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  • 管理人chaya

悪い業と良い業


イエスは次のように述べています。

「私たちは、私を遣わされた方のみわざを昼の間にしなければならない。夜が来る。すると誰も働けなくなる。私はこの世にいる間は世の光である」(ヨハネによる福音書9・4、5)。

イエスを遣わした方のわざを私たちは生きているうちにしなければならないと言っています。私たちというのは人間全部をさすのであって、この単刀直入な言い方によく注意していただきたいのです。

人間は何をしなければならないのか。今生きている人間は何をしなければならないのかと言いますと、イエスをこの世に遣わしたお方のわざをしなければならないのです。これを昼の間、生きている間にしなければならないのです。

これをするのはキリスト教の人々だけではないか。聖書を信じている人間だけに言えることではないかと、言いたくなるのです。

しかしこれは大間違いであって、キリスト教を信じる人、信じない人にかかわらず、全世界の人間は、すべて日曜日に休んでいるのです。日曜日を休むように余儀なくされているのです。これは神の摂理によって神の福音が、全世界に述べ伝えられたしるしです。日曜日がイエスの復活記念日であるということを、知っていても知っていなくても、このイエスの復活記念日を、守らざるを得ないような事情境遇を、世界中の人間が神によって与えられているのです。

現在、アフリカの人々でも日曜日を知らない人はいないでしょう。日曜日を休んでいない人も多くいますが、日曜日があることは皆知っているのです。今や日曜日という概念は、全世界の通念になっているのです。世界の社会的通念にならざるを得ないように、神が仕向けているのです。こういうことを神の摂理と言うのです。

また、今年が二〇一〇年であるということです。日本的に言えば平成二十二年ですが、外国へ行って平成二十二年と言っても何のことか分かりません。ところが、二〇一〇年は世界中どこへ行っても通じるのです。

これはイエスが誕生したことによって、世界歴史の基準が定まったこと、世界歴史の展開が、イエスが生まれたことを基準にして始まっているということを示しているのです。これは、歴史的な必然性、事実性です。

このような必然性を背景にして、私たちという言葉を使うことになりますと、当然全世界の人間はということになるのです。

全世界の人間は、イエスを遣わした方のわざを、昼のうちににしなければならないのです。昼のうちにとは、生きている間にということです。

こういう世界歴史の必然性というのは、全世界の人間の業をそのまま現わしているのです。イエスを信じなければならないということは、人間の業です。良い意味における業です。業という言葉には良い意味と悪い意味と二通りあるのです。普通、人間の業という言葉を使いますと、悪い意味に使われる場合が多いのです。

しかし、人間が生きていることにおいて、そうしなければならないこと、例えばおなかがすいたらご飯を食べなければならない。空気を吸わなければならない。また、毎日睡眠時間を取らなければならないというのは、皆業です。

罪業と、単に肉体を持っている業とは違います。二〇一〇年という年号とか、日曜休日のことは現世における人間の業です。おなかがすいたらご飯を食べると同じ意味の業なのです。

こういう歴史的必然性には抵抗することはできません。今年は二〇一〇年であるといっても自分は知らない、「そんなの関係ない」と言っても通用しないのです。最近のすべてのカレンダーには二〇一〇年と書いているのです。

例えば、ある個人の思想とか、ある家系の思想とか、ある民族の思想とか、ある国の思想等を、歴史的必然性とは言わないのです。社会的必然性とも言わないのです。そういうものには従ってもいいですし、従わなくてもいいのです。

ところが、全世界に行き渡っている通念というのは、知らないからと言っても通らないのです。

ただ今日だけを生きているのなら、2010年でも平成22年でも、どちらでもいいのです。ところが2010年と、現在生きている人間とが関係あるのです。そうすると知らぬ存ぜぬでは通らないのです。

私たちが空気を吸わなければ生きていけない。水を飲まなければ生きていけないということと、2010年とは、切っても切れない関係にあるのです。これが人間の業です。良い意味における人間の業ですから、この業を直視することによって、悪い業から逃れることができるのです。悪い業を果たすことができるのです。

俗に業を果たすというのは、悪い業を果たすことを意味するのです。悪業を果たすことが人間の良い業です。

そこで、おなかがすいたらご飯を食べなければならないということと、一週間に一度日曜日があるということとは、同じことになるのです。

釈尊はこのことを知らなかったのです。知らなかったのは当たり前でして、イエスよりも五百年も前に生まれたのですから、人間は何をしなければならないかが分からなかったのです。釈尊の時代には、良い意味の業がはっきりしていなかったのです。人間は何のためにこの世に生まれてきたのか。何をしなければならないのかが分からなかったのです。

イエスがこの世に来て初めて、「私を遣わした方のわざをしなければならない」とはっきり言ったのです。私を遣わした方のわざを昼のうちにしなければならない。釈尊はこれが分からなかったのです。何をしなければならないのか分からなかったのです。

