top of page
検索
  • 管理人chaya

死に勝つ生き方


聖書に次のように書いています。

「キリストがこの世に来られた時、次のように言われた。『あなたは、いけにえや捧げ物を望まないで、私のために、体を供えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった』」(ヘブル人への手紙10・5、6)。

人間の魂は元来、神にかたどられ、神の形のごときものなのです。人間の魂の機能というものは、、神の本性、本質をそのまま供えられているのです。神の影絵の映像のようなものです。

人間の魂がこの世に来るまでは、神と共にいたのです。父と共にいたのです。その状態では何の苦しみも矛盾もない。神の内に生かされているというだけのことであって、これは陥罪以前のアダムがエデンの園にいた時に、何の矛盾も感じなかったことと同じです。

アダムの場合は肉体を持っていたのですから、やはりエデンのすばらしさくらいのことは直感として知っていたでしょう。神の偉大さ、荘厳さは知っていたでしょう。これはアダムが罪を犯した後に知ったのではありませんから、それ程荘厳であっても、その価値が分からないのです。

偉大なものを目の前に見ていても、偉大でないものを知らない者は、偉大が偉大として見えないのです。当たり前のものとしか見えないのです。だから、アダムには、神を誉めるという気持ちが湧いてこなかったのです。これがアダムが陥罪する原因になったのです。

人間の魂は神の御座の回りにいたとしても、神の腰巾着みたいな形でいるのですから、矛盾や苦しみはなかったのです。ただ結構な状態にあっただけです。そうすると、生きていることの意味が分からないし、神の恵みも分からない。ただ恵みが恵みとしてだけ働いているのですから、それが恵みであるのかないのかさえも、分からないのです。恵みでないものを経験していないからです。従って、恵みが分かるはずがないのです。

光ばっかりの所にいますと、闇がありませんから、光も分からないのです。ところが、宇宙に悪魔の反逆があったので、神はご自分にかたどりて造りたもうた御子たちに、どうしても神が栄光そのものであることを、知らせなければならない必要が起きたのです。悪魔の反逆がなければ、そうする必要がなかったのです。神の子たちが、神の御座の回りで遊んでいたらよかったのです。

ところが、天使の長である天使長が反逆した。そこで理非曲直を立てなければならなくなったのです。義をもって世界を裁くことをしなければならなくなったのです。と同時に、義をもって裁くことがされる以上、ただ悪魔の刑罰だけでなくて、悪魔が反逆したことを踏み台にして、逆に神ご自身の無限の進展がなされることになったのです。悪魔の正体が暴露されると共に、神ご自身が悪魔を踏み台にして、神ご自身の輝くばかりの大完成、大進展をする方向へ動き出したのです。

これは当然のことです。敵が現われたら、敵を踏み台にして、神ご自身が神ご自身の栄光をさらに現わしたもうことは、神の当然の処置です。その処置のためにも、役立たなければならないのが、神の腰巾着である魂です。

神の子たちがこの世に現われて、神の恵みとは何であるか、神の怒りとは何であるのか、神の公義、愛は何であるのかを、神の子たちがよく承知して、再び悪魔の反逆が絶対にないようにしなければならないと同時に、神の子たちが心から神の栄光を賛美する性格を錬成しなければならなくなったのです。ただ神の御座の回りで遊んでいるだけではいけない状態になったのです。

この神の子たちが、天使の長の反逆に代わって、神の御座を回ると同時に、神の権威を行う実践者として、立たなければならないことになった。そのためには、神の公義、神の義、神の愛の大きさ、深さが神の栄光として現われていること、天地に満ち満ちている神ご自身の栄光の実体をつぶさに弁えて、その御心に従って天地を治めなければならないことになったのです。

そこで、神の子たちが肉体をとるということがなされたのです。これが人間創造の原理です。人間の魂は本来、神にかたどられ、神の形のように造られていたのですが、これに肉体が与えられて、現世に現われた。そうして、海の魚、空の鳥、家畜と地に這うもの、地のすべての獣、全地を治めることになったのです。

