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  • 管理人chaya

存疑評決


山上の垂訓はマタイによる福音書の第五章から始まっていますが、第五章の三節から十節までに、九つの幸いについて説明しています。

幸いとはどういうことか。イエスは「ここの貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」と言っているのです。以下八つの幸いについて述べています。

これはキリスト教では九福と言われている所です。さいわいであるという言い方は、一つの詩です。詩文です。詩の調子で現わされているのです。非常に芸術的な表現法です。

これはちょっと読んでも、何のことか分からないのです。

十一節以下の山上の垂訓の言葉は詩的ではなくて、叙事文的になっています。事柄そのものを述べるという形になっています。

三節から十説までは事柄を説明するような形にはなっていないのです。極めて直感的な、詩的な、文学的な詩または歌のような表現になっているのです。ダビデの詩篇のような感覚がにじみ出ているのです。

この中に「義に飢え渇いている人はさいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう」とあります。

文語訳的では「飢え渇くごとく義を求める者はさいわいである」となっています。これは英訳でも義をどこまでも求めるという意味になっています。

義に飢え渇くということは、義とは何かということを追い求めることを言うのです。そうする人は幸いだと言っているのです。

一体義とは何であるのか。義は何をさしているのかと言いますと、天地が存在する意義、または本義を意味するのです。これはもちろん人間が存在している意義にもなります。

天地が存在している真義、本義というものは、そのまま神の義が現われているのです。神の義というものは、命そのものを論理化したようなものです。これは非常にレベルの高い合理性、論理性を持っているのです。

人間が考える合理性や論理性ではなくて、神の合理性、論理性が天地万物のたたずまいにそのまま現われているのです。

神の論理性が命です。人間の命というのはすばらしく高い論理性と合理性を持っているのであって、これを飢え渇くように追求する、探求する人はさいわいな人です。

義を探求するということは、無限無窮と言えるようなものを探求することになるのです。無尽蔵の真理を探究することになるのです。

従って宇宙の本義、神の本義を全部知り尽くすことはできません。わずか八十年、九十年の人生で、神の義を知り尽くすことはできないのです。

しかし神の義の本当の正体はここにあるということは、分かるのです。神の義の本体はこれだということが、はっきり分かることはあり得るのです。

そのような境地に到ろうと考えることが、義を飢え渇くごとく義を慕い求めることになるのです。義を求めるというのは、義を慕い求めるという意味です。慕うというのは恋する心の現われです。自分の心に嘘や偽りがあったのでは、慕うことはできません。

世間一般の人は義を求めていないのです。義を慕っていないのです。いいかげんに生きているのです。これを存疑評決と言います。疑いを持ったままで評決しているのです。

例えば地球は何ために造られたのか分からないのです。分からないけれども地球はあるものだと思い込んでいます。地球が自転公転している速度がどれだけとか、地球の重量はどのくらいあるとか、そういうことばかりを言っているのです。これは皆存疑評決です。

地球が存在していることを、疑っているままの状態で鵜呑みにしているのです。これがおかしいのです。太陽系宇宙の中で地球は全く特殊な存在です。太陽系宇宙というものが、銀河系の中で特殊な宇宙を造っているのです。

まだ現在では説明できませんが、宇宙線の集中の状態、地球に強力な電場と磁場が存在している状態は、地球以外にどこにもありません。

どうして地球にだけこのような特殊現象があるのか。火星や金星には動物は一匹もいません。動物どころか植物も全くありません。地球には動植物があふれているのです。こういう特殊現象はどうして起きたのか。

地球にだけどうしてこのような森羅万象があるのか。生命現象が満載されているのか。こういうことを学者は、真剣に検討しようとしていません。現在の地球をただ鵜呑みに肯定しているのです。

人間の学問の基礎は何かというと、存疑評決です。例えば人を殺してなぜ悪いかということを今の刑法では説明できません。豚や牛を殺したら月給がもらえる。人を殺せば犯罪になるのです。

人を殺して犯罪になるのなら、広島に原子爆弾を落として一瞬にして十四万人の人が惨殺されて、なぜ犯罪にならないのでしょうか。

一人の人間の命は地球よりも重いと言います。地球よりも重い人間を十四万人も殺しても犯罪にならないのはなぜでしょうか。むしろ、戦争では人を多く殺す人が英雄になるのです。敵も味方も同じ人間です。地球よりも重い人間の命を十四万人も奪い、その後もたくさんの人が放射能の後遺症によって死んでいきました。

