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ラクダの信仰


パウロは次のように言っています。

「兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らが救われることである。私は彼らが神に対して熱心であることは証するが、その熱心は深い知識によるものではない。

なぜなら彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ人への手紙10・1〜3)。

ユダヤ人が神の約束からそれていったのは、人間全体が神からそれていることの端的な見本になるのです。

ユダヤ人は本質的に人類全体のサンプルです。ユダヤ人は人類の長男です。これはユダヤ人が偉いわけではないのです。彼らの祖先にはアブラハム、イサク、ヤコブという三大の父祖がいました。この人々が人間の手本となるべき生き方をしてみせたのです。

この父祖三大の功績、功徳によりまして、子孫のユダヤ人は神の約束が与えられた民族として、神に特別な待遇を受けてきたのです。

ところが彼らにしますと、神に特別の待遇を受けることが却って迷惑になったようです。掟を守らなければならないという負担のようなものを、彼らはいつも感じていたのです。心理的な圧迫を感じていたと思われるのです。

彼らはまたしてもまたしても、掟を守ったような顔をして、掟の精神をごまかしたのです。形式的に掟を守って、心理的には掟を裏切ってきたのです。

そういうことを何回も何回もやりました。そのたびに神は預言者を遣わされて、彼らに反省を促したのです。またペリシテ人とかアモリ人とかいうイスラエルに敵する民族を、しばしば起こしてユダヤ人を苦しめたのです。これは皆神の処置でした。

ところがユダヤ人はそれに対して反抗したのです。自分たちに敵対する民族を起こすということが、神の処置であると受け取れなかったのです。神が自分たちを守ってくれない。神が自分たちをいじめるのだと解釈したのです。

そうして神の約束の真髄を心得ようとしないで、掟の末端を問題にして、何とか掟を守っていることにしてもらおうと考えたのです。

神の約束の本体を知ろうとしないで、自分たちのやり方をそのまま神に認めさせようと考えた。これが神とユダヤ人の争いになって、旧約二千年の歴史が流れてきたのです。

最も旧約二千年と言いましても、その初めの方はアブラハム、イサク、ヤコブという父祖三代が人類の模範となるべき生活態度を神の前に証をして、立派にイスラエル民族が選民となるべき素質があることを、祖先たちが証明したのです。

ヤコブに十二人の子どもがいました。これがイスエル十二部族の別れですが、この人たちはアブラハム、イサク、ヤコブの三人の人の信仰の功績によりまして、子孫千代にまで恵みを施すという神の言葉がそのままユダヤ人に当てはめられて、二千年の間、旧約時代が流れていたのです。

ところが、その間に時々現われた預言者がアブラハム、イサク、ヤコブの信仰に匹敵すべき人たちだったのです。

預言者はそのような人でしたが、一般のイスラエルの人々は神の掟を値切ろう、値切ろうとしていたのです。自分たちの考えで神の掟を行って、それでいいと認めてもらおうという態度をいつも取り続けていたのです。

掟の精神が全く分からなかったのです。神の掟とは一体何であるのか。なぜ神が掟をユダヤ人に与えたのか。約束を与えておまえたちを祝福するというのなら、掟という重荷をユダヤ人に背負わせることをしないで、むしろ安楽に幸福に、絶えず喜んで暮らしていけるような状態においてくれたらよかったと思えるのです。

神はそうしないで、これをやれ、あれをやれと言って、いろいろと難しい条件をつけて、いじわるくこづき回したとユダヤ人には思えたのです。

今の皆様もそう考えていないでしょうか。聖書を学ぶということは、学ばされている側の人になってみますと、無理を押しつけられているような感じがするのです。

これはやむを得ないことです。イスラエルのアソウという預言者ですが、この人が詩篇の中で書いています。

「私の信仰は全くよろめくようなものであった。あっちへよろよろ、こっちへよろよろして、本当に正確に掟を行うような歩みがほとんどできなかった。そうしてもうやめようかという気持ちを何回持ったか分からない。わが足はよろめくばかり、しばしば滑ろうとした。考えてみると世間の人は威張って暮らしている。神を信じないで暮らしているペリシテ人とかアモリ人、ミデアム人は大きな顔をしてのんきに生きている。そうして気楽そうに肉体生活を楽しんでいる。

ところがイスラエルは神の掟を押しつけられて、これもやれ、あれもやれと命令されている。考えてみたら迷惑な話だ」という意味のことを言っているのです。

自分はいたずらに神を信じた。人間という立場から考えると全くばかげたことをした。異邦人と比べてみて、イスラエルは本当に不幸せな人間とさえ思ったと言っているのです。

ところが異邦人が行く末はどうなるのか。それは二つありまして、現在生きている人間がどうなるのかという行く末と、もう一つは歴史的な展開に基づいて、異邦人は結局どうなるのかという世界歴史の終末に関する神の処置です。この二つのことがあるのです。

