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天のエルサレム


パウロは「ああ深いかな、神の知恵と知識とは」という言い方をしています。誠に神の知恵、その知識の富は、とても普通の人間の思考範囲では考えることができないものです。

十字架によって、今の天と地とが廃棄されてしまっているのです。これは原則が破棄されてしまったということです。

創世記に記されている創造が破棄された。その原理になった神の言が、十字架につけられたことによって、これが明らかに証されたのですが、これだけで神の約束が成就するものではないのです。神は約束によって現在の天地を造られたのですが、現在の天地そのものが、約束の成就を意味するのではないのです。現在の天地の存在が約束を証するものですが、これは約束の成就ではないのです。

初めに天と地が造られた。これは悪魔の反逆のために、人間を罪からよび覚ますために、天と地とが造られたのです。

人間が、地というものの姿が仮のものであることに気づいて、目覚めることによって、約束が成就するのですが、その約束の成就のためには、人間が目を覚ます前に、約束がすでに成就されたという実体が必要になるのです。

神はイエス・キリストを十字架につけて、それによって罪を贖い、罪を滅ぼし、死を滅ぼして、彼を復活させたことによって、新しい世界の原則が打ち立てられたことになったのです。

十字架によって古いものが徹底的に除かれた。復活によって新しいものの基礎がすえられて、その運行が始まったのです。新約の時代というのは、十字架によるところの古いものの葬りと、新しいものの構築進展と、この二重の構造が原則になっているのです。これが新約時代の特殊事情です。

キリストを信じない人間、アダムの罪をそのまま持っている人間が残存していると同時に、キリストの復活の命を経験することが許されている人間が生かされていることと、この両方が新約の時代には二重構造的に存在しているのです。このような神の経綸が決定的な神の御業として、現在の時代を形造っているのです。

古い地球というものは、本来存在と言えるものではなかったのです。人間は万物が造られたと見ていますが、これは創世記の第一章に順序をおって記されている万物創造を見ているのですが、今見ている万物は、天と地そのものを現わすための存在であって、万物があるのではない、万物が造られたのではないのです。万物は造られたのですけれど、それは物自体を造るのが神の御心であったのではなくて、物によって天と地が造られたということです。

例えば、石があるとします。この石はその存在によって天なる事がらと、地なる事がらと、二つの事がらを現わしているのです。石によって現わされている天と、石によって現わされている地の二つのことが、同時に一つの石によって表明されているのです。地球全体がそういう仕掛けになっているのです。

地球は霊的に見れば天ですが、肉的に見れば地です。霊的な面と肉的な面とが、同時に一つの存在によって表示されていることが、天地創造の原理です。初めに神が天地を造られたというのは、そういうことです。悪魔と罪の下に閉じ込められている人間とは、造られたものの地の面だけを見ているのです。肉の面だけを見ているのです。これを肉の思いと言うのです。

御霊によって、悔い改めて福音を信じる時に、天の面を見ることが許されるのです。マタイによる福音書の十三章で、イエスは弟子に向かって、お前たちは天国の言葉を聞くことができると言っています。あなたがたには天国の奥義を知ることが許されているが、一般のユダヤ人には許されていないと言っています。

この時の弟子たちには、天国の奥義が分かっていたのではないのですが、イエスがキリストであると信じてイエスの弟子になっていたという事がらが、すでに天国の奥義を知ることが許されていたと言えるのです。

この譬をあてはめてみれば、皆様方自身が天国の奥義が明々白々に分かっているかと言いますと、そうではないのです。しかし、皆様は私たちに与えられている御霊の導きと知恵によって、天国の奥義を学ばせられつつあるということは分かっているのです。

イエスの弟子たちも、聖霊を受ける前に聖霊による導きを受けていた。イエスによる導きを受けていたのです。これは神の御霊に導かれているのと同じ意味なのです。

イエスはこの時、イザヤ書の言葉を引用しています。

「民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくくなる。その目は閉じている。見ているが決して認めていない。聞くことは聞いているが、決して悟っていない。しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、幸いである」(マタイによる福音書13・14〜16)と言っているのです。

