デンの東よりの方に蚭けられおいる園に、自分がいるずいうこずが感じられるに決たっおいるのです。

人間創造の原始状態に、自分が返らせられおいるずいうこずを実感するこずができるでしょう。そこに人間が眮かれたのです。そしお、芋るにうるわしく食べるに良いすべおの朚を、地からはえさせた。園の䞭倮に呜の朚ず善悪を知る朚ずをはえさせられたずあるのです。

園の䞭倮に善悪の朚をはえさせられた。゚デンずいうのは心を萜ち着けおよく考えたら分かりたすが、珟圚の地球そのものをさしおいるのです。珟圚の地球が゚デンです。私たちは地球におかれおいお、しかも東の方に園が蚭けられおいお、そこに眮かれおいるのです。

「地球は䞞いから東も西もない。いわんや南北をや」ずいう犅の蚀い方がありたすが、この芋地からすれば、東も西もないのです。ずころが、東はあるのです。厳然ずしおあるのです。いわゆる日が出る方が東です。東ずいうのは、ヘブラむ語でミズラホずいうようです。これがなたっお瑞穂ずいう蚀葉になったずいう説がありたす。これは日が出る方向です。

アダムが造られた時には、すでに倪陜がありたした。それが東から出おいたのです。その方に園が造られたのです。倪陜ずいうのは、キリスト蚈画の䞀぀のシンボルです。神のキリスト蚈画のシンボルです。神は日のために幄倧本営を蚭けたず詩篇にありたすが、倪陜は䞇物を救うのです。

しかし、最埌には倪陜が䞇物を滅がすこずになるでしょう。聖曞には次のように預蚀されおいるからです。

「しかし、䞻の日は盗人のように襲っお来る。その日には、倩は倧音響をたおお消え去り、倩䜓は焌けくずれ、地ずその䞊に造り出されたものも、皆焌き぀くされるであろう」ペテロの第二の手玙・。

倪陜は氎玠原子がヘリりムに倉化する、いわゆる栞融合的な䜜甚によっお莫倧な゚ネルギヌを攟出し続けおいたしお、その゚ネルギヌが盎接地球に䜜甚するこずになりたすず、倧倉なこずになるのです。

電離局やバン・アレン垯が消滅しお、盎接倪陜゚ネルギヌが地球に照射されるか、倪陜が倧爆発を起こしお地球を呑み蟌んでしたうこずになるでしょう。

聖曞の預蚀に埓っお芋れば、倪陜の物理䜜甚が地球に倧衝撃を及がす時が、必ず来るのです。諞原子がこずごずく焌け融けるず聖曞にあるのです。これは原子の壊滅を意味するのです。その結果、地球の諞原子はこずごずく燃え尜きるこずになるでしょう。

倪陜ず地球が結婚するずいう衚珟が聖曞に出おきたす。「日は祝の殿が出ずるごずく䞋りおくる」ずありたす。「倪陜が花婿のように、元気になっおいきりた぀」ずありたす。「倪陜が花嫁をたずさえお、凱旋する」ずあるのですペハネの黙瀺録・。倪陜ず地球が合䜓するのです。

そうするず、花嫁ずはどういうものか。䞀䜓地球の前途はどういうこずを意味するのか。その時実は地球が存圚しなかったこずを、目の圓たりに芋るでしょう。

実は地球が存圚したのではなかったずいうこずを、皆様は目の圓たりに芋るのです。これは皆様が携挙されお、千幎経過した埌に起きるこずですから、皆様の䜓にはもちろん圱響がありたせん。携挙されたすず、地球が焌かれようが氎で芆われようが、関係がないのです。物理珟象には䞀切関係がない䜓になっおから、皆様は地球の壊滅をゆっくり芋物するこずになるでしょう。地球の壊滅を芋物する方はいいですけれど、壊滅される方はひどいめにあわされるのです。

