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魂か人間か


パウロは次のように述べています。

「これらの人は皆、信仰を抱いて死んだ。まだ、約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり、寄留者であることを、自ら言い現わした。そう言い現わすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している」(ヘブル人への手紙11・13、14)。

地上では旅人であり、寄留者であることを言い現わしたとありますが、ここでは父祖の信仰を取り上げているのです。アブラハム、イサク、ヤコブというのは、全世界の信仰の原点です。アブラハム、イサク、ヤコブの三人は、人間の魂の模範として、神がこの世に遣わしたのです。しかし、アブラハムとイサク、ヤコブは三人共、その性質が全く違っています。三人はそれぞれの角度から、神を正確に捉えていたのです。そこで、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神という言葉が、旧約聖書にも新約聖書にも書かれているのです。

私たちはこの三人のうちの誰かに似てくるのです。人間の信仰は、アブラハム的か、イサク的か、ヤコブ的かの三人のだれかになるのです。これは男性にも女性にも当てはまる原則的なものです。自分がイサク的になりたいとか、ヤコブ的になりたいとかを思わなくても、その人が与えられている本性が、この三人の本性の誰かに大体似ているということです。人間の魂は、大体この三つの特長があるのです。

この三人はもちろんイスラエル人ですが、アブラハムは自分自身が異邦人から選ばれた人物であって、彼はかつて異邦人だったのです。それが神から約束を与えられて、神の選民となったのです。イサクとヤコブはアブラハムの約束を受け継いだという形になっていますが、やはりこの時代のイサクの立場でも、ヤコブの立場でも、全く異邦人の真ん中に置かれていたのです。現在の皆様と同じ条件でした。神を信じる人たちの中にいたのではないのです。神を信じる者たちの社会にいたのではない。全く異邦人の真ん中に放り出されて、その中で神を信じていたのです。

そういう意味でも、私たちの模範となるのは、この三人です。私たちは異邦人の真ん中にいるから、信仰が難しいとか、やりにくいとか、自分の家内が信仰を理解してくれないとか、自分の職場の上司が信仰を理解してくれないとか言いますが、そういうのはぜいたくです。アブラハム、イサク、ヤコブの三人と同じことです。彼らはそういう難関を突破してきたのです。だから、未だにこの三人が光っているのです。世界歴史の中で燦然と輝いているのです。

彼らは信仰を抱いて死んだとあります。これはどういうことかと言いますと、自分の古里へ帰れる望みを抱いて、この世を去ったという意味です。信仰とは古里へ帰ることです。約束のものを受けていたのではないとは、神の国をはっきり見ていたのではないが、神の国へ帰れると決めて、この世を去っていったという意味です。

信仰の内容は、神の国と神の義です。神の国と神の義を抱いて死んだのです。約束の内容は神の国と神の義です。これを抱いて彼らはこの世を去っていったのです。彼らは直感的に、自分の古里が神であることを知っていたのです。自分の出生が、自分の実家が神であることを知っていたのです。これがアブラハム、イサク、ヤコブの信仰の特長と言えるのです。

現世では旅人であると思っていたのです。また、そのように言い現わしていたのです。この感覚が皆様に定着しないと危ういのです。自分の実家が天であり、神の元に帰るということがはっきり分かっていないと、危ういのです。こういう気持ちがない人は危ういのです。

この世のことはどうでもいいのです。この世の生活はろくでもないおやじを押しつけられて、苦しんでいる奥さんと同じようなものです。このおやじはホモサピエンスというおやじです。このおやじを押しつけられて、このおやじに貞操を蹂躙されているのです。

人間の魂は神からこの世に遣わされたものであるに決まっています。自分の実家を出て、嫁入りさせられたのです。人間は男も女もすべて女性です。人間は皆この世に結婚させられるのです。自分が望むと望まざるとに係わらず社会人になるというのは、ホモサピエンスと結婚するということです。文句を言いながらでも、小学生や中学生の間は、親の信仰についていきますが、高校生になるとついていかないのです。

