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  • 管理人chaya

罪の下に売られた人間


欧米人でも、また、アジア、アフリカの人々、中南米の人々でも、人間が罪人であるという漠然とした概念を持っているのです。日本人でも、罪人という言い方はしませんが、無明という言い方をしています。これは同じことになるのです。

無明煩悩と言えば、罪の妄念を意味します。平安朝の随筆や歌によく出てきます空蝉とか幻という感覚は、罪の思いに生きていることを意味するのです。

浮世という言葉でも、現し身という言葉でも、この世は、うつつ空蝉うつろいてなしです。源氏物語の命題は諸行無常ですが、平家物語でも同様です。日本では平安朝時代から、鎌倉室町時代までは、諸行無常という感覚が非常に強かったのです。王朝文学にはそれが顕著に出ています。諸行無常が日本の文学の土台になっているのです。

現在の人間はこの世に存在していることが、うつつ空蝉であることを何となく知っているのです。知ってはいるが、実感してはいない。頭では知っているが、心では感じていないのです。これが罪の実質です。

諸行無常をいくら頭で理解していても、心で実感できないのなら、魂の益にはならないのです。頭の益にだけなるのです。文学はそういうものです。頭の益にはなりますが、心の益にはならないのです。従って、救いにはならないのです。

現在の宗教家で、頭で分かっていることを心で信じている人が一人もいません。キリストの言葉を頭で知っていても、心で信じている人は一人もいないのです。もしいたら、キリスト教社会の中にいられないはずです。本当に心でキリストの言葉を信じますと、キリスト教が間違っていると言わざるを得ないのです。キリスト教の社会に安住していることが、頭で分かっていても、心で信じていないことを証明していることになるのです。

本当に色即是空、諸法無我が分かれば、この世を出るに決まっているのです。宗教という偽善社会にいられなくなるはずです。

道徳的な意識というのは、人間の俗的な意味においての偽善です。宗教意識は肉体的な意味での偽善です。宗教観念でも、また、道徳意識でも、頭で知っているだけで、心で意識しなくてもいいのです。信じた格好だけをしているのです。これはすべて偽善です。その人の本心と調和していないのです。これは一種の精神分裂とさえ言えるのです。頭で分かっていることが、心で分かっていないというのは、これは端的に言えば、精神分裂と言えるのです。

人間が罪人であることが、そのまま人間の思考方式に現われているのです。だから、道徳とか、宗教ができるのです。性に関して言いますと、人間の肉体のある部分だけが特別に汚いということは、毛頭ないのです。パウロも言っていますように、人間の肉体の中で卑しく見える部分ほど、深い意味があるのです。

これは神が人間の肉体を造りたもうた時に、生物としてこの世に遣わす以上、生殖機能はなければならないのです。これは当たり前のことです。しかも、生殖機能は命を生み出す機能です。命を生み出す機能ですから、一番尊いものであるはずです、神聖なものであるはずです。

エバというのはすべてのものの母という意味です。女の性機能はすべてを生み出す機能と考えていたのです。女という名前をつけたのは、陥罪以前のことです。アダムが善悪の木の実を食べる以前です。エバと名づけたのは陥罪以後です。女とエバとは違うのです。エバという名前は、性器というニュアンスが非常に強いのです。性器が汚いという考えは、その考えが汚いのです。

悪魔は最も大切なもの、命の元となるべき機能を汚いものとしてしまったのです。これがノアの洪水の直接原因になっているのです。女がエバになったから、生まれるものはすべて罪の塊になったのです。

エバの機能が逆性の機能になったのです。肉欲を楽しむ機能になったのです。そこで人間の血液が汚されてしまったのです。人間の血液が欲望的に汚されてしまった結果、人間存在が精神的にも肉体的にも、悪質そのものになったのです。そこで暴挙が世に満ちたのです。

悪魔が徹底的に汚した人間がはびこってしまったために、性器が汚いものだという観念で取り扱われることになってしまったのです。その観念が悪いのです。人間は悪魔的な観念をのみこんで生きているのです。性器が汚いものだという観念を持っていることが、貞操の欠陥があることを示していることになるのです。セックスについて汚いという意識を持てば持つほど、性の危険性がその人にあるのです。性を神聖なものと考えないで、汚いものと考える。ここに誘惑される危険性があるのです。