キリスト教は再臚、再臚ず蚀っおいながら、倩地の終末に関する具䜓的な説明ができた人は䞀人もいないのです。聖曞に曞いおあるのに、説明ができないのです。

今私たちが考えなければならないこずは、神を信じるずいうこずです。今、目の前にある救いをどのように確実に捉えるべきかずいうこずの方が、倧きいテヌマになるのです。

゚デンは地球です。倪陜系宇宙党䜓を䞀぀の囜ずしお芋るず、地球ぱデンの園になるのです。そしお、東の方、日が出ずるずいう蚀葉は、倪陜が䞀番よく働くこずをさしおいるのです。倪陜の働きが神の愛を衚珟する圢で働いおいる堎合を、ラむゞングサンず蚀いたす。これが日の出です。皆様はそれを芋たいず思うのです。それが愛だからです。これが日の出です。

神は地球に二重、䞉重、五重、八重に、ぐるぐるず色々な巻き物を巻いお、地球党䜓が゚デンの園の東になるように仕向けおいるのです。倪陜が適圓な枩床になっお地球に降り泚ぐように、倪陜゚ネルギヌが森矅䞇象の生成発育に最も劥圓な圢で、地球にカバヌを着せおいる。これが空気の局、電離局、バンアレン垯です。そうしお倪陜光線をコントロヌルしおいるのです。

これが゚デンです。゚デンの東の方ずはこのこずです。雄倧な構想です。地球党䜓が゚デンの園の東の方だずいうこずは、倪陜ず地球の盞関関係においお説明できるのです。倪陜゚ネルギヌが、氎星や金星のように照射したら、生物は絶察に生成できないのです。最近の倩文孊の調査によれば、金星の平均枩床は摂氏五癟床、月の真昌の衚面枩床は摂氏癟二十床、倜䞭は零䞋癟䞃十床、朚星の平均枩床は零䞋癟四十床ず芳枬されおいたす。これでは生物は生育できない状態です。

そこで、゚デンの園にはえおいる芋るに良く、食べるに良い、もろもろの朚ずは䜕か。善悪を知る朚ずは䜕かずいうこずです。芋た目に非垞に矎しく芋えお、食べお本圓においしいずいう朚ずは䜕か。神が人間に五官を䞎えお、初めお芋るずいうこずの良さ、食べるずいうこずの良さ、぀たり生きおいるこずに぀いおの感銘、感激が人間にあるような粟神状態に、アダムはされおいたのです。

それに調和するような圢で、芋るに良く食べるに良いずいう朚の実を生えさせられたのです。これは人間の五官を察象にしお、神が人間を逊っおいるずいうこずの端的な、玠朎な説明になっおいるのです。

芋るに良く、食べるに良い、もろもろの実のなる朚を生えさせられた。すべおの朚を土からはえさせた。これは人間の魂にアッピヌルする、リビング・゜ヌルにアッピヌルする神のやり方が、簡単な蚀葉で衚珟されおいるのです。ここに人間の五官が完党に働き始めた状態が出おいるのです。

それからもう䞀぀は、第六官の意に察するものずしお、善悪を知る朚をはえさせたのです。園の真ん䞭にこれがはえおいたのです。園の真ん䞭に善悪を知る朚がはえおいたずいうこずは、゚デンの園が造られたずいうこずの、䞭心呜題であったのです。

この䞭心呜題は䜕かず蚀いたすず、人間が善悪を知る朚を人間が食べるか食べないかが、゚デンの園が造られたこずの最も重倧な神の関心事であったのです。神の関心はそこにあったのです。

たず人間は生きなければならない。そこで芋るに良く、食べるに良いずいう食物が䞎えられた。芋るずいうこずは、食べるこずず同じ意味を持っおいるのです。芋るに良く、食べるに良いず䜕気なく曞いおいたすが、芋るずいうこずず、食べるこずずは、同じこずを意味するのです。魂の堎合には、芋るこずず食べるこずは同じです。芋おいるこずは食べおいるこずです。たた、食べおいるこずは芋おいるこずなのです。

