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  • 管理人chaya

真実


イエスは「自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分を遣わされた方の栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない」(ヨハネによる福音書7・18)と言っています。

真実を語り真実を教えるとはどういうことか。またイエス自身がどのように人々を教えていたか、イエス自身が自分が語っていることをどのように感じていたのかということを、イエスはそのまま言葉として説明しているのです。

この箇所を文語訳で見ますと、「己より語る者は己の栄光を求む。己を遣わした者の栄光を求むる者は誠なり、その内に不義なし」となっています。

自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求める。これはどういうことかと言いますと、人間自身の想像から出た教え、または人間自身の感覚から出た気持ちで、何が真実で何が真実ではないかを考えても、なかなか見分けがつきにくいのです。人間的に考えますと分からないのです。

あらゆる宗教はすべて皆、真理を語っているつもりでいるのです。例えば輪廻転生ということを、宇宙の秘密であるかのように語っている人がいますが、その人はインチキを語っているつもりではないでしょう。ところがその考え方の根底には、人間自身の現世におけるあり方を第一に考えて、現世に生きていることを絶対視する感覚を持っている。そこで輪廻転生という考えが起きてくるのです。

これは人間の本質をはき違えていることになるのです。本人としてはそういう考え方は無理もないと言えるのですけれど、人間存在の基本的な角度から言いますと、そういう考え方は人間としての合理性があっても、人間存在としての合理性がないのです。

人間存在という言葉は、人間が現在存在している事実、宇宙存在、地球存在との一体的な形での存在の事実に即している状態から考えなければいけないのです。

現世に生きている人間の感覚としては妥当であっても、宇宙存在と人間存在との、一体的な存在の実体ということから考えますと、輪廻転生という考え方は間違っているのです。一種の宗教観念でしかないということになります。

大宇宙教というのがありまして、この教祖の考え方は四相対性理論という考え方をしているのです。これは時間と空間とが、相対的、相乗的、相関的に働いて時間は空間を産み、空間は時間を産み、お互いに時間と空間とが重なりあって全体の存在が構成されていると言います。

その相対性の原理、時間と空間との相乗的相対原理が、現象世界として現われている。人間の生活における基本的な感覚は、四つの相対性原理に立たなければいけないというのです。

そういう考え方は皆まじめな思想です。けっしてふまじめな人間の欲望とか虚栄心とか理屈一点張りというようなものではなくて、それぞれの思想を述べているのです。そういう人はまじめで熱心です。ところが、それは本当の意味での真理と言えるかどうか、誠と言えるかどうかです。

イエスの言葉によりますと、自分の栄光を求める者は誠ではないのです。自分を遣わされた方の栄光を求める者は、真実であると言っているのです。真実であるという所を英訳で見ますと、真実そのものと同位、同質のものであると言っているのです。

ところが人間の思想というものは、例えば輪廻転生にしても、四相対性原理にしても、すべて皆人間の考えから出たものです。人間の考えから出たということは、自分から出たものです。イエスが言うように、自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるのです。これは真実ではないのです。

なぜ真実ではないかと言いますと、自分の栄光を求めるからです。それは真実ではないのです。

人間から出た思想を語るのは、どのようにまじめであっても、また、熱心であっても、宇宙の純粋客観の立場から言えば、間違っているということになるのです。

宗教でも学問でもまた一般常識でも、人間から出て人間に基礎をおいて語られたこと、考えられたことは、人間的には本当であっても宇宙的では本当ではない、真実ではないということになるのです。

ある人は、私は聖書を信じている、それも命がけで信じているつもりですから、私の信じ方は正しいと思っているのです。その人はまじめに信じていて、命がけで信じていると言うかもしれません。

例えば昔から殉教者として自らの命を棒にふった人はたくさんいるのです。これはキリスト教だけではありません。仏教でもまたその他の宗教でも、自分の宗教のため、信念のために、一生を犠牲にした人はたくさんいます。

そういう人たちは命がけでしたのですが、全部が本当かどうかは甚だ疑問です。命がけでするということは、まじめの頂点の人です。これは本人としてまじめですが、天地全体から考えての本当のまじめさであるかどうか、本当の正しさを持っているかと言いますと、疑問なのです。

