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  • 管理人chaya

心の深み


人祖アダムが罪を犯したのです。アダムが罪を犯したから死んだのです。善悪の木の実を食べたら必ず死ぬと言われた言葉のとおりに、アダムは罪に陥って死んだのです

ところが、これはいわく言い難しと言わなければならないような非常に深いニュアンスがあるのです。

まずアダムをエデンの園に置いたこと、そこでアダムが失敗した。それから彼の前に多くの生き物を連れてきた。それも失敗した。そうして今度は深く眠らせて女を造った。女を目の前に見せた。これでまた失敗したのです。

女を連れてきて失敗したことが、人間の決定的な失敗になってしまったのです。これで陥罪が成立したのです。陥罪が成立したというのは、妙な言い方になりますが、そう言わざるを得ない状態になったのです。

例えばエホバ神は東のかたエデンに一つの園を設けて、造った人を置いたとあります。東のかたというのは原語では、日の出る方に置いたとなっています。日の出る方に置いたということは、天地創造の雄大さ、神自身の働きの無限の高大さを悟らせようという御心であったに決まっているのです。

エデンというのは、完璧無類のパラダイスでした。しかもパラダイスを日の出の方向に置いたのです。この言葉だけで、神の御心が歴々として読み取ることができるニュアンスを持っているのですが、それに失敗したのです。

人間は一人で黙想して考えることができないのです。人が一人でいるのは良くないと神が言われて、野のすべての獣と、野のすべての鳥を連れてきた。この中にアダムの助けは見つからなかった。

助けというのは何か。神を知るため、とこしえの命を発見するための助けを意味するのは明らかです。これが見つからなかった。そこでアダムを深く眠らせて、あばら骨の一つを取って女を造った。

その女を連れてきたところ、アダムは女の外形を見て、骨の骨、肉の肉と言って賛嘆したのです。賛嘆したのはそれなりの理由があったからでしょう。賛嘆したところを見ると、アダムは女が造られた理由、女の本質、特に女の形に現われた神の御心を知ったのです。

知って賛嘆したのですが、そこに微妙な点があるのです。女が分かったから賛嘆したのですが、それが本当に分かったかというと、分かっていなかったのです。賛嘆したことはしたが、本当に分かっていなかった。これは神の御霊を褒めたけれど、自分自身の心の深みにおいてまで褒めることはできなかったのです。

このことをパウロは、エペソ人への手紙の四章二十三節で、「心の深みまで新にされて」と言っていますが、アダムは心の深みまで分からなかったのです。

頭で分かったと言っていても、心の深みまで届かなければ自分の命にはならないのです。御霊を受けられない人は、ここに行き止まりがあるのです。

アダムは女の形を見て、「これこそ、ついに私の骨の骨、、私の肉の肉」と言ったが、心の深みにまで届いていなかったのです。

なぜ心の深みにまで届いていなかったのか。神はこのアダムの態度をじっとご覧になっていて、神は本当に心を痛め、もどかしい思いをなさったのでしょう。

困ったことには、神の側からの人間創造が理解できたということだけでは、実は本当の神の業は分からないのです。

イエスの目の前に盲人が連れてこられて、「これは本人の罪によるものですか」とイエスに聞いたところ、「本人の罪ではない、神の業がこの盲人に現われるためだ」と言っているのです。親の罪でもないし、本人の罪でもない。神の業が本人に現われるためだと言っているのです。

神の業が現われるためには、その人自身がまず盲人であることが必要です。盲人でなかったら神の業が現われないのです。

ヨハネによる福音書の第九章の終わりの方で、イエスは「わたしがこの世に来たのは裁くためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」と言いました。そこに一緒にいたあるパリサイ人たちがそれを聞いてイエスに言った、「それでは私たちも盲人なのでしょうか」。

イエスは彼らに言われた。「もしあなたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし今あなた方が『見える』と言い張るところに、あなた方の罪がある」(9・39〜41)。

