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  • 管理人chaya

信仰


イエスは「神を信じなさい」(マルコによる福音書11・22)と言っています。これを永井訳では、「神の信仰を持て」と訳されています。神の信仰を人間が持つということは、普通の人間の感覚では考えられないことです。

その次にイエスは言っています。

「よく聞いておくがよい。誰でもこの山に動き出して、海の中に入れと言い、その言ったことは必ずなると心に疑わないで信じるなら、そのとおりになるであろう。そこであなた方に言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられると信じなさい。そうすればそのとおりになるであろう」(同22・23・24)。

イエスは、この山に移りて海に入れと言うなら、その言葉のようになると言っているのですが、言葉のあやとしてそう言ったのではなくて、イエスが信じていたその信仰の内容をそのまま言葉において現わしたのです。

イエスがどうしてこのようなことを言ったのか。この山に対して海に移れと言っても、それを信じて疑わなければ、必ずそうなるとなぜ言ったのか。

これは一体どうしてそのような信仰がイエスにあったのかということです。また、イエスだけでなく私たちにもそのような信仰がどうしてあり得るのかということです。

「私を信じる者は、私の業をするであろう」とイエスが言っていますが、イエスが考えたことを、私たちも考えることができるということになるのです。個人的に神を信じることでも、またイエスが時間、空間に対して持っていた彼自身の理念、考え方についても、同じ考え方、同じ信仰に立ちうるということを、イエスが言っておられたのです。

そうでなければ、この山に移りて海に入れという言葉を出すということはできないはずです。イエスの信仰は、一体どういうことなのか。普通の人間ではとても想像さえもできないことです。全く気違いじみた言い方だというしかないのです。

しかしイエスにおいては、このような考え方が普通であったのです。当然であったのです。このように考えないことがイエスとしては間違っていたのです。

この山に移りて海に入れ。イエスは何の疑いもなくこの言葉を出すことができたのです。イエスはそのような信仰にあったのです。

今日の私たちの心境と比べてみますと、非常な違いになるのです。非常な違いという言葉では言い現わせない、格差がありすぎるのです。

いわゆる人間の知識、常識で生きている人は、時間や空間のあり方は、絶対だと思えるでしょう。

この山に向いて海に移れという感覚は、時間や空間を絶対だと考えている考え方ではどうしても発生いたしません。必ずなると信じないでただ言葉だけで、山に向いて海に入れということはできないでしよう。ただ言葉の遊びとして、観念の遊びとしてなら言うことができるかもしれません。

ところが、必ずなると信じて少しも疑わないでこの言葉を言うということは、とても普通の人間の感覚ではできないことなのです。

「人の心が未だ思わない所」とパウロは言っています。これは神がその愛する者に対して、また神に愛せられる人たちに備えられている救いの大きさ、広さ、深さは人の心が未だ思われないことだとパウロが言っているのです。

私たちが神によって救われるということの内容は、全く人間の常識では思いもよらないようなことです。人間の思想の中には、未だかつて存在しなかったようなすばらしいスケールと内容とを持っているのです。これはただすばらしいという形容詞では言い尽くせない程のおごそかな、広大な、確かな、立派な、重大な、無限の栄光にいだかれたものです。

神が愛する者のために設けた恵みがそうであるとすれば、私たちが現世において達し得る信仰のレベルもまた、無限の栄光に満ちたもの、またあらゆるすばらしさ、大きさを超えたような、人間の思いをはるかに超えたスケールの信仰に、私たち自身が立ちうるものであることを示していることになるのです。

イエスが水をブドウ酒にした、水の上を歩いた、この山に移りて海に移れと信じてそう言えば、必ずその言葉のようになるということを弟子たちに教えた。こういう言葉の内容を考えますと、新約聖書が持つ広大無辺の思想、また力、神の全知と全能とがそのまま新約聖書には現わされているのです。

私たちに対する神の愛が、広大無辺であるように、私たちが現世において到達しうる信仰のレベルもまた、広大無辺である。これは到達しうる信仰のレベルというよりも、到達すべき信仰の内容と言った方がいいのかもしれません。

