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  • 管理人chaya

現象世界はなぜできたか


地のちりで造られた人間というものは、現在の肉体を持っている人間ではないのです。地のちりである人間に形が与えられたのです。

形を与えられたということが、人間が土のちりで造られたというように考えていますが、そうではないのです。

エデンの園の人間創造の記事というのは、世界ができる前の記事であると見なければならないのです。従って地球ができる前に、肉体的に存在する人間が生まれたという道理がないのです。

地のちりである人間に形が与えられた。これは創世記二章七節の英訳ではそうなっているのです。

ちりである人間に形を与えたのです。ちりのままでは人間として扱えないので、神がちりであるものに形を与えて、鼻から命の息を吹き込んだのです。これは現実の肉体人間を意味しないのです。

これが人間の原態です。肉の思いで見るから肉の体があるように見えるのです。これは現在の人間の場合はそうですが、人間が造られた時は肉の思いはなかったのです。肉の思いがなかったので肉の体がなかったのです。

地のちりであるものに形を与えられただけのことです。これに命の息が吹き込まれたのです。命の息を吹き込むような対象を造らなければ、神が人間を造ることができなかったので、命の息が吹き込まれるという処置がとられたのです。

命の息が吹き込むことができるような形を、人間が持たされたのです。肉体を持ったという意味ではないのです。これを承知していただきたいのです。

肉の思いで見るから、肉の体があるように見えるのです。肉の思いというのは、天使長である悪魔が彼自身の中で造り上げた思いです。

闇淵のおもてにあるという言葉が、肉の思いそのものを象徴しているのです。闇が淵のおもてにあるというこの簡単な記述ですが、闇が淵のおもてに執着した。そこで淵が発生したのです。

なぜそのように言えるかと言いますと、一つの次元、一つのあり方を一つ一つの天使が代表しているのです。

例えば草木の場合でも、松の木とか杉の木とか、何千何万の木があります。その一つ一つが天使なのです。一つの状態が一つの天使です。

運動的な形で言えば、一つの次元が一つの天使になるのです。一つの状態、一つの次元が一人の天使になっているのです。

天使は融通がきかないのです。赤い色というのは一つの天使ですが、赤い色の天使は青い色を兼ねることはできないのです。

赤い色は赤色、青い色は青色というように、色が何百種類あるとすれば、色だけで何百種類の天使がいるのです。形だけでもまた、何万何億という天使がいます。匂いでも何万という天使がいます。

天使は一つのあり方、一つの次元を意味するのです。融通がきかないのです。だから天使が思いを持ったから、新しいものが造られるということはないのです。

ところが天使長になると話が全然違うのです。天使長は油を注がれたケルプと一緒にいたほどの非常に優れた、すばらしい神の栄光を身につけている者であって、天使長は神の山ですばらしい存在であったのです。

これは分かりやすい言葉で言いますと、神の腕になるような実力を持っていたのです。天使長が淵を心に描くとすると、天使長が描いた淵は天使長に与えられているケルプの力によって、ある具体的な実証を持つことになるのです。

闇である天使長が淵のおもてに張りつくような気持ちを持つと、その思いが実体になって現われるのです。これが肉の思いです。天使長の心の中に淵という形の肉が発生した。その時に肉が宇宙に生まれたのです。

肉というのは実存するものではありませんけれど、天使長の思いが肉の形になって実現すると、天使長の思いそのものが、宇宙的に実体を持っているのと同じような力を持つのです。これが肉という言葉の発生原理です。

肉という実体はないのです。実体はないのに肉の思いはあるのです。そうすると肉の思いを持つ時に、ルシファーの力を持って働き出すのです。人間自身の肉の思いが、ルシファーの力を持って働き出すのです。

肉はないのに人間が肉の思いを持つとそれが働き出すのです。人間の原点が、初めに言があったと言われるものの属性です。これが人間の本質、本性です。天使長がケルプと一緒にいたように、地のちりになる前の第一態の人間、砕かれた人間、ちりにされた人間が宇宙で一番最初の人間です。これは創世記二章の人間ではないのです。

創世記二章の人間は、地のちりであるものに形を与えられた。地のちりになる前の人間がいたのです。これはどういうものかと言いますと、産みたまえる一人子です。これは初めからあった一人子で、すべてのものが生まれる前にあったのです。

万物が生まれる前に御子が生まれたのです。その御子には一つの属性があった。陰のようなものがあったと考えられるのです。御子の陰のようなものが砕かれてちりになったのです。

神がちりに帰らしめたというのは、御子の陰を意味するようなものです。これがちりの元です。ちりの元である人間というのは言の属性を意味するものであったのです。

言の属性であった人間がちりに帰らせられた。このちりである人間に形が与えられた。これが創世記二章の人間です。

この発言は世界で初めてですが、聖書に基づいて言えばこういうことになるのです。

人間が天使長の思いと同じ思いを持ち出した。天使長が淵のおもてに張りついたのと同じように、人間に肉の思いが張りついたのです。

人間自身の肉の思いによって、人間感覚の肉の世界が発生したのです。私たちが今住んでいる肉の世界というのは、私たち自身の肉の思いが産み出した世界であって、先天的に実存しているものではないのです。肉の思いが産み出した現象世界です。