般若心経は不垢不浄と言っています。汚いこともないし、清いこともないというのです。特に何がきれいなのか、特に何が汚いのか、そんなものはないというのです。そんなものが人間の肉体にあるはずがないのです。ある部分が清くてある部分が汚いということは、あるはずがないのです。

汚いものというのなら、肉の思いで見ている肉体存在そのものが、全部汚いのです。これを肯定すれば、人間は地獄へ行くに決まっているのです。肉体的存在を肯定することが肉の思いであって、これが罪です。

人間が罪人であることを、世界中の人は皆知っているのです。仏教的には無明煩悩です。人間は不完全であることを、皆知っているのです。ところが、それを信じてはいないのです。知ってはいるが信じてはいない。これが原罪の内容です。

罪というのは見当違い、的外れ、脱線しているという意味です。正常ではないことを意味しているのです。正常ではないということは、変則的、病的であることを意味しているのです。

人間の心理構造の状態は、心理的病性を意味するのです。精神病的な状態を意味しているのです。この精神病的な状態は、記憶喪失が一つと、是非善悪を考える機能が病性であるということです。善悪の正当な判断ができない。その上、記憶喪失的な病状がある。この二つの病状が現われているのです。

是非善悪の正確な判断ができないために、頭で理解すればいいと考えるのです。キリスト教の人々はそれだけで救われたのだと考えるのです。私はこれだけ聖書が分かっているから、これでもう御霊を受けているのだと考えるのです。このように考えること自体が、その人の考え方が肉性であることを証明しているのです。

自分を是としようと考えるのです。自分をいいように解釈するのです。この考えが肉であることを示しているのです。頭で分かっていても、心で信じていないからこういうことになるのです。これが罪人の特徴です。

自然科学から考えても、理論物理学を勉強している人は、物質が存在しないことをよく知っているのです。十分に知っているのです。このことを頭では知っているが、心では信じていないのです。物質が存在しないとはっきり知っていながら、物質が存在するという感覚で生きている。この矛盾が弁証法的唯物論になって現われているのです。

弁証法的という言葉は、物質は固定的には存在しないという概念です。物質は流動的でなければ存在しないと考えるのです。新陳代謝していることが、物であると考えるのです。

この考えは正しいのです。新陳代謝しているものが物質です。そうしますと、物体はどこにもないのです。新陳代謝という運動があるだけです。学者はそのように言っていながら、唯物論という概念を持っているのです。物があるという概念を造っているのです。

こういう間違いをしている。これが罪人の思考方式です。論理と感覚とが一致していないのです。弁証法的という言葉は論理的です。唯物論という言葉は感覚的です。こういう論理的な錯誤を平然としているのです。そうして物が存在すると信じているのです。科学、経済だけではなくて、法律、政治、宗教、学というものすべて、無明煩悩から出ているのです。原罪的思考方式から出発しているのです。

あらゆる学問の根底は原罪です。現象は実体であるという考え方から、すべての学問は出発しているのです。弁証法的というのは、現象は実体ではないという意味になるのです。有形的に存在するあらゆる物質、物体は弁証法的に存在しているのであって、固定的、個物的に存在しているのではない。これは原罪を否定する意識です。

そのような明確な理論に立っていながら、唯物論を信じているのです。弁証法的唯物論となるのです。ここに神に背いたユダヤ人の堕落性がはっきり現われているのです。二重人格性が現われているのです。弁証法的唯物論という言葉自体が、人間の心理状態が病的であることを証明しているのです。

現在、共産主義国家は極めて少なくなりましたが、弁証法的唯物論という概念を全世界のほとんどの人が信じている。それほど人間の考えは、病的になっているのです。人間が死ぬことは誰でも理解しています。自分は死ぬと皆思っています。ところが、それを心で信じていないのです。

江戸時代の蜀山人の歌に、「死ぬことは人のことだと思うたに、おれが死ぬとは、これはたまらん」というのがあります。人間は誰でも死ぬことは知っていますが、自分が死ぬとは思っていない。これが病的状態を意味しているのです。

皆様は聖書の原理は十分にご承知です。ところが、それを信じているかどうかです。まず、イエスを主として口で言い現わすこと、心で信じることです。そうして神が彼を死人のうちから甦らせたことを、心で信じれば救われると聖書にあります。