今まで天使長がしていた仕事を、神の子たちがすることになったのです。悪魔が刑罰されて、神の御旨を新しく行うべき神の代理者、神の世継ぎたちとして、神の仕事を代行する役目を果たすためには、どうしても現世に現われて、神の義と不義を憎みたもう御心を知らなければならないのです。

神の栄光を本当に賛美して、再び悪魔のような失態を演じないような習練をしなければならない必要があるのです。そこで、魂が肉体をとってこの世に現われることになったのです。これが創世記第一章に現われている天地創造の最終段階において、人間が造られることになった理由です。

人間が造られることの前に、天があり地があり、万物があり、海に生き物が生じた。鳥が生まれた。たくさんの動物が造られた。創造の最終段階において、人間の魂が肉体を与えられてこの世に来たのです。

最終の被造物というのは、人間までのあらゆる被造物の長となるべき性格を、先天的に与えられているのです。最終の創造というのは、ピリオドを打つという意味です。

人間は人間創造に到るまでの、あらゆる段階の創造のすべての長となるべき性格、素質を与えられていたのです。そのような本性を与えられていた。そうして、「おまえたちに全天全地を治めさせようと思うのだから、支配権を持て」と神が命じたのです。そういう支配権を持つために、人間は現世で訓練を受けているのです。

万物を支配するための支配権を持つために、私たちは生かされているのです。自分自身が現世で楽しむために生きているのではありません。自分の家族を可愛がるために生きているのではありません。万物を可愛がるためなのです。

万物は神の子たちが現われるのを待っているのです(ローマ人への手紙8・19〜22)。人間は万物を治める責任があるのです。そのための最終段階の被造物として、人間が現われたのです。創世記第一章の人間創造を簡単に説明するとこのようになるのです。

これがどういう意味になるかということが、ヘブル人への手紙の第十章に書かれているのです。このことをキリストがどのように理解しておられたのか。ナザレのイエスがどのように理解しておられたのかです。私たちが現世において、肉体を持っていることについて、どのように考えるべきかです。

キリストがこの世に来られた時、次のように言われた。「あなたはいけにえや捧げ物を望まないで、私たちのために体を供えて下さった」とあるのです。これはどういうことかと言いますと、体を供えられてこの地上に出てきますと、何が神の御心にかなうのか、何が神の御心に召さないのかが分かるのです。

天地万物として自分自身を現わしておいでになる神の御心は万物を見れば分かるのです。万物の佇まいを見れば、神の御心が自ずから分かるようにできているのです。万物が生きている姿、森羅万象の営みを見ていますと、神の御心が自ずから学び取れることになるのです。神の愛とはどういうものなのか、神の栄光とはどういうものなのか。また、神の裁きとはどういうことかが分かるようになっているのです。

万物が現われているということは、御使いたちを通して、神が語っておられることになるのです。これはヘブル人への手紙の第二章二節にあることですが、神は御使いを通して語っておられるのです。

物理現象は御使いの働きです。これを通して神が語っておられるのです。肉体を与えられたことによって、これをキリストがお聞きになっているのです。万物を通して神ご自身が語っておられる御言葉を、キリストが肉体をもってこの世においでになったことによって、お聞きになった。これは肉体をもって現世に来なければ、聞けないのです。もしキリストが肉体をもって現われなかったとしますと、キリストは神が御使いをもって語っておられるという意味が、キリストご自身でさえも分からなかったでしょう。

キリストですから、おおよその想像くらいはできるでしょうが、もしキリストご自身が肉体を持っていなかったら、神が万物を通して語っていたもうことが、明白には受け取れないことになるのです。

三次元の世界の本質についてお話ししておきますと、三次元の世界ではどんなものでも一応形をとって現われなければならない約束になっているのです。例えば、神の愛でも、神の裁きでも、怒り、神の義でも、目に見えない霊の世界のことでも、すべて有形的な形で表現されなければならないのが、三次元の時間帯における宇宙の鉄則です。