肉は現象であって、現象は実在ではないのです。現象と現物とは違うのです。

現象の世界は目に見える状態です。般若心経で言えば色蘊です。色蘊の世界です。目で見たものがあるという感覚が間違っているというのが、五蘊皆空です。

色蘊が肉の思いであって、肉の思いによって肉の世界が展開している。私たちはこの肉の世界に住むべく余儀なくさせられているのです。

肉の思いで見るから肉のボディーが見えるのです。肉の思いを滅却してしまえば目で見ている世界はありますが、目で見ている肉の世界が実存するようには見えてこないのです。

思いを更えて新にすると世界が変わってくるのです。例えばある人とある人が結婚をしたとします。結婚する前はただの他人です。結婚したとすると夫婦の実体が見えてくるのです。夫婦という実感が湧いてくるのです。

これと同じことです。ある精神状態が起きると、その精神状態に相当するような事実が起こってくるのです。

マルクスの理論がばらまかれてその理論を信じると、共産主義の国家ができるのです。これと同じことです。肉の思いで肉の世界ができるということは、ルシファーの感覚が人間に伝染して、これが原罪になっているのです。肉の目で見るから肉の実体があるように見えるということは、こじつけではないのです。

般若心経の五蘊皆空を実行すれば、目で見ている世界が実体ではないということ、つまり色即是空が実感されて究竟涅槃という事実、自分の命を滅却するというような感覚が実感として湧いてくるのです。

そうすると、生きていながら現世には生きていないという感覚が当人に湧いてくるのです。そういう点から考えて肉の世界というのは、決して実存しているものではないことを承知していただきたいのです。

パウロの言い方を引用しますと、肉の体があるのですから霊の体もあるのです。これはコリント人への第一の手紙の十五章にありますが、肉のボディーというのは、肉の思いによってあるように思われているだけのボディーです。

霊のボディーというのは、生きている事実としてのボディーです。生きているという事実があります。この事実としてのボディーがあるのです。

生きている状態が体として現われているのです。例えばある人とある人が友達になります。やくざが兄弟分の盃をかわすと兄弟分になってしまうのです。精神状態が変わってしまうのです。

恋愛関係にもそのようなことが言えるのです。とにかく精神状態は、ある事実を産み出していくのです。

闇が淵のおもてにあったということ、これは天使長の内に肉の思いが生まれたことをさすのであって、そのために現象世界が現われることになったのです。

天使長が淵のおもてに自分の思いを留めた。思いを留めるということは、ある実体を造り上げることになるのです。

ある人があることに悩んでいるとします。自殺しなければならないと思うと、死神がその人についてしまいます。自殺しないといけないと思い込んでしまうのです。その人の思いが自殺という事実になって現われるのです。

肉の思いがそのまま人間の思いになって伝承された結果、この世が現われたのです。肉の思いが人間に焼きついて、人間自身が肉の思いを代々伝承した結果、近代文明が現れたのです。

近代文明という実体があるのではない。肉の思いが肉の世界を造り出した結果を、文明と称しているのです。

肉の思いで造った文明に人間は全く押さえ込まれてしまって、人間自身が振り回されているのです。

肉の人間から見れば文明は絶対です。文明という絶対思想、絶対社会ができてしまっているのです。これは闇淵のおもてにありという思想を演繹していけば、こういう説明ができるのです。

人間がこの世に出されることになったのは、エデンの園でへびの思いが人間の中に入ってしまったからです。へびの思いが人間の思いになってしまったので、人間自身のために現象世界を造らなければならないことになったのです。

へびの思いが人間自身の思いになったために、その状態の世界を神が造らなければならなくなったのです。「地はあなたのために呪われた」(創世記3・17)とあるのはこのことです。

新天新地となるべき地球が、肉の世になってしまったのです。「地はあなたのために呪われた。地はあなたのために、いばらとあざみを生じるであろう」と言われたのです。いばらとあざみだけではなくて、砂漠が生じ、伝染病やエイズが発生する地球になってしまったのは、人間の肉の思いのためです。

そこでキリストの再臨によって、第三天におけるキリストの復活の命が地球上に現われる必要があるのです。

第三天のキリストの復活の命がこの地上に現われるとどうなるのでしょうか。エデンの園で人間が罪を犯したために、こういう世界が現われたとすれば、イエス・キリストが死人のうちから生かされて天に上げられた。神の右に座したもうイエス・キリストの復活の栄光が、そのまま人間の歴史の真ん中へ下りてくると、地球存在、人間の歴史がどのように変わるのでしょうか。

こういうことがキリスト教では全然分かっていないのです。聖書を恐るべき状態に歪曲しているから分からないのです。私たちは精魂を尽くして、キリスト再臨の神の計画を全世界に伝えなければならないのです。そのためにはヤダヤ人伝道がどうしても必要です。

