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  • 管理人chaya

魂がこの世に生まれてきた理由


人の魂は肉体を取らされてこの世に出て来て、現象世界を知ることになるのです。現象世界を通してでなければ、神を知ることができないようになっているのです。

なぜかと言いますと、現象世界というものはないのです。ないものがあるように思える。だから、現象というのです。なきものをあるかのごとく呼びたもう時代が、只今の有形世界が、この地上に現われている時代なのです(ローマ人への手紙4・17)。

物理が現象体になり、物体になって現われている。この時代が只今の時代であって、この現象体をなきものと思うか、あるものと思うかによって、その人の魂が神につけるものなのか、悪魔につけるものなのか、自ら決定されるようになっているのです。

この現実の世界を真実だと思い込んで、物があると考えている者は、神を信じないことを自ら告白していることになるのです。神はなきものをあるかのごとくに、呼んでおいでになるのです。神が呼んでいるのではあるけれど、これはそういう方法で、人間の魂に訓練を与えているだけのことです。

本来、宇宙には有形的な物質、または、物体があるどおりがないのです。宇宙は宇宙自身が宇宙であって、宇宙自身というのは、あくまでも霊なる命です。これが宇宙自身の実体です。それが有形的なものとして現われるはずがないのです。

ところが、悪魔の反逆によって、悪魔が自分自身の立場が固定したものであるという考えを持ち始めた。自分に与えられた立場が固定したものだという概念が、いわゆる物体が固定したものであるというアイデアを生み出したことになるのです。

悪魔の位が固定すべきものであると考えた。固定すべきだと考えたことによって、悪魔の考え方を神が一時認める形をとって、固定したように見えるものを現わすことになったのです。

これは悪魔に油断させるためだと言えるかもしれないのです。こういう言い方は非常に幼稚ですが、皆様に分かりやすく説明しますと、こういう幼稚な言い方をしなければならないのです。

神は悪魔のセンスに合わせて、有形世界を造ったのです。そこで、悪魔のセンスに合わせて、有形世界が実体だと思える人は、悪魔の一族なのです。実は、有形世界はないのです。ないのですが、有形世界があるように思えるような働きを、神が天使に許したのです。

その結果、有形世界があるように人間に感じられることになったのです。しかし、それは嘘です。実体ではない、空体です、虚体です。それを虚体と見破って、色即是空の原理が分かって、有形世界が虚しいものと悟り得たものは、神を信じる輩として、神の側につくべき魂として、神がそれに命を与えるのです。色即是空を本当に自分の体験にするかしないかで、勝負は決まるのです。

そこで、人間の魂は一応この地上に出てきて、有形的な形をとらされて、有形的な世界において生存経験をさせられて、この有形的に見える世界が、本物か偽物かを見極めてきなさいという訳で、魂がこの地上に遣わされたことになるのです。

そこで、ホモという肉体人間と結婚したのです。ホモと結婚しなければ、神が分からないのです。有形世界へ遣わされなければ、神が分からないからです。ホモと結婚すれば、罪人の形を取らされたのではなくて、罪人の本物になるのです。

イエスは罪人の形を取らされた。私たちは本物の罪人です。イエスと私たちとどう違うのかです。ここが非常におもしろいのです。ルカによる福音書の一章から三章までを読んでみますと、イエスが誕生するまでの状態、そして、マリアがイエスを身ごもって、イエスを産むまでの状態、それまでのマリアの信仰状態を点検しますと、マリアの信仰状態はすばらしいものであったことが分かるのです。

マリアは御名を知っていたのです。御名が聖であることを知っていた。そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及ぶことを知っていたのです。これはすばらしく深い信仰のレベルを意味するのです。

そのような母体に宿っているイエスは生まれながらにして、聖霊に満たされていたのです。生まれながらにして聖霊に満たされている赤ちゃんは、どんな感覚になるかと言いますと、ホモと一緒にいるけれど、魂は初めから目を覚ましていたのです。

私たちの魂はそうではない。初めから眠りこけていて、ホモと一緒にいたのです。イエスは母親の優れた信仰と、処女降誕という格別の神の計らいによって、人間と同じ条件で生まれてきたのですけれど、魂と肉体とが別々だということを、直感的に閃くように教えられていたのです。

だから、天から下ったけれども、天にいたと言えるのです。そこで私たちも、そうしたらいいのです。私たちは実は罪の僕の形を取らされているのであって、魂は罪人ではないのです。肉体こそ罪人だということを、パウロも気がついていたのです。

私たちはこの地上に生きていなければならないのですけれど、肉に対して責任を負うべきものではないのです。肉に対して責任を負うべきでものではないというのは、ホモとして生きている必要がないということです。これがイエスの信仰です。

皆様の魂はホモと何の関係もないのです。皆様の魂は肉体の奴隷ではないのです。肉体は魂の入れ物であって、魂のために肉体があるのです。肉体のために魂があるのではないのです。