例えば日本の宗派神道で考えている考え方、天理教の教義とか、大本教の教義とから考えれば、真理と言えるかもしれませんが、これは日本的な角度から考えればということであって、これを全世界の人類に妥当させようとなりますと、甚だ無理があるのです。

例えばユダヤ人問題についての説明は全然できません。または白人とアジア人と黒人と三つの種類の人種がいますが、なぜこうなっているのかということは日本の神道では全然説明できないのです。

現在欧米人が世界の文明の中心になっています。白人社会の文明意識をリードしているのが少数のユダヤ人です。少数のユダヤ人が白人を指導している、また白人が全世界を指導しているのです。

なぜそうなっているかということの説明は、日本神道では全くできません。またマルキシズムでも白人、黄色人、黒人についての歴史的因縁、なぜ世界歴史が今のようになっているかについての説明はできません。

マルクスはユダヤ人です。けれどもユダヤ人問題について正しい認識を持っていないのです。アブラハムの約束を正しく理解していないのです。従ってユダヤ民族でありながら、ユダヤ民族の流れについての正しい認識を持っていないのです。

従って少数のユダヤ人が、全世界を指導しているという事実について明確な説明はできないでしょう。

いろいろな宗教を考えてみても、皆それぞれの立場から見れば、それぞれの真実性を持っていると言いますけれど、全世界的な、全宇宙的な真実性ではあり得ないのです。

私が言いたいのはいわゆる宗教思想の批判ではありません。また、現代文明の批判でもない。自分から出たものを語る者は、自分の栄光を求めるのですが、それは間違っていると言いたいのです。

すべての人間の思想、人間の宗教は人間の感覚から出たものです。それぞれ人間自身の都合のよいことを述べているのです。それが真実ではないと言いたいのです。

自分から出た理屈を語る者は、自分の栄光を求める。人間から出た理屈を語る者は、人間の栄光を求めるのです。

栄光を求めるというのは、人間自身が幸いになること、人間が救われること、人間の生活感覚で合理的であると思えること、人間にとって妥当と思えること、また人間にとって幸いであることを求めている。こういうことが自分の栄光を求めるということです。

「自分から出たものは自分の栄光を求めるものだが、それは真実ではない」とイエスが言っている。この点にご注意を願いたいのです。

人間が現存在の真実を求めるということは、非常に難しいことです。人間としては大変難しいことです。難しくてもどうしてもしなければならないことです。これは人間の魂がこの世に出てきたということの唯一の目的ですから、しなければいけないことです。

真実を求めるということは、どうしてもなさねばならないことだということをまず十分に考えて頂きたいのです。

難しいからしなくてもいいということではない。そういう難しいことは、とても自分ではできないというような弱虫的な考えを持ってはいけないのです。

魂がこの世に人間として現われてきて以上、どうしても真実を知るということは、なさねばならないことです。もしそれをしなければ、その責任を必ず負わせられることになるのです。

これは難しいと言えば難しいのですが、人間自身の立場に立って、人間自身の立場に執着している状態で真実を求めようとするから難しいのです。

イエスの言葉を聞いてみますと、「自分を遣わされた方の栄光を求める者は真実である。その人の内には偽りはない」と言っているのです。

これを英訳で直訳的に見ますと、彼を遣わしたことの彼の栄光を求めることは真実だ。もし人間が自分を遣わした方の栄光を求めるとすれば、それは真実と同じであるとなるのです。

人間がこの世に肉体を取らされたことを遣わされたと言っているのです。遣わされたというのは、神によって遣わされたのですが、自分をこの世に遣わされたお方の栄光を求めるとすれば、それは真実そのものであるとなるのです。人間は自分で生まれたいと思って生まれたのではない。自分を遣わしたお方がある。神があって人間があるのです。そこで神ご自身の栄光を探し求めるとすれば、その態度は真実そのものであるという意味です。

これは自分が良くなるか良くならないかではない。また人間が幸福になるかならないかではない。神ご自身の栄光、神ご自身の栄光が何であるかを勉強することが、真実を勉強することなのだという意味なのです。