このように、天国の言葉を弟子たちは聞いていた。これは第一創造において、霊の世界と肉の世界とが同時に造られて、一つの石、一つの木、地球全体が、天の面と地の面とが造られた。そういう二重構造的な形で創造されたのです。

ユダヤ人はその肉的な面しか見ることができなかった。それは悪魔に同意していたためです。悪魔の子と同じような性格をもって見ていたからです。見れども見えず、聞けども聞こえずの状態にあったのです。つまり地の形を見ているが、天の実体を見ることができなかったのです。そういう状態であったのです。現在の異邦人は今もなおそういう状態です。

第一創造というものは、天と地が造られたのであって、天の面を見ることができるなら、地の面は現在あるようには見えますが、全くなきに等しいのです。

イエスは天の面を見て、天に生きていたのです。肉の面が存在するこの地球上にいましたが、その肉の面を見ないで、霊の面を見て生きていたのです。

「肉に従いて歩まず、霊に従いて歩む」とパウロが言っていますが、霊に従いて歩むという状態が、イエスによって初めて実行されたのです。イエスは信仰の実践者でした。霊に従いて天に生きることを、イエスは実行してみせたのです。

そのイエスが十字架によって殺された。その結果、第一創造によって造られた万物が、ご破算にされたのです。十字架によって第一創造の存在が否定された。神の言が十字架につけられたことによって、第一創造が否定されたのですが、それを人間は未だに否定されないものとして信じているのです。

天の面を信じるのではなくて、地の面を信じる状態でいるのです。「天地の姿は開闢の昔と何ら変わらないのではないか。主の来臨はどこにあるのか、神の国が実現するということはどこにあるのかと言って、あざける者がいる」(ペテロの第二の手紙3・4)とペテロが言っています。こういうあざける者、異邦人たちが考えている形態的な世界は、もはや存在していないのです。

復活によって、すでに新しい世界が始まっています。現に生きている私たちの命の本質は、甦りの命になっているのです。これは第一創造の時の人間ではなくて、神の国が実現するという約束の完成への人間であると言えるのです。

そういう人間が新約の時代の人の子として、現に生かされているのです。これはイエスの復活によって、新しい世界が誕生し始めたことを意味するのです。

新しい世界が誕生し始めたというのは、その原則が神の経綸の進展と共に、神の教会の完成と共に進展しているということです。やがて小羊の婚宴という形において、天のエルサレムが成就しますが、第三の天においてはすでに成就しているのです。このエルサレムが、やがて天から下りてきて、小羊の婚宴が始まるのです。

ヨハネは次のように書いています。

「また、聖なる都、新しいエルサレムが夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神の元を出て、天から下りてくるのを見た」(ヨハネの黙示録21・2)。

この聖なる都エルサレムは花嫁の集団ですが、同時に天の都のエルサレムです。天の都エルサレムが造られるのでなかったら、下りてこれないのです。

新約の時代というのは、この天の都エルサレムが造られる時代です。これが新約の時代の終わりと同時に、聖なる都が下りてくるのです。これは千年王国が終わった後です。

その前に、千年王国という時代がありますが、千年王国が始まる前、異邦人の時代が終わった時に、教会が天へ上げられることになるのです。携挙されることになるのです。その時に天の都エルサレムが出来上がるのです。

そういう事のために、第三の天が造られることになるのです。第一創造(現在の現象世界の創造)においては、第一の天、第二の天は有りえたのです。

第一の天というのは、一番分かりやすい言い方をしますと、現在、肉体を持っている人間が天という言葉によって、直感的に感じられる天です。目に見える形で直感的に感じられる天です。

第二の天というのは、先程お話ししましたように、イエスが弟子たちに、お前たちは天国の言葉を聞くことを許されていると言っている場合の天です。イエスが地球上で生活している時にも、地に属する感覚で生きていたのではなくて、天に属する感覚で生きていました。これが第二の天です。