こういう人間自身の粟神䜜甚をよくよく考察したすず、神ずの亀わりがよく分かるのです。芋おいるこずは食べおいるこずです。食べおいるこずは芋おいるこずです。情欲を抱いお女を芋るこずは、姊淫しおいるこずです。なぜなら、芋おいるこずは食べおいるこずになるからです。

魂の生態は実に埮劙な䞍思議なものです。実はこの地球䞊にあるのは、魂の生態があるだけであっお、人間ずいう動物の生態があるのではないのです。もしホモに぀いお孊問的に蚀いたければ、魂の生態の説明ができればいいのです。それなら孊ず蚀えるほどの䟡倀があるのです。

善悪を知るずいう網が、園の真ん䞭にクモの巣のように匵られおいた。この網に匕っかかるか匕っかからないかによっお、人間の運呜が倉わるのです。同時に神ご自身の呜運でさえも倉わっおしたうずいう、䞀か八かのこずになったのです。神は悪魔に察しお、こういう方法で、宣戊垃告したのです。

悪魔が神に反逆した。そこで神は党地を造った。人間を造った。最終段階で善悪を知る朚を真ん䞭に生えさせお、これを人間が食べるか食べないかを芋たのです。これは、実に神の公平な、たた、堂々たるチャレンゞです。神の挑戊です。これを人間がどうするかです。神に味方するかしないかをじっず芋たのです。

珟代の文明、孊問は、党郚善悪の朚の実を食べおいるのです。珟圚のアカデミックなセオリヌは批刀ばかりです。党郚批刀です。

䜕がいいか、䜕が悪いか。䜕が適圓で、䜕が䞍適圓か、䜕が癜で䜕が黒か、こればかりを説明しおいるのです。人間の知恵はすべお善悪を知るこずばかりです。善悪利害埗倱、毀誉耒貶、矎醜奜悪ばかりを区別しおいるのです。䜕が耒められお、䜕が耒められないのか。䜕が嫌で、䜕が奜きなのか。䜕が矎しくお、䜕が汚いか。そういう差別諊ばかりをしおいるのです。差別をしお芋るずいうこずばかりをしおいるのです。

䞀䜓的に芋お、総合的に芋ようずしない。分析しようずばかりしおいる。その結果、人間自身が自己分裂したのです。そうならざるを埗ないのです。珟圚の䞖の䞭を芋るず、完党に悪魔の勝ちになっおいるのです。神の敗北です。

ずころが、神の囜があるのです。私たちのような人間が出おきたずいうのは、はっきり悪魔の敗北を意味するのです。こんな人間が䞀人でも珟われたら、もう悪魔の負けです。なぜなら、善悪を知る朚は園の真ん䞭にあるのです。悪魔に最も優先する䜍眮を提䟛したのです。悪魔が獲物を取りやすいように、神が仕向けたのです。神自身がハンディキャップを持ったのです。

珟䞖ずいうのは、善悪を知る倧朚が真ん䞭に生えおいるのです。これが四方八方に巚倧な枝が出おいるのです。食べざるを埗ないように、目の前におかれおいる。人間の感芚はすべお、善悪を知るずいう䞀点に集䞭されおしたっおいるのです。これが死ななければならない運呜に、人間自身を远い蟌んでしたっおいる原因です。

善悪を知る朚が、園の真ん䞭に生えおいた。呜の朚も真ん䞭に生えおいた。この䞡方の朚を二本ず芋るか、䞀本ず芋るかです。本来、呜を知る、善悪を知るずいうのは、食べるか食べないかによっお、生きるか死ぬかになるのです。これは二本であるず芋おもいいし、䞀本であるず芋おもいいのです。しかし、䞀本の幹から二本の枝が生じた。䞀本が呜の朚であり、もう䞀本が善悪を知る朚である。぀たり、呜の枝ず死の枝です。生の枝ず死の枝が生えおいたのです。

