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新しい人を着る


パウロは次のように述べています。

「すなわち、あなたがたは以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新にされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどりて造られた、新しい人を着るべきである」(エペソ人への手紙4・22〜24)。

人間は現在生きてはいますが、死んでいくのは当たり前という気持ちで生きているのです。死んでいくのは当たり前だと思っていながら、実は死にたくないのです。しかし、死んでいくのが当たり前だという思いが、決定的な形でその人の心を捉えている場合には、死にたくないという気持ちがなくなっているのかもしれません。死に対する恐れ、嫌さ、死を忌み嫌うような気持ちさえも薄らいでしまっている。こういう人が現代では相当いると思えるのです。

そのくせ、病気になると、病院へあわてて駆け込むのです。救急車で救急病院へ行くのです。ちょっと頭が痛いとか、お腹が痛いと、すぐに救急車を呼ぶのです。一昔前までは、こんなことはしなかったのです。働いて倒れたとか、大けがをした時でなければ、救急車を呼ばなかったのです。現在では、ちょっとした体の不調でも、すぐに救急車を呼ぶようになってしまったのです。

そのように、人間の命を尊重するように見える傾向にあると言えなくもないのです。肉体的な命については、そのように考えるのです。ところが、実際は命を尊ぶためにそうしているのではなくて、生活に支障をきたすことが好ましくないという気持ちから、そうしているのです。死ぬことが怖いのではなくて、楽しんで生きられないことが怖いのです。

人並に人生を享楽したい。人生を享楽するための支障が起きることが怖いのです。命が惜しいというよりも、享楽できないことが惜しいのです。これは徹頭徹尾、欲望主義的人生観になるのです。命のために真剣に考えて病院へ駆け込むのではなくて、おもしろおかしく人生を楽しみたいから、病院を利用するということになるのです。発想の原因が全然違うのです。

現代の人間は情欲の惑わしによって滅んでいくことが、当たり前になっているのです。情欲の惑わしによって滅んでいくのですが、情欲というものが、厳然として存在している。そこで、情欲に迷って滅んでいくと考えているのです。

ところが、情欲は実体的、具体的、固定的に存在するのではなくて、情欲という感覚そのものが、一つの惑わしであるという意味になるのです。情欲の迷いに引っ張られているのです。情欲そのものに迷うのではなくて、情欲の惑わしにひっかかっているのです。情欲は本来あるべきものではないのです。実はあるように思えるだけのことです。ちょうどこれは自我意識と同じことです。または、固有名詞の人間と同じことです。

自我意識とか固有名詞の人間は、現在の世の中ではあるのが当たり前になっています。しかし、人間存在の本質から考えますと、あるはずがないものです。固有名詞は人間生活の便宜上、社会生活の便宜上、あるだけのことです。生まれてきたのはただの人間であって、固有名詞の人間が生まれてきたのではないのです。

最近、テレビや新聞の報道にありましたが、産婦人科病院で赤ちゃんの取り違いがありました。石川さんの赤ちゃんと中村さんの赤ちゃんが取り替えられてしまい、十二年も経過した後にそれが分かったということです。子供も親も、今更元に戻すことができないということで、そのままで生活しているということです。石川さんが中村さんになっても、別に生活には支障がない訳で、固有名詞は絶対的なものではないのです。

本当は親の子はいないのです。子の親もいないのです。血液の係わりがあってもなくても同じことです。固有名詞は本来社会的な便宜上のものでありまして、絶対的なものではないのです。誰かが責任をもって育てていれば、それでいいのです。

固有名詞の人間がいると考えている人は、情欲が絶対的に存在するのです。ところが、戸籍制度という社会的な規制でさえも、絶対的なものではないのです。現世における権利とか義務というものは、固有名詞の符号について回っているものであって、本当のものではないのです。国家行政の立場、民法の規定によるもので、人間存在の本質から考えれば、一遍の概念に過ぎないのです。実体ではないのです。これが固有名詞が持つ意味です。固有名詞という現世には絶対的な規定であるとされているものでさえも、人間存在の本質から考えますと、ただの生活の便宜に過ぎないのです。

自我意識とは何か。「我思う故に我あり」と、デカルトが言いました。これが西洋哲学の第一原理と言われています。ところが、人間の哲学が妄念なのです。哲学で人間が規定したということは、罪人が罪人自身の存在について、理屈を並べてみたというだけのことです。ドイツ観念論とか、イギリスの経験主義哲学とか、フランスの唯物論とか言いますと、哲学思想に重みがあるように思いますが、そういうものは罪人自身が理屈を並べてみたというだけであって、人間存在の本質から考えると何の価値もないのです。

