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  • 管理人chaya

異邦人


聖書を勉強しても信仰が順調に板につかない。いっこうにものにならないと感じている人が多いでしょう。ものにならないということに本当に気づいている人は、必ずものになる人です。

ものにならないという言い方でも、頭で言っている場合と心で言っている場合とがあるのです。

自己批判と言っても、頭だけの自己批判があり得るのです。「心に信じて義とされる」とパウロが言っていますように、自己批判であっても、心からのものでなかったらだめです。

本当に信仰が実感になるというのは何であるのかと言いますと、心から信じられる状態を実感と言うのです。心から信じられますと、それは自動的に生活感覚になるのです。

心から信じていないものは生活感覚にならないのです。従って自分自身でも非常にはがゆいようなことなるのです。これではいけないと思いながら、自分で納得できる信仰が自分で持つことができないのです。

これについてはいろいろな理由があるでしょう。分かり切ったことのようですが、異邦人であるということを、もう一度考えていただきたいのです。

アブラハムが神に約束を受けた時は、まだ約束の民ではなかったのです。異邦人でした。私たちと同じ条件で生きていたのです。

そのアブラハムが約束を受けたのです。約束とは何であるかということです。約束とは御霊です。逆に言いますと、御霊とは約束のことです。

神の約束それ自体が希望であると同時に、エネルギーでもあるのです。神の約束が時間と空間を構成している原理になっているのです。

時間とは何か、空間とは何か。これは一つのものです。こういうことがなかなか分からないのです。時間が約束によって成立しているのです。空間は時間がなくては成立しないのです。時間もまた空間なしでは成立しないのです。

時間とは何か、空間とは何か、これが現在の人間文明では分かっていないのです。異邦人の頭というのはその程度のものです。

東北大学の某教授が時間について書いていましたが、全然分かっていないのです。時間については、カントもニーチェも、オーガスチンも、ベルグソンも分かっていません。できるだけ説明しようと努力をしていますが分かっていないのです。アリストテレスもいろいろ考えていますが、分からなかったのです。約束が分からない人が、時間が分かるはずがないのです。

聖書に「御使いを風とした」とあります(ヘブル人への手紙1・7)。これが何のことか分からないのです。実はこれは時間と大関係にあるのです。こういうことが異邦人には全然分からないのです。新約の時代というのが根底から分かっていないのです。

聞けども悟らず、見れども認めずというのが人間の頭です。異邦人はそういうものです。現世に生きていて死んでいく人間です。人間は死ぬと思っている。これが全部異邦人です。

自分が死んでいくという実感がなくならなかったらだめです。自分が死ぬだろうと思っている間は、まだ福音が分かっていないのです。とこしえの命の実体を実感的に持っていないからです。この状態で人に話してもさっぱり力が入らないのです。

私たちは本当に死なない命を実感していなければならないのです。すでに神はそれを与えているのですが、私たちがそれを受け取っていないだけのことです。

異邦人の感覚というのは、現世に生きているという感覚です。現世に生きているという感覚というのは、人間の知識、常識に基づいて物を考えている状態です。これが異邦人です。

これは異邦人であると同時に、アダムの子孫です。原罪人間です。これは絶対に救われません。過ちを改めるに憚ることなかれと言われていますように、間違いであることを認定してその間違いを捨てさえすれば、何回でも許されますけれど、間違い続けてあやまり続けていますと、結局分からないままに死んでしまうことになるのです。

その人が地獄へ行くのはいいとしても、イスラエルに福音を伝えることはできません。イスラエルに伝道しようと思ったら、全く現世から離れてしまって、神の国に入っている人間でなかったらできません。イスラエル伝道ができないような人間なら、聖書を学ぶ必要はありません。

神の国に入ってしまって考える。これが新約のあり方です。新約時代というのは、現に神の国が来てしまっているのです。現世が現在あるがままの状態で、神の国が来ている。これが新約の時代です。

旧約のような状態のままで、神の国が来てしまっていることが新しい約束の時代です。この原理が分からない人はだめです。

自分の思いをはっきり捨ててしまうことです。「古き人を脱ぎ捨てて」(エペソ人への手紙4・22)とパウロが言っていますが、古き人を脱ぎ捨てて考えられるようになることです。

古き人を本当に脱ぎ捨てて考えることができるようになりたいと本当に思える人は、御霊が助けてくださるのです。御霊の助けがあるに決まっているのです。

そうなりたいと思うことが御霊の思いです。この思いがあれば助けられるに決まっています。これはローマ人への手紙の八章の御霊の思いという所を見ればよく分かるのです。

異邦人は現世があると思えるのです。釈尊でさえも考えていた色即是空ということが、イエスを信じているつもりの皆様にはまだ分かっていないのです。

アブラハムの約束を全く知らない釈尊でさえも、色即是空を実感していたのです。イエスを信じようと考えている皆様は、まだ釈尊の所まで行っていないのです。恥ずかしいことだと思わないのでしょうか。

般若波羅蜜多でなければだめです。彼岸へ渡っていなければだめです。こちらの岸に立ってあれこれ言っているようでは、神の助けにはならないのです。

考え違いがあってもいいでしょう。それを悔い改めるかどうかが問題です。

新約時代というのは旧約のままで、神の国が来てしまっているのです。千年王国と旧約時代の中間に位するのが新約時代です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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