パリサイ人は、「私たちほど旧約聖書に通暁している者はいないでしょう。私たちほど掟に通暁している者はいない。この私たちを盲人と言うのですか」と聞いた。イエスは、「あなた方は目が見えていると思っている。これがおまえたちの罪だ」と言ったのです。

私たちが伝道しなければならない理由はここにあるのです。盲人は目明きとされる。ところが目明きは盲人とされるのです。

何か自分で分かっていると思っている人は、分かっていない証拠です。

エデンにおけるアダムはパリサイ人ほど悪質ではなかったのです。

しかし神の業を目で見たので賛嘆したのですけれど、心の深みにまで神の業の意味を留めることができなかったのです。

「私の言葉があなた方のうちに留まらないので、あなた方は、私を殺そうとしている」とイエスは言っています(ヨハネによる福音書8・37)。イエスの言葉が人間自身の中でフリーコースを取らないから、人間はイエスを信じようとしていないと言っているのです。

イエスの言葉が私たちの中で、フリーコースを取ることです。私たちの中でイエスの言葉が自由に働くことです。これが御霊を受ける、また御霊に満たされる、またキリストの花嫁の備えを全うするための条件になるのです。

イエスの言葉が私たちの中でフリーコースを取ること、自由に働くこと、育つこと、伸びることです。

ところがアダムにはこれがなかったのです。なぜかと言いますと、アダムは目明きだったからです。彼はエデンにおいて罪人ではなかったのです。

罪人でなかった者には、神の御業のニュアンスが分からないのです。女の本当の良さが分からないのです。

ところが困ったことに、罪人には女の良さが分かりすぎるのです。分かりすぎるから困るのです。そこで女が躓きになるのです。

女は神が与えた助けではあるのですが、これを正しく理解することが難しいのです。女を卒業できたらキリストの花嫁の備えが全うできるであろうと言えるのです。

女人だけでは往生しないのです。夫が成就しなければ妻も成就しないのです。女人だけでは往生しないからです。

女に対する理解の仕方によって女が本当の助けになるか、地獄行きの助けになるか、微妙な所があるのです。

アダムは心の深みにまで神の業を受け止めることができなかった。

ところがアダムと女(エバ)は、二人とも裸であったが恥ずかしいとは思わなかったのです。裸にして恥じざりきという状態はセクシィーではなかったのです。セクシィーではなくてこれはすばらしいとアダムが言ったとすれば、アダムが神の御業を賛嘆した意味が分かるのです。

裸にして恥じざりきで、女がすばらしいと見えたということは、ウーマンボディーのすばらしさをアガッペー(神の愛)の譬として見たから分かったのです。アガッペーの譬とは、本当にすばらしい譬です。

これ以上の助けは人間にはないはずです。これ以上の助けはないという最高の助けを、神はアダムに見せたのです。それが分かったのですが、心の深みまでは留まらなかったのです。

裸にして恥じざりきという状態で女のすばらしさが分かったとすれば、これは非常に高い次元で女を見たことになるのです。今の男のような助平次元で女を見ていたのではないのです。しかしアダムは心の深みにまで女が分からなかった。

そこで神はへびが女に語りかけるのを、黙って見ていなければならなかったのです。へびが女に語りかけるのを、神が知りたまわなかったのかというと、こんなバカなことはないのです。女がへびに言われて善悪を知る木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思えてきて、陶然とした目つきになってきた。これを神は知りたまわなかったのかというと、当然知っておられたのです。

問題は、女がどうして陶然とした目つきになったのかということです。善悪の木の実を取って食べてはいけないと、女自身は言われていなかったからです。アダムは言われていたのです。しかし女は言われていなかったのです。