私たちがキリストの花嫁として、当然到達しうるものであり、また到達すべき内容の標準です。信仰のスケールを端的な言い方で現わせば、この山に向いて海に入れということが必ずなるというこのイエスの言い方が、私たちが到達すべき信仰のレベルを言い現わしているのです。

このことを考えますと、異邦人の考え方、肉体を持って生きている人間の考え方が、全く小さすぎて問題にならないほど、小さくて愚かであるということが理解できるでしょう。

現在の我々の感覚は、ほとんど信仰と言えるほどのものではないのです。

イエスが神を信じよと言っていますが、英訳ではHave faith in God となっています。これは神の信仰を持てという意味です。

もし神の信仰を持つことを意味するとしますと、神の言葉の全知全能がそのまま私たちの信仰の内容になる。神の全知全能の無限さが現われるべきであるということになるのです。

人間の側から見れば、驚嘆すべき重大さ、すばらしさがあるのですが、神の側から見れば当たり前のことなのです。

神なく、キリストなく、この世において望みがない、現世に生きているという目的さえも分からない人間、知識と常識に閉じ込められている人間から考えますと、神の信仰を持つという言葉の内容の意味が、具体的には理解できないものであると言えるでしょう。

神の信仰を持つというのは、神の立場から考えることです。人に問うて分からないことは、神に問えば教えてもらえるのです。

人間の側から考えて神の救いとはこんなものだろう。神の力はこんなものだろうといくら想像してみても、それは人間の側からの感覚であって、とても神の信仰を持てというイエスの命令に従うことにはならないのです。

私たちが福音に召されたのは、天使の上に立つこと、そして新天新地における人間の役を務めるためです。新しい天地を委ねられた役割を果たすため、神に代わって天地を治める役割を果たすために、私たちは召されたのですから、御使いの上に立たなければならないことになるのです。

ところが、人間の側から考えますと、御使いの上に立つことはできません。時間、空間が絶対のものとして、人間には感じられるのですから、とても新天新地における私たちの役割を果たすことはできないのです。

ヘブル人への手紙の二章六節には、「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか。

あなたはしばらくの間、彼を御使いたちよりも低い者となし、栄光とほまれを冠として与え、万物をその足の下に服従させてくださった」とあります。

御使いの上に立つということは、言葉で言えば簡単ですが、御使いの上に立つような信仰は、時間、空間を超えたものでなければならないのです。

「神は御使いを風となし、またご自身に仕えるものたちを炎としたとあります」(ヘブル人への手紙1・7)。これは御使いを時間、空間として用いたということを意味するのです。

この御霊の大御業をよく理解して時間、空間とは何であるかということをよく心得なければならないのです。

聖書に創造という言葉があります。創造という言葉を人間の側から考えますと、天地創造というものは重大なものであって、すばらしく大きく広いもの、絶対であるように考えられるのですが、神の信仰に立って、聖書の立場からこれを考えてみますと、天地創造は一時的な現象にすぎないのです。このことをよくお考えいただきたいのです。

初めに神天地を造りたもうたという言葉は、人間的にはすばらしく重大なものとして受け止められるものですが、神の立場から考えますと、無限の大宇宙、悠久無限の大宇宙において、現在のような物質的な物理状態が存在すること、天地万物と考えられている時間、空間の世界があることは、ほんの暫くの現象です。こういう角度から現在の時間、空間を超えた感覚で考えることです。

初めに神が天地を造ったとありますが、初めにというのは時間がなかった時のことです。時間がなかった時点に立って考えますと、五十億年、六十億年という時間でさえもなきに等しいものです。

地球ができてから、四十五億年経過していると言われていますけれど、五十億でも百億年でも有限の時間です。有限の時間というものは、神ご自身の立場から見れば、ほんの瞬間でしかないのです。