天国の奥義、天国の言葉ということをイエスは在世当時語っていましたが、この天国の天が第二の天です。

人間が直感できる天と、直感できない天が第一の創造においてあったのです。イエスの時代においても、それがありえたのです。アブラハム、モーセを初めとして、歴代の預言者でも、第一の天はもちろんのこと、第二の天を見ていた、知っていたのです。

イエスのように、第二の天を完全に生きこなした、天国において生きていたという訳ではないにしても、とにかく旧約の預言者も、神の御霊によって第二の天を知ることができたのですが、第一の天と第二の天だけでは、神の約束は完成しないのです。天のエルサレムが成就しないのです。そのためにどうしても、十字架によって新しい天が開かれなければならなかったのです。これが第三の天です。

第三の天が開かれるためには、神の言葉が十字架につけられて、新しい神の構想が繰り広げられなければならないのです。神の言葉が新しいものになって、約束の完成のために宇宙に大展開をするということでなかったら、第三の天が成就しません。そのためには、イエス・キリストの復活という事実が必要になったのです。

イエス・キリストの復活によって、第三の天ができたということ、新しい霊なる実体ができたということを示しているのです。それを弟子たちに見せたのです。

イエスは復活の後に、四十日の間、しばしば弟子たちの前に現われて、神の国のことを語り、また、教えたのです。これはイエスが十字架にかかるまでに教えていた神の国よりも、もっと完璧無類のもの、次元が高いものです。具体的に彼の復活によって、神の国そのものの実体を弟子たちに示したのです。そうして、弟子たちが見ている前で、天に上げられたのです。天に上げられて、神の位の右に座すことを許された。これが第三の天です。

第三の天において、イエスが神の右に座すことが許された時に、神の都エルサレムが造られ始めたのです。

それ以後、新約の時代において、神の御霊の導きと教えによって、そして、信仰によってこの事実が体得できたものは、第三の天に座することが許されるのです。

現世において、第三の天における栄光を求め、上にいますイエス・キリストを心に保つことを許された者は、第三の天に属するものとして神の御霊に取り扱われることになりますが、この人々が第三の天における神の教会を形造ることになるのです。

皆様も現世において、自分はこの世に生きているのではないということを実感できるだけでなく、第三の天に生きているのだという実感にまで到達するのでなければ、神の教会に属する魂であるとは言えないのです。

すでにキリストによって、このことが成就しています。イエスがキリストであることを信じるということは、当然第三の天に属するものであること、その栄光を自分自身の魂に教えられ、その実感を魂に持つことを許された者なのです。

私たちはこの大きい恵みを経験しなければならないし、また、現在経験させられるつつあるのですから、どうか地におけるすべてのことを忘れて、天にあることを望んでいただきたいのです。

パウロは次のように述べています。

「このように、あなたがたはキリストと共に甦らされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ人への手紙3・1、2)。

上にあるという言葉は英訳ではアバブ(above)という言い方をしています。これは目に見える上下の上という意味もありますが、現在私たちが考えている肉の思い、人間の常識を超越した場所をいうのです。完絶した場所をいうのです。

「甦った人間は上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのです。だから、地のことをあれこれ考えることをやめなさい」と言っています。

地のことは、既に過ぎ去ってしまったことです。地の上の人間のすべての生活は、良かれ悪しかれ、十字架によって過ぎ去ってしまったことです。

現に私たちは、この地上に生きていますから、生きている私たちの感覚で見ますと、何年も生きているから、まだ生活が地上においてあるだろうと思えるのです。それが間違っているのです。

地にあることを思うなというのは、すでに地上における生活はもうなくなっている、過ぎ去ってしまったのだという意味に、解釈すべきだと言えるでしょう。現在私たちにある家庭生活とか、友人関係とか、政治状態、経済状態も、すべて過ぎ去ってしまったことだから、こういうことを思うべきではないと言っているのです。