そこで、エホバの御名でさえも森羅万象となって現われているのです。時間、空間となって現われているのです。神の御名という霊的なものでさえも、時間、空間となって現われているのです。また、神の愛がウーマンボディーのすばらしさになって現われているのです。

神のキリスト、神のメシアも有形的な形で現われなければならないのです。神の子たちも、やはり有形的な形で現われなければならないのです。一度有形的な形で現われないものは、無効です。宇宙にあるあらゆる存在は、一度は有形的にあらわれなければならないのが、三次元の世界における宇宙の根本鉄則です。宇宙の格率です。天地創造の原理はここにあるのです。

初めから、悪魔の反逆がチャンスになって、このようなことが現われた。その目的は何かと言いますと、神ご自身の大完成です。神の国の輝かしい完成です。これは完成という言葉では言い現わせない程の栄光に輝くほどすばらしいものです。人間の語法では言えない程のことです。

パウロはこれを「極めて大いなる限りなき重き栄光」と言っています。これほど大げさな形容詞を用いているのは、神の国の大完成というのは、言語に絶する何とも言えないすばらしいものであることを言っているのです。そのような大完成という目的に向かって、神の創造が動き始めたのですから、神の天地創造の原理は即ち神の約束の原理になるのです。

約束とは何かと言いますと、神がある目的を立てられたことが約束です。神がある目的をお立てになったということは、神が神ご自身に約束なさったことです。神は神ご自身に約束なさったことは、必ず実行されるお方です。

人間は自分に約束したことを忘れます。他人に約束したことでも忘れるのです。人の悪口を言わないとか、人を妬まないと決心して自分自身に約束する。ところが、それが守れないのです。とにかく、人間の決心は当てにならないのです。神はそんなことはしません。神は自ら決意したことは、神自身に約束したことです。神は神ご自身の未来に対して約束を与えたのです。これは必ず成就するのです。これが全能の神です。

天地創造が神ご自身の約束だったのです。これがアブラハムに与えられたのです。「おまえは私の約束が信じられるのか。私はこういう目的でこのように宇宙を造ったが、おまえは分かるか」と、神はアブラハムに言ったのです。アブラハムは、アーメンと言ったのです。

「わが前に歩みて全かれ」と神はアブラハムに言った。全かれというのは、約束の対象になれ、約束を遂げよということです。私はおまえにおいて、約束を実行する。また、おまえに約束を与えることが、私自身の心に誓った約束でもあると言っているのです。神ご自身に与えたもうた約束を私たちにも与えておいでになるのです。

全能の神がご自身の未来に対して与えた約束が、私たちに与えられた契約の本質です。だから、約束は百%完成します。

肉体をとってこの地上に現われないことには、約束の内容が分からないのです。そのすばらしさが分からないのです。その輝かしさが分からないのです。

そこで神はキリストに肉体を与えたのです。イスラエルの掟によれば、約束というのは捧げ物やいけにえをしなければいけないように考えていた。いけにえや捧げ物をすることが、神にお仕えする道だと考えていたのです。

ところが、キリストが肉体を与えられてお考えになると、そうではないのです。神は燔祭や罪祭を好んでおられるのではない。人間が幼稚であって無知であるから、やむをえず燔祭や罪祭という方法で、神と人との祭の道をお開きになったのですけれど、これは神の御心ではないのです。

人間が無知であるから、しょうがないから、肉体を持つ人間に対する不完全な古い契約の形として、こういうやり方をモーセにお命じになったのですが、実は神のご本心はそうではなかったのです。

ヘブル人への手紙には次のように書いています。

「その時、私は言った、『神よ、私につき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』。ここで、初めに『あなたは、いけにえと捧げ物と燔祭と罪祭と、すなわち、律法に従って捧げられる物を望まれず、好まれもしなかった』とあり、次に、『見よ、私は御旨を行うためにまいりました』とある。すなわち、彼は後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである」(同10・7〜9)。

