まず、現在肉体を持っている人間は、もはや存在しないということをお話ししたいと思います。
第一に言わなければならないのは、ノアの洪水という事件です。ノアの洪水の原因になった人間の状態は、現在の時点から考えますと、理解ができないような事件です。
創世記の第六章を見ますと、「地のおもてに人が増え始めて娘たちが彼らに生まれた時に、神の子たち(自然人)が人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった」という記事があります(1、2)。
神の子たちというのは、アダムの家系以外の自然人のことです。これはアダムの末でない自然人で、この人々が娘を孕ませたのです。そこでネピリムという妙な者が生れたのです。
女がアダムの末であって、男が自然人で、この間にできたのがネピリムです。これは特殊な人間です。こういう者は、今はいませんから説明できませんが、女が自然人であって、男がアダムの末である場合は普通の子どもが生まれたのです。
ところがこの逆の場合は、ネピリムが生まれたのです。これは普通の人間と違って、非常に猛々しい性質を持っているのです。全く肉性そのものの代表的な者です。
これが生まれてこういう者たちがアダムの末の娘たちと交わるようになった結果、人間の血液状態がめちゃくちゃになってしまったのです。
これを暴虐地に満ちたと書いているのです。暴虐が地に満ちたということは何かと言いますと、霊的には人間はエデンにおいて陥罪したのです。この時には血液的には自然人という獣と同じ性質を持った血が人間に混ざるということはなかったのです。
ところがノアの時代に、そういう悪逆が具体的に人間の血液を支配するようになった。その結果、ただ精神的に肉の思いを持つというだけではなくて、血液的に獣欲的なものが人間の血液を占領してしまうようになって、もうこれはどうにもしようがないものになったのです。そこで神の御霊が人間の肉において、働くことができなくなったのです。
「人の悪が地にはびこり、その心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた」とあるのです(同6・5)。これは単に肉の思いが人間にあるということだけでなくて、もっと積極的に完全に、欲望の奴隷になってしまったことを意味するのです。
箸にも棒にもかからないようになってしまったのです。現在の人間がそうなっているのです。御霊を受けていない人間は本質的にそうなっているのです。
御霊を受けていなくても聖書を学んでいる者は、聖書を学ぶというその事柄を通して、間接的に御霊に管理されていることになるのです。ですから全くの異邦人とは考え方が違うのです。
ノアの時代には聖書はありませんでした。もちろんノアの時代には聖霊が降臨しておられるのではない。エデンから追放されたアダムの子孫が、エデンから追放されただけでなくて、人間と言えない人間と交わったのです。
アダムの子孫は理性を持った人間ですが、人間の格好をしているが理性を持っていないという自然人の血液が、どんどん人間の中に入り込んできたのです。その女の子どもがまたややこしい子どもを産むことになったので、ネピリムができて血液がごちゃごちゃに汚れてしまった。
その結果、人間なのか獣か分からないようなものがだんだん生まれてきた。神の形のように造られた人間が、全く違ったものになってしまったのです。
そこで神がご覧になると、人間の思いはすべて悪ばかりになった。いつも悪ばかりを思っている。心の思いそのものが単なる肉の思いだけではなくて、欲望の奴隷としての思いに満たされる状態になった。
それを見られて、エホバ神が地の上に人を造ったことを深く後悔されたのです。そして七節に「私が創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも、私はこれらを造ったことを悔いる」と言われたのです。
また十二節には「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」とあるのです。
道というのは、人間の精神的なことだけでなくて、肉体的なことをも意味するのです。道を乱したというのは、人間が生きるべき原則を無視してしまった。精神的にも肉体的にも、全く人間が生きるべき原則を無視してしまうようなことをしてしまったのです。
十三節で「私はすべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、私は彼らを地とともに滅ぼそう」と神がノアに言われた。そして、ノアにいとすぎで箱舟を造るように命じられたのです。
また別の所でこれと同じようなことが言われているのです。これは創世記の原典に、祭司典と言われているものと、エホバ典と言われているものとがありまして、これらが交互に取り上げられて編集されているので、記事が二重のようになっているのです。