人を殺してはいけない。人を殺したら必ず罰せられるという刑法があるのに、第二次世界大戦で二千万人の人が殺されました。このことを現在の法律学者は納得がいく説明ができるのでしょうか。

法律学も経済学も、政治学でも自然科学でも、すべて人間の学問が考えることの根本原理は何であるかというと、存疑評決です。真実が分からないままに何となく生きているのです。何となく評決しているのです。

世間一般の人が評決しているのです。伝統とかしきたりとか、申し合わせとか習慣とかに頼って生きているのです。なぜそういう伝統があるのか。なぜそういう習慣があるのか。何となくそうなっているのです。

存疑評決という極めてあいまいな状態で学問ができているのです。人間は皆これで満足しているのです。だから飢え渇くように義を求めないのです。

飢え渇くように義を求めるというのは、存疑評決に満足しないことです。世間並みの考え方に満足しないことを言うのです。

マルキシズムの場合でも、物がなぜ存在するかということを究明しようとしていないのです。物が弁証法的には存在するということは言っていますけれど、物がなぜ存在するのか。物とは何かについて全く説明していないのです。

物に対する根本的な概念を究明しようとしないで、ただ物が弁証方的に存在する。これが唯物史観の原点です。マルクスの思想は存疑評決を踏まえているのです。存疑評決の上に立っているのです。

哲学も科学も、芸術も宗教も同様です。神とは何かが分からないままに神を信じている。人間が死んでいくというのはなぜか。存疑評決を信じているからです。存疑評決というあやふやなものをのみ込んでいるからです。

自分自身の存在をあやふやなままにのみ込んでいるのです。人間の魂が地球上に現われてきたという厳粛な事実を、究明しようとしないのです。

一体何のために人間が生まれてきたのか。人間とは何か。これが宇宙の義です。人間とは何かというより地球とは何か。一匹の犬がいたら、犬とは何か。または松の木とは何かということです。

とにかく何か一つを徹底的に究明すると、宇宙の真相が分かるのです。ところが、これをしないのです。

人間には目の前に究明しなければならない材料が、山ほどあるのです。それを究明しようと思えばできるのです。

科学ではだめです。科学的にいくら究明しても、科学そのものが存疑評決ですからだめです。社会通念、学的理念によっていくら追求してもだめです。

最高裁判所でも、社会通念においてはこのように考えられているから、本件はこうであると評決を下すのです。社会通念を基礎にするくらいなら、法律、法律と言わなくてもいいのです。

裁判の判例は、その時の世の中の流れ、時代の流れによって、その内容が変わってくるのです。犯罪に対する評価が変わってくるのです。

そういうあやふやなことをしているのであって、法律は社会通念を信じている。社会通念は法律を信じているのです。どちらも当てにしているのです。頼りない者どうしがお互いに相手を当てにしているのです。

人間はこういう世界に何となく生きているのです。この何となく生きていることをやめなければいけないのです。

若い人々は正直ですから、こうしたことに承知できないのです。何となく鵜呑みにすることに承知できないのです。そこで極端に現体制否認という格好になるのです。暴力や爆弾を使って社会を破壊しようとなると、これはちょっと行きすぎです。こんなことをしても存疑評決がどうなるものでもないのです。

地球全体を破壊しようというのなら、これはおもしろいかもしれないのですけれど、そうしなければ人間の存疑評決をどうすることもできないのです。

人間文明はこういうものです。あやふやをあやふやのままにしておくのです。そして何となく分かったような顔をしているのです。これをアダルトというのです。

アダルトは大人ということです。アダルタラスになりますと、邪悪、姦淫になるのです。アダルトという言葉が姦淫の原義になっているのです。

大人の思想はすべて姦淫の思想です。人間は人間どうし姦淫しあっているのです。これが存疑評決です。お互いに姦淫しあっているのです。

あの人がこうなら私もこう、私がこうならあの人もこうと、お互いに真似をしているのです。人間は全くあやふやな存疑評決を踏まえて生きているのです。

聖書は何と言っているか。現世は火と地と煙のけであると言っているのです。火というのは神が一切を焼き尽くす火です。人間の世の中の根源は火です。

血は一人子キリストを十字架につけた血の報いです。これが現世に対して厳然とあるのです。

もう一つは煙のけです。人間文明の基本要素が煙のけです。存疑評決です。文明を組み立てている根本の通念が存疑評決です。あやふやな状態のままで何となくそう決めているのです。