神の御旨を行うというのは、人間自身の旨を行わないで、神の御心を自分の心として行うことです。これを神は望まれているのです。

捧げ物やいけにえを神が望んでおられるのではないのです。捧げ物やいけにえを何回捧げても、人間の心を捧げたことにはならないのです。神の御心を人間自身の心として行う時には、人間の人格性がそのまま神ご自身の人格性と一つになるのです。これが人間の霊が神に捧げられたことになるのです。

そうして、人間が存在させられているということが、そのまま神の御心どおりに存在させられていることになるのです。

人格を持つ存在者がその人格的機能をそのまま神に捧げて、神の御心どおりを行うことになりますと、初めて悪魔の反逆をシャットアウトすることになるのです。悪魔の反逆が無効になるのです。

人格を持つものが人格のすべてを捧げて神の御心を行う時、神の御旨をそのまま行う時に、悪魔の反逆が無効になるのです。

人格を持つ者がこれを見事に全うすれば、人格を持つ悪魔の反逆が無効になるのです。人格を持つものの反逆が人格を持つものによって、押さえられてしまうことになるのです。人格の反逆が人格性によって解消されてしまうのです。

神以外の人格性が、悪魔を押さえるのです。人間の人格性は神ご自身ではありません。神以外の人格性が、悪魔の人格性を押さえてしまうことになりますと、神の御旨に反する人格性が消えてしまうことになるのです。全く消えてしまわなくても、鎮圧されることになるのです。圧倒されることになるのです。悪魔の業を毀つことになるのです。このために人間が肉体をとらされたのです。

キリストが肉体をとらせられたということを、聖書は述べているのです。神の子が来たのは、神の反逆に勝つためです。神の子が来たのは、悪魔の仕業を毀つためです。キリストが肉体をもって地上に来たのは、そのような理由があるのです。

ヘブル人への手紙の十章では、体を供えられたと言っていますが、詩編では私のために耳を開かれたと言っています。ダビデはキリストが肉体を持ってこられたのは、キリストご自身の耳が開かれたのだと言っています。神が御使いを通して語りたもうている御声を聞くために、肉体が与えられたとダビデは言っています。パウロは肉体を与えられたと言っているのです。

どこが違うのか言いますと、肉体を与えられたということは、耳だけではない、目も鼻も口も与えられたのです。手も足も与えられたのです。五官全体が与えられたのです。これが肉体を与えられたことになるのです。ダビデは耳だけを言っていますが、これは五官を想定して言っているのです。

人間が五官を通して神の御心を知るのです。現象世界では、五官がなければ神の御心を知ることができないのです。

そこで、皆様が肉体を持って生きているとはどういうことなのか。キリストが肉体を持って地上に来た時に、どのように理解されたのか、どういう気持ちで生きておられたかです。イエスがこの地上において、どういう気持ちで生活していたのかです。御使いを通して語っている神の言葉を聞くために生きていたのです。

山があります。これは御使いが語っているのです。木々が青い春の山、木が紅葉している秋の山、雪化粧をした冬の山、これは皆御使いが語っているのです。春になると各地の桜が満開になり、人々が集まります。満開の桜を見て、人々は何と思うのでしょうか。撩乱たる満開の桜を人々に見せて、何を示しているのでしょうか。豪華絢爛たる花の美しさは何を語っているのでしょうか。神の国の完成のほんの片鱗を語っているのです。新天新地の栄光のほんの一部を語っているのです。

京都のお寺を訪れますと、森の中にお寺が建てられた所があります。自然と寺が一つになって、すばらしい景色になっているのです。山腹の寺が一つの景色になって見えるのですが、人工の建物と自然の調和とは一体何でしょうか。これが分かると信仰が興味あるものになってくるのです。人間の知恵が本当に神を理解した時に、人間の知恵の完成が神の御業の完成にマッチしていくのです。この姿が山腹の寺の景色に出ているのです。そこに新天新地のある一片が出ているのです。

人間が世々限りなき栄光の王となると、天然自然と人工が見事に調和します。その時、人間は父の御心を行うのです。父の御旨を行うのです。だから、現在のような文明とは違うのです。