十七節には「私は地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを皆、天の下から滅ぼし去る。地にあるものは皆、死に絶えるであろう。ただし私はあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちとともに箱舟に入りなさい」とあります。
その他に、「生き物の雄と雌を二匹ずつ箱舟に入れなさい」と言われたのです。
この時人間が滅ぼされただけではなくて、命の息のある肉なるものを皆、天の下から滅ぼしてしまうとはっきり言われたのです。
命の息のある肉なるものは、人間だけではありません。鳥類、動物、昆虫類の一切を含んでいるのです。人間というのは命の息のある肉なるものの代表として造られたのです。
人間だけが神の御心を知るだけの能力を持っている。すべての命の息がある肉なるものが造られたのは、人間が造られる前提として造られたのです。
この地上の生き物というのは人間が責任を持って治めなければならないものです。空の鳥、海の魚、地のすべての生き物を治めるために、人間が造られたのです。人間が暴虐そのものになってしまったために、人間だけを滅ぼすことができないのです。
すべての生き物のために人間が造られた。そこで人間が滅ぼされることになりますと、すべての生き物の存在理由がなくなってしまうのです。存在価値もなくなってしまうのです。そこで人間とともに、地の上のすべての生き物が滅ぼされることになったのです。
この時、神は洪水によって神の御心の断固たる決意を現わして、文字どおりすべてのものが絶やされたのです。
洪水が及ばなかった所に生き物がいたのではないかということは、理屈としては言うことができます。洪水は単に中東地方の一部の所で起きた現象にすぎないということは言えるのです。ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカ大陸には洪水が及ばなかったのですから、そこにいた生物は滅ぼされていないのです。
神が中東地方においてこのことを執行されたということは、一地区の出来事のようですけれど、その事柄の意味は、全世界に及ぼされるべきものであることをよく承知しておく必要があるのです。一地区で行われたことは、全世界に行われたことと同じ意味を持つものになるのです。
この時のアダムの子孫である理性を持った人間ども、鼻から命の息を吹き込まれてリビング・ソールになった人間どもは、皆滅ぼされたのです。地に這うもの、地上の動物、鳥類がいたところで仕方がないのです。従って、これが全部滅ぼされることになってしまったのです。
理屈的に言えば、中東地方以外の生物は生き残っていたのです。しかし人間が滅んでしまったということは、動物が滅んだことを意味するのです。
聖書というものは、神が肉の人間を対象にして書かれたものではない。従って、肉体人間の常識や知識には一致しない点がずいぶんあるのです。
神の創造の道すがら、このような地球ができ上がるためには、恐竜も生存しなければならない必然性が、地球にはあったでしょう。現在の地球のような人間が生存できるような条件を構成するためには、地球が試行錯誤的な道程を経なければならなかったのです。一足飛びに現在のような条件を造り出せるものではありません。
そのような地球進化の道程において紆余曲折があったことは当然のことです。そのような過程を経て終極的に人間が造られた。その人間が罪を犯した。神が人間としてこの世に送った魂がだめになったのです。魂がだめになってしまったので、神が人間を地上に造ったことを後悔されたのです。
人間の実体は魂であって単なる肉体的な生物ではないのです。魂として役に立たなくなったものは、肉体的に生きていても仕方がないのです。
他の生物のように、肉体的に生きることを目的にして人間は造られたのではない。神にかたどりて、神の形のように造られたのです。そして、すべての生物を治めるような目的を達成するために造られたのです。
これは人間の魂に対する神の要請です。これが人間の目的です。鼻から命の息を吹き込まれて人間はリビング・ソールになったのです。生きている魂が人間を意味するのです。魂について聖書は書かれているのです。
そこでノアに対して、「あなたとあなたの家族は箱舟の中に入りなさい」と神が言ったのです。そして「ノアと契約を結ばれてあなたと、妻と、あなたの子らとその妻とだけは滅ぼさない」と言われたのです。
これはノアという肉体を持った人間が救われたのではないのです。魂を救ったのです。肉体を持ってはいたけれどリビング・ソールです。生きている魂です。
ノアは神を信じていた。ノアの魂に対して神は契約を結ばれたのです。これはノアという人間が救われたのではなくて、ノアの信仰が神に認められたのです。
神はご自分を理解できるノアだけをこの世に残そうと考えたのは、滅ぼすべきものを皆滅ぼして、滅ぼす必要がないものだけを残したという意味です。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)