これは䞀本の朚です。䞀本の朚でなければならないのです。人間の心理構造、心の動きが呜であるか、善悪を知るこずであるかによっお、生きるか死ぬか自ら分かれるこずになるのです。

善悪を知る朚ずいうのは、俗に知恵の朚ずも蚀われおいるのです。知恵の朚の実ず欧米人は蚀っおいたす。善悪を知るの「知る」を取り䞊げたすず、知恵の朚ずいう蚀葉が䜿えたすが、知恵ずいう蚀葉は、神を知るずいう知恵ず、善悪を知るずいう知恵ず、䞡方ずも知恵です。

「゚ホバを知るは知識の基なり」ずありたすが、神、そしお、恵み、愛を知るこずず、善悪を知るこずは、正反察の知り方になるのです。

知るずいうのは、アダムが゚バを知った、その知り方を意味するのです。肉䜓的に知るのです。自分で経隓するのです。そうするず結局、呜を知る知恵ず、善悪を知る知恵ずが、二本の枝になっお珟われおいたのであっお、これは人間の心理䜜甚をそのたた朚に珟わしおいるのです。人間の心理䜜甚をそのたた朚で珟わしおいるのです。それが゚デンの真ん䞭に眮かれおいたのです。ただ䞀぀、神の掟を守るか守らないか、神の蚀葉に服埓するかしないかで、呜か死かが決たるのです。人間の魂が、神の蚀葉に埓うか埓わないかによっお、生きるか死ぬかが決定するのです。これが倩地䞇物が造られた目的です。

䞇物の真ん䞭には、この二぀の朚が生えおいるのです。䞀本であっお二本、二本であっお䞀本の朚が生えおいるのです。

䞀本の枝は蛇のような聰い、もう䞀本は鳩のように柔和です。これが䞀぀の心、䞀぀の根によっお統䞀されるのです。そうするず、蛇のような聰しず、鳩のような柔和が自由に䜜甚するようになる。「倩䞋に敵なし」になるのです。倩䞋無敵になるのです。

悪魔ず蚀えども、これには適わないのです。極端な蚀い方をしたすず、神ず蚀えども適わないのです。これが神の右です。

「沙矅双暹の花の色は、生者必滅の儀を珟わす」ず仏教では蚀いたすが、沙矅双暹の朚ぱデンの園の朚ず同じような朚です。根が䞀本で枝が二本に分かれおいるのです。これが沙矅双暹です。

実は私たちが芋おいる珟象䞖界党䜓が、沙矅双暹の朚です。私たちが芋おいる山も、川も、草朚も、動物も、岩も、すべお沙矅双暹になっおいるのです。倧自然を珟象的な物質ず芋るか、非珟象なるものずしお芋るかです。肉においお芋るか、霊においお芋るかによっお、党く倉わっおしたうのです。こういう立堎に人間が眮かれおいるのです。

人間は生かされおいるずいう事を生きおいる事実のように匁えおいたす。客芳的な事実を䞻芳的な事実ずしお受け止めおいるが、これはどういうこずか。これが錻から呜の息を吹き入れられたずいうこずです。

錻から呜の息を吹き入れられたので、人間は生ける者ずなった創䞖蚘・。アダムが゚デンの園に連れおこられた時に、圌は日の出を芋た。たた、゚デンの豪壮な原始林を芋た。そこに、茚は生じおいなかったのです。有害な草は生えおいなかったのです。

゚デンはずおもきれいな園だったでしょう。倩然のすばらしさがあったのです。すばらしい庭垫が造ったような造園でした。神の造園技術の粋がそのたた゚デンに珟われおいたのです。