人間の考え方で言えば、これから一年後、二年後と計画をしますが、これは現世に生きている感覚からそう思えるのであって、質的には既に、過ぎ去ってしまったはずの生活を現在として、また、若干の未来として、受け止めていることになるのです。

従って、現世における私たちの運命というもの、私たちの命運というものは、もう決まってしまっているのです。こういう考え方がパウロにはあったのです。「私たちの国籍は天にある」とパウロが言っていますように、自分は天に属する人間なのだ、地に属する人間ではない。地上における運命というものは、現在私たちはまだ途上にあるように見えるけれど、実は幻です。

私たちには天の生活が始まっている。キリストが上にありて神の右に座したもうという事実が、私たちの生活の実体であって、この実体を今経験するために地上にいるのです。

従って、地上における事を心にかけるためにいるのではない。キリストが神の右に座したもうという事を信じて、その事に従って生活するために、この地上にいるという考え方がパウロの信仰の重点だったのです。

これはパウロの信仰の重点であっただけでなくて、主なるキリストにもたくさん言われています。「私はすでにこの世に勝ったのだから、お前たちは恐れるな」とイエスが言っています。これに類することを、ヨハネもペテロも言っています。「私たちはすでにキリストによりて救われているのだから、神の光のうちを歩め」と言っています。「現世のいろいろな肉の重荷を負わず、キリストの悩みを負え」とペテロが言っています。

とにかく、私たちは現世における生活をするために、この地上にいるのではない。現世の生活は既に過ぎ去ってしまっているからです。

十字架によって、目に見える世界はなくなっているのですから、目に見える世界を生きているはずがないのです。神の目からご覧になれば、私たちが目で見ている世界は、既に存在していない。従って、私たちが何と思おうと、とにかく、人間が信じても信じなくても、神的に言えば既に十字架以後の現世は有形的には存在していない。ただ幻として存在しているのです。人間はこの幻を見て、実体だと思っているだけです。そして、霊的な意味における神の国が始まっているのです。

命とは何か。現世に生きているのが私たちの命ではない。私たちの本当の命は、キリストと共に神の内に隠れているのです。第三の天に隠れているのです。

これは恐れ多いように思えるかもしれませんが、既に私たちの命はキリストと共に、神の右に座せしめられていると考えてもいいのです。私たちの命であるキリストが現われる時に、キリストと共に私たちの命も、栄光の内に現われるのです。

だから、現世における肉体的存在にとらわれるなと言っているのです。これは全く影ですから、霊の生活の訓練の場として与えられているのですから、肉体が具体的に存在しているような感覚で生きていてはいけない。そういう考え方をやめなければいけないのです。

神的に言えば、既に存在していないはずの肉の世界が、なお存在しているように見える。これが私たちのいろいろな形の思い煩いの原因になったり、心配事の原因になっているのです。実はこれは、私たちを訓練するために与えられているものであって、肉の思いに勝つか勝たないか、肉体的に存在する自分自身を、上にある思いで、これを超克していけるかどうかを試されているのです。

現世における人間というものは、良かれ悪しかれ、もはや十字架によって無きものになっているのです。パウロは「今肉体で生きているのは、私ではない。キリストが私において生きているのだ」(ガラテヤ人への手紙2・19、20)と言っています。自分はキリストにおいて生きているのであって、自分が自分として生きているのではないと言っているのです。

私はキリストと共に十字架につけられたとパウロが信じた時に、パウロはいなかったのです。神の子がいたのです。固有名詞のパウロがいたのではなくて、イエスと同じ意味の神の子がいたのです。

ですから、自分が今肉体で生きているのは、神の子の信仰において生きているのだと言っています。神の子の信仰というのは、神の子であるという信仰によって生きているという意味です。私のために自分の身を捨てたイエス・キリストのために生きているのであるし、また、そのお方の信仰によって生きているのであるという意味であって、固有名詞のパウロという人物がいたのではないのです。