そこで、今でも聖書のことが本当に分かっていない人は、何をしなければならないのかというこの簡単なことが分からないのです。

ヨハネによる福音書の九章四節が、全世界の人間に分かっていないのです。

私たちは、私を遣わした方のわざを昼のうちにしなければならない。絶対にしなければならないのです。これが分からないのです。

聖書を信じていても、しなければならないわざが分からないのです。

何をしなければならないのか。私を遣わした方のわざをしたらいいのです。簡単なことです。

私を遣わした方のわざをしたらいい。そうしたら業が果てるのです。

ところが、御霊を受けなければならないということがありますが、御霊を受けるということは、私を遣わした方のわざをするためです。

御霊を受けないと、わざを行うということが分からないのです。だから御霊を受けなければならないのです。

御霊を受けるということは、単なる宗教儀式とは違います。すべて人類がしなければならないことです。わざを行うということは、御霊を受けなければ分からないし、できないのです。

イエスを遣わした方のわざを行おうと思っても、御霊を受けない状態ではだめです。それで私は御霊を受けなさいと言っているのです。

自分に同情して自分の自尊心をかわいがってもだめです。現代人の文化概念は、まるで紙くずみたいなものです。神のわざの前には何の価値もないのです。

釈尊は、人間は何のために生まれてきたのか、何をしなければならないのか分からなかったのです。そこでさし当たり人間が生老病死という状態で人間が死んでいく。これは何かと考えたのです。なぜ人間は死ぬのかということを考えようとしたのです。これが釈尊の時代は、人間がしなければならない最高のテーマでした。

ところがイエスが現われて、私たちは神のわざをしなければならないと言い出したのです。これが復活によって証明されたのです。もしイエスが復活しなければ、彼が言った、「しなければならないわざ」は嘘だったのです。

死んでしまう人間の言うことは、皆嘘です。どんなに立派なことを言っても嘘です。釈尊が言ったことも嘘です。釈尊が言ったことは、彼が死んだので絶対真実だとは言えないのです。

釈尊の悟りは間違っていませんでした。空というのは正しいのです。しかし大乗仏教には空以外の教えがたくさんあるのです。宗教観念が山脈みたいにあるのです。

私たちはどんなことを悟っても、どんなことが分かっても、どんな知識があっても、イエスを遣わした方のわざを行っていなかったら、その人生は全部失敗です。簡単です。しなければならないのはただ一つです。イエスを遣わした方のわざをしなければならないのです。理解するのとは違います。実行しなければならないのです。なぜなら、私たちはイエスを遣わした方によって生かされているからです。

だからその方のわざをしなければならない。これは当たり前のことです。

イエスを遣わした方は、私たちを遣わした方です。従ってイエスを遣わした方のわざは、私たちを遣わした方のわざです。これをしなければならないのです。これだけでいいのです。これ以外のことは何もしなくてもいいのです。これだけをきちっと実行していれば、必ずその人生は祝福されるのです。神が味方になってくれるからです。

すべての人間は人の子です。人の子はすべて人の子を世に遣わした方のわざをしなければならない。これは当たり前のことです。

しなければならないという言葉の中には、意識的にとか、積極的にしなければならないという意味が含まれているのです。ただ偶然にしていても、それはしなければならないという言葉の中には入らないのです。

例えば、おなかがすいたからご飯を食べる。これがイエスを遣わした方のわざです。これは誰でもしています。食べることは大好きです。しかし、これを父なる神のわざと考えてしていないからだめです。自分の肉のわざになっているのです。

しなければならないというのは、私たちの肉体がこの地上に存在している簡単な原理です。ご飯を食べなければおすかがすくという肉体はなぜあるのか。

水を飲むこと、ご飯を食べることによって、しなければならないわざをしているのです。しかしこれが何であるか、父のわざが何であるかを知らなければ、そのわざをしていてもしていることにならないのです。

イエスを神が遣わしたそのわざが、食べること、飲むことであるとして、食べるとは何をすることかということです。これが実はlive unto the Lord になるのです。live unto the Lordとは、主にまで生きるということです。自分に生きるのではないのです。

実はこの世で肉体持って生きているということが、主なのです。これが聖書の奥の院です。

本当の奥の院をずばり言いますと、皆様が肉体を持ってこの地上に生きていることが、ザ・ロード(the Lord)です。ザ・ロードというのは私の主という意味です。私の主まで生きているのです。ご飯を食べるということは、私の主に生きているのです。

自分にまで生きていても死ぬに決まっています。主にまで生きていますと、死なないのです。私の主は死なないのです。復活してしまったのです。

イエスは「生きて私を信じる者は死なない」と言っています。そこで私の主にまで生きることになりますと、死なないのです。死なないという確信を与えられるのです。私の欲とか感情を越えて生きるようになるからです。

人間の生活は現在それをしているのです。していながら分からないのです。だから地獄へ行くのです。主にまで生きるということをしないで、自分自身に生きているのです。主に生きないで、自分に生きているのです。だから七十年、八十年の自分の人生は、全部主の人生を横領していることになるのです。

私が横領しているのです。横領した張本人がつかまって監獄に放り込まれることになるのです。これはザ・ロードの人生を盗んでいるからです。私の主の人生を自分が盗んでいるのです。だから刑罰を受けることになるのです。