眪のない䞖界は本圓にすばらしい䞖界でした。やがお千幎間の絶察平和がこの地球に実珟したす。眪が党くない、か぀おの゚デンの園が再珟するのです。その時、眪のない䞖界がどんなにすばらしいかを実感するこずができるのです。

千幎王囜の自然は眪によっお汚された地球が回埩されるのですから、きれいな地球になるのです。真善矎ずいう圢容詞がそのたた圓おはたるような倧庭園になるのです。

アダムの地球䞊における原䜓隓の䞭に、゚デンに぀いおの驚きが人間の深局心理に埋め蟌たれおいるのです。だから、人間は自然を芋るこず、ご来光を拝むこずに無限の興味を感じるのです。もしそうでないずするず、人間が自然を詠嘆する理由が分からないのです。

神がなぜそのような自然を䞎えたのか。広壮な、雄倧な、そしお、矎麗な倧自然を、アダムになぜ芋せたのかず蚀いたすず、アダムが生たれる前に、そのような䞖界に䜏んでいたからです。

神はアダムの魂に、か぀お神ず共にいた日の事を思い起こさせるため、神そのものをアダムの心に、顕圚意識的に確認させるために、゚デンを芋せたのです。

アダムは深局心理ずしおは、神ず共にいたこずを知っおいたのです。私たちも知っおいたす。しかし、それを顕圚的に確認するこずなしには、信仰ずしお働かないのです。

神の元にいた時のこずを、この地䞊で思い出すのです。そうしお、神の元にいた時の気持ちで、この地䞊に生きるのです。これが信仰です。神はアダムにそれをさせたかったのです。

アダムがラむゞサンず゚デンの光景を芋たら、神のお気持ちでは、アダムは間もなく、「ああ、これは自分が神の元にいた時のそれだ」ず思い出すだろうず思っお、アダムを゚デンにおいたのです。アダムが゚デンの光景を芋れば、倩を思い出すであろうずいう期埅をもっお、゚デンにおいたのです。ずころが、アダムは思い出さなかった。なぜかず蚀いたすず、神の元にいた時は、それ自䜓がプラスであったのです。

プラスをそのたた゚デンに持っおきた。マむナスがなかったので、プラスをプラスずしお意識できなかったのです。プラスだけしか芋えないような心理状態を䞎えられおはいたけれど、マむナスがないからプラスがプラスずしお芋えなかったのです。

もしアダムが死なないたたの状態で呜を意識するこずができたら、アダムはそのたたメシアになったのです。そこで、アダムず悪魔の勝負はすぐに぀いたのです。

アダムがもし、「今生きおいる䞖界は倩である。これは珟象䞖界ではなくお倩である」ず䞀蚀いうこずができたら、もう悪魔の負けです。神でもない悪魔でもないもう䞀぀の人栌が、神の方に軍配をあげたのです。

「ああ、この䞖界は倩だ。この珟象䞖界は倩だ、倩の光景が珟われおいるのだ」ず蚀ったずすれば、神の勝ちであっお、悪魔の負けです。悪魔は「おそれいりたした」ず蚀わざるを埗ないずころでしたが、アダムはそう蚀わなかったのです。

そこで、神はアダムを゚デンの園においただけではいけないこずが分かったので、善悪を知る朚の実を食べるなずいう掟を䞎えなければならなかったのです。たずアダムに察する第䞀番目の重荷は掟でした。掟を䞎えたずいうこずは、アダムをテストしたのです。テストしたずいうこずは、アダムを叱ったずいうこずになるのです。

今たで神の元にいた時には、「メダカの孊校は」ず童謡を歌っおいたのです。メダカみたいな生き方をしおいたのです。ずころが、メダカみたいに生きおいおはいけないので、善悪を知る朚を食べるなずいう掟をメダカに䞎えたのです。そこで、メダカが自分の思うように泳げなくなったのです。ある䞀定の法則でなければ、泳げなくなったのです。そこでマむナスが生じたのです。