自分がいるという考え方、固有名詞の自分という考え方は悪魔の子であることを意味するのです。自分が存在するという思想は、自分が悪魔の子であるという思想になります。自分というのは本来あるべき道理があるのではない。人間を初めとしてすべて万物は、自分を持っているはずがないのです。

これを仏教的に言いますと諸法無我になるのでありまして、それぞれの存在は、それぞれ自身の実体があるのではないと言っているのです。私たち自身の存在でも、私たち自身があるのではない、パウロ自身が生きているのではなかったのです。どこまでも自分が生きていると考えるのは、悪魔の子、罪の子、不法の子であることを自ら認めることになるのです。

現在、肉体的に生きている人間は、どう考えても死ぬしかない人間です。死ぬに決まっている人間であって、いくら弁解しても弁護しても、神の前には通用しないのです。それをなお信じているということは、明白に神に逆らっていることになります。

人間が生かされている命は、神に生かされているのであって、神の前に通用しないような自我意識を持って生きているということは、自ら死を意味する生き方をしているのですから、これは十字架を無視するだけでなく、天地が存在するという原理から考えても、天地に背いていることになるのです。

十字架を具体的に受け取って、どこまでも十字架に従って人生を見るという、深い理解をまずすべきであって、肉体的に生きている自分から抜け出すことです。どんな理由があっても、どんな気持ちであっても、どうしても肉体的に生きている自分の思いを踏みつけて、上にあるものを求めるのです。

パウロは、「私はもはや生きてはいない」と言いましたが、これはパウロ自身が人々に証をしたのですが、同時に彼自身が彼自身に言い聞かせている証であったに違いないのです。

「自分は毎日、イエスの死を身に負うている。イエスの死を運び回っている」と言っていますが、この言葉の内容を考えてみますと、パウロは毎日、死んでいるということを言い聞かしていたに違いないのです。

自分に言い聞かすたびに、彼の中にはイエス・キリストの十字架の広大無辺な意味が、いよいよ深く、いよいよ新しく、ますます大きく広がっていったのです。

日々十字架を負うて生きるということは、他人に対することではなくて、自分に対することです。自分自身に証をするということが、隠れたる父に向かって証をしていることになるのです。自分と父なる神とに向かって証をするのです。これは証であると同時に祈りでもあるのです。毎日、自分が十字架を信じている生き方が、そのまま神に対する祈りになっているのです。生きることと祈ることが同じになるのです。このような生活こそ、誠のクリスチャンと言われる正しい生活態度であると言えるのです。

私たちの魂はすでに第三の天において、イエス・キリストと共にいることを許されているのです。キリストと共に神の内に隠れている命が、現在与えられている命ですから、現世において生きている自分をキリストと共に第三の天に隠されている命だと考えて、現世に現われているこの肉体の命を、幻の自分として考えることを毎日実践すべきです。

生活において具体的に実行すべきなのです。現存在の人間の意識は、徹頭徹尾悪魔的な意識でありまして、現象主義的な自我意識というのは、どう考えても宇宙的に不合理な思想です。不合理な思想であることをあえて意識すること、強引に意識することは、はっきり悪魔的な考えであり、悪魔的な態度です。

現象的に生きている人間というのは十字架から考えても、万物と人間との関係、または人間自身の本質から考えても、現象的に生きている人間があるべき道理がないのです。神は万物創造の段階において、霊なる面と肉なる面を現わすために万物を造ったのですが、現存在の人間も、霊なる面と肉なる面とを現わすために造られたのです。

肉なる人間が存在するということは、どう考えても成り立たないのです。例えば、時間は存在しないのです。従って、空間があるべき道理がないのです。ましてや、人間がいる道理がないのです。理性と良心、分別力を持っている人間、四つの生き物が人間の内部で働いて、二十四の長老が冠をかぶって御座の回りに座しているというような状態を理解することができる人間が、肉体を持ってこの地上に生きているはずがないのです。