アリストテレスの言い分でも、ソクラテスの言い分でも、正当だという面が相当ありますけれど、それはまぐれ当たりに正当であるということであって、人間存在の本質を規定しているのではないのです。カントの哲学でも、ニーチェの考えでも、ヒフィテの考えでも、ただ人間の概念に過ぎないのです。自然科学もやはり人間の概念に過ぎないのです。

罪人である人間、原罪を持っている人間、迷いのうちに生きている人間が、自然現象に対してある考え方をしているに過ぎないのです。それが全部間違っているという訳ではありませんが、基本的に考えますと、原罪動物である人間が、自然現象について理論的な考察をしたというだけに過ぎないのです。自然科学は人間文明に奉仕していると大げさに言いますけれど、人間の現世の生活を有頂天にさせただけなのです。現世の生活だけに人間を押し込めてしまったのです。

人間は情欲、性欲が絶対的に存在すると考えています。これは人間の実体を知らないから、そういう考えを持っているのです。何のために人間はこの世に生まれてきたのか。人間の命は一体何であるのか。命の本体を知らない人間が、性欲だけあると考えることはおかしいのです。

こういう基本的な問題になると、今の人間は全く無知です。性欲があると人間は勝手に思い込んでいるのです。性的感覚を性欲と思い込んでいるだけです。性的感覚についての受け止め方を変えたらいいのです。性的感覚を欲望的に受け止めないで、本質的に受け止めることをすれば、性欲は全く存在していないのです。

エデンの園で陥罪した時に、罪を犯した人間が前を隠したのです。罪を犯した結果、性器がみっともないものだと考えた。そこで、エプロンをつけたのです。人間は性に対する考え方が、根本的に間違っているのです。原罪動物である罪人は無明そのものです。明らかではない。明らかではないというのは、物を知らないということです。人間存在の根本について、間違ってしまっているのです。仏教の無明という言葉、キリスト教の原罪という言葉はそのまま正直に解釈しますと、現実的な人間生活が全部でたらめであるということになるのです。

現代文明は無明や悪因縁や原罪の塊です。人間の考えそのものが、全部皆間違っているのです。皆罪人の考えです。無明煩悩の考えです。六道輪廻で考える地獄、餓鬼、畜生、修羅という考えを無明というのですが、無明が集まって人間の常識ができているのです。

そこで、性欲、情欲の本体が、果たしてあるかということです。人間は自分自身が助平だから、性欲があると勝手に思っているのです。人間の助平の心理状態をよくよく分析しますと、実は助平ではないのです。人間存在の本当の実体を知らないから、自分自身を下品なものと思っているのです。人間の人生観が下品ですから、セックスも下品なものだと、勝手に思っているのです。

そこで、情欲に迷って滅びゆく古き人という言い方は、人間存在の本質から考えますと、あまり宜しくないのです。情欲の惑わしという訳の方がいいのです。情欲そのものが惑わしです。情欲という概念が、人間の罪悪的状態による感覚論、または、認識論でありまして、原罪状態による感覚論、認識論ですから、正常な意味での魂人間の認識ではないのです。

現在の社会は罪人ばかりの社会ですから、この点から考えますと、情欲があるのが当たり前です。ないという考え方は通用しないのです。通用しなくても、本当のことは本当のことです。

かつてコペルニクスが地動説を言い出すまで、人々は天動説を信じていました。コペルニクスが地動説を言ったために捕らわれて投獄された。その後にも、「けれども、地球は回っている」という一人言をつぶやいたのです。「法律は自分を捕らえた。役所は地球が回っているという考え方を否定して、自分を捕らえた。けれども、地球はやっぱり回っている」と主張したのです。

私の言うことも、コペルニクス的な発言になるかもしれません。イエスの思想、パウロの思想をそのまま説明すればそうなるのです。

イエスの思想やパウロの思想は、コペルニクス的なものです。ただ、現在の人間がそれを信じていないだけのことです。私もやはり、「けれども、地球は回っている」と言わざるを得ないのです。「けれども、やはり情欲はない」と言わなければならないのです。全世界の人間がことごとく情欲があると考えても、やはり人間に情欲は存在しない。罪人が罪人の意識によって、自分のセックスを性欲として受け止めているだけと言わざるを得ないのです。