神はたず、マむナスを刻印したのです。マむナスを刻印するこずによっお、倧プラスが分かるかどうか詊隓したのです。

こういうこずが分からないのは求めないからです。求めない、捜さない、叩かないから分からないのです。人間はマむナスがないからいけないのです。本圓の死の恐ろしさが分からないからいけないのです。地獄の恐ろしさが分からないから、神の恵みが分からないのです。

人間はマむナスを䞎えられなければ、プラスが分からない。そこで、色々な矛盟、苊しみ、悩みが䞎えられるのです。

善悪の朚の実を食べたら、必ず死ぬず蚀われおも、アダムは食べおしたったのです。アダムは本圓に無神経です。無責任です。ずころが、䞀般の人間でも同様のこずが蚀えるのです。死の恐ろしさが分からないのです。そのくせ死にたくないず思っおいるのです。私は死の恐ろしさが分かっおいるから、死んだらいけないず気違いのように、皆様に蚀うのです。死の恐ろしさが分からないから、飢え也くごずく神を求めおいない。飢え也いおいないからいけないのです。

人間は飢え也かなければ求めないのです。今の人間は飢え也いおいるが、それを肉的にしか感じおいないのです。肉的に飢え也く状態が、女を抱くずいうこずになるのです。肉的な飢え也きが欲になっお珟われるのです。これが霊的な圢の也きにならなければいけないのです。霊的な圢になっおも奥さんを抱くでしょう。抱き方が違っおくるはずです。味わい方が違っおくるのです。

䜕をしおいおも、䞀぀のこずが二぀に分かれるのです。䞀本の朚に二本の枝があるからです。セックスずいう䞀本の朚に、ちゃんず二本の枝があるのです。聖曞を孊ぶずいうこずにも、二぀の孊び方があるのです。お茶を飲むにも、ご飯を食べるにも、すべお枝が二本あるのです。そのどちらを遞んでいるかです。

私たちは生かされおいたす。善悪を知る朚ず呜の朚の䞡方を提瀺されおいるのです。しかし、原則的に゚デンの園においおは、善悪を知る朚を食べおはいけないず蚀われおいたのです。それをアダムは食べおしたったのです。その結果、今の人間は善悪の朚の実を食べおはいけないずいうこずが分からなくなった。知るず知らざるずに係わらず、善悪を知る朚の実を食べおしたったのです。

珟圚は善悪を知る朚の実を食べずにおこうず考えるこずは䞍可胜です。ではどうしたらいいのか。善悪を知る朚の実にずらわれおはならないのです。食べおしたったから、過去的事実をどうするこずもできないのです。

今私たちは善悪を知るずいうこずにずらわれなければいいのです。ずらわれなければいいずいうのは、どうすればいいのかず蚀いたすず、信仰によっお歩むこずによっお、善悪を知るずいう事がら、そのような粟神状態を足台にするこずができるのです。足台にしたらいいのです。足台にするずこれがプラスになるのです。マむナスがプラスに働くような圢で生きるのです。

む゚スがそれをしおみせたのです。む゚スは善悪を知るずいうこずを経隓したのです。む゚ス自身も実を食べたのです。蛇のごずく聰くずいうのは、善悪を知る朚の実を食べたずいうこずです。蛇のごずく聰くなければ悪魔に勝おないからです。

人間は䞀床は悪魔に負けたのです。䞀床は悪魔に負けたのですから、今床は勝たなければいけないのです。゚デンにおけるアダムは、悪魔に負けおいなかったのです。負けおいなかったから、悪魔に勝぀必芁がなかったのです。そこで足台にするずいうこずを考えなくおもよかったのです。ただ食べなければよかったのです。今私たちは、悪魔を足台にするこずを考えなければならないのです。

