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業観の縁起


親子であろうが、夫婦であろうが、本人が神に帰らなければ魂の救いはないのです。誰かが代わって帰ってあげるという訳にはいかないのです。

ただ夫婦の場合だけは、特別のことがありうるのです。本当にその夫婦が愛し合っていて、本当に一つになっているなら、特例が行われる可能性はありますが、しかし本当に愛し合っている夫婦というのはめったにいないのです。恋人同士なら有りうるかもしれません。ところが、夫婦になってしまうとそれがなくなってしまうのです。情けない状態になっているのです。

これは恋というものの本質、男女というものの本質が分かっていないから、夫婦になってしまうと、恋の感覚、愛の感覚が消えてしまうのです。ただ生業の感覚だけがへばりついてしまうのです。生業の営みだけがへばりついてしまう。つまり、夫婦というのは、愛の関係だけではなくて、人間の営みの関係になってしまうのです。全くロマンチシズムがなくなってしまうのです。

そういうことになる根本原因は何かというと、結局、今までの自分の人生経験を自分自身だと思い込んでいるからです。

今までの自分の人生経験というのは、へび(悪魔)の経験です。生まれながら何十年間も生きていたと思っているのは、へびが生きているのであって、肉の思いで経験したことは、ことごとくへびの経験です。本人の経験ではないのです。

へびの経験を自分の経験だと思っている。何十年間かこの世に生きていた。それが自分だ思っている。私は今年は四十才だ、五十才だと思っている。これはばかなことです。全くへびを自分だと思い込んできたのです。こういう恐ろしい業、うなるような業を何とか始末しなければいけないのです。傲然たる業が渦巻いているのです。

この業を何とか始末しなければならないのですが、これを始末してくれるのが十字架です。この有難い十字架を、人間はめったに受け取ろうとしないのです。十字架は贖いです。ところが、人間はその贖いを受け取ろうとしないのです。贖いを受け取らずに、自分の業の方を受け取っているのです。贖われた自分を見ようとしないで、業の底に轟沈している自分を自分だと思っているのです。本当にひどいものです。実際ひどいものです。人間は業の中に轟沈している死骸人間を自分だと思い込んでいる。バカなものです。本当にバカなものです。

仏法は悟りとしてはなかなか良いことを言っていますが、業の原因がどこから来たのか、なぜ人間が業の底に轟沈することになったのか、分からないのです。

業観という意識が人間にあることは分かりますが、このように業観がどうしてできたのか。人間がこの世に生まれてきたことが業なのですが、人間はどうしてこの世に生まれてきたのか、人間がこの世に生まれてきた理由が、仏教では分からないのです。生まれてきた後の業は分かります。しかし、生まれてきた事がらについての業が、分からないのです。

親の業が子に報いているとか、三代前、四代前の先祖がこういう悪業を積んでいたから、今のおまえたちが病気になるとか、商売がうまくいかないのは、先祖の業によるのだと言います。こういうことは、人間がこの世に生まれてからのことです。これは嘘ではありません。こういうことは有りうるでしょう。しかし、三代前、五代前、十代前の先祖の業を果たすことはできるのです。現在生きているその人がその気になれば、先祖の業を果たすことは十分にできるのです。

十字架を信じればいいのです。そうすれば先祖の業を果たすことができるのです。ところが、十字架を信じようとしない。自分の人生がある、あの人と結婚をした、ああいう時にああいうことをした、この時こういうことをした、こういうことがあると思っている。

肉体人間としてはそういうことがありますけれど、肉体人間の経歴というものが、毎日、毎日消えているのです。その証拠に昨日の地球はどこにあるのかと聞いても、返事ができないのです。昨日の地球はどこにもないのです。昨日の地球はどこにもないけれど、昨日の自分だけはあるというのは、どういう理屈でしょうか。

人間が造った人間の経験的理論を、例えば仏教理論とか、資本主義理論とか、哲学、自然科学とか、政治経済理論を信じて、本当だと思い込んでいるのは、全く神の心に逆らうものであって、現実に生かされているという人間の真実の状態と、人間が意識している状態とは全く違うのです。