「個人が死んだ後の霊魂の裁きと、人間全体が滅んでいく歴史的な神の現世における人間の刑罰を見せられた時に、自分の考えが本当に愚かなものであったことに気がついた」とアソウが言っているのです。

どのように見せられたのかについては書いていませんが、御霊によって見せられたのでしょう。

とにかく現世における人間生活という点だけ考えますと、神の約束を信じて掟を守っているということは、誠に愚かなことをしているように思えたが、人間の終末ということ、人間の死後ということが分からせられた時に、自分の考えは、ああ本当に間違っていたと思ったのです。

「我は御前にありて、弁えなき獣に比しかった」と言っているのです。神の前に生きていながら、自分の考え方は弁えない獣のようであったと言っているのです。

人間という格好をしているが、全く獣じみた考えをしていた。本当に自分の考えは間違っていると、詩篇の中で告白しているのです。

アソウがなぜ神の掟が重荷のように思えたかと言いますと、肉体的に生きている人間の側に立って掟を考えていたのですから、これが負担になってしょうがなかったのです。

アソウは正直にこのことを告白しています。私はいたずらに神を信じて、しなくてもいいようなことをして、世間の人間がのんきに生きているのに、自分だけは神を信じるという気持ちを持ったそのために、返って苦しい生活を送らなければならなくなったと言っているのです。

今の日本人は神なんかあるものかと平気で言って暮らしている。ところが私たちは聖書の勉強をいつもさせられて、ゆっくり遊ぶ時間もない。おまけに献金もしている。人々への伝道もしなければならない。肉体的にも、精神的にも、経済的にもいろいろな負担を加重されている。聖書を信じるというのは何とバカなことをしているのか。全くいたずらに神を信じたために、返って自分が苦しまなければならないようになっている。こう考えているのではないでしょうか。

日本人はやくざな異邦人です。そういう人々の中にいるから、なおさらそのように思えるのでしょう。

アソウはイスラエル人であって、イスラエルの中で生活していたのです。自分たちの家族はもちろんのこと、自分が住んでいる町も、全部神の掟に仕えている国です。そういう民族です。ところがそのように感じたのです。

ペリシテ人とかアモリ人はいましたが、遠い所にいたのです。お互いに交易していたから彼らの生活状態が分かったのです。しかしいつも付き合っていたのはユダヤ人たちです。

ところがペリシテ人とかアモリ人はとても気楽に生きているのです。

今のキリスト教もあれをしてはいけない、これをしてはいけないと掟を造って勝手に苦しんでいるのです。酒を飲むな、タバコを吸うなと言っているのです。全くバカげたことを言っているのです。

いたずらに身を清めて、いたずらな行いを勝手にしているのです。そうして宗教の義をたてて、神の義をたてようとしないのです。

神を信じようとしないで宗教を信じようとしているのです。ユダヤ人はこれをしていたのです。皆様もこれをしているのではないでしょうか。

皆様がなぜ聖書の勉強が重荷のように感じられるかと言いますと、皆様は肉という人間の立場に立って神を信じようとしているのです。これは無理なことをしているのです。

肉(人間の常識)に立って、神を信じることができるものではないのです。できないことをしようとしているのです。神を信じるというのは、自分を信じないことです。自分の気持ちを信じないことです。私はいつもこのことを言っていますが、なかなか分かっていただけないのです。

ユダヤ人は自分の気持ちを信じているのです。アソウという預言者は、自分の気持ちを信じていたのです。神の気持ちを信じなかったのです。これが、アソウが信仰の躓きを感じていた原因でした。

「ユダヤ人は神に対して熱心であることは分かる」とパウロは言っています。しかしその熱心は深い知識によるものではないとあります。

神の約束とは何であるか。神の約束の本質は何であるかという深い知識を持っていないままで、ただ神に熱心であろうと考えた。これが間違っているのです。

神を信じるなら信じるような深い知識をまず持つべきです。深い知識を蓄えるべきです。神を信じることに対する正当な考え方をすべきなのです。それをしないでただ神に対して熱心であろうと考える。ここが間違っているのです。

神は皆様に重荷を与えるために、皆様を召し集めたのではありません。皆様の意志にそむいて献金を徴収するのは、強盗と同じようなものです。神の名によって強盗しているようなものです。

献金をしないと地獄へ行くと言って献金を集めているとすれば、これは強盗行為です。強奪行為です。これは献金ではなくて奪金です。お金を奪っているのです。

神の意志を悟らないで、自分で勝手に信じようとしている。これは神を信じているのではなくて自分の意志を信じているのです。これは全く聖書の原則に反する精神態度です。だから矛盾を感じるのは当たり前です。