釈尊は、現在人間が生きていることは、全部虚しいということを見たのです。現在人間が生きているのは、皆虚しい。どんな信じ方をしようが、どんな悟りを開こうが、どんな行をしようが、生きていることが空だと言ったのです。これが人空、法空です。

一切空だと言い切ったのです。これは2010年ということが分からない時代の話です。私のわざを行わなければならないという原則が、釈尊に分からなかったから、悟らなければならないと考えたのです。人間は生きているうちに、空を悟らなければならないと考えたのです。

では、空を悟ってどうするのか。自分自身が空であることを悟ってどうするのか。そこで私を遣わした方のわざを行えばいいのです。

皆様はイエスを遣わした方のわざをさせられているのですから、このことをよくご承知いただければいいのです。

人間が現在生かされているということは、イエス・キリストの父なる神の命によって生かされているのです。その証拠にイエス・キリストの復活記念日を全部知っているのです。このお方に生かされている証拠です。

今年は2010年であることを、私たちは知らされています。そのような社会的必然性においてでなければ生きていけないような世の中に、現在生かされているのです。

これはイエス・キリストの父なる神が、私たちの神であることをはっきり証明しているのです。これが神の摂理です。

固有名詞の人間、自分だと思っている人間が生きていることは、人間のカルマです。悪業と言われるカルマです。

固有名詞の人間は、釈尊の悟りによれば人空です。そんなものはいないのです。これは釈尊の悟りでなくても、静かに考えてみますと、固有名詞の人間はいる必要がないことが分かるのです。これが主観的な人間です。または世間的な人間、肉の人間が考えている人間です。

これはいわゆる人間の業による人間です。自分で勝手に生きている人間です。勝手に生きているということは、神に与えられた命、人生を私しているのです。人生を横領しているのです。主に生きないで、私に生きているということは、人生を横領していることになるのです。これがいけないのです。これはすべて刑罰の対象になるのです。

固有名詞の人間が業であって、このことを釈尊は人空と言っているのです。だから釈尊の人空という悟りは、人間はいないということの悟りです。これが涅槃ですから、固有名詞の自分はいない、人の子としての自分がいるのだという自覚に基づいて生きるのです。

これは肉体を持っていながら涅槃に入っているのです。自分が肉体を持っていながら、涅槃の状態に入っているのです。涅槃は死んでしまうことを言うのです。肉体を持っていながら、固有名詞の自分としては死んでいる。しかし肉体を持っている。この状態を有余涅槃と言うのです。

同時にこれは私を遣わした方のわざを行っているのです。ここで釈尊の悟りと聖書の教えが、ぴしゃっと一致するのです。見事に一致するのです。般若心経の根本原則と、聖書の信仰が見事に一致するのです。

釈尊の時代にはイエスという言い方ができなかった。人の子として生きるという言い方がなかったのです。そこで釈尊は固有名詞の自分が無であること、人空であることに徹しなさいとしきりに言ったのです。肉の人間はいないということを言ったのです。

イエスはこれを歴史によって証明したのです。釈尊入滅後、五百年たって出てきたイエスは、釈尊が言った人空という内容を、そのまま人生で示したのです。

人間はいない。人の子がいる。生ける神の子がいることを証明して見せたのです。しかも人間がいないという有余涅槃の思想で、生ける神の子として生きるということにおいて、人間は永遠の生命に生きることができるという事実を、歴史的に証明したのです。釈尊の悟りを歴史的に証明して見せたのが、イエスです。

有余涅槃の実物を仏教で証明した人が一人もいないのです。有余涅槃、肉体を持った涅槃ということを仏教は言いますが、果して有余涅槃の本当の実物があるのか。またそれがあるということを信じる人はいるでしょうか。弘法大師がその実物だと考えたり、日蓮大上人はその実物だと考えたりしている人はたくさんいますが、歴史的に証明された形、神が認めた有余涅槃はイエスしかないのです。

如是我聞式に、私はそう考える、私はそのように聞いた。私はそのように悟った、私はこのように信じたと言ってみたところで、それを神が証明しなければ何になるかということです。神が証明することにおいて、初めてその人の悟り、信仰が宇宙的に確認されたことになるのです。

これがイエス・キリストの復活です。「神は一人の人を甦らせて、義をもって裁く日を決めた」と聖書に書いてあるのです(使徒行伝17・31)。そこで全世界に、イエスの復活記念日を守らせているのです。

全世界に聖書をばらまいて、今年が2010年であることを神が証しているのです。このことが保証を万人に与えたということです。人間に永遠の生命が与えられているという保証です。

神は保証を万人に与えているのです。福音が全世界に述べ伝えられて、保証が万人に与えられている。

だから神はすべての人間に悔い改めを命じておられるのです。

釈尊が悟った有余涅槃が、イエス・キリストの十字架と復活によって、もっと高い次元において証明された。

そうして絶対に死なない永遠の生命が、すべての人に与えられた。私たちは自我意識を捨てて、この事実を黙って受け取ればいいのです。これが新約聖書の奥義です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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