今日の自分は今日生きているのです。今の自分は今生きているのです。昨日生きていた自分と今生きている自分とは、物理的に何の関係もないのです。昨日の自分の生理的状態は、昨日の生理的状態であって、今日の生理的状態ではないのです。昨日食べたものが、今日の血となり肉となっている。昨日の自分は一昨日食べたものが血となり肉となっているのです。

昨日の自分と今日の自分とは、生理的にかなり違っているのです。毎日、毎日、食べた食品の分子が人間の体の中の分子と入れ替わっている。食べた食品の半分はエネルギーとなって消費されますが、あとの半分は体の中の分子と入れ替わっている。一年もすると人間の体のすべての分子が入れ替わって、全く別人になっているのです。大脳細胞でさえも、一年で入れ替わっているのです。毎日、食事をしていますから、体の中の分子は少しずつ入れ替わっているのです。体のコンディションも毎日変わっています。ところが、人間は毎日変化していると捉えないで、ずっと継続してるものとして捉えている。

デカルトは「物体は継続してる、人間の精神のあり方は変化する。肉体は継続するが、精神は瞬間的だ」と考えた。これは全く常識を信じていて、真実を捉えようとしていなかった考えです。

人間の学理学説というのは本当のものではありませんが、人間の常識よりは優れているという程度のものです。例えば、理論物理の思想方式というのは、現前を厳しく追求し、探求するという性格を持っています。科学は理論物理の真実を探求しています。自然科学の概念でも、これは基本的には肉の思いになるのですけれど、常識的な肉の思いから見れば、幾分ましであると言えるのです。

これは霊ではありませんが、空くらいの値打ちはあるのです。学問は空です。この学問の権威を捉えていることが、空中の権を取っているのです。空中の権を取っているのが悪魔です。

学問的原理は悪魔の原理ですが、人間の肉の常識よりはいくらかましです。肉の常識というのは、学問的理念にさえも立っていない。人間の欲念に立っているのです。現実の肉体的な欲望を基礎にして考えている。これが人間の状態です。

仏教では、六道輪廻と言います。死後に必ず行くという地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つが六道ですが、この中にも地獄の境涯と修羅の境涯では、だいぶ違うでしょう。修羅と天上とではだいぶ違います。ですから、同じ人間の肉の思いと一口に言いましても、学問的なものと、常識的なものと、純粋に欲望的なものとは違ってくるのです。

人間の業観の縁起、業観がどうして起こったのか。善悪を知る木の実を食べたから起こったのです。神のごとくなって、自分の立場があると考えた。そうして善悪を自分の立場で判断するようになった。これが人間自身の業の縁起です。

人間がこの世に生まれてきたということも、一つの業であると言えるかもしれないのです。例えば、アダムが土のちりで造られたということが、アダムの業であると言えるのです。これは実は、アダムの業ではなくて、神の業です。神が神であるためには、人間を地上に遣わさなければならなかったのです。神の業をよく承知しなければならないのです。

悪魔の反逆があったために、魂をこの世に遣わさなければならなくなった。この世に遣わされた人間は、神の痛みをよく心得て、父の御心を行うことを第一義とすれば、自ずから自分自身の業も果てることになるのです。

イエスがこのことを実行したのです。イエスは自分の業を問題にしていなかっただけでなくて、父の業をそのまま感謝して受け止めたのです。私を遣わした方の御心を行うことが、私の人生の目的だと考えたのです。

皆様もこれを考えたらいいのです。皆様を遣わした方の御心を果たすことが、私の人生の目的だと考えたらいいのです。そうすると、自分の立場が消えるのです。自分の利害得失を何とかしなければならない。自分が救われなければならないと考えることは、全く愚劣そのものです。愚かそのものです。

私たちは自分の救いのために生まれてきたのではない。神が人間を造ったという御心に対して、人間をこの世に遣わされなければならなかったその御心を弁えなければいけないのです。

私たちがこの世に生まれたということは、天使長であるルシファーの罪、間違いをはっきり暴いて、天使長ルシファーの間違いを指摘すること、そうして神の御心に生きるためです。それをしますと、自分の心を考えないで、神の御心に生きることができる。そうしますと、勝手に救われるのです。自分が救われたいと思うと、金輪際だめです。自分の命を愛する者は、これを失うと言っているのです。この世で自分の命を憎む者は、これを保ちてとこしえに到るのです。