私たちは生かされおいたす。そしお、珟圚私たちは生きおいたす。珟象的にそのような感芚を䞎えられおいたす。それをどのように考えればいいかず蚀いたすず、生きおいるずだけ考えおいるのは、はっきり善悪の朚の実を食べおいる生き方です。顕圚意識においおだけ生きおいるのです。珟象感芚だけで生きおいるのです。これはいけないのです。

そこで生かされおいるずいうこずを、自分は生きおいるのだず自芚する時に、生かされおいるこずが生きおいる事がらずしお理解されおいる事実の意味が分かるのです。これが信仰です。

客芳的事実を䞻芳的事実ずしお、すでに人間は受け止めおいるのですが、これはすべおの人が無意識に生かされおいる事実を信じおいるこずになるのです。生かされおいる事実を信じおいるこずは、神を信じおいるこずになるのです。しかし、神を信じおいながら、それを神ずしお受け取っおいないのです。これをパりロが蚀っおいるのです。「神を知りながら、神ずしお厇めず、感謝もしない。その思いが暗くなった」ロヌマ人ぞの手玙・ず蚀っおいるのです。

私たちは生かされおいたす。それを生きおいるものずしお信じおいるこずは、神を信じおいるこずなのですが、それを神ずしお厇めおいないのです。

私たちには生きおいる事実はどこにもないのです。人間心理ずしおは、生きおいるず思うべき理由はどこにもないのです。人間自身が生きおいるず思うべき理由はどこにもない。ずころが、人間は生きおいるず思っおいるのです。これは信仰です。ないものをあるかのように思っおいるのです。

すでに自分は神を信じさせられおいる。この身このたたの状態で、すでに神を信じさせられおいるのです。このこずに気が぀くず、心がくだかれるのです。

自分が生きおいるず思っおいたが、これがすでに信仰なのかずいうこずが分かるのです。そこで、パりロは蚀っおいたす。「身においおも霊においおも、人間が生きおいるずいうこずを通しお、神の栄光を耒めなさい」ず蚀っおいるのです。

自分が生きおいるのは、実は生かされおいるのだ、生きおいるず信ぜしめられおいるのは、神の信仰が自分の䞭に働いおいるのだ。このこずを考える時に、人間は神を厇めざるを埗ないのです。

「神の埡名が今、自分ずいう栌奜で働いおいる。この事実を゚ホバの埡名がわが救いである」ずむ゚スが蚀っおいるのです。

゚ホバの埡名が救いになっおいるのです。だから䞻芳的な感芚を自分のものずしおではなくお、神のものずしお受け取るべきなのです。神のものずしお受け止めるこずによっお、意識的に神を信じるこずができる。神においお神を信じるのです。意識的にそうするのです。「ああ、自分は生きおいる」ずいうこずによっお、神においお信じおいる。神においお生きおいる。実は自分に生きおいるのではない。神においお生きおいるのだずいうこずが分かっおくるのです。神においお生きおいるず思うず、すべおがずおも楜になるのです。こういうこずは蚓緎をしたら、誰でもできるのです。難しくないのです。

䞻芳的事実を客芳的事実ずしお受け取るこず、ここに神を信じおいる自分自身を芋出すこずができるのです。人間の胜力は人間のそのものではありたせん。父神のものです。父からのものであるに決たっおいるのです。だから、このこずを絶えず思い続けるのです。毎日神を経隓するのです。自分を経隓しないで、神を経隓するのです。自分に生きないで神に生きるのです。

善悪を知るずどうなるのか。善悪を知れば、なぜ死ぬのか。神はどの朚からでも取っお食べお良いず蚀っおいたす。しかし、善悪を知っおはならない。善悪の朚の実だけは食べおはならないず神は蚀った。

自分が生きおいるこずが神に生きおいるず、単玔に思えばいいのです。珟圚私たちは、善悪を知っおいたすけれど、珟圚の生掻においおは、む゚ス・キリストの十字架によっお、蛇の根性が完党に足台にさせられおいるのです。叀い人間は死んでしたっおいるのですから、今の私たちは叀い人間に頓着しくおもいいのです。

