top of page
検索
  • 管理人chaya

心を更えて別人になる


人間が現世に生きている状態は、動物として生きているのです。私たちは動物として生きているという条件において、この世に送り出されたのですが、現在の三次元の時代というのは、神が御使いを通して語りたもうている時代であって、御使を通して語られているという条件下において、人間として生活しようとすれば、肉体を持つしか仕方がないのです。

神の一人子であるイエスでさえも、罪人の形をとって地上に遣わされたのです。そのように私たちも罪人の形をとらされて、肉体人間としてこの地上へ送られたのです。

そのような条件のもとにおいて、御使よりも低い条件下にありながら、御使よりも高い本質を持つ信仰を私たちが捉えることができたら、初めてその人は神の子であるものとして、父なる神から認証されることになるのです。

この認証されるということの霊的な典礼となることができるのですが、これが御霊を受けることです。その人が肉体を持って生きていることを潔しとせずに、何とかして霊に従って歩みたいと願う。また、霊的な自分自身の本質を捉えたいという願いが切実で、またその願いに伴った生活状態を自分の身につけようとして、熱心に願っている状態にある人を、御霊が助けて神に接近させる。そして御霊の働きを御言葉の働きによって、受け取る。そうすると、その人は御霊を受けることになるのです。

これが神の子として認証される最初の段階です。

イエスが「水と霊によって生まれなければならない」と言っていますが、これが霊によって生まれるということです。水によりて生まれた人間、霊によりて生まれた人間、すなわち水と霊とによりて生まれた者は、神の子として父なる神の認証を受けるのです。この認証を受けるということが、印を押されるということです。これが御霊を受けることです。

御霊を受けたからといって、すぐに完成されるのではありませんけれど、肉の人間として生きていた者が、霊の人間として歩み出すことができるという第一段階が、聖霊を受けるということです。

水と霊によりて新に生まれるという典礼は、どうしても経なければならない神と人との儀式です。これは形式ではありません。しなければならない段階としての儀式です。

これが聖霊を受けることです。絶対にこの関門を経なければ、その人は正当な人の子として認証されません。正当な人の子だけが神の子です。

異邦人は、霊の典礼を全然知らないのです。神なくキリストなく、ただ死んだら天国へ行きたいというバカげたことを信じているのです。

固有名詞の人間、肉体的に生きているホモ・サピエンスが、仮に救われて死んだ後に天国へ行ったとしても、天国で何をするのでしょうか。肉の人間が死んでから天国へ行って、何をするのでしょうか。生きている間に、死んだら天国へ行けるというまことにはかない、みじめな思いを持っているということだけです。

死んだ途端にその信仰は役に立たなくなるのです。死んだ途端に役に立たなくなるような信仰を、信じていて何になるのかと言いたいのです。

実際キリスト教というのは誠に残酷な宗教です。生きている間だけ喜ばせているのです。生きている間だけ喜ばせておいて、死んだ途端にだめになるのです。

生きている間に誠のパラダイスを見せないのです。誠の霊の命を経験させないのです。キリスト教の宗教観念を信じていれば救われると思い込ませておくのです。

死んだらそれでおしまいです。献金の取りっぱなしです。そして神学の思想を頭に詰め込まされて、死んだら救われると勝手に思い込まされるのです。

ちょうど人間が世間の常識を頭に詰め込まされて、死なねばならないのだと考え込まされているように、キリスト教の信者は死んだら天国へ行けると考え込まされて、騙されているのです。騙されているという点においては同じかもしれません。

死ぬのは仕方がないというように騙されている人間と、死んだら天国へ行けるというように騙されている人間と、二通りの人間があるのです。バカなことをしているのです。

死にたくないけれども死なねばならない。死んだら恐いと思いながら死んでいく方が、よほどましです。

キリスト教の人々は、死んだら天国へ行けると考えて死んでいく。この人々が天国へ行けないのですから、最も残酷です。ひどいものです。

イエスとは何か。肉体的な条件で生かされているその本質がイエスです。またはその本性がイエスです。これがイエスの名です。イエスの御名です。神が救いである。エホバが救いであるということが、人間が生かされている状態の本性です。

ところが人間は、生かされている状態を見ようとしないで、、その形態だけを見ているのです。例えば見るとか聞くとか言いましても、肉の目で見ている。肉の耳で聞いているのです。肉体的に生きているというその感覚をそのまま呑み込んでいるのです。だから、肉体人間が人間そのものだということになってしまうのです。これがホモ・サピエンスであって、これが死ぬべき人間なのです。死んでしまうに決まっている人間です。

ところが、肉体的に生かされている条件をじっと見てみますと、または状態を見てみますと、人間の目がどのように働いているか、耳がどのように働いているか、手で触っている時にどのように感じているかというその感覚です。これを霊的にじっと見てみますと、この感覚は事柄であって、肉体的存在ではないのです。

