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  • 管理人chaya

世の光


イエスは「私は、この世にいる間は世の光である」と言っています(ヨハネによる福音書9・5)。イエスが受肉した形でこの世にいる時は、イエスが世の光になっているのです。天へ帰れば天の光になるのです。

目に見える形でこの世にいる時には、目に見える形の光になるのです。目に見える形の光とはどういうことかと言いますと、私を遣わしたお方の業を行うことが光です。イエス自身を遣わしたお方の業を行うとは、父なる神がイエスを生かしておられるという業です。その業をそのまま生きるのです。

父が自分を生かしておられる。その生かされ方をそのまま生きる。これが父の業をそのまま現わしているのです。これが世の光であるということです。

イエスは父の業の媒体にすぎなかった。イエスという固有人格があったのではない。イエスという人間が特にいたのではない。父の業がそのまま彼を通して現われる媒体にすぎなかったのです。

神が光であるように、媒体にすぎない彼は世の光になったという意味です。神が万物を照らし、万物を生かしておられる。万物を生かしておられるという、大日如来の遍照金剛のようなもののセンスが人間として現われていた。これがイエスです。

このイエスが遍照金剛そのものを現わしている。彼の生き方が、そのまま光そのものの生き方を現わしている。だから私が生きている間は世の光だと言っているのです。

皆様の場合もこうなるのです。かつてイエスが世の光であったように、皆様が今生きていることが、世の光となるべきなのです。

「命の言葉を保ちて、光のごとく世に輝けり」とパウロが言っています。これはイエスが、「私は世の光である」と言ったのと同じことを言っているのです。

人が光と思っても思わなくても、どちらでもいいのです。自分自身が神の業を行っていれば、その人自身が自ら神の媒体になっているのです。神の命の媒体になっているのです。これをしなさいと言っているのです。

神のわざを昼のうちに行わなければならない。すべての人はそうしなければならないのです。その光がイエスです。

すべての人間は、神が人を生かしている状態をそのまま生きなければならないのです。もしそのまま生きないとすれば、神に逆らっていることになるのですから、当然刑罰を受けなければならないことになるのです。

すべての人間は神の媒体です。イエスが神の媒体であったように、すべての人間は神の媒体です。固有的人格は神の前には通用しないのです。私たちを神の媒体として見るのです。世にいる間は世の光になりなさいと言っているのです。

これは何でもないのです。生かされている状態をそのまま見ればいいのです。そうすればそのまま媒体になるのです。

人間はただ生かされているというだけのことですから、自分がかれこれ注釈を加える必要もないのです。人に分かってもらおうと思うこともないのです。分からせたいという心はあった方がいいのですが、分かるか、分からないかは他人のことですから、他人に任せたらいいのです。神はご自分を分からせたいと思うから人を生かしているのです。

神が人間をこの世に生かしているということ自体が、神を本人に分からせたいし、またその人を通じて他の人にも分からせたいのです。また人間だけでなくて天地万物に分からせたい。天使に分からせたいと思って、神は人間を生かしているのです。

ですからこの神の御心に従って、私たちは世の光として生きると共に、そのことを人にも、万物にも知らせようと考えなければならないのです。

その時、その人が生きているということがそのまま世の光になるのです。神が肉体をもって生きているのと同じ意味になるのです。

人間の場合は非常にスケールが小さいです。神のように全天全地に満ちるようなものではありません。一個人は本当に吹けば飛ぶようなものです。そういう格好で神が生きているのです。こういうことを、イエスは世にいる間は世の光だと言っているのです。

この言葉を別の言い方で考えますと「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3・3)という言葉になるのです。

私たちは新しく生まれなければならないのです。そしてイエスが世の光であるように、私たち自身が世の光でなければならないのです。

イエスが「あなたがたは世の光である」と言っているように、聖書を学んだ者は、世の光となるべき者なのです。イエスが世の光であるように、私たちも世の光となるべきなのです。

そのためには、固有の人格があってはいけないのです。私たちは客観的には固有の人格はありますけれども、主観的に自分自身の固有の人格があると考えてはいけないのです。それを考えると、たちまち悪魔になるのです。人格があるのは神だけです。人格それ自体が神です。だから神以外に固有の人格があるはずがないのです。

神が人間存在として現われている。これが、人間が存在しているという事柄です。存在しているという事柄自体が神です。

自分という固有の人格があると思っていた状態から見ますと、世の光である自分を自覚すること、神の媒体として生かされている自分を自覚することは、新に生まれることになるのです。

自分という固有の人格で生きていた者が、自分は固有の人格ではない、神の媒体なのだという感覚で生きることになりますと、新に生まれたことになるのです。

従って自分の生涯の人生計画とか、家族に対する自分の責任とか、自分の健康問題とか、自分の行く末のこととかは一切考えてはならないのです。考える必要がないのです。自分のことを考える必要がないのです。それを考えることは、自分に固有の人格があると思うことになるのです。

私たちは神の命がそのまま現われて生かされているのですから、私たち自身の固有の人格がなければならないと考える理由はどこにもないのです。全くどこにもないのです。

そのように考えて、自分自身の本質に帰ることです。御霊によりて生かされているのだから、御霊によりて歩むべきです。私たちは神によって生かされているのですから、神の媒体として生きるべきです。これは当たり前のことです。

そうしますと、一切の行き詰まり、人生の矛盾はなくなってしまうのです。自分の人生を自分のものだと考えて責任を持っていますと、ピンからキリまですべて自分が責任を負わなければならないことになるのです。本当に自分が人生の責任を持とうと思ったら、とても難しいのです。

自分の人生の責任を持とうとしても持てないのです。結局、責任を持っても持たなくても同じことになるのです。人間が生きていることは、流れていることだけです。流れているのですから、流されていったらいいのです。これが一番安全な方法です。

新に生まれるというのは、自分の生活、自分の魂から一切手を引くのです。神の媒体ですから喜怒哀楽を一切問題にしなくてもいいのです。人に歓迎されようがされまいが、どうでもいいのです。神の媒体としての役目を果たせばいいのです。毎日毎日、忠実に仕事をしていればいいのです。そうすれば勝手に神の媒体になれるのです。それだけでいいのです。

利害得失を全く考える必要がないのです。ただなすべき事をしていればいいのです。これが新に生まれることです。ただ固有の人格を無視してしまって、神の媒体としての新人格を認めることさえできれば、その人の運命は新しくなってしまうのです。

「昼の間に仕事をしなければならない」と言っています。昼の間は万物が見えているのです。昼は万物がありありと目に見えますが、夜は真っ暗ですから見えないのです。

物が見えなくなるというのは、神が見えなくなるということです。昼の間、万物が見えているということは、神の働きがそのまま見えているということです。

昼というのは、人間が肉体的な命にある間をさしているのです。肉体的な命がある間は、神の働きが目に見えているのです。だから神の業が行えるのです。

夜が来たら神の業が見えなくなる。だからできない。これは死んだら神の業ができないことを意味しているのです。

生きている間は、五官の活動によって神に生かされているという事実を直感しています。だからそれをそのまま生きることができるのです。神の働きが、昼の間は目に見えるのです。

生かされているということは、具体的に神の働きを今、実感しつつあることですから、これも神が目に見えると言えるのです。

そこで昼の間に、神が見えている間に、神に生かされているという実感がある間に、神の業をなすべきだと言っているのです。

従って、死んでから天国へ行けるという考えは、根本から間違っているのです。生きている間に天国へ行かなければならない。生きている間に神の業をなさなければならないのです。

生きているということにおいて、はっきり神を証すことです。神の媒体として生きることです。これが昼の間に業をすることになるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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