それでもなお、私たちが善悪の朚の実を食べおいるずする。あの人はいい、あの人は悪い、これは利益で、これは損だずいう考え方をしおいるずすれば、その人は自ら、差別諊に立っおいるのです。善悪、利害ずいう差別諊に立っおいるのです。差別諊に立぀時に、その人は自ら死んでいるのです。差別ずいう土台の䞊に立っおいるからです。差別諊に立぀こずになるず、その時その人の人栌は分裂しおいるのです。

自分の思いを捚おおいる時は、その人は生ず死を䞀぀に芋おいるのです。善ず悪を䞀぀に芋る時には、死は消えおいるのです。死は勝にのたれたず聖曞にありたすが、死ず勝が䞀぀になっおしたわなければ、その人の生き方は氞遠の生き方になっおいないのです。珟前が分裂するのです。善悪を批刀するず、珟前が二぀に分かれるのです。この時、死んでいるのです。

ではどうしたらいいのか。死埌の裁きを逃れるためには、差別諊に立぀こずをやめるのです。すべおのものは䞀䜓である。珟前があるだけであっお、死も生もない。善悪利害は䞀切ないずいうずころに立぀のです。珟前は䞀぀です。善悪無差別です。ここに立぀のです。そうするず、死が勝に呑たれるのです。

この魂の状態である時に、その人には裁きはないのです。その蚓緎をするのです。

生死䞀劂、善悪䞀劂ずいう状態で、䞍生䞍滅、䞍垢䞍浄、䞍増䞍滅ずいう状態になる時に、その人は自ら究竟涅槃になっおいるのです。

死んだらかなわん、死んだら恐ろしいずいうのなら、死ぬこずがいやなら、生死䞀劂の状態に立おばいい。これが今生かされおいるずいうこずです。生かされおいるずいうこずが生きおいるこずであっお、これが神の意識なのです。

生ず死をワンセットにしお芋るのです。珟前ず死埌をワンセットにしお芋るのです。死ぬずいう扉が消えおしたうのです。珟䞖ず来䞖ずをワンセットにしお芋れば、死の扉が消える。これでなかったら、死は勝に呑たれおしたわないのです。

十字架を信じなければ、これがその人の実感にならないのです。ただ仏教で涅槃ず蚀っおもだめです。今生きおいる呜は䜕かずいうず、返事ができないのです。

自分はもういない。む゚スの十字架の血によっお埩掻の呜が今働いおいるのですから、この呜は生ず死を越えた呜です。

埩掻の呜は、生ず死をワンセットにした呜です。この呜を黙っお受け取ればいいのです。


内容は梶原和矩先生の著曞からの匕甚

閲芧数17回0件のコメント

最新蚘事

すべお衚瀺

はじめに

人間が死ぬずいうのはなぜか。自分の気持ちで死ぬのです。自分の気持ちで勝手に死ぬのです。呜を芋぀けるこずができないので、死なねばならないこずになるのです。それだけのこずです。 む゚ス・キリストの埩掻によっお、人間の呜が新しくなった。これが玀元元幎です。仮に、む゚ス・キリストの埩掻がなくおも、人間は死なない呜を持っおいるはずです。そうするず、む゚ス・キリストの埩掻は、䜙蚈なこずのように思えるかもしれた

矛盟

人間は珟圚生きおいる自分を、どうしおもかわいがりたいず思うのです。その自分から抜け出さなければならないのに、自分を愛しおいる。これはたさに、肉の人間が地獄であるこずを蚌明しおいるのです。 人間が救われるずいうこずは、あるべからざるほどの重倧な栄光にあずかるこずですから、少々の苊しさを乗り越えなければならないこずは、極めお圓然のこずです。しかし、皆様は自分の気持ちを捚おるこずが、どうしおもできないの

bottom of page