こういう状態が人間存在の土台になっているのです。これをはっきり指摘する人間がいないのです。宗教も科学も哲学も皆ごまかしたままでいるのです。

神はあるものだから信じなさいと言っているのです。神とは何か。神の本体は何か。神の実質は何かを究明しようとしないのです。何となく信じている。全く茶番狂言です。

神の実質、実体を究明しないで、神を信じていると思っていることは神を侮辱していることになるのです。それなら神を信じない方がいいのです。

神の実体を究明しないままで神を信じているというのは、神を侮辱しているのです。こういう状態で宗教は成り立っているのです。

仏とは何か。これも分からないのです。仏の実体が分からないままで、仏を拝んでいるのです。これは神や仏を全く侮辱する行為です。侮辱するくらいなら、初めから信じない方がいいのです。

今の全世界の人間の基礎になっている概念は、存疑評決であるとはっきり言いたいのです。まず皆様自身がこのことを承知していただきたいのです。そうして飢え渇くように義を求めていただきたいのです。

現世には墓があります。墓があるのは当たり前だと思っているのです。唯物史観の本山であったモスクワでさえも、レーニン廟、スターリン廟という堂々たる神社仏閣のような墓があるのです。名所旧跡の観光地になっていて人々が訪れるのですが、こういうものがあるということは、唯物史観の恥です。共産主義国家であった国に、なぜレーニン廟という墓がいるのでしょうか。死んだ人間をなぜ尊敬しなければならないのか。これが存疑評決を示しているのです。

共産主義が存疑評決なのです。そういうあやふやな概念を持っているのです。

だいたい、墓はこの地球上に必要ないのです。もし人間自身の実体を信じるなら墓はいらないのです。

ナザレのイエスが本当の人間存在の姿を現わしたのです。イエスには墓が必要ではなかったのです。

ところが人間は墓が必要だと思い込んでいる。なぜそう思うかと言いますと、死んだら墓に入らなければしょうがないと思う。これは皆存疑評決です。

そういうあやふやな常識を人間は呑み込んでいるのです。そういうあやふやな状態で生きているから死ぬのです。命の本質を究明せずに生きているから死ぬのです。

命の本質とは何か。義です。命の本質は義です。宇宙の本質は義です。神の義の他に義はないのです。

家の外に墓がある。墓の横に家がある。生きている人間と死んでいる人間が同居しているのです。これが現世の人間の姿です。

世間一般の人間は、生きている形はあるが実は死んでいるのです。生きている形はあるが、実は死んでいるという妙なことになっているのです。なぜか。義を求めていないからです。

そこで皆様は飢え渇くように義を求めていただきたいのです。義を追求していただきたいのです。

人間はなぜ人間であるのか。地球はなぜ地球であるのかということが、地球の一番大きい謎です。地球がなぜ地球であるかということが分かりますと、現世における矛盾はほとんど解決してしまいます。

「天地が滅びゆくまでは律法の一点、一画もすたることはない」(マタイによる福音書5・18)とイエスが言っていますが、天地と掟とは重大関係にあるのです。

存疑評決という概念で生きていることが困るのです。はっきりしないままで何となく聖書を信じている。御霊の導きを本当に崇めようとしないままで、何となく御霊を受けている。これがいけないのです。

神経質になる必要はありませんけれど、もう少し忠実に人生を見つめていただきたい。女は女であるということは何であるかをじっと見つめるのです。男は男であるということが何であるかを見つめるのです。

そういう本質的な問題を究明しようとしないままで聖書を読んでいることは、飢え渇くように義を求めていないことになるのです。

皆様がもし飢え渇くごとく義を求めようという気持ちを本当に持ったら、その人はすぐさいわいになるのです。義の本体が分からなくても、とにかく飢え渇くごとく義を求めなければならないという気持ちになっただけでも、その人はさいわいです。

存疑評決でごまかしていたらいけないのです。世間の常識、社会通念で生活しているのは最も悪いことです。現世の教育概念で生きているのは悪いのです。

そこでさいわいになりたければ、義を求める気持ちになることです。義を求める気持ちで商売をすることができます。義を求めれば求めるほどまじめになります。社会的な信用もできるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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