自分を憎いと思うのではない。自分を憎いと思っていることは、やはり自分を問題にしていることです。自分を重んじていることになるのです。自分の命を憎むとはどうすることかと言いますと、自分を問題にしないことです。父なる神の御心を生きるのです。これが現前に生きることです。これをすれば、勝手に救われることになるのですが、これをしないで、自ら神のごとくなって善悪を知ることをしているのです。

自分の立場で考えるのです。これは好きだ、これは嫌いだ、これは上等だ、これは安物だと考える。いちいち自分の立場で成敗利鈍、嫌悪不承、理非曲直、善悪邪正を考えるのです、人の批評を気にしたり、自惚れてみたり、悲観楽観しているのです。

人間は自分の人生、、自分の世界を勝手に造っているのです。自分の人生を勝手に造っている人は、必ず地獄へ行きます。自分の人生を持ってはいけないのです。自分の家庭を持ってはいけないのです。すべて皆神のものです。神の職業、神の家庭です。神の人生です。自分が生かされているのではなくて、神に生かされているのですから、神の人生です。

人の子は神の子ですから、人間の人生であるというよりも、神ご自身の人生であると考える方が、正しいのです。自分の立場で考えることが、自分を絞め殺すことになるのです。神は善悪の木の実を食べたら、絶対に死ぬ、必ず死ぬと厳命したのです。すべての人間は、現在そのとおりになっているのです。

では、人間はどのように生きたらいいのか。善悪の木の実を食べるなという神の戒めに対して、どのように生きたらいいのか。何でもない。神を見上げたらいいのです。ところが、神を見上げるということが分からないのです。

神を信じるとキリスト教の人々は当たり前のように言いますが、神を信じるとはどうすることか分からないのです。本人は神を信じているつもりですが、これは自分自身の思いで自分が造りあげた自分の観念を、自分で信じているだけです。誠の神とは関係がないのです。

宗教の神というのは、人間が造った神です。宗教の神は、百人の人が神を信じるとすれば、一人ひとり皆違った神を信じているのです。自分の頭の中で現像した神を描いているのです。

それぞれ自分の都合の良い神を勝手に造っているのです。それを自分が信じているのです。自分の観念を自分で信じているのです。いわゆる観念の遊戯をしているのです。そんなことで人間の業が果てるはずがないのです。信じれば信じる程、ますます自分の業を造っていくことになるのです。

良い行いをすればする程、業が深くなるのです。良い行いというのは、本人が考えている行いであって、良い行いということが業です。人間の道徳も、知識も、社会的な慣習も、すべて皆業です。生きていれば生きている程、善を行えば行うほど、その人は悪を積んでいることになるのです。これは良いことだと思っていても、良いことだと思ったことが、すでに善悪の木の実を食べたことになるのです。

そうしたら一体どうしたらいいのかということになるのです。現前を捉えたらいいのです。現前が神です。心臓が今動いているということが神です。目が見えるということが神です。目が見えるというのは、今見えるのです。見えることは、五年前も見えた、十年前も見えた。だから、今日も見えていると思っています。これは自分の経験を信じているのです。

人間の魂が本当に神を経験するというのは、現前においてだけ経験しているのです。現前においてだけ魂が経験しているという、この状態を正しく理解すれば、初めて神がちらっと見えてくるのです。

現前の他に、誠の神と言えるものはありません、これがシュワリー・ゴッド(swrely God)です。シュワリーとは、真実であること、事実であることです。これしか本当のことはないことがシュワリーです。シュワリー・ゴッドというのは、真実そのものが神であることを意味するのです。シュワリーがゴッドです。ゴッドがシュワリーです。

その神を捉えようと思ったら、現前を見るしかないのです。現前が神だから、その神をつかまえるのです。目は現前で見ているのです。今見ているのです。今見えているのです。今見えているのを、見ているというのです。今から五分前に見えていたことは、見ていることではないのです。記憶です。記憶と現前とを混同してしまうのです。これが業です。

ヘブル人への手紙の第四章七節で、「今日、御声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」と言っています。またイエスは、「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう」と言っています(マタイによる福音書6・34)。

