聖書に次のようにあります。
「さて、私の兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいはその他のどんな誓いによっても、一切誓ってはならない。むしろ『しかり』を『しかり』とし、『否』を『否』としなさい。そうしないとあなた方は裁きを受けることになる」(ヤコブの手紙5・12)。
しかりというのはイエス(yes)ではない。イエスは顕在意識的な肯定、または賛成、承諾を意味するのです。否(nay)の方は顕在意識的な賛成承諾、同意とは少し違います。
あなたの「しかり」を「しかり」とすべきだと言っているのです。あなたの「しかり」とは何かと言いますと、人間は生まれる前に神のロゴス(言)を植えられているのです。生まれる前に植えられているロゴスによって、直感的に何を「しかり」とすべきか、何を「否」とすべきかということを、本質的に知っているのです。
これは魂の声、魂の感触です。これは顕在意識的なイエス(yes)ではなくて潜在意識的なしかりです。
例えば肉の思いは死であるという言葉が聖書にあります。肉の思いは死であるという言葉の内容の説明をしてもらいますと、人間の魂は直感的にああそうだ、そうであるに違いないと考えるのです。これが「しかり」です。
皆様は神の御霊の声を直感的に把握するだけの性能を、生まれる前から植えられていたのです。生まれる前に神の元にいた。その時に皆様は神とともにいたのです。
「言(ロゴス)は神とともにあり、言はすなわち神である」という言葉があります(ヨハネによる福音書1・1)が、このロゴスのうちに皆様は置かれていたのです。
世の基いができる前に愛によってキリストのうちに置かれたと言っていますように、皆様はキリストの内に選ばれた魂です。ロゴスの内に置かれていたのです。
その時に皆様は、「しかり」、「否」ということを神の元で経験していたのです。そのロゴスが肉体を持って地上に生きているのです。だから何を「しかり」とすべきか、何を「否」とすべきかが人間に分かるのです。
ごく冷静に利害得失を考えないで、喜怒哀楽にとらわれないでじっと考えますと、「しかり」とすべきか、「否」とすべきかが分かるのです。
神の約束の原理が、人間の魂の中に鋳込まれているのです。これが宇宙の大原理です。
この宇宙の原理、原則が魂という形になって皆様の中に鋳込まれています。この潜在意識的な直感によって何を「しかり」とすべきか。何を「否」とすべきかを心得ているのです。それを現実の利害得失によって判断するから、「しかり」とすべきことを「否」としたり、「否」とすべきことを「しかり」としたりするのです。これを罪というのです。あるいは咎というのです。
罪とは何か。宇宙の流れにふさわしくないこと、宇宙のあり方、本質にふさわしくないことが罪です。
人間歴史五千年、六千年という短い時間をいかにも大層らしく考えている。古代とか中世とか近世とか言っているのです。皆ユダヤ人の策略にひっかかっているのです。イエスが笛を吹いても人間は一向に踊らないのですが、ユダヤ人が笛を吹くと大いに踊るのです。
マルクスが笛を吹いたらどれだけの人間が踊ったのか。ダーウィンが笛を吹いたらどれだけの人間が踊ったかです。フロイドの笛に今も踊っている人がいるのです。
ユダヤ人が吹いたら全人類が踊るのです。なぜ踊るのか。彼らは自分の肉性において賛成しているのです。これは「しかり」を「しかり」としていないのです。マルクスの理論が「しかり」ではないことが、人間の魂は知っているのです。ところが「否」を「しかり」としているのです。
マルクスの唯物史観が間違っていることを、マルクス自身が知っていたのです。彼は彼の顕在意識においてそれをでっち上げたのですが、彼の潜在意識はそれを否定していたに違いないのです。
現在マルキシズムを信奉している人々でも、それは人間の本性に反することをよく知っているのです。
宗教はありもしないことをでっち上げて、あるように嘘を言っているのです。これは「しかり」を「しかり」としていないのです。これはマルキシズムと同じことです。マルキシズムも一つの宗教です。人間が造った理屈です。
マルクスの場合は社会的な経済生活に関する人間の発想です。宗教は人間の魂に関する人間の発想です。
いずれにしても、人間が造った理屈を人間が信じるというのがバカバカしいのです。これは「しかり」を「しかり」としていないのです。「否」を「否」としていないのです。
人間が造った理屈というものは現世感覚に基づいて、自我意識と現象意識に基づいて、人間の肉の思いで理屈を造っているのです。
人間の理論はすべてそれです。人間はそうするしか仕方がないのです。肉の思いで生きている人間は、そうするしか他に理論の立てようがないのです。
人間が理論を立てると、必ず「しかり」を「しかり」としていないのです。「否」を「否」としていないのです。「しかり」であるかどうか分からない理屈を紬ぎ出して、一つの理論を展開するのです。
同じ紬ぐのでも合成繊維を紬ぐ場合は、本当の繊維ではないものを繊維らしく見せかけて紬ぐのです。ところが綿糸を紬ぐとか、絹糸を紬ぐとかいう場合は、糸となるべきものを糸にしているのです。これは「しかり」を「しかり」としているのです。合成繊維はそうではないのです。「しかり」でないものを「しかり」のようにしているのです。
人間が造った理論はすべて合成樹脂のようなものです。聖書はそうではない。「しかり」は「しかり」、「否」は「否」とする原理に立っているのです。人間の存在の本性、人間の意識の根本から出発しているのです。
宇宙のあり方と人間のあり方とは本質的に同じものでなければならないのです。人間の命と宇宙の命とは、本質的に同じものでなければならないのです。
人間が持って生まれた先天的な意識に基づいて、「しかり」を「しかり」とする。「否」を「否」とするのです。これは当然のことです。