例えば何かを食べます。味わっているのです。味わっているということは、肉体的に食べているのですが、味わうというその事柄は、味という目に見えないものを摂取しているのです。

仏典で言いますと空ですが、この空に接しているのです。人間は空を受け止めているのです。肉体的に生かされている状態をじっと見れば、人間存在は形態ではなくて状態であることが分かるのです。これが分かるようにできているのです。

これはイエスでなければ分からないのではありません。異邦人でも、生かされている状態を、じっと冷静に見ていけば分かるのです。

例えば禅の祖師である達磨くらいの悟りは誰でも開けるはずです。しかし達磨の悟りだけでは救いにはなりません。達磨は人間が空であることを悟りましたけれど、命の実体が何であるかが分からなかったのです。

達磨もやはり空気を吸って生きていたのです。空気を吸って、水を飲んで生きている自分の実体が、何であるか分からなかったのです。

達磨はそれを空であると考えた。空であると考えたのは、人間の実体を肉であると考えるよりも優れているに決まっているのですが、それでは宇宙の命をはっきり捉えたということにはならないのです。

達磨自身は何かの形で命を直感していたと言えるかもしれませんが、とにかく達磨が輝く明けの明星を直感していたかどうかです。

人間はどうしても輝く明けの明星を見なければだめです。人間の心に輝きわたる明星として、暗き闇を照らす明星として、イエスの御名が光ってこなければ、人間の命は新しくならないのです。

肉体的に生きている自分は獣なのだ。生かされている状態の本質こそ実は光である。誠の光、世の光である。自分がこうして生きている本質こそ、実は誠の光なのだということに気づかされるのです。

これは風の音を聞くような状態で気づかされるのです。「風は己が好む所に吹く、おまえはそれがどこから来てどこへ行くかを知らない。霊によりて生まれるものもそのようである」と言っている(ヨハネによる福音書3・8)。御霊の声が分かってくるのです。

そうすると自分の内にキリストがいることが分かるのです。これがイエスです。生かされている状態の本質がイエスであって、このイエスがキリストです。

そこでパウロは言っているのです。「この奥義はあなたがたのうちにいますキリストであって、これがあなたがたの望みだ」と言っているのです。

皆様のうちにいます神の奥義がキリストです。これが人間のうちに輝いているのです。

私たちが生きていることは、そのまま神が肉体という御使いを通して語っていることばです。神が現象世界で語っていることばです。目は何を見ているか、手で触っているのは何であるのか。これが命のことばです。初めからあった命のことばです。これを神は語っているのです。

皆様が生きていることの実質が、そのままイエスです。そうしてそのイエスは神の子であると聖書に書いてあるのです。

イエスが神の子であることを信じる者は、この世に勝つのです。自分の中にいたもうイエス、神の御子、生かされているという本質、本性です。これがイエスです。このイエスが神の子です。これがまともな人間です。このまともな人間が自分なのだ、自分の本性なのだということを信じることは、イエスが神の子であるのを信じるということなのです。

この人は世に勝つのです。世に勝つというのは、自分の肉体的存在に勝つということです。自分の肉体的存在がこの世です。自分の肉体的存在に勝ちさえすれば、この世に勝つに決まっているのです。

自分の肉体的存在は何かと言いますと、目に見えるような形の肉体ではない。水と血とによってできたものだということになるのです。これが自分という状態で現われているのです。

ヨハネによる福音書の第一章九節には、「すべての人を照らす誠の光があって、世に来た」とあります。十節には「彼は世にいた。そして世は彼によってできたのだが、世は彼を知らなかった」とあります。

こんなことがあるのでしょうかと言いたいのです。もろもろの人を照らす誠の光があって、世に来たとありますが、その次に彼はもともとこの世にいたとあるのです。この世は彼によってできたのだが、この世は彼を全く知らなかったとあります。

つまり人間の本性がそのまま誠の光です。未生以前の我、生まれる前に父なる神に植えられた命の言葉が、肉体をとって現われたのです。これが人間です。それを固有名詞の人間だとなぜ思うかです。

そうして自分が救われなければならないと考えている。固有名詞の人間が救われてどうするかです。救われるのは神の子に決まっているのです。神の子以外の者を神は救いません。固有名詞の人間を救う必要がないのです。

イエスだけが神の子です。自分自身の本性、本質であるイエスが神の子です。神の子はイエスだけです。イエス以外の者は全部悪魔の子です。全部肉の子です。異邦人が自分だと思っているのは、悪魔の子です。

これは救われるはずがないのです。救われても仕方がないのです。救われる必要がないのです。

人間自身の本質は父なる神からきているのです。これは救われなければならないのです。人間の本質は父によって送り出されたのですから、父の元へ帰らなければならないのです。