口で言い現わすのは頭だけでもできます。ところが、復活を心で信じることはなかなかできないのです。復活を心で信じますと、自分自身が新しい人間であることを信じなければならないことになるのです。イエスが復活したことを信じますと言いながら、なお自分自身が生まれながらの古い人だというのはおかしいのです。

聖書に次のようにあります。

「あなたがたは、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によって哀れみを受けたように、彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受ける哀れみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのです。すなわち、神はすべての人を哀れむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである。

ああ深いかな、神の知恵と知識の富は、その裁きは窮めがたく、その道は測りがたい」(ローマ人への手紙11・30〜33)。

神はすべての人を哀れむために、すべての人を罪の中に閉じ込めたと言っているのです。

人間が神に創造されたままの状態では、罪を犯していませんが、神の御心を了承することができないのです。神の御心とは何であるか。人間の魂がこの世に送られたのは、悪魔の反逆があったからです。魂をこの世に送って、神を学ばせることによって、悪魔の反逆に対する正しい認識を持つためです。悪魔の思想が間違っていること、神の御心が正しいことを確認させるためです。

悪魔の思想が間違っている、肉の思いが間違っていることを確認するため、霊の思いが正しいことを確認するために、この世に送られてきたのです。現世の感覚をそのままのみこんでしまうことになりますと、この世に送られたことについての原理が、没却されてしまうことになるのです。

人間は現世において、衣食住という動物には有りえない生活状態を神から与えられています。料理をして食べるとか、衣服をデザインして着るとか、家を建てて住むというようなことをしていますが、これは動物の生態ではありえません。これは神ご自身の生態です。神ご自身が生きている状態を、仮に現わせば、現在人間が生きている状態になるのです。もし神が肉体を取ってこの地上に現われたら、人間のような衣食住の形態をとって、生活なさるに決まっているのです。これは聖書を読んでいけば分かることです。キリストが人と一緒に飲み食いするであろうと書いているのです。

食事には作法がありますし、着るものも作法があります。これはすべて理性による作法であって、人間の生活状態は神が肉体をとった状態がそのまま現われているのです。

人間の魂は現世で肉体を与えられたことによって、神と同じ待遇を受けているのです。だから、この状態において、神が分からないはずは絶対にないのです。ただ魂が罪の下に閉じ込められてしまったために、神の知恵が分からなくなっているのです。

何のために罪の下に閉じ込められたのかと言いますと、すべての人を哀れむためなのです。すべての人を哀れむために、不従順、不信仰、罪の下に閉じ込めたのです。一度罪の下に閉じ込めてしまわなければ、神の本当の光を見ることができないからです。生まれながらの人間のままでは、エデンにおけるアダムの失敗を繰り返すことになるのです。そこですべての人を罪の中に閉じ込めて、人間に矛盾を味あわせる、人間苦を味あわせるという過程を取っているのです。

人生の矛盾とは何であるのか。なぜ人間はこのような病的な状態にあるのかということに気づいて、目を覚ました者だけが、神の哀れみを受けることができるのです。神の哀れみを受けるためには、自分自身の病的状態、罪の状態をはっきり確認しなければならないのです。

「すなわち、すべての人は罪を犯したために、神の栄光を受けられなくなった」(同3・23)とパウロが言っています。罪を犯したというのは過去に罪を犯しただけではなくて、現在も罪を犯し続けていることを意味しているのです。過去から現在に引き続いて、人間は罪を犯し続けながら生きているのです。

これを正しく認識しなければ、神の栄光が受けられないのです。罪を犯しつつ生きている人間は、神の栄光が受けられない人間です。イエスが主であることを言い現わさなければだめです。

イエスが主であることを言い現わす時に、自分が自分ではなくなってしまうのです。自分が消えてしまうのです。イエスが自分の主体であることを言い現わして、心で信じる時に、自分自身の主体性は失われるのです。罪人としての主体性が失われて、生ける神の子としての主体性が確立されるのです。これをしなければ救われないのです。

これをするためには、一度人間を罪の下に閉じ込めなければだめです。そこで、神は人間をあえて不従順の牢獄の中へ閉じ込めてしまったのです。罪の穴の中へ入れてしまって、逃げられなくしてしまった。そして、人間自身の生活にあらゆる矛盾があること、人間苦があること、行き詰まりがあること、苦しみ悩みがあること、悲しみがあることを人間に実感させることによって、人生が間違っていることを直感させて、新しい自分の主体性を発見させようとしているのです。