丁度、アダムやエバが陥罪の結果、エプロンをぶら下げたように、今の人間も自分の前にエプロンをぶら下げて、ここは醜いものだと考えている。これはばかばかしいことです。人間の肉体に恥部があると思っているのです。これはばかなことです。人間の肉体に恥部があるなら、どうして結婚が祝福されるのでしょうか。恥部と恥部を結合する結婚を、人間はなぜ祝福するのでしょうか。恥部があることを認めながら、結婚を祝福する。こういう矛盾を平気で見過ごしているのです。

本来、人間の肉体に恥部というばかばかしいもの、隠し所というばかばかしいものがあるべき道理がないのです。性に関することは、現代社会の人間関係における相互生活という点から考えますと、セックスというのはあまり公開すべきものではありません。現代の人間感覚を肯定すればそうなるのです。私ももちろん性に関して常識的に行動しなければならないことは、十分に承知しています。しかし、性に関して、人間に恥部があるという考え方をどこまでも固執しようとする人は、心で神を信じていないことになるのです。または、神を信じることについてためらいを感じている心理状態が、そのまま隠し所に関する意識になって現われていると考えられるのです。

アダムは罪を犯した途端に、前を隠した。エプロンをかけたのです。そのように、現在体に恥部があると思っている人は、神を信じていないのです。神の処置に従って、十字架を信じていないのです。十字架を信じている人間に、まだ恥部があるというのはおかしいのです。その人は十字架によって罪が許されているという事実を、神的に受け止めていないことになるのです。心を替えて新しくしていないのです。悔い改めていないことになるのです。心を替えて新にしていないから、世間並の人間と同じようになっていて、やはり人間に恥部があると思い込んでいるのです。そういう人は神の御心に従って、聖書を信じているとは言えないのです。

かといって、ストリーキング(裸になって町中を走る)がいいというのではありません。これはばかな行為です。一般社会の人間に接する場合と、自分自身が神に接する場合とでは、違うのです。神を信じている者どうしお互いが話す場合は、神に向かって話すのと同じ態度でなければならないのです。神に向かって自分の前を隠している人は、なお自分自身が罪人であることを、神に向かって告白していることになるのです。そうしたい人はそうしていればいいのです。

もちろん性的な意味での倫理はあるに決まっています。それは言うまでもないことですが、霊的な気持ちにおいてまで、情欲という惑いの概念をそのまま信じているということは、甚だしい錯覚であると言いたいのです。

そこでパウロが、「情欲の惑わしによって滅んでいく古い人を脱ぎ捨てよ」と言っているのです。これを脱ぎ捨てなければ、死ぬに決まっているからです。死ぬのが当たり前と思っている人間は、死んでいったらいいのです。しかし、私は死ぬのは絶対に嫌です。死にたくないという私の本心を裏切りたくはないのです。私は本心で死にたくないと思っていますから、本心をそのまま貫くべきだと思っているのです。

死にたくないと本心で思いながら、なお死ななければならないと思っている。死にたくはないけれども、しょうがないから死ななければならないと思っている人は、自分の本心を曲げているのです。自分の本心について正直な誠実な気持ちを持っていないと、断定しなければならないことになるのです。

パウロは、「情欲の惑わしによって滅んでいくべき古き人を脱ぎ捨てなさい」と言っているのです。本当に死にたくないと思うなら、このパウロの勧告に従わなければならないのです。パウロの勧告に従うということはどうすることか。心の深みまで新にされるのです。普通の人間の生活態度は、世間並の感覚でありまして、世間並の感覚というのは、いわゆる情欲の惑わしによって滅んでいく生活です。そういうものを脱ぎ捨てることです。

脱ぎ捨てるとはどうすることかと言いますと、心の深みまで新にされることです。新にすることです。深みというのは、文語訳では人の霊を新にすると訳しています。英訳でもそのようになっているのです。

新にするとはどういうことかと言いますと、レニュード(renewed)という言葉を使っています。つまり心の深みまでやり直すことです。出直すこと、やり直すこと、やり替えることです。前の続きではなくて、全く新しいものとしてやり替えてしまうことです。これがレニュードです。

霊というのはあり方です。例えば、セックスについての考え方の基本的なもの、原理的なことを新しく出直すのです。やり直すのです。汚れていることを洗い直す。いわゆるクリーニングとは違います。前の汚れたものを捨ててしまうのです。新しいものを着用するのです。この点で、キリスト教は皆間違っているのです。だから、神が正確に分からないのです。心の霊を根本からやり直していないのです。