人間が現世の知識常識がまともなものだと考え、学校の教育を正しいものだと受け止めるようになる。これが神の国から出てきたものが、ホモと結婚するということです。現世の常識、知識を受け止めたら、その魂はホモと結婚しているのです。その結果、魂がホモの自由にされるのです。魂が常識、知識に振り回されるのです。魂が散々苦労させられるのです。

男はそういう経験があまりないので、よく分からないかもしれませんが、女の人はよく分かるはずです。夫というホモに散々振り回されるのです。自分が筋の通ったことを考えても、そんなことは通らないのです。ホモの言い分だけが通るという境遇に、身をさらさざるを得ないのです。

そういう過程を通して、人間の魂は肉に引きずり回されるのです。魂は女性です。ホモは男性です。悪魔という男性です。肉という男性、罪という男性に、魂が引きずり回されるのです。魂自身が罪を犯すのではありませんが、魂が罪の下に置かれることによって、強引に罪人にされてしまうのです。

実は罪を犯すのは肉です。罪が肉です。肉が罪を犯すのであって、人間の霊が罪を犯す訳ではありません。人間の霊が肉に引きずり回されて、肉に抵抗する気力を持たなくなってしまうのです。持てなくなってしまうのです。そして、人間の霊魂が肉体性にぐいぐい引っ張られて、肉体の常識、肉体の利害得失、肉体の喜怒哀楽がそのまま魂の喜怒哀楽になってしまうのです。これが現世の人間です。

ところが、魂が人間の本質です。この魂がイエスと言われるメシアです。イエスの御名こそ、自分の魂の本質です。この本質が自分の本心です。イエスの御名が自分の魂の本質です。魂は自分という人間存在の本質です。

結局皆様に必要なものは、イエスの御名です。これが皆様の本質であって、神にかたどりて神のかたちに造られた。自分はこれ以外にありません。この御名は死を破った御名です。風や波を叱った御名です。この本質が皆様方自身のものです。

魂である自分と、固有名詞である自分とをはっきり分離するのです。固有名詞における生活としては、現世的な生活にしばられていますが、魂はそれにしばられるものではないのです。これをよく自覚する必要があるのです。肉体は現世にしばられていますから、自分の肉体的な環境において生活しなければなりませんが、これは神に魂を育ててもらうための方便にすぎないのです。

そこで皆様は肉体生活を営みながら、本質は魂が神に養育されているということを考えるべきです。暑さ寒さということは、神が魂を養育しているテクニックです。味とか色とか形、人間の喜怒哀楽の感覚、利害得失の判断は、神が人間の魂を養育している方法です。

ついでに、もう少し付け加えておきますと、人間が肉体的に生きている自分を自分だと思うことは、当たり前です。自分自身に聖書の言葉に従うだけの正直さ、素朴さがないままの状態で、ただ観念として肉の人間はいないといくら言ってみても、空念仏みたいなものです。肉の人間は生きていないと言いながら、やはり肉の人間として生きているのです。これを観念的にのみこんでいて、やたらに言う人がいます。それなら、肉の人間はもう死んでいると言っていて、その人が霊に従いて生きているという実体がその人にあるのかというと、ないのです。ただ肉の人間は十字架につけられたと言っているのです。その人はそういう概念だけを持っていることになるのです。

概念だけを持っていても、肉の人間が自分ではないという生活的な実感がその人の口から証されないことには、ただ十字架によって自分は死んだのだということをいくら言っても、その人の古き人がなくなったのかというと、そうはいかないのです。

十字架で死んでいるのだということを頻繁に言う人がいますが、これはひがみ根性の反対現象です。私はだめだという人は、だめな自分ばかりを見ているのです。これは肉の自分が生きていることを、どこまでも確認しているのです。十字架をむなしくしていることになるのです。これは神に逆らう行為です。

ところが、私は十字架によって死んだというのです。言うけれども、その人が霊に従いて歩むことを生活的に実感しているかというと、これもしていないのです。これは神に逆らってはいないですが、十字架をばかにしていることになるのです。