イスラエルはそのような矛盾を感じながら、なおモーセの掟を行うのはイスラエル民族の国家的な義務だという妙な考え方をしていたのです。

神に対して熱心であったとありますが、これは神に対して熱心だったのではなくて、モーセの掟に対して熱心であっただけのことです。

それもはっきり言いますと、モーセの掟に対する熱心さではなくて、自分たちが神の約束の民であるというプライドに対して熱心だっただけなのです。

自分たちは神の約束の民だという誇りに対して熱心だったのです。ただの自尊心です。この自尊心的宗教観念があったのです。

皆様にもこれがないでしょうか。自尊心的宗教観念に引っぱられて聖書の勉強をしているのなら、これはお気の毒なことです。

本来神と人との関係はそういう義務的なものではないのです。本質的なものです。人間が人間の本性に目覚めていないから分からないのです。

人間の本性とは人性です。人となりです。人となりということがよく分からないのです。

天地創造というのは物性、物となりということです。物性と人性が分からないままで生きているからいけないのです。

皆様は生まれた後の家庭生活、社会生活、学校生活を通して、さんざん皆様方の人となりは歪められているのです。

皆様が生まれてから今日まで経験してきたことは、すべて肉の経験ばかりでした。現世において皆様が現象意識として経験したこと、感じたこと、考えていることは、この世に生まれてきて今日まで生きてきたことに基づいているのです。これが間違っているのです。

人性というのはキャラクターではありません。パーソナリティーのことです。人間の人格性のことです。人格性と性格性とがあるのです。

皆様の人格性は神によって造られたのです。生まれる前に、神に造られたパーソナリティーです。それを考えないで現世に生まれて今日まで生きているというそのキャラクターで生きているのです。これを聖書は肉の思いと言っているのです。

キャラクターが根本から間違っているのです。人間の性格が間違っているのです。

私が言う人性というのは、人間がこの世に生まれる前に神から性格づけられていた人間本来のあるべき姿です。これを仏教では仏性と言っています。聖書で言えば人となり、仏教的に言えば仏なりです。仏の性です。

仏の性というのは、人間が生まれる前に与えられていたものです。これで生きるべきです。仏性によって神を信じるべきです。

仏性というのがパーソナリティーです。人間はパーソナリティーでものを見るのではなくて常識で見ているのです。ここが間違っているのです。

皆様が、聖書が分かりにくいと思われるのは、すべて考え方の基礎が間違っているからです。

ユダヤ人が間違えて神の掟を行っていたように、同じ間違いをしているのです。ラクダが針の穴を通ろうとしてもがいているのです。そういう間違いをまずやめていただきたいのです。

ラクダというのはとても辛抱強い動物です。ラクダほど辛抱強いものはいないでしょう。自分が倒れて死んでしまうまで頑張って歩くのです。本当に偉いものです。

喉が渇いても、腹がへっても働き続けるのです。馬や牛はもうだめだと思ったら動きません。ラクダはだめだと思ってもまだ動くのです。

皆様はラクダのような信仰を持っているのですが、ここまでがまんしなくてもいいのです。

ところが皆様は神の愛を知らないで自分の欲で生きようとしています。自分の欲を満足させることが、皆様の生活ではないでしょうか。

一体人間に欲があるのはなぜか。欲はむさぼりです。むさぼりという気持ちがなぜ発生するのか。パウロはこのことをローマ人への手紙の七章で、「むさぼる心が一つあっても、もうだめだ」と言っています。すべての掟を行ってもむさぼる心があったら、もうだめだと言っているのです。

むさぼる心というのはどうして発生するのか。人間がキャラクターで生活すれば、必ずむさぼりが発生します。そうして現世の人間はむさぼるために生きることになるのです。

人間の立場に立ったままの状態で神を信じようとするやり方を、イエスは嫌いだとはっきり言っているのです。偽善なる学者パリサイ人という言い方をしているのです。禍なるかなと真っ向からイエスは言っているのです。

宗教観念で神を信じることは禍である。これならむしろ信じない方がいいと言っているのです。

ユダヤ人的な神の信じ方は禍です。それなら神を信じない異邦人の方が幸いかと言いますと、異邦人は神に関係ないからまた禍です。異邦人は神に関係がないという状態で、無意味、無目的に生きているのです。

彼らは神の義を立てようとしないで、自分の義を立てようとしたとありますが、神の義とは一体何であるか。

義というのは、本来神の義以外に義はないのです。義とだけ言うのなら神の義に決まっています。

日本人でも義という言葉を使います。義理とか忠義とか真義とか公儀と言います。これは人間生活において先天的な意義を持っているのです。

君臣の義とか親子の義と言いますが、これは本人の意志に左右されるものではなくて、本来あるべき状態のことを言うのです。本人の好き嫌いではなくて、本人が知っても知らなくても、本来人間はこうあるべきだという原則のような概念を義と言っているのです。