しかし生まれてからこの世で与えられた色々な常識、知識、親につけられた名前が間違っているのです。親につけられた名前が、だいたいインチキです。親が肉の思い(この世の常識)によって、勝手につけたものです。これは人間の本性と何の関係もないのです。

性欲によって孕んだ子供に名前をつけているのです。こんなものを自分だとなぜ思わなければならないのか。なぜ親の性欲に義理を立てなければならないのか。

こんなことを言ったら、キリスト教の人々は震え上がるでしょう。しかし聖書は破るべからずです。聖書にはイエスだけが神の子であると書いています。イエスを神の子と信じる者は、世に勝つのです。固有名詞に勝つのです。

現世的に発生したすべての条件は、全部肉です。親がつけた名前も肉です。親が育てた人間も肉です。学校で教育されたことも肉です。肉とは神の思想に関係がない、人間の常識、知識、思想ということです。

人間がこの世で経験したこと、この世の経歴は一切肉です。こんなものがなぜ救われなければならないのでしようか。親がつけた名前をなぜ自分だと思わなければならないのでしょうか。

イエスが神の子であるということだけが、人間存在の価値があるのです。イエス以外のものは肉です。現世的な考え方で自分を見たら全部肉になってしまうのです。

七十年、八十年の人生があったと思うことが、もう肉です。そういうものはないのです。自分の本質と何の関係もないのです。親もないし、子もない。何もないのです。

メルキセデクは親がなかったのです。命の初めも終わりもなかったのです。この人がアブラハムに祝福を与えたのです。これはキリストの代表的な人格ですが、これが私たちの人格でもあるのです。父なく、母なく、系図なくというのが皆様の姿です。

私たちは父なる神から生まれたのであって、子供を産んだとか、兄弟があるとかいうことと、何の関係もないのです。私たちは、現世的な条件や事柄には一切しばられる必要はないのです。

神の言葉によればイエスだけが神の子であって、それ以外は全部悪魔の子です。こういう感覚でご覧になりますと、皆様に御霊が助けてくださるようになるのです。

イエスを信じるということは、自分という存在に対する考え方を、全く変えてしまうことです。これを悔い改めるというのです。心を更えるというのです。

心を更えるのです。悔い改めるのです。そして福音を信じるのです。これをしなかったらだめです。

御霊を受けられない人は、悔い改めていない人です。生まれながらの心を持っているからです。親に育てられた心、世間で教えられた常識、知識を持っているのです。これを持っているということは、心を更えていないのです。

精神構造を更えていない。現世の人間の精神構造と同じものを持っているのです。これではいけないのです。世間の人間の精神構造と全然違った別の精神構造を持つことを、心を更えるというのです。

心を更えて別人になるのです。心を更えて新にせよという所を、オーガスチンは心を更えて別の人になれと訳していますが、この訳は正しいのです。

別の人間になってしまうのです。世間並みの人間ではなくなってしまうのです。今までの自分とは関係がない別の人間になってしまうのです。心を更えたらそうなれるのです。古き人を脱ぎ捨てるというのはそれです。

自分が良くなると考える必要はない。自分の生活の責任を持つ必要はないのです。自分の魂の責任を持つ必要はありません。

私たちは神の元から来たのだし、神という父に生かされている。やがて父の元に帰るに決まっているのですから、自分の行く末を心配する必要はないのです。現世における生活のことでさえも何も心配する必要はないのです。心配してはいけないのです。それは神を信じていないからです。

一切そういう思い計りをやめるのです。自分の生活に関する取り越し苦労をやめるのです。ただ生かされているという事柄だけを見たらいいのです。人間存在の実質だけを見たらいいのです。これがイエスです。

結局、自分自身についての考え方を強引に変えてしまうことです。自分自身にとって全く不可能のように思えるかもしれませんが、あえてすること、これが世に勝つ信仰です。自分自身に勝つ信仰です。

これが自我に勝つ信仰です。自我に勝つというのは、悪魔に勝つということです。これが肉に勝つ信仰です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:6回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

皆様が現在生きていらっしゃる命は、死ななければならない命です。人間は、死ななければならないことが分かっていながら、死ななければならない命を、自分の命だと思い込んでいるのです。 なぜそういう愚かなことをしているのでしょうか。死ぬか、死なないか分からない。ひょっとしたら死ぬかもしれない。また、死なないかもしれないというのでしたら、現在生きている命を自分の命だと思っていれば、まぐれあたりに死なないように

悪い業と良い業

イエスは次のように述べています。 「私たちは、私を遣わされた方のみわざを昼の間にしなければならない。夜が来る。すると誰も働けなくなる。私はこの世にいる間は世の光である」(ヨハネによる福音書9・4、5)。 イエスを遣わした方のわざを私たちは生きているうちにしなければならないと言っています。私たちというのは人間全部をさすのであって、この単刀直入な言い方によく注意していただきたいのです。 人間は何をしな

bottom of page