パウロは次のように述べています。
「すなわち、あなたがたは以前の生活に属する、情欲に迷って滅びに行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エペソ人への手紙4・22〜24)。
聖書の言葉を自分自身の命の言葉として受け止めないことになりますと、何回聞いていてもそれが自分の生活の実感にはならないのです。思想にはなりますが、実感にはならないのです。信仰というのは、神の言葉が生活の実感になることです。神の言葉どおりに生活できる人間になることが信仰です。そうならなければ、皆様自身の心に喜びはありません。恵みに満たされるということがありません。
これはいろいろな角度から言えることですが、なぜそのような不完全な聞き方をするのかということの、第一原因と言えるものは、宗教感覚で聖書を学んでいるからです。
宗教感覚で聖書を学ぶとはどういうことかと言いますと、現在生きている自分という立場に立って学んでいるのです。現在生きている自分という場にがっちり立っている。そうして聖書を眺めている、聖書の話を聞いている。これが宗教観念です。そういう聖書の聞き方をするところから発生するのが、宗教観念です。
宗教というのは、自分自身の存在をまずはっきり確認する立場から出発しているのです。自分が救われたい、自分が幸せになりたいという立場から出発しているのです。これが宗教です。良くても悪くても、自分が救われたいと思っているのです。
ところが、真理はそうではないのです。真理というのは何であるか。神とは何であるか。キリストとはどういうことなのか。どういうお方なのであるのか。このように問い、聖書を見ているのです。神とは何であるか。神を信じるとはどのようにすることなのか。このような問いかけの場合、自分が救われたいということを前提にしないのです。自分が救われたいということを前提にして聖書の勉強をしますと、宗教になってしまうのです。
ところが、神を知りたい、神の真理を求めたい、神の国と神の義とを求めたいというところから出発しますと、聖書が宗教にはならないで、真理になるのです。
真理以外のものを学んでもしょうがないのです。自分が救われたいと考えること自体が、初めからすり変えられているのです。自分が救われたいと思ったら、決して救われません。自分が救われたいと思わないで、神を知りたいと考えるのです。神を求めたいと考えるのです。これをすれば、必ず救われるのです。
自分が救われたいと思うと、救われないという根本的な悪循環がどこから来るのか。人間というものは、自分の立場から出発しようとします。これが神のごとくなっているということです。自分という立場は、悪魔の立場です。この立場を捨てなければ、救われるということはできないのです。自分を捨てて、イエスが主であることを受け入れれば、救われる事実が発見できるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)