大宇宙という無限の時間、無限の空間というスケールで考えますと、現在太陽系宇宙が存在しているということでも、ごくわずかの間での現象でしかないということが、普通のこととして考えられるはずです。それは瞬間的なできごとでしかない。極めて短い時間のできごとなのです。

パウロは、「目に見えるものはほんのしばらくである」と言っているのです。これは英訳では、ほんの瞬間的なものだと言っているのです。

天地万物が存在すること自体が神の側から言えば、瞬間的なものにすぎないのです。このような神の感覚に立つことができてこそ、人間の心は本来の面目に立つことができるのです。

時間が絶対である。空間が絶対である。現象的なものが存在すると考えることは、後天的な人間の肉の思いであって、先天的な未生の心、魂本来の感覚から言えば、時間や空間は存在しないという感覚を持つことが、実は当たり前です。

従って現世における利害得失、毀誉褒貶、又は喜怒哀楽の考えは全くうたかたにすぎないということが実感できなければならないのです。

私たちが考えている六千年の人間の歴史はあるには違いないが、神の角度から見れば、ほんのわずかな時間のことでしかないのです。

このほんのわずかな時間の中に、人間は生まれて、生きて、死んでいく。これは人間を教育するために時間、空間を設けているのですけれど、これは本来実体ではない。ただの物語です。

従ってこの時間、空間を超えて宇宙の無限から考えてみれば、私たちが生きている世界というのは、ほんのわずかな、あるかないかのものです。

神を信じるという立場から言えば、こういうものがないと考えるのが当たり前です。

目に見える現象がないと考える。あるにはあるけれども、宇宙的な感覚から言えば、ないに等しい短い時間のものである。神の信仰から見ればないのと同じです。

私たちは現世においては肉体というしがらみの真ん中にいますから、これをバカにすることはできませんけれど、肉体のしがらみ、現象の桎梏を絶対だと考えることは、肉の思いに負けた罪人の感覚です。

私たちは十字架によりてすでに肉を脱ぎ捨てている。脱ぎ捨てるように神から命じられている。従って、このような肉の思いのしがらみに閉じ込められていなければならない理由はありません。

私たちは神に召されたその召に従って、福音の本体を見なければならない。時間、空間の下にありながら、御使いの下にありながら、御使いの上に立たなければならないのです。

現象世界のもろもろの約束事を、越えていくのです。御使いを通して語られている現象世界の下にありながら、信仰によりてこれらをはるかに乗り越えて考えなければならないのです。

そうしなければ私たちが神に召された目的を果たすことができません。キリストの花嫁としての自己完成を全うすることができないのです。

この山に移りて海に入れと言えば、必ずその言葉のようになる。言った言葉が必ず実現すると信じて疑わなければ、必ずそのようになるのです。

これは時間、空間を超えた人間においてのみ初めて言えることです。私たちは本当にへりくだって、肉の思いを脱ぎ捨てて、現世に生まれた後の後天的な感覚を脱ぎ捨てて、肉体的に生きているということが絶対である気持ちを脱ぎ捨てて、時間、空間の上に立って考える。こういう信仰になるべきです。これこそ誠のへりくだりというべきでありましょう。

自分の思いを投げ出して神を信じる。神の信仰においてすべてを見る。また自分を見るのです。このことこそ、私たちが今しなければならないことなのです。

霊に従って歩むとはこのことです。肉体で生きている感覚を卒業して、霊に従って歩むのです。家庭生活の問題も、衣食住の問題も、愛情の問題であろうと、すべて肉を超えた感覚で事柄として受け止めるのです。

神は現象として今経験させておられるけれども、これは神という事柄を経験するために与えられている神の言葉が現われているのです。御使いを通して神が語っておられるのであって、現象的なものが絶対なのではないのです。これを乗り越えて初めて、古き人を脱ぎ捨てて、新しき人を着ることができるのです。

自分の生活の実感として、時間、空間を乗り超えてその上に立つような気持ちを持つことが、私たちが当然到達すべき心境です。これをよくお考えいただきいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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