実存哲学は人間自身の不合理性を認めています。不合理性、不条理性があることが人間だと考えているのです。不合理であるのが人間の実存在だと思っている。そう言いながら、なお主体性を確立せよというのです。

こんなおかしなことはありません。人間の存在が不合理、不条理であるとすれば、そのような状態を実存として認めることがおかしいのです。そうしなければ、人間の主体性を確立することはできないはずです。確立した所で、それは死んでしまう人間であるに決まっているのです。死んでしまうに決まっている人間が、いくら自分の主体として確立した所で、そんなことは人間の主体性を正しく発見したことにはならないのです。

実存哲学は実存的な意味での不合理を指摘していながら、なおその中から主体性の確立を求めようとする。そこで、基本的人権という妙な言い方に横すべりしてしまうことになるのです。現世で基本的人権を確認するという間違いが生じているのです。

大体、現世に生きている人間は罪人の存在であって、これを確認してはいけないのです。イエスが主であることを確認しなければいけないのです。イエスが主であると言い現わすこと、イエスが主であると心に信じることです。

現在の人間に主体性があるのではなくて、イエスに人間の主体性があるのです。自分自身の中に主体性はなくて、イエス・キリストの中にこそ人間の主体性が厳然として存在するのです。これを確認するためには、人間はどうしても罪の下に閉じ込めなければならないのです。一度、神の栄光を受けられなくしてしまわなければならないのです。

もし、一人ひとりの人間が神の栄光を受けられるとすれば、また、神の救いを受ける資格が、一人ひとりの人間にあるとすれば、人間はイエス・キリストを信じる必要はないのです。仏教はそのように考えているのです。一人ひとりの人間が阿弥陀如来の本願によって救われると考える。そういうありもしないような宗教観念をつくることによって、自分自身を誤魔化そうとしているだけです。死んでから蓮の台に座れると誤魔化しているだけなのです。これこそまさに罪人の溜め息です。

宗教はアヘンです。虐げられた者の溜め息です。現在罪人である人間が、阿弥陀如来の本願によって救われるということ、イエス・キリストの贖いによって、罪人である人間がそのまま天国へ行けると考えることは、全くのアヘンです。確かに宗教はアヘンです。肉なる人間が救われる資格があると考えているから宗教になるのです。

パウロは「すべての人が罪を犯し続けているので、神の栄光は受けられない」と言っているのです。罪を犯し続けている人間が、どうして神の栄光が受けられるのでしょうか。性器を汚いと思っている人間は、神の栄光を受けられない人です。そういう思いを持っている人は、肉の自分を認めていることになるのです。肉の自分を認めている者は、霊の自分を認めていません。霊に従いて歩んでいない人は携挙されません。これは当たり前のことです。夫婦ということの霊的な解釈ができていないから、そういうことになるのです。

人間は百%罪の塊になってしまっているのです。自分の思い方、自分の思考方式は徹底的に罪の塊です。こういう私自身も自分自身の個人的な心理状態を考えてみますと、明らかに罪人です。私自身の心理状態を取り上げてみても、しどろもどろのめちゃくちゃです。だから、私は自分を信じないのです。信じる価値もないし、信じても仕方がないのです。ですから、イエスの御名が自分の実体であることに決めているのです。

自分の感情や自分の思考方式に捕らわれることをやめて下さい。そういう思いが出てきたら、できるだけ捨てるようにして頂きたいのです。そうして、自分が生かされている客観的状態を見るのです。これがイエスの御名ですから。これを自分の主体とすることです。

人間は神が姿をとったと同じような姿で生かされているのです。それはそのまま生ける神の子になるのです。この現前をはっきり見つめることによって、私たちは主体性の確立に成功することができるのです。

永遠不滅の主体性、すでに死そのものを克服してしまった主体性、甦った主体性を確認する時に、永遠の生命そのものをはっきり確認し、受け取ることができるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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矛盾

人間は現在生きている自分を、どうしてもかわいがりたいと思うのです。その自分から抜け出さなければならないのに、自分を愛している。これはまさに、肉の人間が地獄であることを証明しているのです。 人間が救われるということは、あるべからざるほどの重大な栄光にあずかることですから、少々の苦しさを乗り越えなければならないことは、極めて当然のことです。しかし、皆様は自分の気持ちを捨てることが、どうしてもできないの

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