万物が存在するはずがないし、また、人間が存在するはずがない。すべて、日、月、星辰というものは、単なる惑星にすぎないのですが、地球は生き物で充満しています。そのように奇妙な状態の惑星が、本来あるべきはずがないのです。ましてや、万物のことを考える人間、自然科学とか、哲学という思考能力を持っている人間、また、ある程度大自然を動かすことができたり、科学技術を行使する能力を持っている人間が生物として存在するはずがないのです。霊なる力を霊的に備えている人間が、動物的な生物として、この地球に存在するはずがないのです。

仮に十字架がなくても、物質が存在する理由はありません。時間や空間が存在するという理由はありません。時間という概念、空間という概念は、人間の理性によって造られたものであって、理性を人間に与えたのは神です。

神は人間に理性を与えた。時間という概念、空間という概念、人間という概念、記憶という感覚、信仰というあり方、推理、判断、直感を人間に与えたのは、神の約束を成就させるためなのです。そのために、超能力と言えるような働き、上なる力を人間に与えているのです。これはすべて神の約束の完成のためです。神の約束に参与させるためです。人間は現世において、知らず知らずに神の約束に参与させられているのです。そうして、神の国を実現するために生かされているのです。

大自然と人間の調和は、自ずから新天新地における神と人との関係、または物と人との関係を志向しているのです。そういうことを知らず知らずにさせられているのです。こういうことをよくよく弁えて、物質が存在するという妄念、自我が生きているという妄念から抜け出して頂きたいのです。

神は物を造ったのではない。天と地を造ったのであって、初めから天における生き方をすべきです。イエスは十字架にかかる前から、天における生き方をしていたのです。私たちもイエスの足跡を踏む生き方、天にいる感覚で生活すべきなのです。

十字架によって私たちの古い人、罪人としての私たちの経験や存在は、完全に消え去っているのです。既に罪と死は完全に古い人に関係がなくなっているのですから、これをはっきり弁えて、現世における生活を送るべきです。

例えば、仏典にある阿弥陀如来という言葉でも、阿弥陀という名号がそのまま阿弥陀仏の悟りの内容、悟りの体験を証しているのです。

阿弥陀仏の証と言えば、無量寿(とこしえの命)、無量光(無限の知識)を証しているのです。これを証するのが阿弥陀仏です。これは現世に生きている人間の感覚ではなくて、宇宙が存在する本来の感覚を、そのまま体得して生きている、体験して生きている。そういう状態が阿弥陀仏として現われているのです。

如来というのは、真如の如が現われたものです。真如というのは、真実如常です。如常とは常のごとくです。本当の真実というのは、現在現われている常のようなことだというのです。

常とは何かと言いますと、存在の本質、神の御名、父なる神の御名です。これが常です。

現われているものは、霊なる事がらを証しているという意味において、目に見える常というのは、すべて霊なるものを証しているのです。

地なるものは、すべて天を証しているのであって、真如、如来という言葉は、そのまま地的な肉的な思いに生きず、霊的な事実に従って生きることが、真実如常から来たもの、つまり如来です。

私たちは十字架によってすでに如来的な存在にさせられているのです。自分が少々分からないと思えても、分かりにくいと思えても、そういうことに頓着せずに、神はすでに私たちを神の子として扱っていることに、目を向けて頂きたいのです。自分みたいなものという考え方を絶対に捨てて下さい。私みたいなものではなくて、明らかに神の御子としての存在ですから、上なるものを思って頂きたい。キリストが神の右に座しておられることが、そのまま自分自身の命であると考え、現世の命がそのまま幻であると考えて頂きたい。

現世に生きている自分ははっきり存在しないのです。すでに第三の天に上げられている自分をいつも見るのです。イエスがキリストであることを信じる以上、自分は現世においては、水と血との生活をおくらせているということを考えて、イエスが天における生活をしておられたように、私たち自身も天における生活をこの地上でおくるべきです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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矛盾

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