神の義というのは般若波羅蜜多の義です。般若波羅蜜多というのは向こう岸の知恵でありまして、神の義は向こう岸の義です。こちらの岸の義ではありません。

しかし向こう岸の義というのは、対岸の義くらいのものではないのです。現象世界はこちらの岸であって肉の岸ですが、本来あるべき神の義というのは、天地創造以前の義です。本来の義です。

本来空と禅で言います。本来空というのは地球ができる以前の空をさしているのです。この本来です。この義です。

地球が未だできなかった時、人が未だこの世に生まれなかった時に、神の義があったのです。これが悠久の大義です。日本の大義とは違います。

物がまだできない時、人がまだ生まれなかった時に神の義があった。その時には宇宙には矛盾律は発生していなかったのです。悪魔の反逆がなかった時の義です。その時神は義でした。宇宙は義でした。その大義、悠久の大義です。これが神の義です。

ラクダは家畜の中で最も辛抱強い動物ですが、自分の意志を絶対曲げないのです。馬や牛は辛抱強くないから自分の意志を曲げるのです。人間に協調できるのです。ラクダは人間に逆らいませんが調教はできないのです。

ラクダは自らの本性を変えようとしませんし、また変えられない動物です。皆様の中には頑強なラクダが住んでいるのです。絶対に神に調教されようとしないラクダがいるのです。しかもそのラクダはとても辛抱強いのです。

この辛抱強さ、ねばりを本来の大義のために用いれば、どんなにすばらしいものであるのか。隠忍自重はいいのですが、本来の自分を明け渡そうとしないことが悪いのです。

ユダヤ人がそうなのです。二千年の間がまんをして、がまんをして、自分を捨てなかったのです。しかし、結局神に捨てられたのです。

生まれた後の人間の経験は一切肉です。良くても悪くても全部肉です。これはラクダの根性です。ラクダが針の穴を通ろうとしてもできるはずがないのです。

「神が設けた狭き門、細き道より入れ」とイエスは言っています。そうするためには、私たちはラクダであることをやめなければいけないのです。

生まれた後の人間経験に基づいて考えるのは、今の文明の基本原則ですが、現代文明の基本原則が全部間違っているのです。全部神の義に対立しています。

神に義とされるということは、神の義に従うことを意味するのです。神に義とされなければ救えないのです。

神は予め知りたる者を召すのです。召すということは御霊を受けることです。聖書を学ぶということは神に呼ばれていることです。これをまともに受け取っていないから御霊を受けられないのです。御霊を受けないというのは、神のコールサインを受け取っていないということです。

例えば電話のベルが鳴っています。これがコールサインです。電話のベルは鳴っているが、まだ受話器を取り上げていないのです。受話器を取り上げればすぐに神と話ができる。これが召されたということです。御霊を受けたことです。御霊を受けると神と話ができるのです。これは完全ではありませんが一応話ができるのです。

電話で話をしますと内容が全部分かります。内容が分かって受話器を置きます。これが義とされるということです。義とされるというのは、神の思想が自分の思想になって、電話で聞いた内容を実行するのです。これが義とされる段階です。

生まれる前の自分に帰るのです。これが悠久の大義です。天地創造の以前に神の義があった。この義が今宇宙に現われているのです。

山は創造以前の神の義を現わすためにあるのです。創造以前の神の義を現わすために太陽があるのです。創造以前の神の命、神の義を現わすために天地万物があるのです。

ユリの花が咲いているのは神の義を現わしているのです。ユリの花が咲く前の本当の姿が、今咲くという状態で現われているのです。

天地ができる前の状態が今天地になって現われているのです。これが神の義です。天地未だ現われる以前、人間が未だ生まれる以前に神の義があったのです。

私たちは肉の経験をするために生まれてきたのではない。神を知るために生まれてきたのです。自分が生まれる前の神の義は何であったか。生まれる前の永遠の命の義は何であったか。生まれる前の神の義は何であったのか。これを知るために今生きているのです。

だから現世での自分の根性を捨てなければだめです。これを捨てないと、せっかく聖書を学んでいるのに神に捨てられなければならないことになるのです。

アブラハムは神を信じて、自分が生まれる前に返ったのです。これが義とせられたということです。生まれる前の状態に返ったこと、これが永遠の命です。

生まれてきた命は必ず死ぬ命です。死なない命になろうと思えば、生まれる前に返ったらいいのです。そうしたら死なない命になるのです。これが神の義です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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