「悔い改めて福音を信じよ」とイエスが言っていますが、人間は悔い改めずに福音を信じているのです。悔い改めずに十字架だけを信じているのです。自分が死んだということを観念的にだけ言っているのです。

そうして、聖霊の証、神の子の証、十字架の証、霊に従いて生きている自分自身の実感を持っていないのです。ひがみ根性で自分はだめだと言って自分の肉性ばかりを見ている人も困ったものですが、十字架によって死んでいるといって、簡単に言う人も困ったものです。

十字架によって死んでいるという言葉は間違っていませんが、生活の感覚が全然それに添っていないのです。そのような証ができる実感を持っていないとしますと、行いがない信仰になるのです。行いがない信仰は死物になるのです。

自分はだめだと言っている人には、「あなたはだめではないのだ。だめなあなたはもう死んでいるから、十字架を見上げて、だめな自分にかじりつこうとしないで、これを捨てなさい」と言って勧めることができますが、「私はもう十字架によって死んでいます、また、霊によって歩んでいますし、御霊の証があります」という人は、ただ観念としてそう言っているのです。

世間のキリスト教徒の中に、こういう人がずいぶんいます。十字架によって死んでいるという人はあまりいませんが、十字架によって死んでいるということを、教理として知っているのです。聖書の字句としてそれを知っているのです。生活としては、全く知らないのです。こういう人はやはり宗教観念を信じているのです。結局私たちがしなければならないことは、聖書の言葉が命であること、そして、私たちの命がキリストであることを、神から教えてもらうことです。

聖書の言葉が命であること、私たちの命がキリストであることとは同じことです。聖書の言葉がキリストを証しているからです。だから、聖書の言葉であれば、キリストの命が私たちの命になるのです。

十字架でも、聖霊を受けるということでも、上っすべりをしてしまって、聖霊を受けたとしても、その後、御霊を崇めて歩んでいないことになるのです。聖霊を受けていない状態になるのです。そういう人はもう一度やり直さなければならないことになるのです。

そういうことがないように、毎日、毎日の生活において、神に生きていること、御霊を崇めることを実行して頂きたい。実行するというのは難しいことではない。神に生きていると考えて、自分に生きないということを、毎日実行したらいいのです。

自分の思いが出てきたら、その思いを捨てたらいいのです。どんな思いでもいいのですから、自分の思いをどんどん捨てていくのです。初めのうちは、十の自分の思いが起きても、これは捨てなければならないと思えるのは、一つか二つでしょう。後の八つは九つは自分の思いでありながら、自分の思いであるということに、気がつかない場合が多いのです。

これを毎日、毎日、実行していますと、初めは十のうちの一つか二つしか感じられなかったことが、次から次へと自分の思いが感じられるようになるでしょう。これが御霊の助けです。これは肉の思いだと感じられたら、それをどんどん捨てていったらいいのです。こういうことを、毎日実行するのです。御霊を崇めてこれをしていきますと、古き人を脱ぎ捨てて新しい人を着ることが、具体的に実現できるようになるのです。そして、御子に形どらせるために、神が新しい人を私たちに着せておいでになることも分かってくるのです。

固有名詞の自分ではない、御子としての自分が生きているのだという自覚、生活感覚がはっきり与えられているのです。こういうことを踏まえた上に、古い私は死んだのだというのなら、これは立派なものです。

こういう実地訓練なしに、私は十字架によって死んでいますということは、非常に御霊を軽んじていることになるのです。十字架を踏みつけていることになるのです。十字架によって死んでいると言いながら、やはり肉で生きているからです。こういうことがないように注意して頂きたいのです。

ひがみ根性についてもう少し付け加えておきますと、肉体的に生きている状態を自分で見ますと、私はだめだという気持ちが誰にも起きてくるのです。イエスと自分を比べてみると、私はだめだ、本当にだめだという気持ちが起きます。

これは嘘ではないのです。これはひがみ根性というよりも、肉の自分はだめだということを、自分が正直に認めていることになるのです。いつまでもだめな自分にこだわっていることが、ひがみです。肉的な自分をだめだと思うのは、当たり前のことです。正直なことです。