決して誓ってはならないのです。誓うという感覚は人間の現象感覚です。顕在意識です。「しかり」を「しかり」とすることは、潜在意識です。人間の常識の下に埋もれている本性です。これに基づいて生活すれば死なない命が分かるのです。
「あなたの『しかり』を『しかり』とし、あなたの『否』を『否』とせよ」とあります。これは肉体的に生まれたのではなくて、ロゴスが肉体を取るに到る前の魂が、この世に出てきた本性のことを言うのですが、この未生の我、未生の心が最も崇高な、純真なものです。
崇高で純真であることは、同時に非常にレベルが高いのです。
しかし本来の人間存在の角度から見ますと、「おまえの『しかり』を『しかり』とせよ、おまえの『否』を『否』とせよ」とあります。
これは何でもないことです。全く何でもないことです。自分自身の常識を放擲したらいいのです。また解脱したらいいのです。解脱するというのは脱出するということです。
人間の常識から脱出してしまいさえすれば、すぐ分かるのです。人間の常識というものの角口には犬が座っているのです。煩悩の犬が座っているのです。
「煩悩の犬追えども去らず、菩提の鹿招けども来たらず」と言います。この煩悩の犬が待っているのです。
罪角口に伏すというのは、罪が煩悩の犬となって人間の心の角口に座っているのです(創世記4・7)。ものを言えばすぐ嘘になるのです。大人がものを言いますと、皆嘘になっているのです。
常識的にものを言うとすぐ嘘になるのです。人間の常識というものに、肉の思いが溢れているからです。肉の思いが氾濫しているのです。悪がオーバーフローしているのです。悪が溢れているのです。これが人間生活のあり方なのです。
こういう気持ちで、イエスが自分の本性だという理屈を何回聞いても分かりません。難しい難しいと思うのです。
常識には原罪が溢れているのです。これが人間の常識です。肉の思いが溢れているのです。この常識を捨てて、イエス・キリストを信じるのです。常識を捨てないでキリストを信じようと思うから難しいのです。
常識を捨ててしまえば、自分の本心に立ち帰ることはできるのです。この時点でイエスを信じたらいいのです。
これをしようと思えば誰でもできることです。神は誰でもできることをしなさいと言っているのです。誰でもできないような難しいことなら神はしなさいと言わないのです。
しかし肉の思いを持っている人間には、誰でもできないことです。いわゆるこの世の知者、学者は、「しかり」を「しかり」とすることが、全く不可能です。
しかし嬰児ならできるのです。ベビーならできるのです。神は神の秘密を知者、学者には隠して、嬰児に現わしたのです。
人間が肉で喜んでいるその喜びは、悲しむべきことを喜んでいるのです。喜ぶべきことを悲しんでいるのです。
あなたの「しかり」を「しかり」としなさいという命令は、喜ぶべきことなのです。ところがそれを難しいと言っている。これを転倒夢想というのです。
そこで常識を捨てるにはどうするかと言いますと、自分が今まで考えていたことの反対を考えるのです。喜びだと思っていたことを、悲しみに変えるのです。楽しみだと思っていたことを苦しみに変えるのです。
今まで自分が思っていたことの反対を考えるのです。あの人が嫌いだと思っていたことを、好きだと思うのです。強引にするのです。そうすると、あなたの「しかり」を「しかり」とするという要領が分かるのです。そうすると初めてあなたの「しかり」を「しかり」としなさいという意味が分かるのです。
このように考えて、自分の生活で実行してみるのです。実験してみるのです。実地訓練をすれば「しかり」が実行できるのです。
神を信じるのは、信じたくて信じたくてしょうがないから信じるのです。皆様の魂に聞いてみてください。
皆様の魂は、神に近寄りたくてたまらないのです。生ける神の御名以外のものを、何も求めていないのです。
皆様の人性の本心が求めているものは、神の御名だけです。御名を崇めさせたまえというのは、魂の願いのことを言っているのです。
「天にいます我らの父よ、願わくば御名を崇めさせたまえ」という主の祈りがありますが(マタイによる福音書6・9)、これは魂の声なのです。皆様の魂はこれだけを求めているのです。皆様の本心はこれだけを願っているのです。
ですから神を信じること、イエスを信じることを掟のように考えたらいけないのです。難しいことのように思ってはいけないのです。
誰でもできることをすればいいのです。皆様の魂の本性が求めて求めてやまないものを求めたらいいのです。
人間の魂は神以外の何ものをも満足しません。神以外の何を与えても満足しません。お金を与えても、セックスを与えても満足しません。セックスよりもっと大きく高いもの、すばらしいものがあるのです。これが神に基づく恋です。恋に基づく信仰です。魂の絶えざる願いです。魂の本性は神から来ていますから、神から出てきた魂はその古里である神を求めるのです。
神を求めることは望郷の願いです。望郷の思いは何よりも強いのです。
アブラハムは自分の古里を求めたのです。アブラハム、イサク、ヤコブはすべて自分の古里を求めたのです。
ユダヤ人は今、自分の魂の古里を忘れてしまっている。それを彼らに教えてあげなければいけないのです。
今人類は魂の古里を失ってしまったのです。キリスト教、宗教という異国に引きずり込まれてしまったのです。これが錯覚の牢獄です。
人類は宗教という名の牢獄に引きずり込まれてしまったのです。私たちは人類をその牢獄から解放させて、彼らに古里を教えてあげなければならないのです。
「あなたの『しかり』を『しかり』とせよ」。これを教えたらいいのです。
これは誰でもできること、また誰でもしなければならないことです。これをしないから裁かれるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)