私たちは世界を具体的に、物理的に変えなければいけないのです。精神的な、政治的な、宗教的なこととは違うのです。物理的に地球がいやされるのです。

地球の天候がいやされる。気候がいやされる。地がいやされて砂漠が全部なくなってしまうのです。地震がなくなってしまうのです。伝染病もなくなり、ガン、エイズといったあらゆる病気がなくなるのです。

そうすると一体地球はどうなるのでしょうか。肉の思いによって肉の世界ができたとすれば、霊の信仰によって霊の世界がこの地球上に実現するのです。キリストの再臨によって世界が根本的に変化してしまうのです。

現象世界は肉の思いによって出現したというのが、聖書の見解です。肉の思いが肉の世界を造るということになるのですが、このことを現代人に理解してもらうことは非常に困難です。

現代人の魂が第二の死である火の池へ投げ込まれてしまわないと分からないのです。現代人は火の池へ投げ込まれなければ、本気になって考えられないのです。火の池へ投げ込まれると、初めてそれしか考えられない状態になるからです。

自分の考えが全部間違っていたということを、火の池へ投げ込まれたという事実によって、否応なく承知させられるのです。そこで自分の思いのどこが間違っていたのかということを、火の池で考え始めるのです。

これは大変なことです。彼らの魂に裁きの形で神からの譴責が与えられる時に初めて、ああしまったという気持ちが湧いてくるのです。そうして初めて肉の思いが悪かった、肉の思いで肉の生活を造ってきたということの根本的な考え違いを悟ることになるのです。

人間の精神構造の中には、神の奥義がほとんど全部インプットされているのです。神の経綸の奥義、約束の奥義、やがてこの地球が新天新地になるに違いないという事実が、人間の脳細胞にインプットされているのですが、これが分からない。それは脳波の働きが間違っているからです。

脳波の働きというのは何か。悔い改めて福音を信じて肉の思いを捨てると、脳波が霊の思いによって働き出すことになるのです。これを霊の思いは命であり、平安であると言っているのです(ローマ人の手紙8・6)。

自分の生活や自分の世界を変えることは、信仰によってできるのです。女の人は比較的できやすいのですが、男は文明にかぶれているので、なかなか変えられないのです。ユダヤ人はユダヤ思想にかぶれているからもっと難しいのです。

神の言葉の奥義、神の約束の奥義、永遠の契約が、実体的に人間存在の精神の中に焼き込まれているのです。インプットされているのです。それを掘り出せば信仰になります。掘り出しそこなえば火の池で掘り出さなければならないことになるのです。

人間自身の精神構造の中には、誰でも神の国の実体がインプットされているのです。現世でそれを掘り出すか掘り出さないかだけです。

そこで男の人に言いたいのですが、自分で頑張らずに自分の中にインプットされている神の約束の原点をつかまえていただきたい。虹の契約という神のやり方をよく考えていただきたいのです。

全世界の人間はこの世での肉の思いに拘束されているのです。そのために神の約束の進展、将来の神の国の実現、キリストの再臨を理解することができないのです。

悔い改めて福音を信じるのです。精神の霊を変えてしまうのです。心の深みまで新にされる。古き人を脱ぎ捨てて、霊なる新しい人を着るのです。

地のちりであった人間が命の息が吹き込まれた時、彼は生ける魂になったのですが、園の中央にある善悪を知る木の実を食べた結果、魂の本体の中心に恐るべき思いが入り込んだのです。

その結果、肉の思いが発生したのです。神の命の息を吹き込まれて、悪魔がケルプと一緒にいた時のような栄光を与えられた後に、その魂にへびの思いが吹き込まれたのです。

悪魔がケルプと一緒にいた時に淵のおもてにはりついたように、人に命の息を吹き込まれた後に焼きつけられたのです。その結果、命の息を吹き込まれた人間のイマジネーションができたのです。そこで人間の肉の思いと悪魔の肉の思いとによって、断固たる肉の世界が造られてしまったのです。これが肉の世です。

そのために人の子が全く変質してしまった。地はあなたのために呪われる。あなたは一生苦しんで食物をとらなければならないと言われるような地球を、人間自身が造ってしまったのです。死ななければならないような人間、苦しんで苦しんで食物を得なければならないような人間、土に帰ってしまわなければならないような世の中を、人間自身が肉の思いで造ってしまったのです(創世記3・16〜19)。

地上の万物の長であるべき人間が、へびに騙された結果、地球自体が呪われることになったので、この責任を私たちは自覚しなければならないことになるのです。

万物の長である人間が堕落してしまったので、万物がすべて呪われることになったのです。そこで万物は神の子たちの自由が現われることを待たなければならなくなったのです。

神の子となるべき人間が罪を犯して、万物が滅びのしもべになったのです。これを回復しなければならない責任が人間自身にあるのです。このことをよくご承知いただきたいと思うのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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