その状態にいつまでもとどまっていることがいけないのです。これがひがみになるのです。肉で生きている自分、御霊を受けていない状態の自分を眺めると、こんなものが果たして御霊を受けることができるのだろうかと思えてくるのです。色々な肉の思いが自分にある。一体新に生まれることはできるのだろうか。これはできる人がいるかもしれませんが、どうも私にはできそうもないという気持ちが起きるのです。

この気持ちも間違っていません。この人は古き人だから御霊を受けられないのです。自分はだめだと思っている古い人が御霊を受けるのではないのです。自分の状態を眺めて、これはどうも受けることはできないのではないかと思ってしまうのです。これにひっかかってしまうのです。御霊を受けるのにてこずっている人は、大概この手にひっかかるのです。

肉体的に生きている現状を眺めて見ると、とても御霊を受けられそうな器に見えないのです。この根性、あの根性を考えると、色々なこだわりがあるのです。肉の思いを持っているのです。こんな状態ではとても御霊は受けられないと思う。その通りです。その人は御霊を受けられない古き人です。その人の古き人に、神は御霊を与えようと思っているのではありません。「古い皮袋に新しい酒を入れてはいけない」と、イエスが言っています。御霊を受けたいと一生懸命に求めていても、古き人が求めていたらいけないのです。

なぜ聖書の言葉を信じようとしないかです。聖書の言葉には、古き人はもう死んでいるという言葉が、あちらにもこちらにもたくさんあるのです。聖書の言葉を信じたら、私はだめだと思っているのは本当の自分ではない、肉の自分だ。肉の自分と魂と何の関係もないことに気がつかされるのです。

肉の自分と霊の自分とは何の関係もない。リビング・ソールとホモとは、何の関係もないのです。ホモのことを自分だと思い込んでいるのです。ホモが御霊を受けようと考えるのです。ホモという動物人間、自我人間、固有名詞の人間は、御霊を受けることはできません。ところが、ホモが御霊を受けようと考えるのです。できないことを一生懸命にしようとしているのです。だから、いつまでも押し問答を続けることになるのです。

ある程度、この矛盾に落ち込んで、半泣きにならなければだめだと言っていますから、肉の思いを捨てなさいと言われても、なかなかこの矛盾から抜け出せないのです。

苦労して御霊を受けるから、御霊の価値が分かるのです。ある程度行き詰まって苦しんで苦しんで、神から教えられるまでは、しょうがないのです。これが新しい人を産むための産みの苦しみです。

自分の肉性の頑強さに悲鳴をあげるでしょう。これが薬になるのです。イエスでさえも「苦しみによりて己を全うした」と聖書に書いているのです。イエスの場合は、万人に変わって肉的生活を味わうという使命を、神から与えられていたのですから、イエスの場合は普通人間では有りえない苦しみを受けて全うしたのです。私たちはそんな苦しみを味わう必要はないのです。しかし、その人相応の苦しみを経なければいけないのです。

死んでいるというのなら、自分が死んでいるという証拠がなければならないのです。十字架によって死んでいるのなら、神に生きているという現実がなければならないのです。具体的に神に生きているという生活ができていなければならないのです。霊に従いて歩むということが、できていなければならないのです。これができていないのに、ただ十字架で死んだと言ってもだめです。全く御霊をなみしているのです。十字架を軽んじているのです。

と言っても、肉の自分だけを見て、御霊を受けることが難しい、どうしても難しいといっても、だめです。あまりに苦しんで死んでしまわないように、手助け、アドバイスをすることも必要です。

ひがみ根性で自分の肉ばかり見ているのも悪いですが、また、自分はだめだ、とても自分は御霊を受けられそうもないと思うことも間違っているのです。

その人が御霊を受けるのではないのです。その人が新に生まれ変わった形で受けるのです。神はホモに御霊を与えるのではない。その人の魂に御霊を与えるのです。この点をよくよく考えて頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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