生まれてから今まで、この世に何十年間か生きていた。六十年、七十年と生きていた。古い自分の人生があったと思っているのです。それが間違っているのです。生まれてからの何十年間かの人生を、ずるずると引きずっているのです。過去の人生をぞろぞろと引きずっているのです。

自分は何十年か、この世に生きていたと思い込んでいるのです。こういうことは肉体人間としてはやむを得ないことかもしれませんが、肉体はただの消耗品です。使えば古くなるのは当たり前です。人間の体は老化します。これは単なる自然現象です。

ところが、信仰とは恋愛そのものです。恋愛が分からずに信仰が分かるはずがないのです。神に恋をすることが信仰です。信じるというのは、好きになることです。好きにならなければ信じられないのです。

肉体は自然現象として当然消耗していきます。ところが、魂は年齢と共に若くならなければいけないのです。若やいで鷲のようになるというのが、人間の魂に対する約束です。こうなるのが当たり前です。神を学んでいれば、自分の心理状態そのものが、毎日、毎日、新しくされるのです。レニュードされるのです。毎日、毎日、新しく生まれ変われるのです。だから、昨日の自分に未練を残す必要は全くないのです。このような状態のことを、心の霊を新にすると言うのです。人間は命についての考えが土台から間違っていますから、心の深みまで新にするのは当たり前です。新にしない方が間違っているのです。

その結果どうなるかと言いますと、真の義と聖とをそなえた、神にかたどりて造られた新しき人を着るのです。

神の義というのは、人間の道義のようなレベルの低いものではありません。人間の道徳とか道義というものは、表面だけを誤魔化しているのです。表面を誤魔化せば誤魔化すほど、裏面の欲深さが増していくのです。表面的にいい格好をしている人は、精神的に心理的に退廃する度合いが高いのです。欲望に溺れていきやすいのです。

今の人間生活にはプライベートがあります。なければならないのです。プライベートを全部開けっ放すという訳にはいきません。人間相互関係において、バランスを保たなければならない義務が、お互いにあるのです。

そういう意味では世間並の感覚を、生活形態の心得としては持っていなければなりません。アメリカ社会にはアメリカ社会の形態があります。アメリカ社会では人前で接吻しても、誰も気にしませんが、日本の社会では下品に思われるのです。日本社会のセックスはむしろ下品です。これは封建制度によって、家族制度が深く定着していたからです。日本人の家庭生活は秘密そのものです。秘密のベールに包まれてしまっているのです。しかし、開放していいかと言いますと、これはまた、別の問題になるのです。

とにかく日本社会はセックス的には封建的でありすぎるのです。また、家族制度的な概念が強すぎるのです。そのために、開放的に考えることができないのです。束縛されているのです。だから、日本人は性的には偽善者です。性欲を認めている上に、まだそれを誤魔化そうとする偽善的行為が強すぎるのです。性を開放せよと言っているのではありません。もっと心理的に偽善者的な態度を追放しなければならないと言っているのです。自分の心の中から、それを追放しなければならないのです。

人間の情欲は英語ではラスト(lust)になっています。聖書のある箇所では、肉欲と訳している所もあります。ラストといういわゆる性欲が、人間のあらゆる欲望の原点になっているのです。

アダムとエバが罪を犯した直後に、セックスについて引け目を感じた。なぜ引け目を感じたのか。アダムとエバが罪を犯した途端に、なぜ前を隠したのか。人間に恥部があるとなぜ考えたのか。

一方において、セックスによって結ばれることを、非常に喜んでいながら、一方において、非常に忌み嫌っているのです。喜んでいるのが本心なのか、忌み嫌っているのが本心なのか、どちらが本心なのかということです。

心の深みまで新にせられていない人には、徹底的な話ができないのです。その人を躓かせることになるからです。結論的に言いまして、真の義と聖とを備えた、神にかたどりて造られた新しき人とは何かと言いますと、人間の客観的存在そのものです。心理機能、生理機能、五官が、実は神にかたどって造られた新しい人です。

人間の主観的な在り方は、情欲に迷って滅びゆく人ですが、客観的な在り方は、義と聖とを備えた神にかたどって造られた新しき人です。これをはっはりつかまえた人は、新しい人を着たことになるのです。この問題を成し遂げるためには、私たちは基本的な自分自身の考え方が根底から間違っていることを、もっともっと深く、切実に考えて頂きたいのです。