これは皆、端的な現前主義です。今日御声を聞いたらというのを、もっと端的に言いますと、今御声を聞いたとなるのです。今という時間は、そのまま御声そのものです。今という時間はどうしてあるのか。これは神が語っているのです。神が語っているから、今という時間があるのです。

神が語らなければ、神の言葉が働かなければ、今という時間帯は形成されません。今というこの時間を組み立てているのは、神の言葉そのものです。物質的に、また、精神的に、宇宙的に、地球的に、人間的に、今という言葉の中に宇宙から地球から、人間に到るまで、あらゆるものが、瞬時に、ぎゅっと凝縮されているのです。

このすばらしい瞬間的凝縮、瞬間的存在が、神の言の働きです。神の言であることは、そのまま人間に語りかけているということです。「譬をもうけて口を開き、世の初めから隠されていることを語り出そう」(同13・25)と言っています。

この今しか存在はありません。存在したことはあっても、存在することは今だけです。ビー(Be)動詞の現在形が、そのまま神の御名であるというのは、このことです。

「今、御声を聞かば、心をかたくなにするな」とあります。この今という瞬間において、自分の心をかたくなにしないで、今という時間に、そのまま自分が解けこんでしまうことです。今ということがらの中に、そのまま解けこんでしまうことです。これは口でいうことは簡単ですけれど、なかなかできません。しかし、できないですまないのです。やらねばならないし、また、やればこれほどすばらしい経験はありません。

今、今ということを経験すること、これが魂の本当の生態です。魂の本当の在り方です。これを経験すると、初めて主の安きが分かるのです。

「我が平安を汝らに与える」と言っています。一切の利害得失は消えてしまうのです。嫌だとか、嫌いだとかいう妄念がなくなって、今が実体だということが分かるのです。今が実体なら、暑くても寒くても、嫌でも好きでも、今は今しかないのです。

松の木を見て下さい。今という今に松の木は生きているのです。今という今に、松の木は絶対文句を言いません。そこに泰然自若たる神の平安があるのです。松の梢にもすばらしい神の平安が宿っているのです。平安の神が松の木を守っているのです。平安の神が、山の木を守っているのです。木々は平安の神と共にあるのです。木が『ある』のです。『ある』ということが、イズ(is)です。このイズが神です。must believe that he is とあります(ヘブル人への手紙11・6)。神がイズであることを、信じなければならないと言っているのです。

イズをそのまま現わしているのが、川の流れです。山の木です。今、川が流れています。今、山が青いのです。人間も今、生きています。ここに平安があるのです。人間は平安を見ているのです。花が咲いている。今、咲いているのです。今、咲いている花を、今見ているのです。ここに神の平安がある。この事実を人間が見ているのです。

草や木は、神の平安の内にありながら、それが神の平安であるという証ができないのです。人間はそれに代わって証をしてあげるのです。そうすると、万物が救われるのです。万物が所を得るのです。

人間はこのように、森羅万象を通して、現前に生きるという生き方を、毎日、毎日、はっきり見せられているのです。現前に生きるとはこうすることだと言いながら、動物、植物は現前に生きているのです。動植物のあり方がそのまま、神の御名を賛美しているのです。

今生きている。今に満足している。今というこの瞬間の他に時間がないことを、万物は知っているのです。そうして、最も単純に、最も公明に、最も素直に神を信じている、神にありて生きているのです。

人間もこれを知るために、この世に出てきたのです。神の内にあることを経験するために、この世に出てきたのです。草木、川の流れ、鳥や動物は神の内にあるということを示している。彼らは現前にだけ生きているということを示しているのです。

これが最もはっきり現われているのが植物です。現前を一番平明に生きているのです。これをよくよく見るのです。自然観察するのです。そして、自然に帰るのです。「大自然に帰れ」というこの言葉こそ、私たちが実行しなければならないことです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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矛盾

人間は現在生きている自分を、どうしてもかわいがりたいと思うのです。その自分から抜け出さなければならないのに、自分を愛している。これはまさに、肉の人間が地獄であることを証明しているのです。 人間が救われるということは、あるべからざるほどの重大な栄光にあずかることですから、少々の苦しさを乗り越えなければならないことは、極めて当然のことです。しかし、皆様は自分の気持ちを捨てることが、どうしてもできないの

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