ところが人間の学問でも宗教でもすべて皆、人間にとって自分の栄光はどうすれば与えられるのか、人間が幸せになるためにはどうすればいいかと考えるのですが、これは不義です。偽りそのものです。

神の栄光、神の御心、神の栄が何であるかを求めることが、人間存在の本当の栄を求めることになるという意味でありまして、人間が考えている人間の栄、人間の幸福というものは、本当の幸福ではないのです。

私たちは現象世界へ出てきて、存在の本質とは何であるか。私たちが生かされている客観的な事実は何であるか。神とは何であるか。私たちを生かしている力、命とはどういうものであるかを知るために生かされているのです。

現在生きている人間を幸福にしたい、人間の栄を考える。人間の合理性、人間にとっての幸せを考えるということになりますと、これは結局、現象的な幻を実体だと考え込んでいることになりまして、これが偽りの根源になっているのです。

現世に生きていることだけが人間ではない。現世に生きているのは、魂としての幻であって、これはけっして本当の人間存在ではないのです。人間の存在の本質、本性そのものではないということを、繰り返し繰り返し、いつでも考えていなければならないのです。

自分自身が現世に生きているということを合理化しようというのではなくて、現世に生きている自分自身の存在を越えて、ある場合には自分の現世的な存在を無視して、それを越えて、神の御心、神の栄、神の栄光が具体的に現われることを捜し求めるし、またそれを実現するべく求めるのです。

ここにおいて初めて真実であると言えるのです。真実そのものであるというのは、人間の考え方は神の栄光を求めたとしても、人間の考え方そのものが真実だというのではないのです。

人間の現世における考え方は一切真実ではない。例えば、ナザレのイエスの考え方であっても、真実そのものではないのです。真実と同意、同質のものとは言えるけれども、真実そのものではないという微妙な言い方をしているのです。

これは父なる神に対するイエスの謙遜であると言えるでしょう。しかしこれはただの謙遜ではなくて、本当です。肉体を持っている人間は、イエスにしても私たちにしても、どんなに真実だと考えてもそれは肉体を持っているという条件における真実であって、神そのものの真実だとは言いがたいのです。

真実とは、肉体を持っていないものの、真実でなければならないのです。肉体を持っていないもの、神ご自身の真実を、肉体を持っている人間の立場から捉えようとすれば、神ご自身の栄光を捜し求めることをしなければならないことです。

神の栄光とは何であるか、神の栄が何であるかが第一、その次には神の栄がどのようにして地上に実現されるのか。実現されるべきであるのかということが第二になるのです。

神の栄光の本質とその栄光の顕現の二つの問題を探求するということにおいて初めて、一切の顛倒夢想を遠く離れたという言葉の意味に価値が生じてくるのです。

ただ一切の顛倒夢想を離れたというだけではいけないのです。離れてどうするのかということです。人間の迷いから離れて、その人はどうなるのか、どうするのか。イエスが言うように、一切の顛倒夢想から離れることにおいて初めて、神の御心、自分を遣わした方の栄光を求めることができるのです。

単なる涅槃を究竟するのではなくて神の栄光を究竟すること、ここにイエスの面目が躍如として現われているのです。これが釈尊とイエスとの違いです。

涅槃を究竟するという考え方は、人間本意の考え方になるのです。涅槃を究竟することは、現象世界の人間の存在を空であると認めるのですから、これは結構なことには違いありませんが、私たちは空を知るためにこの世に出てきたのではなくて、神を知るためにこの世に出てきたのです。

命を知るためにこの世に出てきたのです。空を見るためではない。または私たち自身を合理化するために、人間存在を合理化するために肉体を取って生まれてきたのではない。

自分の栄光を求めることもないし、また自分の空を認識することでもない。神の栄光を求めること、永遠の真実、とこしえの命の実体を捉えることが目的なのでありまして、私たちは人間としてどんなに合理性があろうとなかろうと、または人間的にいかに解脱徹底した思想状態になれるとしても、それは人間的に徹底している、人間的に合理性であるというだけのことであって、神ご自身の立場からの永遠の合理性、永遠の真実性ではないのです。

これは宇宙的な角度、無限の角度から見れば、偽りであると言わなければならないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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