創世記の第六章五節を見ますと、神がこの世を見た時に、この世は非常に乱れていた。悪が満ちていたとあります。悪がこの世に満ちていたというのは、何を意味するのかと言いますと、人間の心の思い計りが、ことごとく皆悪である。いつでも、ただ悪のみである。人間の心の思い、あらゆる心象が皆悪だと言っている。これがこの世に悪が満ちていたという事実です。これが、ノアの洪水によって、すべての人が滅ぼされた原因になっているのです。

これは、現在も変わっていません。現在は悪の程度が、ますます猛烈になっているのです。人権という思想が高揚されているために、人間の中に住み込んでいるへびが、今や赤き龍となって、人間社会全体を引きずり回しているのです。これが空中の権を取る司です。へびが今や龍になっている。サーペントがドラゴンになっているのです。恐るべき状態になっているのです。地球全体の文明を抱きしめているのです。

地球文明はへびに巻かれてしまっているのです。そして、しめられているのです。恐るべき禁圧力を持っているへびがしめつけている。この禁圧力、強圧力が皆様の心理状態に影響を与えているために、皆様は自分の肉の思いを勇敢に捨てることができないのです。自分自身の思いを、何か捨てられないような気持ちにさせている。やりたいけれどもやれないと勝手に思い込んでいるのです。神を信じなさいと言うと、難行苦行をしなければならないと思い込んでいるのです。そうではないのです。心の持ち方を改めさえすればいいのです。心の霊を新しくすればいいのです。これだけの条件で、皆様は永遠の生命を自分のものにすることができるのです。

ところが、生まれてから現在まで、何十年も生きていた自分のことを考えると、とてもできないと思えるのです。生まれてから何十年もこの世に生きていた。結婚してからでも何十年も経っている。この考え方がいけないのです。皆様の人生は毎日新しい、感激に輝く人生でなければいけないのです。古い感覚を全く捨ててしまって、心の深みにまで新にされて、義と聖とをそなえた、神にかたどりて造られた新しい人を着るべきである。

具体的に新しく生まれることを経験して頂きたいのです。神が現在皆様に与えている待遇をよく見れば分かるのです。キリスト紀元において、イエス紀元において、皆様は生きています。日曜日を休んでいるのです。これが人間生活の基本になっているのです。

西暦紀元を信じないで、日曜日が存在することを信じないで、生きていられるのでしょうか。かつて、日本の封建時代には、日曜日はなかった。その時、日本人は神の約束に係わりがなかったのです。従って、十字架によって、罪が許されることが全くなかったのです。

今や西暦紀元が日本に訪れていますし、日曜日を考えなければ、社会生活が通用しないようになっています。世界の東の果ての国でさえも、全世界の雑種民族、劣等民族である日本でさえも、日曜日が定着しているということは、世界歴史はもうこれで終わりだということを示しているのです。今、皆様は自分自身の心の霊を新にする、心の深みにまで新にして頂きたい。心の土台をひっくり返して頂きたいのです。

永遠の生命の実体をつかまえるということは、難しいことではないのです。心の持ち方を取り替えさえすればいいのです。やり直すのです。出直すのです。これだけでいいのです。皆様に具体的な損害は何もありません。お金がいる訳でもない。自尊心、自我意識にメスを入れる勇気があればいいのです。本当の幸福、本当の喜びが感じられるためには、自尊心にメスを入れる犠牲くらいは払って頂きたいのです。死ぬべき人間が死なない人間になりきるためには、この程度の正直さ、素直さが必要です。

ヤコブは「植えられた御言を素直に受け入れなさい」と言っています(ヤコブの手紙1・21)。皆様に五官の本当のあり方を素直に受け入れて頂きたいのです。

食物の味を素直に受け取ること、男女の性感を素直に受け取ることです。素直だけでいいのです。今までの気持ち、概念を問題にしないで、素直に率直に、植えられた五官の感覚を素直に受け取るのです。偽善者であることをやめて、良いものは良い、悪いものは悪いとすればいいのです。

素直であれば新に生きることは十分にできるのです。神の要求はこれだけです。素直になればいいのです。これができない人は、やがて地獄の苦しみをさんざん受けて、そして、永遠に苦しみをうけて、強制的に素直にさせられるのです。どちらかを選ばなければならないのです。現世において、神の勧告に服従しない人は、この世を去ってから、徹底的に神の強制によって、しごかれることになるのです。これをよく承知して頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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