ここが問題です。女はへびに言われて、とろんと目尻を下げたのです。賢くなるために好ましい木に見えたのです。慕わしい木に見えたのです。

神がへびと女の会話をお聞きになって、女の顔つき、目つきをご覧になって、なおそれをじっと見ておられた。全知全能の神がじっと見ておられたのはなぜか。

女は実に皮肉な助けになったのです。女が助けとなったというのは、女の存在が直接的に助けとならないで、彼女が堕落したことが助けになったのです。

しかもこの女の堕落には、もっと大変なことがついて回っているのです。まず女が純性を捨てたということです。その女の堕落が、いかに男に甚大な影響を与えているかです。

霊(心)の深みにまで神の御心が届くほどに神を弁えようとすれば、霊の深みが開拓されていなければ、霊の深みにまで種がまかれないのです。

そこで霊の深みにまで種をまこうとすれば、霊の深みそのものを、未開墾の荒地のままで放っておいてはいけないのです。荒地とは新地でもあるのです。ここへどうしても先に鍬を入れなければならないのです。

これは危険なことですけれど、やむを得ないのです。アダムに予防接種をしたのです。予防接種をすることは、アダムの体に危害を与えることになるのです。危害を与えることなくしては、予防接種はできないのです。とりあえずアダムの体を病的状態にしなければ、健康は保障できないのです。アダムの生理機能に危害を与えることは危険です。

霊の深みにまで神のアガッペー(愛)を知らせようとすれば、ただうわっつらだけの見方ではいけない。ただうわっつらだけの見方では、ウーマンボディーの形だけしか見えないのです。ウーマンボディーが意味する本当のこと、本質が分からないのです。

裸にして恥じなかったという安全な状態にありながら、なお本当の意味が分からなかった。彼の心の奥の院において、女の本質が分からなかったからです。

心の深みに鍬が入れられなければならないということ、人間のハートの処女地に鍬が入れられなければならないのです。これはとても危険なことですが、これに目をつぶっていたのでは、どうしても人間は大悟徹底できないのです。神の御業の真髄を弁えることができないのです。女の本当の本質を知ることができないのです。

これは現在、全世界の人間が誰も分かっていないことです。ウーマンボディーの持つ本当の美しさが分からない。これは芸術的なという程度の美しさではありません。宇宙的な意味での美の極地とでも言うべき美しさが、そのまま現われているのです。

これはとても危険なことです。犯すという言葉を用いなければ、どうしても奥の院が分からないのです。これは本当に困ったことですが、しょうがないのです。

それで人間の心の深みに、心の霊にキリストをお迎えするためには、どうしても心の霊に鍬を入れなければならないのです。

神の言葉が蒔かれるためには、蒔かれる所を耕す必要があるのです。耕さずにただ種を蒔いても、神の言葉が芽を出さないのです。

神の言葉が蒔かれるためには、どうしても心の深みに鍬が入れられなければならないのです。これが生まれながらの盲人です。

生まれながらの盲人は何のためにいるのか、神の業が現われるためです。神の業が現われるとは、神の業が本人に意識できるためです。

本人が神の業を自覚すること、経験することです。本人が神の業を経験するためには、まず魂が盲でなければならないのです。

そこで皆様は、まず自分の魂が全盲であることを意識していただきたいのです。御霊を受けた者でも、受けない者でも同様です。全く盲であること、全盲であることを意識していただきたいのです。

盲という言葉は盲人に対する蔑称だと言われていますが、目の不自由な人、目が悪い人という言葉では言い現わせないのです。盲という言葉を、他の言葉では完全に言えないので、とても失礼ですが、盲という言葉を使わせていただくことにしましたのでご了解いただきたいのです。

人間は盲です。大盲、大ど盲です。それくらいにはっきり自覚しなければ、神の業が現われません。

次にイエスは言っています。「私たちは、私を遣わされた方のわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると誰も働けなくなる。私はこの世にいるのは世の光である」(同9・4、5)。