大自然に神の賛美がさらに現われるように、人間の知恵が働くのです。神の大自然の輝かしさをもっとすばらしくするような形で、人間の知恵が現われているのです。皆様が新天新地で世々限りなく王となることを、神が期待しているのです。だから、もっともっと勉強して頂きたいのです。

イエスが現世に来たことによって、神の御心を弁えて掟を行うことは、神の御心ではない。人間自身の真心を神に捧げて、神の御旨を行うことが、父の御心だということが分かったのです。イエスはそのとおりに毎日生きたのです。

例えば、食べること、飲むことによって、父の御心を行ったのです。見ること、聞くことによって父の御心を行ったのです。父の御心に従って見たのです。父の御心に従って聞いたのです。

イエスは肉の思いを一切持たなかったのです。霊に従いて生きていたのです。霊に従いて五官を用いますと、そのまま御旨を行うことになるのです。イエスは御旨を行うために来たと言っています。そうして、イエスは御旨を行ったのです。神が天地を生かしている御旨と同じ御旨で生きていたのです。

天地が輝いている姿と、同じ姿でイエスは生きていた。これはすばらしい生き方です。私たちもこういう生き方をするために、勉強させられているのです。山上の垂訓を実行すれば、このようになるのです。敵を愛するのです。神を賛美するのです。毎日、父の御心を行うのです。仕事をする時も、食事をする時も、寝ても起きても、父の御心を行うのです。信仰によって生きるなら、こういう生活ができるのです。

イエスが御旨を行っていたのではない。私は父におり、父は私にいたもう。私と父は一つであると考えた。これが御旨を行うことです。

ただ神を信じて生きていた。自分は生きていないこと、神のみがいますことを生きていた。神が自分を通して生きている。イエスはこのように考えていたのです。

こういう生き方は、皆様にもできるのです。イエスにできたことが、なぜ皆様にできないのでしょうか。できると信じて生きたらいいのです。こう信じて、一つでも二つでも実行したらいいのです。よちよち歩きかもしれませんが、やればいいのです。自分の心一杯でしたらいいのです。そうしたらだんだん上手になるのです。自分はだめだと思う。自分は初めからだめに決まっていますから、自分は消えたらいいのです。そうしてら、神がして下さるのです。勝手に神の御心を行えるのです。

現世に生きていれば、矛盾があるに決まっています。矛盾に満ちているのです。ここへ肉体をもって遣わされるのですから、誤解されたり、憎まれたりするのは、当たり前です。矛盾を経験するために、現世に来たのです。自分が悪いのでもないし、人が悪いのでもない。そういう経験をするために来たのです。

こういう生き方をしたら、悪魔の働き場がなくなってしまう。悪魔は自滅せざるをえなくなるのです。これをするために人間は生まれてきたのです。こういう生き方をしていますと、神に生かされていることの楽しさが、しみじみと分かってきます。神に生きることが何と楽しいことかが分かるのです。

罪に勝っていくのです。肉に勝てば罪に勝てるのです。「死は勝ちにのまれた」と聖書にありますが、これが実現するのです。死に勝つ生き方ができるのです。自分が生きてるいるという考えさえやめればいいのです。自分という思いが目の中の梁です。これさえはずせば神が生きていることになるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:1回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

人間が死ぬというのはなぜか。自分の気持ちで死ぬのです。自分の気持ちで勝手に死ぬのです。命を見つけることができないので、死なねばならないことになるのです。それだけのことです。 イエス・キリストの復活によって、人間の命が新しくなった。これが紀元元年です。仮に、イエス・キリストの復活がなくても、人間は死なない命を持っているはずです。そうすると、イエス・キリストの復活は、余計なことのように思えるかもしれま

矛盾

人間は現在生きている自分を、どうしてもかわいがりたいと思うのです。その自分から抜け出さなければならないのに、自分を愛している。これはまさに、肉の人間が地獄であることを証明しているのです。 人間が救われるということは、あるべからざるほどの重大な栄光にあずかることですから、少々の苦しさを乗り越えなければならないことは、極めて当然のことです。しかし、皆様は自分の気持ちを捨てることが、どうしてもできないの

bottom of page