肉体は女です。魂は男です。男のために女がいるのであって、女のために男がいるのではないのです。肉体は魂のためにあるのです。

肉体的に生きていると考えるが、肉体的に生きているという語法を使いますと、肉体が主体のような気がしますが、実は生きているということが、肉体になっているのです。心臓が動いていなければ、肉体があっても何もならないのです。生きていればこその肉体です。

そうしますと、生きているということが優先するのです。生きているということの方が、大事です。肉体がなければ生きていることもありませんが、肉体があっても心臓が動いていなければ、何もならないのです。心臓が動いていることが第一です。肉体があるのは、第二になるのです。

ところが、人間は逆転して考えるのです。肉体があるから、生きていると思っている。生きているから肉体があるのです。生きていない肉体が有っても、しょうがないのです。

人間の命というのは、生理的な、物理的なものではないのです。医学は人間の命を生理的なものだと考えているのです。物理的なものが命だと思っているのです。これは大間違いです。これは肉体があるから命があるという考えです。

生きているのは、魂が肉体に入っている状態をいうのです。そこで生理現象が起きるのです。魂が肉体に入らなかったら、正常な人間にはなりません。

妊娠しますと、三ヶ月までの間は、魂が入っていないのです。ただ肉の魂が子宮の中にあるだけです。ところが、三ヶ月目になって魂が胎児に入るのです。そうすると人間の赤ちゃんになるのです。それから人間として生まれるのです。妊娠中絶をするのなら、魂が入るまでにすると楽にできるのです。魂が入ってからでは、中絶が殺人行為になるから難しいのです。母胎に対する影響も大きいのです。こういうことは、女性の方は良くご存じですから、こういうことを信仰の原理にしたらいいのです。肉体だけで魂が入らなければ、中絶は簡単です。魂が入ってしまうと、そうはいかないのです。

魂が入ることによって、生理機能と心理機能が一体になり、人間存在と言えるのです。心理機能と生理機能が一体的に働かなければ、人間存在とは言わないのです。人間存在というのは、心理機能が生理機能をリードする条件が第一になるのです。魂が主体になって、肉体がその入れ物として働いていることが人間です。元々、魂と肉体は完全に一つのものかと言いますと、そうではない。母の胎内で妊娠がおきても、魂は入っていないのです。肉体と魂は別々です。

魂がこの世において生活を経験するために、肉体という機能が与えられているのです。生活を経験するというのは、神を経験するということです。生活をすることは、命を経験することです。命を経験するというのは、神を経験することになるのです。そのために、魂はこの世にやってきたのです。

肉体の中に魂が住み込むという条件でなかったら、現象世界では神を知ることができないのです。絶対にできないのです。魂が魂のままでは神を経験できないのです。魂には魂の体がありますけれど、このままの状態では神が分からないのです。神を知ることができないのです。

悪魔が反逆する以前なら、それができたのです。悪魔が反逆しはじめた以後においては、宇宙の根本原理が矛盾になったのです。対立になったのです。弁証法的原理になったのです。これが宇宙存在の原理になったのです。対立、矛盾という原理が、宇宙存在の原理になった以後には、有形的な事がらを通してでなければ、神を見ることができないようになったのです。宇宙の格率が変わったのです。人間の魂は魂のままでは、神を知ることができなくなったのです。肉の体を持たさなければ、神を知ることができないという宇宙的な原則が確立されたのです。

神は不憫ではありますが、神を知らそうと思えば、どうしても魂をこの世へ送って、苦労させなければならないことになったのです。そこで皆様は、この世へ生まれてきたのです。これは魂に修行をさせるための神の処置です。かわいい子に旅をさせるために、魂がこの世に送られたのです。

ところが、今の人間はそれを逆転して考えているのです。肉体的に生きていることが、根本だと考えているのです。肉体的に生きていることが、命だと言うのです。こういう考え方が、悪魔に賛成した考えになるのです。闇の中に光があったから、淵の表に立つことができたのです。それを闇は自分の力で淵に立っていると考えるようになったのです。今の人間と同じ考えを悪魔が持ったのです。これが宇宙に矛盾が発生した原因です。

そこで、人間も悪魔と同じ条件で生まれてきたのです。そうして皆様は、霊魂の目が開く時に、自分の肉の父である悪魔を裏切ることになるのです。

イエスは「あなたがたの父は悪魔である」と言っています。「悪魔の業を行っている」と言っているのです。ユダヤ人が「私たちは神の子だ」と言ったら、イエスはそれを厳しく批判したのです(ヨハネによる福音書8・44)。このように、すべての人間は悪魔の子です。悪魔の子である状態の人間が、自分の父を裏切るのです。自分の父を裏切って神に味方をすることに成功した人間だけが、永遠の生命を受けるのです。神の子として認められるのです。

肉親の父は大したことはないから、裏切ってもしょうがないのです。精神的な父を裏切るのです。これをするかしないかが、皆様の運命を左右するのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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