イエスは私たちはと言っているのです。私はと言うのなら簡単ですが、イエス自身が私を遣わした方の業を昼行うと言っていますが、これなら分かるのです。

ところが私たちはとなっています。これは人間全体をさすのです。人間全体はイエスの業を昼のうちに行わなければならないと言っているのです。イエス自身が神の業を行わなければならないというのではなくて、全世界の人間全体がそうなのだと言っているのです。

イエスがイエスの業を行う。父の業を行うのは当たり前だと思います。それは同時に、人間のすべてが父の業を行わなければならないことを意味しているのです。

人間全体がイエスと同じ位置に立って、イエスと同じ責任を負うべきだ。そうしない者はしかるべき処置をされるのです。

人間は業を果たさなければならないのです。人間は魂の実を結ばなければならないのです。実を結ばない者は殻が火にて焼かれるのです。殻は消えない火で焼かれる。実を結んだ者は全部倉にいれられるのです。

人間として造られた尊さは、すばらしい尊さではありますが、何と厳粛なものであるかと言いたいのです。ところが罪人から見ると、何と厄介なものかということになるのです。

皆様によく考えていただきたいことですが、人間としてこの世に生まれた以上、絶対にイエスを遣わした方の業を、昼のうちに行わなければならないのです。

これは厳然たる神の命令です。人間として生まれた者は、イエスをこの世に送った方の御心、その業を昼のうちに行わなければならないのです。父の業、神の業を行うのです。

神の業とは何か。父が人間を造りたもうた御心です。神にかたどりて、神のかたちのように神自から人を造りたもうた。これに空の鳥と海の魚と、家畜と野の獣、地に這うものとを治めさせるためです。この父の御心を行うのです。

父が人間を造りたもうた業です。その業が御心どおりに私たちにおいて、行わなければならないのです。これが人間のカルマです。このカルマを果たさなければ、人間完成は絶対にあり得ないのです。

このカルマを昼のうちに行わない者は、夜になってからやらされるのです。夜になってから、つまり現世を去ってから、断固として行わさせられるのです。

神が人間を造りたもうた時の御心は、すべての人間に全部実行されなければならないのです。私だけは遠慮しますという訳にはいかないのです。

人間には人間の責任があります。

私たちは遣わした方の御心を、昼のうちにしなければならない。昼というのは、いつなくなるかもしれないのです。

人間の命はいつなくなるか分からない。今晩なくなるかもしれないし、明日なくなるかもしれないのです。ですから日ごと、夜ごとに御名を崇めて生きなければならないのです。

魂の自覚としての自分を持つのです。固有名詞の自分の思いではなくて、魂の自分という感度で生活するのです。

私たちの本質は魂です。魂という感度で食事をするのと、肉体人間が食べているのとでは全然違います。家庭生活の基本概念が変わってくるのです。

これをしなければ、皆様に奥さんを与えた神の御心は成就しないのです。奥さんは皆様に肉の糧を備えると同時に、霊の糧をも備えようとしているのです。ところが肉の糧を肉の人間が食べているだけでは、神が女を男に与えたことが、逆の方向にだけ働いてしまうのです。

神が女を与えたために、人間は真っ向うから罪人そのものになってしまったのです。本格的な大罪人になってしまったのです。

奥さんは夫を助けなければならないのです。しかしその助けが難しいのです。だから奥さんは夫を助けることに専念していただきたい。自分自身の完成を考えないで、夫を助けるということだけを考えるのです。

神はアダムに女を助けとして与えたが、助けとなるべき女が罪を犯したということを、黙って神が見たもうたのです。

しかしこれは神が黙認したもうたのではない。しかしその予防接種をしなければ、また人間の心の深みにある危害を加えなければ、魂に対して深い神の愛を悟らせることはできないのです。死の危険を人間に与えることなくしては、命の栄光を分からせることができないのです。死の危険を与えなければ、命のすばらしさを人間に理解させることはできないのです。

私たちはこのことを昼の間にしなければならない。夜が来たなら、誰も業をすることができないからです。この言葉を意味深長なこととして受け取っていただきたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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